2003年7月前半の日記
←7月後半の日記へ   ↑2003年の日記へ   6月後半の日記へ→

7月15日(火)
今日、こんなことがありました。午前中ずっと外仕事に出ていた私が昼休みに戻ってくると、午前中に来客があったのか、客用のコーヒーカップが流しに置いてありました。私は昼休みには特に用事がなかったので、それを洗って戸棚に片づけておきました。午後の仕事が始まる前、パートの女性の人がそのことに気づいて、それをしたのが私だとわかると、その時は私に礼を言っていたのですが、後で耳に挟んだところでは、どうもその人は私のいない所で「○○さんがそんな事をしなくても良かったのに」と言っていたらしいです。
私は今の職場で、最も給料の安い職員ではありません。サービス残業の分を勘定に入れても、時給に換算すれば、そのパートの人よりは高い給料をもらっているはずです。その私が、コーヒーカップを洗うというような、パートの人がしているのと同じ雑務を、もし勤務時間中にしていたのなら、それは私に非があります。私が勤めている職場は、私にそんな事をさせるためにパートの人より高い給料を私に払っているのではない、という論法が成り立ちますから。
しかし勤務時間外である昼休みにそういう事をしていたからといって、そんな事をしなくていいと言われる理由があるのか、どうもよくわかりません。
──私が人一倍そそっかしくて、客用のコーヒーカップを洗っていて割った前科が何回もあるから。
というオチがつけば綺麗にまとまるのですが、そういうわけでもありません。
(7月17日アップ)

7月14日(月)
今日は久しぶりに晴れたような気がします。先週の11日には冷房の効き過ぎとはいえ室内で背広を着ていても寒かったのに、今日は背広を着ないで出勤してもちょうどいいくらいでした。そんな日に外仕事なのですが、風が吹いていたためにそれほど暑くはなかったようです。

目下制作中のCGはまだ完成のめどが立っていませんが、暑中見舞のネタ出しを始めました。
するといくらも考えることなく、水野友美主演で使えそうなネタが出てきました。この週末は3連休になりますから、3連休のうちには制作に着手できるといいな、と思い始めたところです。
それとは別に思い立ったことがあって、3号館の一部にちょっとした修正を行いました。目立つ点があるとしたら、第2次夏服シリーズ第1作の題名を「2人のヒロイン」から「7人目のヒロイン」に改めたことでしょうか。
まあ、公開したばかりのCGの題名を改めた理由なんていうのは、サイトの別の場所であまり力み返って述べるようなことでもないでしょうから、それをやった私の真意は、ご想像にお任せします。

7月13日(日)
今日は、先月28日にオーケストラのコンサートを聴きに行った新潟市の りゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)へ、チェンバロのコンサートを聴きに行きます。
今回のコンサートは、今までのように演奏する曲目を主題に据えたコンサートではなく、「名器の響き」という題で、世界的なチェンバロ製作者スコブロネックが1966年に製作したチェンバロの、新潟県初のコンサートというような触れ込みでした。
チェンバロはピアノに比べると桁違いに需要が少ないため、楽器メーカーが大量生産している楽器ではなく、全て職人の手作りです。現役のチェンバロ製作者は日本に何人いるのか、全世界でも何百人もいるものではないらしいです。しかも1台ずつ手作りの受注生産ですから、どれ一つとして全く同じ楽器はなく、そしてまた手作りですから1人の製作者が製作できるのは年に1台か2台でしかありません。それでスコブロネックのように世界的な名声を得ている製作者になると、「誰それの何年製」と言えば業界関係者の間では「あの楽器」と通じるほどだそうです。
それほどの名器の音を、生まれつき難聴の上にここ数年はパソコンゲームのBGMに慣らされきった私の耳でどれほど堪能できたかははなはだ心許ないのですが、今までのコンサートで演奏されてきた楽器(これだって二級品ではなく、日本では最高と言われる製作者が丹誠込めて製作した逸品です)の音を思い出して比べてみると、確かに違うなと思ったのは、4フィートのストップを単独で鳴らしてもよく響くことでした。
「4フィート」については、オルガンプロムナードコンサートについて書いたのを参照してください。
2段チェンバロの4フィートストップは、どの楽器も単独で鳴らせる構造になってはいますが、本来それ単独で鳴らすためのストップではなく、8フィートストップと一緒に鳴らして音色を華やかにするための物ですから、単独で鳴らした時の音は普通はとても小さいです。しかしそれを、右手は4フィート単独、左手は8フィートという組み合わせで弾いて右手がはっきりと聞こえ、しかも別の曲で8フィートと4フィートを一緒に鳴らしても「1オクターブ上で別の音が鳴っている」ように聞こえるわけではないのですから不思議です。
今までこの日記で触れてきたチェンバロコンサートの題です。
2000年6月「バッハの魅力」 2000年8月「ヴェルサイユの華」 2000年10月「情熱のチェンバロ」
2001年1月「ファンタジアの世界」 2001年5月「イギリスの巨匠たち」   2002年2月「クープランとバッハ」
2002年11月「思索と愁いの旋律」 
(7月14日アップ)

