2001年1月後半の日記
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1月31日(水)
引き続き「釧路戦記」の公開に力を入れる一方、気分転換には「ToHeart」のプレイを進めています。
神岸あかりの後は、雛山理緒・来栖川芹香・長岡志保と順々にプレイしていますが、1回に1人と目標を絞って進めていても、既にゴールインした他の女性キャラのイベントもそれなりに発生します。
ところで今日の昼飯は天ぷらうどんでした。そこで昨夜のゲームプレイ中に見た、宮内レミィのイベントを思い出して、胡椒とソースをかけて食べてみます(ネタバレ……って言うほどのものじゃないですね、これは)。
結果ですが、ソースをかけるのは悪くありません。ただしソースがつゆで薄まらないように、衣の上からよく浸みるようにかけるのがよいでしょう。
それに比べると胡椒は、醤油味のラーメンにかけるのと同じ量を振っても、なぜか胡椒の味がしません。ラーメンのスープとうどんのつゆでは、胡椒の味を吸収する度合いが違うようです。

昼間からお馬鹿なことをやってしまったので、もう少し真面目に物事を考えてみます。
ゲーム・アニメ・コミック・ライトノベルといった世界には、レミィがそうであるような、外国人、あるいは外国人と日本人の混血者というキャラクターがよく登場するようです。
しかし私の管見する限り、そのようなキャラクターは、かなり明確な一つのステレオタイプに沿うように造形されているような気がします。
ゲームキャラでいうと、「ToHeart」の宮内レミィの他、古いところで「卒業II」のシンディ桜井、「無人島物語2」のフローラ・バンティエーヌとマイケル・ウェイン(後者は男性)、「下級生」のティナとケント・コネチカット(後者は男性。元のゲームでは「変な外人」(爆)とだけ書かれ、フルネームは「脱衣雀」で知りました)、「サクラ大戦」のマリア・タチバナとイリス・シャトーブリアン、新しいところでは「星空☆ぷらねっと」のサーシャ・ノーブルグといったところを知っています。
たったこれだけの例から帰納するのは暴論、との批判を恐れずに言うと、そのステレオタイプとは
金髪・碧眼・変な日本語・(成年女性に限り)巨乳の4(3)属性を有すること
ではないでしょうか。
地方に住んでいて、職業上も外国人に接する機会に恵まれているわけではないので、現実の外国人についてそれほど深く知っているわけではありませんが、図書館へ行って百科事典で調べたところでは、いわゆる金髪・碧眼という身体的特徴を備えた人種は、コーカソイドの中でも主に北欧人種型に限られるそうです。
分布としてはスカンディナヴィア半島が中心で、イギリス・ドイツはまだしもフランスまで来ると、もう髪も瞳も褐色のアルプス人種型が主になります。そして東欧からロシアにかけての東ヨーロッパ人種型も金髪碧眼ではないようですし、地中海沿岸まで行けば髪はカラスの濡羽色です。
というわけでブラジル、フランス、ロシア各国の生まれまたはそれと日本人の混血者が金髪かつ碧眼というのは、人類学的に見て頻繁に出現しうるものではない、ということになります。
しかもその金髪が、山吹色のような濃い黄色に描かれることが多い(本物のブロンドは黒い色素がないのであって黄色い色素を持っているわけではありませんから、黄色よりは白に近く見えます)のはまだしも、モンゴロイドのような直毛として描かれているに至っては、実物を見ずに描いているとしか思えません。
もう一つの身体的特徴については、百科事典に記述がなかったので判断を下せませんが(^^;。
日本語の発声と会話にどれだけ習熟しているか、これは人種とは無関係です。海外移民の子孫で、人種的には純粋な日本人種でありながら、現地語の会話能力はネイティブスピーカーと同等である一方で日本語の会話が全くできないという人は現実にいくらでもいますから、その逆に純粋なコーカソイドであって日本語の会話能力が日本人と同等という人がいてもおかしくありません。
つまり、日本語の発声と会話が日本人のキャラクターと違うことを(その違い方も少数のパターンに限られているように見えます)、あたかもそれが人種的に日本人種でない人間の象徴であるかのように、しかもかなり揶揄的に扱うことに、日本人の不見識を感じるのです。日本語の発声と会話を、できる限り日本人に遜色なくしようと日々努力している外国人が、内外に大勢いるはずなのですから。
