2003年9月後半の日記
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9月30日(火)
9月も末になって急に涼しくなり、今日の帰りには、通勤の道に金木犀が薫り始めたのを感じました。道端には彼岸花も咲いています──と書くと、私の住んでいるあたりがどれほど田舎かが察せられてしまうでしょうか。
制作中のCGが完成したので「ウェブ日記を更新しない」禁は解除されることになりましたが、今はそれよりも移転1周年記念CGの公開の準備です。公開は明日の夜を予定していますが、時節柄連日の残業で、明日の夜は何時に帰宅できるかわからないので、少しでも時間のあるうちに前倒しで進めておきます。
(10月5日アップ)

9月29日(月)
昨日新潟からの帰りに雨に降られて濡れたせいか、朝になるとどうも体調が良くありません。それに、金曜の夜に夜更かしして土曜は朝寝坊→土曜の夜も夜更かしして日曜も朝寝坊→日曜の夜なかなか寝付けなくて月曜の朝は寝不足 という悪循環が毎週のように繰り返されているので、その悪循環を断つべく、早めに帰ってくることができた今日は、思い切って午後8時に寝ることにしました。これをやる際の唯一の問題は、目覚まし時計をセットした時刻より12時間以上前に寝ることができないことですが、いつもの自分の状態からすれば12時間以上寝てしまう前に空腹で目が覚めるので、今夜は目覚まし時計をセットしないで寝ます。
(10月5日アップ)

9月28日(日)
今日は新潟市の りゅーとぴあへ、新潟メモリアルオーケストラのコンサートを聴きに行きます。一昨年昨年も聴きに行きましたが、今年も入場無料で、交通費だけでオーケストラの生演奏が聴けるので、CGの制作はひとまず置いておいて新潟市まで出かけます。
今回の曲目は、前半はヴァーグナーの「ニーベルングの指環」から2曲、第1夜「ヴァルキューレ」より「ヴァルキューレの騎行」と第3夜「神々の黄昏」より「ジークフリートの葬送行進曲」、後半は“年末の風物詩”ことベートーヴェンの交響曲第9番でした。今回も前回と同じく、合唱団との共演が売りです。
ヴァルキューレの騎行は、ベトナム戦争を描いた映画「地獄の黙示録」のBGMに使われたという曲です。3年余り前にその事を掲示板の書き込みで見て、その当時は音楽を聴いたこともなかったのに、ヴァルキューレの騎行の場面を絵に描いたのは私です。
ですから「指環」の他の場面の曲よりは少しは思い入れがあって、昨年の演奏会の時、次回予告としてこの曲名がプログラムに載っているのを見て「よし来年は必ず聴きに来よう」と思ったものでしたが、今日こうして音楽を生演奏で聴いた感じは、演奏の出来栄え云々ではなく、音楽的にみて「なんだかなぁ〜」でした。「指環」全曲の中で最も知名度の高い曲とプログラムに書いてありましたが、バッハのフーガにみられるような対位法、ベートーヴェンのソナタにみられるような主題労作、ロマン派の交響曲にみられるような楽器法、こういった要素がはなはだ乏しいように感じられたのです。対位法や主題労作なんてのは音楽を左脳で聴くことかもしれませんが、自分の名を冠した新しい管楽器を自作品で使ったほどの作曲家だったら、物量作戦ではなく、もっと精妙かつ変化に富んだ楽器法を見せてほしかった気がします。
ジークフリートの葬送行進曲は、これも有名らしいですが聴いたことはありませんでした。私が「指環」連作の締めくくりとして絵を描いた場面は、この曲よりはもっと後になるかと思います。
後半の曲はあまりにも人口に膾炙した曲なので、曲の説明は要らないでしょうし、音楽的にどうのこうのとは言いません。オーケストラの配置が、普通は右端にいるコントラバスが左、左奥にいる打楽器が右にいるという珍しい配置だったことと、普通は第4楽章が始まる前に入場してくる独唱者(合唱は大人数なので曲が始まる前から入場しています)が、第4楽章の途中で入場してきたのが少し変わっていました。そして演奏時間が予定より長くなったのか、アンコールはありませんでした。

帰ってきてからはCGの制作に専念し、どうにか完成しました。しかしそれで気力が尽きたのか、いつものように長々とコメントを打つ気になれず、時間も遅くなったので、コメントはいつもなら前半に相当するくらいまで打つだけにして公開しました。気が向いたらコメントを補足するかもしれません。
(10月5日アップ)