7月12日(土)
12日は昼間図書館へ行って新聞を読み、夕方からはCGの制作、そして夜が更けるとCGの制作を中断してチャットルームに行くという、私にとってはいつも通りの土曜日の過ごし方になりました。つい先日以来新聞を賑わせている出来事については、私が感じたところを、私の頭を支配しているマスコミ性悪説(特定の新聞社に対する盲目的嫌悪に限ったことではなく)に走らずに文章化できる自信がないので、ここには書かないことにします。
この夜のチャットでは、やはりと言うべきか暑中見舞が話題になりました。私は昨年は「暑中」(立秋の前18日間)に制作が間に合わず残暑見舞になってしまったので、今年は、実際に制作するのは目下制作中のCGを優先するとしても、ネタ出しにはなるべく早く着手しておくことにします。
(7月14日アップ)

7月7日(月)〜11日(金)
6月の間は晴れた日が多かった新潟県下でしたが、職場の人が「新潟の梅雨は7月に入ってから」と言っていたことがある通り、今週はずっと雨模様、梅雨寒の毎日でした。
特に今日は、ちょっとした都合で、本来の自分の席とは違うデスクで一日仕事をしていたのですが、たまたまそのデスクは冷房の吹き出し口の真下にあり、外にいても肌寒いくらいの日に冷房を入れているものですから、私は背広を着込み、向かいの席の女性は膝掛けを掛けて、それでもまだ寒く、休憩時間のホットコーヒーで人心地つくほどでした。
エネルギー節約が国家的目標になっているにもかかわらず、毎年夏になると電力需給が逼迫し、特に今年は東京電力の原子力発電所のほとんどが運転再開の見通しが立たず、このままでは盛夏に首都圏大停電という事態が現実のものになりそうだと騒がれているのに、現実にはこんな過剰なほどの冷房。電気で冷房して寒さのあまり、電気で沸かした湯で暖を取る。いったい私たち日本人は何をやっているのだろう、と思わずにはいられません。

梅雨寒の中、第2次夏服シリーズ第3作の制作に取りかかっています。今日は朝の出勤中に折り畳み傘の骨が折れたので、帰りに100円ショップに寄って、絵の参考にすることも考えて折り畳みでない傘を買ってきました。
そんなことをしているうちに早くも、いつも季節物CGを頂いている「なちゅらりすと」藤咲はじのさんから暑中見舞CGを頂きました。さっそく今夜の更新で公開させていただくことにします。
(7月11日アップ)

