2004年6月後半の日記
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6月27日(日)〜30日(水)
CGの制作やSSの打鍵といった創造的な活動をするでもなく、「Fate/stay night」や「こみパDCE」をプレイするでもなく、ぼちぼち日記の更新を進めるだけの夜が続いています。一事が万事、以前に比べて活力が低下してきたことを実感している今の状態で、日記を溜めすぎると、更新意欲を失って日記の更新を止めてしまう可能性が非常に大きい(もしそうなったとしても、過去に公開した日記を撤去することはしないつもりですが)という、漠然とした危機感が常に頭の一角に巣くっているようで、とりあえず日記の更新だけは続ける気になっているようです。
(7月15日アップ)

6月26日(土)
今日は職場のレクリエーションです。昨年は職場から離れた公園でバーベキュー大会でしたが、今年は市内にあるカラオケバーを借り切ってカラオケ大会という、何でも今回が初めての試みらしいです。
カラオケ大会といっても全員でやるのは飲み食いとビンゴ大会で、本当の意味でのカラオケ大会に出場するのは希望者だけということなので、こういうのは参加することに意義があると考えて、若気の至りで出場することにしましたが、私の部署にはシャイな人が多いのか、私の部署でカラオケ大会に出場したのは私一人だけでした。
といっても、直属の上司よりもっと上の人もカラオケ大会に臨席するということなので、いくら私の十八番が「Feeling Heart」だからといっても、この歳になってゲームソングは自粛することにしました。その判断が正しかったのかどうか、カラオケ大会の結果は、予想通りの参加賞止まりでした。
飲み食いの方は、昼日中からそんなに呑まないように気をつけていたつもりだったのですが、やはり朝まで起きていて少し仮眠しただけで出かけたのが無理をした結果になったのか、帰宅すると、土曜の夜だというのにサイトの更新もネット活動もしないで早々に寝てしまいました。
(7月15日アップ)

6月25日(金)
台風が接近しても雨らしい雨が降らなかった新潟県は、今日になってようやく、まとまった雨が降りました。そのため外回りの仕事に出られず、一日中デスクワークをしていたのですが、その時どういうわけか、昨日までと比べて時間の進み方が遅いような、不思議な感じがしていました。その時に考えたこと、つまりもし自分の周りだけ時間の進み方が本当に遅くなっているのなら、例えば一週間分の汚れ物を洗濯するのに要する時間を先週と比べてみるというような方法で実証できるかもしれないなどということを、帰宅してから日記帳に書き留めてあったのですが、20日も経ってから読み返してみると、なんでそんな風に感じたのか、なんでそんなことを考えたのか、全然わかりません。
週末前夜なのですが、明日は職場のレクリエーションがあるので、あまり夜更かしするわけにもいきません。それなのに雑事を済ませてパソコンに向かうと、いつの間にか、先日「うたわれるもの」をプレイしていた時に、参加したキャラが何人も撃破された難しい戦闘ステージ(うたわれるもの の戦闘ステージは基本的には、主人公の他に何人かの味方キャラが参加して、主人公が目的地に到着するか、敵を全部撃破するかするとステージをクリアするようになっていますが、主人公以外の味方が敵に撃破されてもゲームオーバーにはならず、もっと後の戦闘ステージに参加させることができます)を、味方を撃破されることなくクリアできるか、もう一度プレイするというようなことを始め、時が経つのを忘れて熱中していると、いつの間にか夜が明けているのに気が付くという始末です。
ということは うたわれるものの戦闘ステージをプレイしている間は、私の周りだけ時間の進み方が遅くなっていたわけではなかった、ということになるのでしょうか?
(7月15日アップ)