9月27日(土)
昨夜は、何としても今月中には完成させたかったCGが完成していなかったので、「制作中のCGが完成するまではウェブ日記を更新しない」と並んで自分自身に課した約束、すなわち「制作中のCGが完成するまではチャットをしない」を守るならばチャットルームに行ってはならないはずだったのですが、行きつけのチャットルームに人が集まり始めると、誘惑に抗しきれずにログインしてしまいました。
チャットでは、そこの常連の人たちが何人もプレイしているゲーム、アージュ「君が望む永遠」が話題になりました。私はこのゲームには最初、「とある理由で初期ロットが回収されたゲーム」という歪んだ認識しか持っていませんでしたが、お知り合いの人たちの間で話題になっていて、登場キャラを描いたCGを残暑見舞に頂いたりしているので、いつまでも積んでおかないでプレイしてみようと、少しは思っていました。
ですが一昨年の秋に秋葉原で買った中古の通常版を、今年の6月になって、CPUはCeleron466MHz以上を推奨とあるのを見て、では2号機ではなくて3号機にインストールしようと思った矢先に、通常版はWindowsXPに対応していないとチャットで耳にして、いきなり手が止まったものです。そしてそのまま棚に戻そうとした時、すぐにDVD版が発売される、これはXP対応保証済なだけではなく、追加シナリオがあると聞いて、急に食指が動き始めました。
ただ、追加シナリオというのは、うまく書かれていても元のシナリオとの温度差が気になったり(追加ではなくて大幅な書き直しですが、PlayStation版「ToHeart」の姫川琴音、冗長さばかりが目立ったり(同じく書き直しの、PlayStation版ToHeartの長岡志保・宮内レミィ、下手をすると元のゲームの世界観をぶち壊しにしてしまう(PlayStation版「ONE」の清水なつき)恐れさえあるものですから、安易に「追加シナリオあり」に飛びつくと失敗する危険性はあります。それで、既にDVD版をプレイしている人に話を聞いてみると、「追加シナリオだけでDVD版は買う価値がある」という評価でした。
というわけで目下、君が望む永遠DVD版に対しては「食指が止まらない」状態です──困ったことに。

今日起きてからはCGの制作に専念します。人物は昨夜の時点で仕上がっていたつもりだったので、早々に完成させるつもりでしたが、今回のように奥行きのある空間にキャラが5人もいる情景を描こうとする場合、原画を描く段階でキャラの位置関係(誰と誰がどのように重なって、誰のどの部位はどのくらい隠れるか)をよく考えずに、例えば「このキャラの脚はどのあたりまで描けばいいか」ということをよく考えないまま適当に描いてスキャンしてしまうと、後でキャラの位置決めをした際に、手前のキャラに隠れさせるつもりだった奥のキャラの脚が隠れず、膝から下の原画を描いてない(具体的にどの部分かはご容赦を)といったようなことになりがちです。
脚が切れたままにはしておけませんから原画を描いて継ぎ足すしかありませんが、そうやって継ぎ足した部分はどうしても継ぎ目が目立ってしまい、色調補正やら何やらで、最初から1枚の原画に描くよりもどうしても作業時間がかかります。
そんな次第で深更に及んでも完成せず、それでまたチャットルームに行ってしまう意志の弱さです。明日は出かける用事があるので、チャットが散会になったらすぐに寝ます。
(10月5日アップ)