誰か、ゲームでもアニメでもコミックでもライトノベルでもいいですから、「金髪でなく・碧眼でなく・日本語の発声と会話がネイティブの日本人と全く対等、あるいは逆に日本語会話能力皆無」、ついでに成年女性なら「胸ペッタン(爆)」というキャラクターを登場させてほしいものです。
……いましたね、「サクラ大戦」の李紅蘭。しかし彼女の場合、流暢に使いこなす日本語が東京弁でなく“いわゆる関西弁”という点で「異質の言語を使うキャラクター」という型に押し込められて、有り体に言えば色物扱いされているような気がします。
では、髪は黒く瞳も黒く、成年女性だったら胸は小さめ、NHKのアナウンサーのように東京弁を話す、つまり一見して日本人と全く変わらない外国人キャラクターを造形したとします。そこで「外国人にする必然性がない」なんて言ってほしくありません。
生活習慣、宗教、国民性。それに基づいてストーリーやゲームシナリオを作れるような、日本人キャラクターとの違いが、いくらでもあるでしょう。
それに着目したストーリーやシナリオが増えてくれば、日本のゲームやアニメに登場する「外国人」キャラクターが、今のように十把一絡げに扱われることはなくなると思うのです。
(2月1日アップ)

1月30日(火)
「戦争を否定しない、ファンタジーでもSFでもない、リアルすぎる戦記小説」という、今の日本で職業作家が公開したら作家生命を失いかねない文章を、かなりためらいながら公開しましたが、今のところ作者を「反戦的でない」という理由で罵倒するような反応はありません。
それどころか、「続き楽しみにしてます」という書き込みが伝言板にありました。
王朝三部作を公開している間には、好意的な反応はもちろん、「つまらない」「駄作だ」「盗作だ」といった批判的な反応すら、全くなかったのです。
反応があったことに大いに力を得て、「釧路戦記」第二部の公開に邁進しました。運行日誌の打鍵も後回しにして。
(1月31日アップ)

1月29日(月)
昨夜巡回していて、気が重くなることがありました。
……今、私がその事をここに書くことが、思わぬ災厄を私にもたらさなければいいのですが……
事の発端は、あるサイト(A)の管理者が、私の知っているサイト(B)の掲示板に、サイトAのURLを宣伝するだけのような書き込みをしたことです。
しかもその動機が、掲示板でURLを宣伝すればどれくらいアクセス数が増えるか実験してみたかった、ということらしいです。
相当数の来訪者があるサイトの掲示板というのは、一見・常連合わせてかなりの人の目に触れますから、そこに自分のサイトのURLを書いていけば、そこからリンクをたどって自分のサイトに来る人が現れることが期待できます。当サイトの伝言板のように、タグを打ち込まなくても<a href="http://...">〜</a>タグが自動的に設定される記入欄があればなおさらです。
ですがサイトAの管理者が、サイトBを含む非常に多数のサイト(数十と聞いています)に、どう見てもコピー&ペーストにしか見えない書き込みをし、しかもそれが単なる実験だったというので、掲示板に書き込みをされたサイトの管理者のいくらか(と言っても決して少ない数ではないでしょう、あるいはそれらのサイトの常連客も含まれているかもしれません)が、サイトAの管理者に、サイトAの掲示板で抗議したようです。
ここに至ってサイトAの管理者は、自サイトの掲示板への書き込みにレスする形で陳謝し始めましたが、抗議した人たちの中には、陳謝のし方に誠意が見られないなどと息巻く人(C)が現れたようです。
このあたりからが次第にやりきれない話になってくるのですが、そうやって息巻いている人Cを、既に矛を収めた人や、サイトAの管理者をオフラインで知っていると称する人がなだめようとすると、Cとそれらの人たちの間で罵り合いが始まって、それが延々と続くスレッドになっています。
そしてごく一部の関係者、これは本当にごく一部であることを祈りたいのですが、一般に掲示板の管理者が設定する管理用パスワードを探し当てて、サイトAの掲示板にクラッキングを行い始めたようなのです。
私が巡回していた午前0時頃から1時頃までの数十分間に、掲示板のタイトル(当サイトの場合は「800Tours伝言板」ですね)が数回書き換えられ、背景に2種類の猥褻な画像が表示されました。
ネット上、他人の領域である掲示板を使って実験を行おうとしたサイトAの管理者の不見識は責められてしかるべきですが、そのために迷惑を蒙ったとしても、サイトAに対する暴力的なクラッキングという手段を執ることが正当化されるでしょうか?