6月23日(水)〜24日(木)
2号機の筐体背面から警報音が聞こえるという事態については、昨年買い換えた電源ユニットのファンは正常に回っていますし、原因がなかなかわかりません。それで何となく、だましだまし使いながら先送りすることにしてしまいました。
「うたわれるもの」を一応エンディングまでプレイしたので、そろそろ何か他のことをしようと思って、まず取りかかったのは「Fate/stay night」のプレイ、あるいは「こみパDCE」のプレイ再開──という運びになればよかったのですが、その前に「葉っぱゲー好きに100の質問」の回答を訂正することを思い立ちました。うたわれるもの は、私の短くないゲーム遍歴の中でも上位に入るほど印象的なゲームだったので、その印象が薄れないうちに「私のプレイしたLeafゲーム」の中での位置づけをまとめておきたかったからです。
24日付の更新で回答を訂正しておきましたが、「(Leafゲームの中で)一番好きなゲームは?」というような設問への回答は、こみパDCEをコンプリートしたらまた変わるかもしれません。
(7月13日アップ)

6月21日(月)〜22日(火)
21日、新潟県地方に台風6号が接近しました。この夏初めての台風の接近です──と打鍵するまでの間に、いくつ台風が接近したか思い出せないくらいの日数が経ってしまいましたが。
台風が来襲するたびに大雨に見舞われる、南日本の特に太平洋側にお住まいの人たちには、台風による豪雨の被害が報じられるたびに、「お気の毒に」としか言いようがないのですが、北陸地方では台風が接近しても大雨が降ることはあまりありません。むしろ台風が日本海へ抜けると、台風に向かって太平洋側から暖かい風が吹き込むためにフェーン現象が起こって、北陸地方は時ならぬ猛暑に見舞われることが多いです。この日、私の職場の辺りも、雨は全然降らずむしろ晴れていて、昼休みの気温が34℃まで上がりました。昨年の9月にも、日本海を通過した台風のためにフェーン現象が起こり、9月だというのに33℃という暑さになったことがあったのを思い出します。
こんな暑さの中でも、外回りの仕事に出る人は、女性は襟を開けた服装でもいいのに男性はネクタイを締めていなければいけない、というのは性差別を伴った人権侵害であるとか、帰宅してもまだまだ暑い時間帯には、冷房のないアパートの窓を開けて風を通したいものですが、6月下旬という時節柄、玄関横の窓を開けていると新聞の勧誘を回避することが難しいので、窓を閉めざるを得ず、それも不動産屋と新聞屋が裏でつながっているのに違いないとか、気温が高いと人間の頭はろくでもないことを考える仕組みになっているような気がします。
なんて事を思いながらパソコンに向かっていると、昨年5月に発生したのとよく似た事態が発生している、すなわち2号機の筐体背面から警報音が聞こえるのに気が付きました。私の頭が熱暴走してもウェブ日記に変なことを書き散らすくらいなもの、パソコンが熱暴走する方が今の私にとっては憂慮すべき事態なので、事態を見極めて早急に対処することにしました。
(7月13日アップ)

