2003年11月後半の日記 |
---|
←12月前半の日記へ ↑2003年の日記へ 11月前半の日記へ→ |
11月28日(金)〜30日(日)
11月最後の週末でしたが、このところ急に寒くなったせいか風邪気味で、そのためあまり積極的なネット活動はしませんでした。行きつけのチャットルームでは、盛況のうちに終わろうとしている「麗子祭り」に続いて、常連の方が運営しているサイトで「愛祭り」(「下級生」のヒロインの一人である南里愛の誕生日が、ゲーム本編で12月1日と設定されていることにちなんで)が開催されるという話が少し前から出ていたのですが、それに参加する意欲も湧かずじまいでしたし、麗子祭りに参加するCGが完成したら取りかかろうと思っていたコンテンツの作成にも取りかからないままでした。1回の週末にサイトの運営が停滞するのは、この週末がそうだったように、たまたま風邪を引いていたせいでそうなることもあるのですが、どうもそれだけではなくて、サイト開設以来の日記を眺めてみると、毎年10月から12月にかけてサイトの運営が低調になる傾向があるようです。 2000年にはCGの制作が低調になって、その理由はこんなことではないかと、当時の日記に書いていました。2001年はCGの制作は高調を維持していましたが、2002年は10月頃2ちゃんねるに嵌まりそうになって、どうにかサイトを放置することだけは免れたものです。 (12月7日アップ) |
11月27日(木)
日一日と寒くなり、自転車で出勤する際には手袋やマフラーを身に着けるようになってきました。それを別の点で実感したのは、この日の夜、風呂に入るために腕時計を外しておいたら、電池切れではないのに停まっていたことでした。私が使っている腕時計は、実家から多少離れた私立中学に入学した時、電車通学するのに必要になって買ったものですから、優に20年以上使っている年代物で、しかもその当時でも珍しかった完全なアナログ時計ですが、いつの頃からか、寒い所に置いておくと電池が切れていなくても時々停まるようになりました。停まっても手首に着けるとまたすぐ動き出すので、うっかりしていると、一見正常に動いているように見えて実は何十分も遅れている時計を手首に着けたまま、時計が遅れている事に気付かずにいることがあります。幸いにして今まで、そのために重要な会合に遅れたとか旅行先で取り残されたということはないのですが、腕時計を手首から外しておくと停まることがあるのに気付いてからは、風呂に入る時以外は寝る時も腕時計を外さないようにしています。 それはそうとして別の見方をすれば、腕時計を外すと停まることがあるくらいですから、いかに私のアパートの部屋が寒いかを表しているとも言えます。それでも火災が怖いので、裸火を使う暖房器具(石油ストーブなど)は決して使わず、雪国に来て9度目のこの冬も、暖房器具はこたつだけにしています。ですから前の職場で独身寮にいた頃は、真冬の夜にはボールペンのインクが出なくなることは珍しくありませんでした。今すぐ手に入りそうなもう一つの暖房器具というと、パソコンのCPUをオーバークロック──しませんよ、そんな事。 (12月3日アップ) |
11月26日(水)
この日の夜、どこかの検索サイトあたりを出発点にして何となく巡回していたら、ゲームのファンサイトで「替え歌」をコンテンツの一つにしているサイトに行き着きました。みんなが知っている物を土台にしたパロディという点では、ゲームのシナリオに基づいて作った 歌謡曲の替え歌というのも、広い意味での二次創作と言えるでしょう。しかも元歌の歌詞を過度にいじらず、字数を合わせるだけでなくリズムやイントネーションも保ちながら、元歌とゲームを知っている人なら二重に楽しめるような歌詞を作るというのは、けっこうセンスが要ると思います。私が替え歌を試みた経験からして、というのではなくて──替え歌を試みるなんて私には思いも及びませんから。 しかし、著作権がまだ残っている歌謡曲の替え歌という物は、個人で作ってオフ会やコンパの際にカラオケボックスで歌っている分にはかまわないと思いますが、不特定多数への公開を前提とするウェブサイトに掲載したり、まして同人誌の形にして金を取って販売したりするとなると、あの団体にいつ摘発されるか、という小市民的な不安が拭えません。ウェブサイトに歌謡曲の歌詞を掲載するだけなら、「悪法も法なり」といって著作権料を払うのも長い物への巻かれ方と言えますが、替え歌になると、著作者人格権の一つである「同一性保持権(著作権法第20条)」に真っ向から抵触するのは間違いなく、著作権料を払えば済む事柄とは思えません。