9月26日(金)
5月26日の夕方に宮城県沖で地震が起こり、その記憶もまだ醒めやらない2ヶ月後の7月26日に宮城県北部で1日に3回も直下型地震が起こりましたが、それからまたちょうど2ヶ月経った9月26日の未明に、北海道十勝〜釧路沖でまたまた地震が起こりました。
私がこの地震のことを初めて知ったのは、この日の午前中、職場の車で外回りの仕事に出た時、たまたま点いていたラジオのニュースで地震のことを放送していたことからでしたが、まとまった情報収集をしたのは10月4日に図書館へ新聞を読みに行った時でした。マグニチュード8.0という非常に規模の大きな地震だった割には、震源が深くて陸地から遠かったために地震動による直接的な被害が少なく、また津波で海岸沿いの地域が壊滅的な被害を受けた、というような事態にもなっていないのが幸いです。
マグニチュード8.0級の地震の被害というと、犠牲者14万人を出した関東大震災(M7.9)は別格としても、昭和19年の東南海地震(M7.9)と昭和21年の南海道地震(M8.0)で、それぞれ広い範囲にわたって千人以上の犠牲者が出ていますが、紀伊半島では津波による被害が目立っています。深い入り江では津波の高さが増すため、2つの地震で観測された津波の高さは8mくらいに達しているそうです。
今回の地震で発生した津波の高さは、当初は浦河町で観測された1.3mが最高とされていましたが、現地調査の結果、震源に最も近い襟裳岬の東側では4mに達していたそうです。北海道東部には三陸地方や紀伊半島のような深い入り江はないので、M8クラスの地震が起きても津波は大したことはないのかと思っていましたが、昭和27年十勝沖地震(M8.2)や1843年に同じ地域を震源地とした地震(推測M8.0)では4〜6mの津波が来襲(昭和27年の地震では厚岸町で6.5mを観測)しており、決して津波と無縁な土地ではないようです。
今回の地震で、津波による人的被害は今のところ行方不明になっている3人ですが、もっと津波の規模が大きかった昭和27年十勝沖地震では33人、海岸に防潮堤がなかった1843年の地震でも46人と、昭和21年南海道地震や1854年の東海・南海地震(合計すると数千人)に比べて思ったより犠牲者が少ないのは、人口希薄な土地だったからでしょう。
私がその人口希薄さを真っ先に感じたのは、地震で脱線した札幌発釧路行き寝台特急「まりも」(8輛編成)が、乗客乗員合わせて41人だった、という記事です。乗客40人弱といえば普通の寝台車1輛分です。まりも は「カシオペア」や「北斗星」と違って個室寝台ばかりの豪華編成ではありませんから、当日の まりも は空席だらけだったと思われ、JR北海道の経営の厳しさが偲ばれます。
話題が脱線したので復旧しますが、今回の地震による直接の犠牲者は津波にさらわれた可能性がある3人ですが、その他に第一報の時点で、地震で道路に散乱した物を片づけていた人が自動車にはねられて亡くなった、と報道されています。
地震に限らず、自然災害による犠牲者の範囲は、どのあたりまで含めるのか、これは私が前から気になっていたことです。というのは阪神大震災(地震の名称としては「兵庫県南部地震」)の犠牲者数が、発生から数ヶ月経って5千数百人で確定したと思っていたのに、ある時突然数百人もの上乗せが行われて、今では6433人(出典:神戸市教育委員会編「兵庫県南部地震データ集」 http://www.kobe-c.ed.jp/shizen/strata/equake/index.htmlが公式な数字とされているからです。平成の時代に、孤島や山奥の集落が地震で壊滅していたことが何ヶ月も経ってから判明するとは思えませんし、倒壊した家から救出された負傷者が手当ての甲斐なく病院で亡くなったとしても、それが何ヶ月も経ってから報告されることもないでしょうから、ある時点で「地震が原因となった死亡者」の基準の見直しが行われて、それまで地震が直接の死亡原因とされていなかった数百人の人たちが、地震による犠牲者に繰り入れられたのでしょう。
それが行われた理由は察しがつくのですが、ここには書かないことにしておきます。
(10月5日アップ)

9月24日(水)〜25日(木)
自分自身と約束した通り、移転1周年記念CGが完成した後も、先月から制作していたCGが完成するまで、いや完成した後まで、ウェブ日記の更新が止まっていました。そうなったのには、「ある日の生徒会室」の制作に専念していただけではなく、時節柄仕事が忙しかったからという理由もあるのですが、趣味よりも仕事を優先するのは社会人として当然のことですから、そのことについて日記で語ることはしません。
24日の夜のことです。私はパソコンに向かっている時は、ゲームをプレイしている時以外はほぼ例外なくCDを聴いていますが、パソコンのそばで使っていた(この写真を参照)ポータブルCDプレイヤーが壊れてからというもの、CDはパソコンで聴いています。2号機のWindows98についているCD再生ソフトは特に変哲のない「CDプレーヤー」ですが、3号機のWindowsXPには、音楽CDの再生だけでなくてずいぶんといろいろな機能があるらしい、Windows Media Player for WindowsXP version8.00というソフトが入っています。
ところがこの夜パソコンを起動してから、先頃School Memoriesに行った帰りに秋葉原で買ってきたCDをかけると、なぜか特定のディスクの特定の箇所で音楽が聞こえなくなる、それも再生が停まるのではなくて、トラックの経過時間の表示は何事もなかったように進んでいるのに音だけが出なくなるという不可解な現象が起こります。どうやってもうまくいかないので、Microsoftに言われるままにMedia Playerを9.00にバージョンアップしてみましたが、状況は改善されません。そればかりか9.00は画面表示が煩わしく、いかにもメモリとリソースを浪費していそうなので、こんなところでこれを使うことになるとは思わなかった「システムの復元」を使って9.00をアンインストールして8.00に戻しました。
こんな事に煩わされたせいでCG制作を再開する意欲が薄れてしまったので、「ToHeartPSE」と「こみパDCE」を3号機に再インストールし、初日が終わるくらいまで流してみました。本格的にプレイを再開するのは、当分お預けでしょう。
(10月2日アップ)