6月20日(日)
この日も新潟市へ、オルガンのコンサートを聴きに行きました。といっても今日のコンサートは りゅーとぴあ 自慢の大オルガンのコンサートではなく、新潟市内のアマチュア団体が主催して、市内のあちこちの教会を会場にしているコンサートです。
コンサートは「欧州オルガン音楽の旅」と題して、演奏された曲目はドイツ・イギリス・イタリア・フランスのオルガン曲、時代はバロックから20世紀前半にわたり、しかもオルガン独奏曲だけではなく、オルガン伴奏によるソプラノ独唱曲もありました。それぞれの曲を演奏する前に、国と時代によるオルガン音楽の違いを解説していて、例えばバロック時代のドイツでは足鍵盤(ペダル)の演奏技術が発達して、ペダルを駆使する曲が書かれたとか、同じ頃のフランスではストップの組み合わせによる特色ある音色が好まれていた(ストップの組み合わせ方がそのまま曲名になっている曲も多数ありました)、といった具合でした。
コンサートの途中に、「ヨーロッパの一体性と多様性」と題する短い講演が行われました。単なる演奏会ではなく、またオルガン音楽に直結したレクチャーコンサートでもなく、オルガン音楽の背景となるヨーロッパ文化への理解を深めるための講演ということで、今回が初めての試みとのことでしたが、いかんせん10分間でヨーロッパ文化について講演しようというのですから、100メートルを7秒で走るような駆け足の講演になってしまったのは仕方がなかったと思います。
そんな講演でしたが、日本を始めとするアジア文化と比べた時のヨーロッパ文化の特徴として、「人間非依存性」を挙げていたのは、なるほどと思いました。
ヨーロッパ文化の特徴というのは、まず「道具」を作る段階ではアジア文化と同じですが、道具という、使う人間の能力に大きく依存するものにとどまらず、使う人間の能力になるべく依存しない「機械」を作ろうと努めてきたことが、アジア文化と比べた時の大きな特徴なのだそうです。その例は、まず今日のコンサートに使われたオルガンを始めとする鍵盤楽器です。
音楽を演奏するためには、まず正しい高さの音を出せないと始まりませんが、基準となる音の高さを決める道具を何も使わずにいきなり口から声を出して、完璧に「ハモる」ことができるためには、いわゆる絶対音感を持っていても、それだけではなくけっこうな訓練が必要です。それに対して鍵盤楽器は、楽譜に書いてある通りの鍵盤を押しさえすれば、誰でも調律された通りの高さの音を出せます。しかも電子オルガンともなれば、音の大きさも音色も全て、鍵盤とはまた別のスイッチで設定できますから、誰が鍵盤を押しても全く同じ音が出せるはずです──実際はそんなに単純ではないでしょうし、電子オルガンというのがそういう楽器であるからこそ、その演奏者ならではの個性を出した演奏をするのは、ピアノやチェンバロよりもむしろ難しいのかもしれませんが。
コンサートの後で考えたのですが、ヨーロッパ人が音楽を演奏する「機械」を作ろうと努めた結果、到達した極致の一つは現代のデジタルシンセサイザーだと思いますが、もっと古い時代に到達したのは2つあって、1つはオルゴールを始めとする自動演奏楽器、そしてもう1つがグラスハーモニカではないかと思います。どちらも18世紀から19世紀にかけて、つまり産業革命の頃に作られるようになった楽器です。
オルゴールについては誰でも知っているでしょうから、ここでは省略します。グラスハーモニカというのは、原理としては単純なもので、ガラスの器(高級なワイングラスのように肉の薄い器ほどいい音が出るようです)の縁を水で濡らして指で軽くこすると、何とも表現しにくい不思議な音が出る、という現象をそのまま使っています。現象としては昔から知られていたと思いますが、18世紀後半のモーツァルトの頃に、ドレミファソラシドの音階に合わせた音が出るようにガラスの器を軸の周りに重ね、軸からクランクでつながったペダルを足で踏んで軸を回転させ、ピアノの鍵盤を押すように両手の指でガラスの器に触れることで和音を演奏できるように、機械化された楽器として開発されました。
この楽器は、指先でガラスをこすり続けるために演奏者が指先の神経に障害を起こすことが多かったため、国によっては使用が禁止されたほどで、あまり長い間使われることはなく廃れましたが、机の上に置いたグラスに触れた指を動かすという最初の形から、指を動かさずにグラスを回転させるという逆の形を考え出し、グラスを回転させるために足踏みペダルを使う、というような発想は、まさに「道具」を「機械」に変えていくヨーロッパ文明ならではの発想ではないかと思います。