この点についてどういう判例があるのかはまだ調べていませんが、私が旧作小説を1編、それなりの自信作だと思っていながらなかなか当サイトでの公開に踏み切れないのは、一にかかって、著作権が残っている歌の替え歌が小説の本文中に出てくるからです。 もっとも、音楽や歌詞の著作権について妙に高圧的になっている団体の姿勢を見ると、著作権法の目的であるところの「これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ」、「著作者等の権利の保護を図り」、「もつて文化の発展に寄与すること」(以上著作権法第1条)のうち、文化的所産の公正な利用をないがしろにして著作者等の権利の保護にばかり偏重している感がするのですが、どうなのでしょうか。 (12月3日アップ) |
11月25日(火)
24日は徹夜明けだというのに早寝しようとせず、いつもの夜と同じくらいの時間まで起きていたせいで、案の定25日の午前中は調子が出ません。仕事を終えて帰宅しても調子が今一つなので、3連休中に取りかかろうと思っていた作業は延期して、何となくネットサーフなどして過ごします。新たにリンクさせていただいた「落窪なる小部屋」は、毎日のように見に行っていますが──開設されたばかりのサイトの管理者にとっては、アクセスカウンタが回ることは大きな喜びです。それは私もサイトを持つ身ですからよくわかります──今日見に行くと、将来的にはこれがコンテンツの核となるであろう、管理者の方による落窪物語の私訳「花襲」(私の見た感じ、逐語訳ではなくて相当自由な翻案)の公開が始まっていました。 私本落窪物語とは違って、何年も前に原稿用紙に書いた旧作をHTMLファイルに起こして公開しているのではなく、これから打鍵されていくようですから、今公開されているのはごく序盤だけですが、読んでみた第一印象は── ──あちらのサイトに限って、私のハンドルネームを「深山木」と変えた方がいいようです。
これは私が「ONE」の深山雪見に萌えた(そういう事実はない)というわけではなくて、別の意味があっての発言なのですが、まあ意味がわかる方はほとんどいないでしょうから、あまり気に留めないでください。
(12月1日アップ) |
11月23日(日)
いつもの週末の夜の例に漏れず、昨夜も午前1時過ぎにチャットが散会になった後、あっちこっちとネットサーフしたり取り留めもないことをしたりして夜更かしして、何時に寝たかも定かでなく、そして今日起きた時刻は、とても昼間勤務する職場に勤めて日本標準時で生活している社会人の起床時刻ではありませんでした。具体的に言えば、午前7時です──グリニッジ標準時の。こんな体たらくで3連休の半分以上を過ごしてしまったわけですが、昨夜のチャットで「麗子祭り」に向けた新作CGの寄贈はこの3連休中まで、という声を聞いたことでもあり、今日こそはCGを完成させると決意して、起きるとすぐに制作を再開し、午後8時半に完成しました。 そこでさっそく「麗子祭り」主催者のなりぽしさんにメールでお贈りし、私のサイトでも公開のための作業に取りかかりますが、この3連休はいつもより早くからチャットが始まっているだろうかと午後10時前に行ってみると、メールを打ってから1時間も経たないのに、コメント付きで公開されていました。私が自分のサイトで新作CGを公開する際にいつもやっているように、HTMLファイルの枠組みを作って待ち構えていたのでしょうか、手際の良さに頭が下がりました。 チャットをしながらサイトを更新しようといつも思っているのに、いざチャットが始まるとチャットに熱中してテキストエディタに頭が全く回らなくなるのもいつものことで、午前1時半にチャットが散会になるまでサイトの更新作業は全く進まず、新作CGの私のサイトでの公開は24日付になりました。 (12月1日アップ) |
11月22日(土)
昨夜は遅くまでネットサーフに耽っていたため、今日は3連休の初日というのに昼過ぎまで寝てしまいました。午後になってからようやく腰を上げて図書館へ行き、まず新聞コーナーへ赴きますが、今日の用件はセンター試験の過去問をコピーすることです。高校の英語の教科書という物を町の本屋で手に取ってみることができなかったので、それに代わる物はないかと考えて、センター試験の問題なら高校生に教える範囲から出題するはずだから、その問題と全く同じ問題を高校の授業で教師が黒板に書いたとしても、それほど不自然ではないだろう、ということです。 それと、昨夜「落窪物語」と「堤中納言物語」を扱ったサイトを見に行ったことから、思い立って久しぶりに、落窪物語と堤中納言物語の解説書を2種類借りてみました。私の知識では原文は読めませんが、借りた1冊「日本古典文学全集(小学館刊行)」に収録されている原文と口語訳の対訳と解説は、かつて「私本落窪物語」を書いた時に全面的に参考にしたものです。 