9月23日(火)
休日前夜はチャットで夜更かししすぎたりCG制作で徹夜してしまったり、そのせいで平日よりも休日前夜の方が睡眠時間が短くて、結果として休み明けに休み前の疲れが取れていないというのでは、独身の社会人としては本末転倒だと思います。今日はそんな事にならないように、昨夜は休日前夜としては早めに寝て、そして充分に睡眠を取ったつもりですが、10時間以上も寝て目を覚ました時の感覚は、寝過ぎるほど寝たというよりも「腹が減って目が覚めた」に近いです。でも腹が減って目が覚める方が、起きた直後は食欲が全くないよりは健康的だと言えるでしょう。
今日は一日、移転1周年記念CGの制作に没頭し、夕方には完成しました。ですが移転1周年は10月1日なので、公開はそれまで延期することにします。それで次は、前から取りかかっていた夏服シリーズ──修羅場モードを発動しない限り、もう秋の衣替えには間に合いそうにもありませんが──の制作を再開するつもりですが、CGが1枚完成して気分的に少し余裕ができたので、日記が溜まって更新意欲を失う前に、できるだけ手早く更新しておきます。

9月22日(月)
昨日の項の最後に書いたことは、現状に即して言えば「制作中のCGが完成するまではウェブ日記を更新しない」ということです。ただ、それを本当に遵守するとなると、移転1周年記念CGが完成しても、次に制作するCGとして第2次夏服シリーズその2が控えていて、これは3枚組になる予定ですし、さらに「Kanon」での夏服シリーズ、夏服シリーズ以外では「ToHeart」で思いついた題材「ONE」の上月澪と川名みさきの題材と、幸か不幸かCGの題材だけはいくらでも浮かんでくる状態ですから、制作したいと思っている全てのCGを完成・公開するまで日記を更新しないとしたら、日記の更新再開はいつになるかわかったものではなく、その時には再開された日記の記事は「辞職しました」か「解雇されました」になっているでしょう。
先週末から急に涼しくなり、残暑続きで暑さに慣れていた体には肌寒いほどです。22日は背広を着て出勤しましたが、そのくらいの格好で外仕事に出ていても暑いと感じず、過ごしやすい一日でした。
今日のような日は、明日は祝日で休みですし、CGの制作も大いに捗るだろうと思っていると、明日は祝日で休みというそんな時に限って、いつ帰れるかわからないほどの残業をする羽目になるものです。自分から望んでそういう職業を選んだのですし、休日出勤するくらいなら深夜残業の方がましだと思っていますから、帰宅してからのことは何も考えずに残業に従事するだけです。そうなることを見越してか、前もって今日は休みを取って4連休にしていた人もいたようでしたが。それにしても、労働基準法と道路交通法と未成年者飲酒禁止法は、日本で守られていない法律の御三家だという発言は、こういう場では適切を欠くでしょうか?
やっと帰宅した頃には、明日は祝日のこととて、チャットルームに人が来始めている時間帯でしたが、自由時間の最優先の配分対象として昨夜選定した移転1周年記念CGが完成するまでは、全てのネット活動よりもCGの制作を優先すると決定したので、今夜はチャットはしません。
そして明後日の勤務に差し支えないように、CG制作の作業もあまり遅くならないうちに止めて寝ます。
(9月23日アップ)

9月21日(日)
誰も反応しないとわかりきっていても長広舌を振るいたいという欲求を抑えられなかった結果は、午前0時までかかっても打鍵が終了せず、日記の打鍵を中断してチャットに行けば2時3時まで入り浸り、そして午後まで寝てしまう、ということになります。
自由時間の配分について、自分が納得するような基準を設け、それを遵守することにします。これ以上は、多くは言いません。