7月6日(日)
今日は新潟市の りゅーとぴあへ、「浪漫的オルガントークコンサート」2回シリーズの第1回を聴きに行きます。第1回は「ドイツの浪漫『ブラームスはお好き?』」と題して、ブラームスを中心にシューマンとリストのオルガン曲の演奏と、それらの作曲者と作曲された背景についての解説がありました。
この日記でも何度か書いてきたように、日本ではオルガン曲というとバロック末期のJ.S.バッハ(1685〜1750)の作品が最もよく知られていますが、バッハの死後、18世紀後半から19世紀初頭にかけての古典派音楽の時代はオルガン音楽の空白時代で、本格的なパイプオルガンのための曲はほとんど作られず、バッハを初めとするバロック時代のオルガン曲が演奏されることも多くはありませんでした。それでもヨーロッパではどんな小さな町にも教会があって、毎週ミサの時にはオルガンが演奏されていたはずですから、チェンバロのように楽器そのものが完全に廃れてしまうことはなく、どんな作曲家もオルガン音楽に慣れ親しんでいたはずです。
19世紀前半のロマン派時代に入って、ドイツでバッハとその作品が脚光を浴びるようになってくると、メンデルスゾーン(1809〜1847)・シューマン(1810〜1856)・リスト(1811〜1886)・ブラームス(1833〜1897)といった作曲家によって、オルガン曲が作られるようになります。ドイツ音楽の偉大な先達であるバッハに対する畏敬の念が現れた例として、「バッハの名による」と題された作品があります。
ドイツ語の音名とB-A-C-Hドレミファソラシドに日本で「ハニホヘトイロハ」を当てるように、ドイツではラ・シ♭・ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シにA-B-C-D-E-F-G-A-Hのアルファベットを当てます(イギリスやフランスではシ♭とシの両方にBを当て、Hを当てることはありません)。そこでバッハの名前(Bach)に、それぞれ相当する音を当てると、シ♭-ラ-ド-シとなり、これを主題にして作曲するということが行われました。今日のコンサートではシューマンの「バッハの名によるフーガ」が演奏されましたが、リストと、さらに後の時代のレーガー(1873〜1916)にもオルガンのための「バッハの名によるプレリュードとフーガ」というような作品があります。
これはたまたま、本当に具合のいいことにバッハの名前のアルファベットがAからHまでに収まっていたからできたことで、Iから先の文字が1文字でもあったらお手上げです。
ブラームスの作品というと、一般的に知られているのは4曲の交響曲やヴァイオリン協奏曲、ハンガリー舞曲などでしょうか。オルガン曲は数も少なく、ほとんど知られていませんが、作曲された時期が、若いブラームスを楽壇に紹介するなど恩義あったシューマンの死(1856年)と、それ以来生涯にわたって交流を保ち深く敬愛していたクララ・シューマンの死(1896年)に際会した時期に一致しており、1896年はブラームス自身も生涯の終わりが近いことを悟っていた時期で、作曲家としてオルガン曲を作るということに特別な意味があったのだろう、と解説していました。
プログラムの最後はリストの「バッハのカンタータ『泣き、嘆き、憂い、恐れ』の主題による変奏曲」でした。この曲については、前にこの りゅーとぴあで開かれたオルガンプロムナードコンサートでリストのオルガン曲を聴いた時にちょっと触れましたが、これも「バッハの名によるプレリュードとフーガ」と同じように、バッハを讃仰する想いを込めて書かれた曲だろうと、まず思いました。
ですがそれよりも、リストがこの曲を書いたのは長女に先立たれたすぐ後だったということで、上のブラームスの作品と同様、人生で味わった深い悲しみを音楽に昇華させる意味を持った曲であり、その楽器としてピアノでなくオルガンを選んだことに、特別な意味があったのでしょう。
元の主題はバッハ自身が「ロ短調ミサ」の Crucifixus(「イエス・キリストが十字架にかけられ」という意味の詞を持つ部分)に再利用した、半音ずつ下がっていく主題で、曲の冒頭ではその上に身をよじるような不協和音が鳴り響き、その雰囲気がずっと続きますが、最後に清澄なコラールが奏でられて雰囲気が一変するところが印象的な曲です。──と前にも書いたのですが、バッハのカンタータも最後にこのコラールによる合唱を置いて、神の恩寵による、「泣き、嘆き、憂い、恐れ」からの救済を謳い上げるように曲を結んでいるそうです。