そういうことを考え始めると、すぐに変な方向へ発想が飛躍していくのが私の癖です。
人間が使う「物」を、使う人間の能力に大きく依存する「道具」から、使う人間の能力になるべく依存しない「機械」へと変えていくのが、ヨーロッパ文化の特徴であり、その文化を基盤にして、他のどの世界にも例を見ないほどに機械化した科学技術文明を発達させたのが、ヨーロッパ、というよりもむしろ欧米文明の、比類ない特徴ではないかと思います。その科学技術文明が全世界を席捲している今、私はその全てを無条件に礼讃するわけではありませんが、「使う人間の能力に依存しない」のを特徴とする科学技術文明の恩恵を多大に享受していることを認めないわけにはいきません。例えば、人並み外れた悪筆である私が、職場に提出する書類を肉筆で書いたら、上司は誰一人として読めないでしょう。ですから誰が打鍵した文章も同じように綺麗なフォントでプリントアウトしてくれるレーザープリンタは、職場では他の誰よりも私にとっての必需品です。
科学技術文明がもたらした機械のうち、光の面を象徴する機械はいろいろあると思いますが、影の面を象徴する機械といえば武器です。銃砲の発明が戦争の様相を一変させたのは、従来の刀剣や飛び道具に比べた時の圧倒的な威力もさることながら、その威力を発揮するのに、使う人間の能力にそれほど依存しないことが挙げられると思います。今、アフリカなど紛争が続いている地域で、人道上の大きな問題になっていることの一つは、年端も行かない子供が兵士になっている(自分から志願したり、強要されたりして)ことですが、その理由は、刀剣や弓矢を対人戦闘用の武器として使いこなせるほどに修得するよりも、自動小銃やサブマシンガンの使い方をとりあえず覚える方が、ずっと短い期間でできてしまうからではないでしょうか。つまり刀剣や弓矢が主要な武器だった時代には、それらを修得して一人前の兵士になるまで年数を要したのに対して、銃を使う現代戦では素人同然の未熟練兵でも戦場で何とか使い物になってしまいますから、ほとんど熟練していない子供が兵士として戦場に送り込まれます。すると、そういう子供兵士は育成に時間も費用もかかっていませんから、彼らの上官は不謹慎な言い方をすれば彼らを「使い捨てにすることに躊躇しない」、結果として子供兵士の死傷率は高くなり、それがさらに多くの子供を戦場に送り込ませることにつながる。これは現代の武器が「使う人間の能力にあまり依存しない機械」になったことが直接的にもたらした、大きな惨禍であると思います。
このように、武器を「使う人間の能力にそれほど依存しない機械」、もっと簡単に言えば「誰にでも使える機械」にしたことは、それ自体は功罪相半ばするとはとうてい言えない大きな罪ですが、道具を「誰にでも使える機械」にしてきたのが科学技術文明の辿ってきた道であったと思うと、ある種の武器を、それを操作することが誰にでもできるのではなく、どころか科学的説明のできそうにない一種の神秘的な能力を持った、ごく少数の子供しかそれを操作できないように設定していた、一昔前のあるアニメの世界観は、それを知った当時の私には、科学技術文明に首まで浸り切りながら科学技術文明を安直に否定しているように感じられて、何とも底の浅い物に見えてしまったのを思い出します。
あまり詳しく知らない対象について批判的なことを言うのは、いわゆる「食わず嫌い」の誹りを免れませんが、だからといって今さらそのアニメについて深く知ってみようとも思わないので、この話題はここまでにしておきます。
(7月12日アップ)