9月20日(土)
後先考えずに徹夜してしまったというのは、今日は午後から新潟市の りゅーとぴあへ、3ヶ月も前にチケットを買ってあった「浪漫的オルガントークコンサート」2回シリーズの第2回を聴きに行く予定があったからです。
7月の第1回は「ドイツの浪漫」という題でしたが、今回は「フランスの浪漫『巴里のノスタルジー』」という題です。前回もそうでしたがトークコンサートということで、オルガニストは登場してお辞儀して演奏してお辞儀して退場するだけではなく、レクチャーコンサートというほどではありませんが1曲ごとに解説をします。ですが私もクラシック音楽についてはただCDを漫然と聞くだけではなく、英文のライナーノートを辞書を引きながら読んだり、図書館で音楽事典を調べたりして、ウェブ日記に知ったかぶりを書き散らしていますから、音楽演奏家ではあっても音楽研究者ではないオルガニストがトークコンサートで解説するのを聞いていると、時には「そうかなぁ?」と思うことがあります。
今日のコンサートでは、解説の冒頭、「ロマン派時代の特徴を、曲のタイトルの付け方からバロック時代と比較する」と称して、バロック時代を代表するJ.S.バッハ(1685〜1750)の作品では「前奏曲とフーガ」「ソナタ」など曲の形式がそのままタイトルになっているのに対して、19世紀になるとショパン(1810〜1849)の「ポロネーズ“英雄”」など標題が付けられるようになり、このように形式よりも感情表現が優位に立つ時代がロマン派時代であると言っていましたが、まずそこで「ちょっと待った」です。
バロック時代にも標題を付けた音楽はありました。ドイツのバッハと同じ頃の、フランスのF.クープラン(1668〜1733)の曲には、当時のフランスのエスプリを解する人でないとよく理解できないような表題を持ったキャラクターピースが多かったのは、オルガンやチェンバロのコンサートで何度も聞いた話です。ですから19世紀のフランス音楽に18世紀のドイツ音楽よりも標題音楽が多かったのは、19世紀がロマン派の時代だからというだけでなく、フランスとドイツの民族性の違いという要素も大きいと言った方が適切かもしれないと思います。
ですが揚げ足取りをしたくなったのはこの一点だけで、ロマン派時代のフランスのオルガンについての話は、さすが実際に演奏しているオルガニストならではと思いました。
感情表現が優位に立った音楽を作曲し演奏するには、それを可能にする楽器が必要です。オルガンはバロック時代にはすでに、パイプの形や材質をいろいろと工夫することによって、様々な音色を出せるストップが作られていましたから、何十ものストップを組み合わせれば、音色に関してはチェンバロやピアノより遙かに多種多様な表現が可能です。しかしその頃のオルガンは、ストップを替えるとか鍵盤を替える(2段以上の鍵盤がある楽器なら)ことで楽器全体としての音の強弱を段階的につけることは可能でしたが、1つ1つのストップについて、音の強弱を無段階に変化させるための機構はありませんでした。
ストップや鍵盤を替えないで、音の強弱を無段階に変化させることができなかったのは、バロック時代のチェンバロもそうでした。バロックから古典派に移る18世紀後半にピアノが発明されると、たちまちチェンバロに取って代わっていったのは、指先の力加減で音の強弱を自由自在に変化させることができる表現力の豊かさが、音色の単一さを補って余りあったからだと思います。
それが可能になったのは、スウェルボックスといって、オルガンのパイプが並んでいる部分を蓋付きの大きな箱に入れて、演奏者がペダルを踏むと蓋の開き加減が変わる、というような装置が発明されてからです。この装置の発明がいつ頃かは知りませんが、19世紀中頃のフランスでこれを大々的に取り入れたオルガンが作られ始めたことによって、オルガンはストップによる多種多様な音色の変化と、ピアノのように柔軟な音量の変化が可能になり、飛躍的に表現力を増しました。そして19世紀中頃から後のフランスでは、オルガンが獲得した多彩な表現力を駆使した作品が書かれるようになったのです。
強弱変化が自由にできるようになると、オルガンは音色の多様さでピアノを遙かに凌ぎます。オーケストラがどんどん大編成化していく時代にあって、オルガンはあたかも現代のシンセサイザーのように「1人で演奏できるオーケストラ」と考えられたことでしょう。オルガンのための作品も、多分にオーケストラを意識して書かれるようになります。古典派以来、オーケストラで演奏される大規模な合奏曲を「交響曲」と呼んでいますが、19世紀後半のフランスでは、1台のオルガンで演奏される「オルガン交響曲」(オーケストラにオルガンが加わっている、サン=サーンスの交響曲「オルガン付き」との違いに注意)という独特のジャンルがありました。
オルガン交響曲は、オルガン音楽の中では傍流のジャンルとされて音楽事典にもあまり載っていず、普通のオルガンコンサートで演奏される曲目はバッハの作品にほぼ限定されている日本ではほとんど知られていませんが、個人的には気に入っています。フランク(1822〜90)の「交響的大曲(1862年作曲)」に始まり、ヴィドール(1844〜1937)の10曲(1872〜1900年作曲)、ヴィエルヌ(1870〜1937)の6曲(1900〜30年作曲)、M.デュプレ(1886〜1971)の2曲(1921,1929年作曲)などがあります。
今日のコンサートでは最初に、フランスロマン派オルガン音楽の先駆者となったフランクの作品から「3つのコラール第1番」、次にヴィドールのオルガン交響曲第5番から第4楽章と第1楽章が演奏されました。交響曲と銘打っていてもベートーヴェンの交響曲に比べると、それぞれの楽章が独立したキャラクターピース的な性質を持っていて、第5番だと最後の第5楽章だけが演奏されることが多いのですが、第4楽章には普通なら右手で弾く音域の旋律をペダルで弾く部分があって、そのことを解説された聴衆が覚えているうちに先に聴かせようと、こういう順番で演奏したらしいです。第1楽章から第5楽章まで続けて全曲演奏してもいいのですが、それをやると35分ぐらいかかるので、第4楽章まで聴衆が解説を覚えていられるかどうか以前に「起き続けていられるか」という問題が生じる恐れがあります。(実は私も徹夜明けのせいで、プログラムの中盤はかなり危なかったのですが)
後半はまずヴィエルヌの幻想曲集から2曲。ヴィドールより1世代後のヴィエルヌになると、交響曲としてまとめるよりも、標題をつけて曲集にするようになります。今日演奏された「月の光」の他、「ウェストミンスターの鐘」「トッカータ」などがあります。
さらに時代は下って20世紀に入り、J.アラン(1911〜40)の「リタニー」、デュリュフレ(1902〜86)の「アランの名による前奏曲とフーガ」でプログラムは締めくくられます。Iから先の文字と音の当て方若くして第2次大戦で戦死したアランを悼んで書かれた「前奏曲とフーガ」ですが、前に「バッハの名による」作品について触れた時に、AからHまでは音を当てられると書きましたが、名前にIから先の文字があったらどうするのかというと、どうやらIから先はこういう具合に音を当てているようです。
帰ってからはCG制作を再開する前に日記の更新に取りかかります。毎日義務的に1行でも打鍵するというのは、もう止めてしまって久しいですが、オルガンコンサートの後などは、誰も反応しないとわかりきっていても長広舌を振るいたいという欲求を抑えられないようです。
(9月20日アップ)