7月4日(金)〜5日(土)
第2次夏服シリーズ第2作は、1日の夜に原画を描き始め、2日に原画をほぼ仕上げてスキャナで取り込み、それから毎晩3,4時間パソコンに向かうという感じで作業を進めてきました。できることなら週末前夜に当たる4日のうちに完成させて公開したかったところですが、主役の七瀬留美にどんなポーズを取らせるか、相方の広瀬真希にどんな表情をさせるか──特に後者は「しょうがないなー(溜息)」という気分を表現するにはどういう表情が効果的か、漫画によくあるいわゆる「ジト目」を描いてみるとか口の周りだけ原画を何通りか描いてみるなど、いろいろと試行錯誤したため、思ったよりも時間がかかってしまいました。
幸か不幸か4日の夜は行きつけのチャットルームが、CGの制作を中断してまでチャットに加わろうと考えるほどには賑わっていなかったのですが、それなら4日は生活リズムを崩さないようにさっさと寝て5日は早起きして作業に専念するのが、30歳を過ぎた自己管理能力のある社会人の取るべき行動であるところ、止せばいいのに5日の朝まで作業を続け、倒れるように寝て、起きたのが正午という体たらくです。
午後からはずっと作業を続け、午後4時に完成。コメントを打つなどの付帯作業も夜10時には終えて、アップロードを済ませました。
今回の作品前作ほど声高に物を言うつもりはなく、シチュエーション先行で題材が決まった作品だったので、題名を考えるのに苦労することはありませんでした。その反面、描かれた全キャラが微笑んでいるといった予定調和的なシーンではなかったので、表情を描くのに苦労したわけです。
(7月5日アップ)

7月2日(水)〜3日(木)
毎週木曜日は、内閣メールマガジンに目を通す日です。先週(6月26日)号は、第100号を記念して開かれた「らいおんミーティング」、全国の応募者から選ばれた20人が首相官邸で小泉首相と対談するという企画の全発言を、1号丸ごと使って報じてありました。私がメルマガを開封して最初にすることは、冒頭にある「先週号の結果」のリンクをたどって読者投票の結果と感想を見ることなのですが、今週号によると先週号のミーティング全記録に対する投票結果は「満足」が67%、「やや満足」と合わせると86%だったそうです。
全体的な投票結果に続いて具体的な感想が載せてありますが、ミーティングで最後に発言した10代で視覚障碍者という人の「見えないからできることもたくさんあると思う。見えないけどできるではなくて、見えないからできる、皆さんも是非そういうふうに考えてみてほしい」(太字は筆者)という趣旨の発言には、首相も大変に感銘を受けたようですが、読者の感想でも絶賛を集めていました。今の日本の社会が、「見えないからできる」が今年の流行語大賞に選ばれるような社会(バリアフリー化が進んだ社会、障碍者に対する認識と理解が進んだ社会、などなど)であってほしいと願います。
ミーティングが開かれたのは6月25日でしたが、26日の新聞はまだ読んでいません。ですからマスコミがこの企画をどのように報道したのかはまだ知らないのですが、その直前の新聞で、内閣メルマガのことを購読者が減る一方だとか「大臣のほんねトーク」が不評囂々だとか、いやに批判的に書いていたのを読みました。この新聞は「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」を「盗聴法」と歪曲して報道し続けた新聞とは違って、官僚性悪説に固執している以外は比較的政府寄りの論調を持っている新聞だと思っていたのですが、それがなぜこうも内閣メルマガを批判的に、というよりむしろメルマガを毛嫌いしているかのように扱っているのかと思った時、思いついてしまったのはこんなことです。マスコミ関係者とその家族のかたはクリックしないほうがいいと思います。
(7月3日アップ)

7月1日(火)
ゲームのプレイ、それも未知の領域に踏み込んでいくのではなくて既にシナリオもビジュアルも一から十まで知っているのをなぞり直していく行為に余暇の全てを注ぎ込むよりは、もっと有意義で創造的だと信じること、つまり新しいCGの制作に着手したいところです。
それで昨日からは第2次夏服シリーズ第2作の細部を詰めにかかったのですが、昨夜「ToHeartPSE」のプレイを始めたことから、夏服シリーズとは全く別の題材が浮かんできました。
ただ、この題材で実際にCGを描こうとすると、大袈裟に言えば私のCG制作に対する姿勢を根本から問い直さねばならないほど、慎重に考えなければならない問題があるのですが、せっかく浮かんできた題材、それもあまり人が描いていないような題材ですから、いつかは実現できるようにストックしておくことにします。

ページのトップへ戻る

←7月後半の日記へ   ↑2003年の日記へ   6月後半の日記へ→