「落窪なる小部屋」の管理者の方に掲示板で指摘された“弁の御方=中の君”説というのは、今日図書館で借りてきたもう1冊の「新 日本古典文学大系(岩波書店刊行)」で採用されている説ですが、実は定説にはなっていないらしく、小学館“全集”の新版では採用されていません。私が私本落窪物語を書いた時には“全集”の旧版だけを参考にして書いたはずで、対訳が載っていない岩波“大系”を読んだ記憶はありませんから、“全集”の旧版と新版で解釈が変わったのでないとすれば、参考にした解説書で採用されていない説を私が独自に採用したことになり、今となっては不思議です。
で、帰宅したらすぐにも「麗子祭り」用の新作CGの制作を再開するべきで、そのために図書館へ資料収集に行ったはずだというのに、帰宅してからチャットルームへ行く時間になるまで何をしていたかといえば、落窪物語の解説書を読み耽っていたのです。どうも新作CGは、作品内容の割に制作に時間がかかりすぎ、なかんずく背景を描くための資料収集に手間取って一週間も制作が中断したせいで、制作意欲が次第に低下してきてしまったような気がしてなりません。CGの制作すらこんな体たらくですから、ウェブ日記の打鍵なんか1文字だってするわけがないのですが、サイトの更新として「落窪なる小部屋」をリンクページに登録することにしました。 (12月1日アップ) |
11月21日(金)
やっと週末前夜が来ましたが、制作が滞っているCGが完成するまではチャットルームには行かない、まして優先順位の低いウェブ日記の更新なんかはしないことを自分に課します。でも掲示板を置いているサイトの管理者として、掲示板のチェックには、CGの制作よりも高い優先順位を与えることにしています。すると先日「私本落窪物語」を読んでくださった方から、その方が開設されたサイトのリンクページに当サイトを登録したという書き込みがありました。さっそくそのサイト「落窪なる小部屋」に伺って、リンクページを見ます。 すると私のサイトは、「現代語訳をはじめとして、『落窪物語』そのものを題材にしている」サイトのカテゴリに登録されていました。 私としては私本落窪物語は、教科書的な逐語訳ではなくて、女主人公の人物造形や終盤から大団円にかけての一連の事件あたりでは相当気ままな創作を加えていますし、前半の山場となる一連の事件の時系列は原作から勝手に改変していますから、現代語訳というよりも翻案と呼ぶべきだと思っていました。ですから、図書館にあるハードカバーの古典文学全集から転載したのではないかと思うような堅苦しい逐語訳を紹介しているサイトと同列にはあまり扱われたくない、という不遜な思いを抱いたのですが、今のところ1サイトしか登録されていない、「『落窪物語』を題材にしたパロディ小説を掲載されているサイト」のカテゴリに登録されているサイトで公開している、落窪物語を題材にしたパロディ小説とは如何なる物かと、リンクをたどって読みに行った私は、──言葉を失いました。 パロディの出来栄えとか、そのようなパロディをインターネットに公開することの是非をあげつらう資格が私にあるとは思いません。私としてはただ、そのようなパロディ小説を思いついた発想の奇抜さに対してのみ、文章書きの端くれとして、最大限の敬意を捧げたいと思います。 「落窪なる小部屋」のリンクページの3番目のカテゴリは、「『落窪物語』の時代背景や、衣装、文学的な見解などを理解するのに役立つ資料面に関するサイト」となっています。 平安時代に背景を設定した小説をサイトに公開していながら、こういった資料に関するサイトについては私は、ブックマークするどころか検索してみたことすらありませんでしたから、思いがけない方角から射し込んだ光に導かれるようにして、いくつかのサイトへ足を伸ばしてみました。 すると、平安時代のアンソロジーとも呼ぶべき「堤中納言物語」を扱ったサイトが2つ3つ見つかりました。10編の短編と1つの断章からなるこの短編小説集の中では、内容の奇矯さから「虫めづる姫君」が特に有名かと思いますが、あるサイトでは全編のかなり自由な現代語訳を公開するにとどまらず、「虫めづる姫君」の結末が「二の巻にあるべし(続きは第2巻にあります)」となっていることから「続・虫めづる姫君」を創作して公開していました。 この「続きは第2巻にあります」というのは、落窪物語の第1巻の末尾にもある句で、この時代の物語にはよく出てくる句らしいです。同じようにこの時代の物語の、全編の結末に書かれた常套句に「とぞ本に(と原本に書いてあります)」というのがあり、私が「岩倉宮物語」を執筆していた当時には、主人公の自叙伝の形で綴ってきたその小説の結末に「と、原本に書いてあります」の一文を付けようかと思ったこともありました。学生時代に中断してから十余年を経て社会人になった今、続きを書いて完結させる意欲も余暇もなくなってしまいましたが。