9月19日(金)
夜、洗濯や風呂掃除といった雑事を済ませてから、移転1周年記念CGの制作に本格的に取りかかりました。
このCGを制作することにしたのは、移転ならびに18禁化1周年記念というのはもちろんですが、それだけでなく第2次夏服シリーズその2の1枚目(という呼び方からして長ったらしくて何ですが)の制作が、先月下旬から取りかかっているにもかかわらずなかなか捗らず、気分的にやや煮詰まってきたため、一種の気分転換になることを期待してのものです。今からほぼ3年前にも、普通のCGを2枚描くのに相当するような手間をかけて「ヴァルキューレ」を制作していて、なかなか完成せず気分的に煮詰まってきたため、たまたまお知り合いの方のサイトで公開された「紅環」に触発されて、手早くモノクロ画を描いて気分転換を図ったことがありました。
そういう意図がありますから、できるだけ早く完成させて第2次(中略)1枚目の制作を再開できるように、この週末のうちか、遅くとも23日には完成させるくらいのつもりで、チャットにも行かずに制作に専念します。気分転換のつもりで制作を始めたCGに時間を取られすぎて、虻蜂取らずになってしまっては本末転倒ですし、夏服シリーズの方も何とか、世間一般に夏服の時季とされる9月中には1枚だけでも完成させたいものです。
しかしだからといって、後先考えずに徹夜してしまうと、間髪入れずにそのしわ寄せが来ることになっているものです。それがわかりきっているのに徹夜してしまった私は、裸眼視力0.1未満という近視である以上に、目先の事しか見えていない人間と呼ばれても仕方がないでしょう。
(9月20日アップ)