6月19日(土)
この日は新潟市の りゅーとぴあ へ、チェンバロのコンサートを聴きに行きました。今までこの日記に何度となく書いてきたように、毎回テーマが変わるコンサートですが、今回のテーマは「変奏曲」です。
同じ曲を何度も演奏する場合、声楽曲ならば1番2番3番と歌詞が変わっていくのが普通ですから、全く同じ旋律を何度繰り返しても、歌う人も聴衆も飽きることはあまりないはずですが、歌詞のない器楽曲で全く同じ旋律を何度も繰り返したら、演奏する人も聴衆も飽きてきます。とすれば、2回目には1回目とどこか変えた演奏をし、3回目には2回目とはまたどこか変えた演奏をしたくなるのが演奏者の心理で、聴衆もそれを期待すると思います。ですから即興による変奏はおそらく人類が音楽を始めた時からあったと思いますし、最初は演奏者の即興に任せられていた変奏のやり方を、作曲者が楽譜に書いて指示するようになって生じた変奏曲は、音楽の形式としてはたぶん最も古くからあったジャンルだと思います。実際、楽譜に書かれた器楽曲としては現存する最古の音楽といわれる雅楽にも、一種の変奏曲が伝わっています。
そして最も古いジャンルであると同時に、今も生き続けているジャンルでもあると思います。現代音楽では作曲者が楽譜に細々と書き込んで変奏曲を作曲することは、クラシック音楽に比べれば少なくなってきたかもしれませんが、例えばジャズのライブではいかにうまく即興演奏できるかが重視されているように、人間が「音楽の変化を楽しむ」という性質を持っている限り、変奏曲というジャンルが廃れることはないでしょう。
チェンバロが広く使われたバロック時代は、また変奏曲が盛んに作曲された時代でもあって、今日のプログラムではバロック最初期の作曲家から末期のバッハ・ヘンデルに至るまで、いろいろな国と時代の変奏曲が取り上げられました。古い時代の変奏曲には、まさに変奏曲の始まりはここにあったことを偲ばせる、その当時巷で流行していた歌に基づいた変奏曲が多く、時代が下るに従って作曲家が自分で作った主題による変奏曲が増えてくるようです。民謡や流行歌に基づく変奏曲はバロック時代が終わっても連綿と作曲され続けていますが、クラシック音楽とポピュラー音楽がすっかり分離してしまった現代では、例えばピアノ独奏用に「『地上の星』に基づく変奏曲」を作曲しようとするクラシックの邦人作曲家がいるでしょうか、などと埒もない事を考えてしまいました。
一方、昔の有名な作曲家が自分で作った主題で変奏曲を書くと、もっと後の時代の作曲家がその主題を使って別の変奏曲を書く(これは盗作ではなくて、むしろその主題を作った作曲家に敬意を表する意味で行われたことが多かったようです)こともよく行われていました。今日のコンサートでヘンデルの変奏曲が1曲演奏されましたが、その変奏曲の主題は、150年後にブラームスがその主題に基づいて変奏曲を書いたことによって有名になっているようです(もちろんブラームスの時代にチェンバロは使われなくなっていて、ピアノのために書かれた曲なので、チェンバロのコンサートでその曲が取り上げられたことはありません)。

帰宅後パソコンに向かうと、「うたわれるもの」のエンディングを迎えた余韻に浸る一方で、うたわれるもの のエンディングを見るまでは封印していた「Fate/stay night」をインストールして、プレイを始めてみました。
このゲームは「伝奇活劇ビジュアルノベル」と名乗っていて、7人の「マスター」と呼ばれる魔術師と7体の「サーヴァント」と呼ばれる使い魔によって、「聖杯」をめぐって繰り広げられる戦いを描いたゲームということです。ですがそもそも聖杯とは何ぞやと言えば、
せい-はい【聖杯】@神聖な杯。A(イ)キリストが最後の晩餐に用いた杯。(ロ)聖餐の際に用いる杯。━-でんせつ【聖杯伝説】(Legend of the Holy Grail) キリストが最後の晩餐に用い、アリマテヤのヨセフが十字架上のキリストの血をうけブリタニアにもたらしたという聖杯を、騎士たちが探求する物語。(下略)
(広辞苑第4版)
というわけで、イエス・キリストの犠牲による全人類の救済を象徴する「最高位の聖遺物(マニュアルにある表現)」である聖杯が、「──その杯を手にした者は、あらゆる願いを実現させる。(同)」という、私利私欲に目がくらんだ人間がそれを手に入れようと血眼になって争うのがいかにもお似合いの、御都合主義の産物としか言いようのない悪魔の玩具のように扱われることには、一介の似非クリスチャンとしては大いに、いかがなものかと思わずにはいられないのですが、これはゲームのシナリオ、私のような者がキリスト教原理主義者の真似をして目くじらを立てるようなものでもないでしょうから、まずはお手並み拝見と行くことにしましょう。
(7月8日アップ)