という具合で、行った先々のサイトのコンテンツを読み耽っていたら深更に及んでしまい、この夜はCGの制作には取りかかれずじまいでした。
(12月1日アップ) |
11月17日(月)〜20日(木)
時節柄仕事が忙しくて残業続きなのですが、毎晩少しずつCGの制作を進めています。人物は18日夜の作業で完成と見なすことにしましたが、いつもながら苦労するのは背景です。というのも今回の作品は(この日記が人目に触れる時にはもう公開されていますから、ご覧になっていると思いますが)高校の英語の授業風景を描いたので、黒板にそれらしい文章なり何なりを書かないといけませんが、高校を卒業して十数年も経つと、高校の英語の授業ではどんな内容の、あるいはどんなレベルの文章を教材に使っているのか、全然思い出せません。何か参考になる資料はないかと、16日に町の本屋で高校の英語の教科書を探してみましたが、どうも義務教育でなくても教科書という物は、年中いつでも町の本屋くらいの場所で売っているものではなさそうです(義務教育の教科書は、憲法に基づいて無償で配布される物ですから、本屋で販売される物ではありません)。 それで黒板の書き文字は後回しにすることにして、他の部分の制作を進めていきます。 (11月27日アップ) |
11月16日(日)
今日は、いつも新潟市内の教会でオルガンの演奏会をやっている団体が、はるばると上越市の高田カトリック教会でオルガンの演奏会を開くので、朝早くから出かけます。どこの町へ行っても由緒ある教会には大小新旧さまざまなパイプオルガンがあるフランスやドイツと違って、日本では教会のオルガンといっても電子オルガンが多いのですが、高田教会には昨年新たに、小さいとはいえ本格的なパイプオルガンが設置され、今回この団体が初めて演奏会を開くというので、その話を聞きつけて以来ずっと、万障繰り合わせて聴きに行こうと思っていたものでした。 そのつもりならなぜ前夜はチャットで徹夜したのかと自分自身を小一時間問い詰めたくなりますが。
高田へ行くに限らず、自家用車を持っていない私が新潟県内の都市間を移動する際の交通手段はもっぱら、安くて速い高速バスですが、朝のうちに高田へ行ける高速バスの便はあまり便利ではなくて、演奏会は10時半からなのに高速バスの高田着は8時過ぎの便の次が10時半です。それで、日曜日の朝9時頃といえば教会でミサをやっている時間のはず、信者ではないけれど潜り込んでみようと、早い便で行くことにしました。キリスト教会ではクリスマスと復活祭を基準にして、復活祭から何週目の日曜日のミサはどういう内容で、その日のミサでは聖書のどの箇所を朗読するか、というのを決めていますが、それとは別に今日は日本の風習である七五三に近い日曜日であることからか、「子供を祝福するミサ」ということになっていて、通常のミサの式次第が一通り終わってから、3歳・5歳・7歳あるいはその前後とおぼしき歳の子供とその親を前の方に集めて、祝福が行われました。ちゃんと洗礼を受けていれば子供でも聖体拝領を受けられるはずですが、3歳や5歳の子供たちにとっては、ミサの正式な式次第として拝領した聖体よりも、その後にもらった千歳飴の方が記憶に残るかもしれません。21世紀の今になっても日本ではキリスト教徒は圧倒的な少数派であるためか、こうやって日本の風習と習合するようなやり方を採っているのは、なんだかなぁという気もしますが、キリスト教で最も重要な年中行事である復活祭にしてからが、キリスト教の布教が始まったばかりの頃に、古代ゲルマン民族の「春分の祭り」と習合したものであることを思い出すと、歴史は繰り返しながら続いているのを改めて感じます。 子供たちの祝福のためにミサが長引いて、演奏会は少し遅れて始まりました。電子オルガンではない本格的なパイプオルガンの演奏は、まあ私の耳では電子オルガンとの違いがわかるものでもありませんし、りゅーとぴあのコンサートホールにある大オルガンと比べるのは酷というものでしょう。 帰ってからはCGの制作を再開しましたが、バスの中で寝ただけでは寝足りなかったようで、どうにも調子が出なくて作業は捗らず、人物がほぼ仕上がったあたりで中断しました。こうして新作は「麗子祭り」には間に合いませんでしたが、多少遅れても「贈ることに意義がある」と開き直ることにします。 (11月27日アップ) |
ページのトップへ戻る |
---|
←12月前半の日記へ ↑2003年の日記へ 11月前半の日記へ→ |