9月17日(水)〜18日(木)
9月中旬というと、例年は秋雨前線がやってきて雨がちの天気が続く時季のような気がしますが、今年はまだ晴れて暑い日が続いています。近所のスーパーで先日、シーズンが終わったとされたのか値引きで売っていた、水で出すインスタントコーヒーのパックを買ってきましたが、それを使って冷蔵庫で作ったアイスコーヒーを、冷凍庫のドアポケットでさらに冷やして飲んでいるほどです。

18日は仕事がきりのいいところで終わって早く帰宅できたので、先月の末から取りかかっているCGの制作を進めようと思いましたが、ふと思い当たったのは、当サイトが さくらに移転して同時に18禁化に踏み切ってから、もうすぐ満1年になるということです。
プロバイダを替えてまで18禁化に踏み切った直接のきっかけは、その前からお知り合いになっていて既に さくらに18禁CGサイトを開いていた藤咲はじのさんに、私の18禁CGの公開を肩代わりしていただくような状態になっていたことを心苦しく感じていたからですが、自前のサイトで18禁CGの公開が可能になるということは、表現の上での大きな制約が一つ取り除かれることであり、CG画家としては大いに心に期するものがあったはずです。ですからいざ移転して18禁OKとなった少し後には、その後会う人ごとに「扉を開いた」と吹聴するほどの怪作を制作したものですが、いざ環境が実現すると制作意欲が薄れてしまうものなのか、それ以来18禁CGの制作ペースはすっかり落ちてしまっています。先頃、18禁パソコン版からDreamCast移植を経て年齢制限なしでパソコンに戻ってきた「こみパDCE」のプレイを始めた頃にこんなことを思いついたことがありましたが、それで御影すばるの18禁CGを制作して公開したかといえば、もちろんそんなことはありません。(だいたいその後いくらも経たずに3号機が故障して、修理から戻ってきた3号機にはこみパDCEをまだインストールしていませんから、すばるの18禁CGのシチュエーションが浮かぶほどプレイしていませんし)
これでは……と思ったことから、CG制作の優先順位を急遽入れ替えて、移転1周年記念CGに着手することにしました。気分一新して新作が順調に制作できるか、それとも二兎を追った結果になるか、この週末からが正念場になるかもしれません。
(9月18日アップ)

9月16日(火)
この3連休、私は13日以外はほとんど外出せず自室に籠もりきりで、そのため自室には冷房がないにもかかわらずそれほど暑さを感じなかったのですが、どうもこの3連休は、全国的に気象の帳尻合わせが行われて真夏が戻ってきたかのような暑さだったようです。私の職場でも仕事が忙しい時期に当たっていることとて、13日に休日出勤して外仕事をしていた人がいたのですが、折しも13日はフェーン現象で新潟市の最高気温が37℃まで上がったほどの猛暑だったため、その人は暑気あたりで体調を崩してしまって、連休明けの今日16日は欠勤していました。
この3連休、局地的にはさらなる熱気が渦巻いていたようです。15日にセ・リーグで阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝したそうですね。私は「下級生リレー小説」で野球観戦の回を打鍵したり「代打満塁逆転サヨナラ優勝決定ホームラン」を打った場面を絵に描いたりするくらいにはプロ野球に関心はありますが、特定の球団のファンというわけではない(読売新聞をいつも読んでいるからといって巨人ファンというわけではない)ので、特定の球団の熱烈なファンという人の心理は今一つ理解できず、特に阪神ファンという人たちを見ていると「世の中には2種類の人間がいる。阪神ファンとそれ以外の人間だ」という格言がきっと存在するであろうと思い、あるいは「『大阪府および兵庫県在住、または大阪府および兵庫県に本籍地のある男性は生涯に一度、必ず阪神ファンにならなければいけない』という戒律があるのだろうか」と思わずにいられないほどの熱狂ぶりはなかなか理解できないのですが、昭和の御代以来というリーグ優勝に熱狂している人たちに水を差すような無粋な真似はしないでおこうと思います。

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