6月18日(金)
ゲームを買ってから1ヶ月近く、CGの制作やSSの打鍵といった創作的な活動も日記の更新もそっちのけで、毎晩自由時間のほとんどを費やしてきた「うたわれるもの」のプレイも、いよいよラストスパートに入りました。そのせいか、この週末でエンディングに到達しそうだと思ったのが潜在意識にどう影響したのか定かではありませんが、この日の朝方、うたわれるもの のキャラが夢に出てきたようです。どんな夢だったか、誰が出てきたのかはもう覚えていませんが、我ながら「病膏肓に入る」を地で行っていると思います。
そして18日の夜 帰宅して、独り暮らしにともなういろいろな雑事を済ませてからゲームを起動し、夜半を遥かに過ぎた頃、エンディングに到達しました。途中では攻略サイトの助けを借りただけでなく、改造ツールに頼るという軟弱ぶりをさらけ出しもしましたが、そうせずにはいられなかったくらい戦術SLGとしての手応えのあったゲーム、それでいながら、いわゆるRPGにありがちな、プレイ時間のほとんどを自己目的化したレベルアップのためのルーチンワークに費やすことを強いられることはない(改造ツールで「高難度6」を作り出した場合だと、どのくらいのレベルアップが必要か想像がつきませんが)、うまくバランスの取れたゲームだったと思います。
もちろん詰将棋ソフトではなくてADVですから、シナリオ・キャラクター・ビジュアル・BGMといった要素も重要ですが、そのあたりも、シナリオにちょっと気になる部分があった他は、充分に及第点に達していると感じました。特に主人公の造形については、主人公がれっきとした成人であり、酸いも甘いも噛み分けた苦労人で、周りの人々の信頼を勝ち得るに値する人物として造形されていることは、昨今のゲームの中では良い意味で異質な存在と言えると思いました。
(最後に明かされる主人公の正体は……ここから先は、いずれ番外日記ででも。)
(7月1日アップ)

6月17日(木)
毎週木曜日は内閣メルマガを読む日ですが、今日配信された第144号を読んで、深い溜息をつきました。昨16日に会期末を迎えた通常国会で、国民年金改革法案が強行採決されたことを、今日外回りの仕事に出る車の中でカーラジオを聞いていて知ったのですが、それについてメルマガではほとんど説明していなかったからです。
そもそも国民年金制度というものは──というのは、私が前から妄執のように思い込んでいる事で、この日記でも何度か書いていますから今さら繰り返しませんが、その根本的なところはさておき、そしてまた今国会で審議されていた改革法案の内容についてもさておくとしても、そして今さら何をそんな書生論をと言われそうな気はしても、「強行採決だけはするべきではありませんでした」と言わずにはいられません。
会期末で日程が押していたとしても、会期末であればこそ、それよりも何よりも参院選を控えていればこそ、なぜわざわざ強行採決などという、野党に政府与党を攻撃する恰好の口実を与える、もっと端的な言い方をすれば「付け入る隙」を与えるような挙に出てしまったのでしょうか。もし政府に議会制民主主義を尊重する気がなかったとしても、議会制民主主義を尊重するフリをする事は必要だったはずです。君主たる者、慈悲深い人物である必要はないが慈悲深い人物を装うことができることは必要だと、ずっと昔マキアヴェリが述べたように。
そして法案成立後のメルマガで、強行採決したことについてほとんど説明していなかったこと。反政府勢力の急先鋒と目される特定の新聞を別にしても、今の状態でマスコミが政府の言い分をまともに報道するとは思えませんが、そんな時のために、マスコミによって歪曲される惧れなしに、政府の言い分を国民に直接訴えることができるメルマガを作ったのではなかったのでしょうか。
一週間経って、メルマガの読者の感想を見ると、案の定、年金法案の強行採決については非難の大合唱でした。反政府勢力に付け入る隙を与え、反政府勢力に対抗できる自らの利器を使おうとしない政府は、わざわざ自らを窮地に追い込もうとしているように見えてなりません。
(6月30日アップ)

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