事の発端からの大まかな経過時間は、サイトAの管理者による書き込みが、27日の朝に行われたらしいです。そして書き込み自体はごく短時間で終わり、その日の夜にはサイトAの管理者は陳謝を始めたようです。
それから一昼夜経って、まだクラッキングの手を止めないとしたら、これは一時の激昂による衝動的な犯行ではなくて確信犯的な破壊活動であり、「暴徒」と見なされても仕方がないのではないでしょうか?
ネットデビューして2年近く、サイト開設から10ヶ月、私がオンラインでお知り合いになった方々は、みな紳士的で穏健な良識人でした。しかし匿名性が強力な武器となるネット、広大無辺な人間の海の中には、どんな人が潜んでいないとも限らない、という事の一端を垣間見たようで、暗然たる気分です。

1月28日(日)
今日はまた、長岡へチェンバロのコンサートを聴きに行きます。
今日は「ファンタジアの世界」と題して、バロック初期16世紀末のイギリスの作品から、バロック末期のバッハの作品までの中から、ファンタジア(ファンタジー)を取り上げていました。
ゲーム用語としてのファンタジーというと、時代背景的には中世のヨーロッパ、町を一歩出れば法の支配に属しない世界を舞台にして、人外の生き物を相手に個人が、「剣と魔法」に象徴される暴力を無制限に使うことが公認されている
──いかんいかん、どうも偏見が入っているらしい。
話を戻して音楽用語としてのファンタジア(イタリア語)ファンタジー(英語)は、日本語で「幻想曲」と訳すように、特定の様式に属しない自由な音楽を指します。
バロック時代を通じて、約2世紀にわたり多くの作曲家によって無数のファンタジーが作曲されましたが、初めのうちは「自由」のイメージからはほど遠い厳格なフーガにも「ファンタジー」の名が付けられていました。
しかしそれと同じ時代、最も重要な音楽のジャンルがカトリックでは「グレゴリオ聖歌の定旋律に基づくミサ曲」、プロテスタントでは「コラールの定旋律に基づく前奏曲など」だったということを考え合わせると、特定の定旋律に基づかないということが、いかに大きな自由を作曲家に許したか、作曲家が自分で作った旋律に基づいて作った曲に誇りを持って「ファンタジー」の名を冠したかがわかります。
今日の演奏会の呼び物は、バロック初期のイギリスで愛用されていた「ヴァージナル」というタイプのチェンバロでした。
普通チェンバロというと、グランドピアノのような形で鍵盤が2段ある楽器を思い浮かべるのですが、それは今の日本で演奏会がテレビ放送されたりCDが発売されたりするチェンバロ曲というのがバッハとヘンデルの作品にほぼ限られるからで、彼らがバロック末期に作った曲を演奏するにはそういう楽器が適しています。
しかし2世紀にわたるバロック時代、チェンバロという楽器も徐々にですが新しい試みが取り入れられていって、最後にグランドピアノのような形に到達したのであって、しかもそれは一方の極に過ぎません。
今の日本で、一般家庭にあるピアノの99%以上はアップライトでしょう。一般家庭にグランドピアノを置くことは、置き場所の関係でまずできません。それと同じことがバロック時代にもあったわけで、王侯貴族の宮殿やオペラ劇場ならグランドピアノ型のチェンバロを置くことができても、庶民(といっても豪商ですよ)の家庭にはもっと小さな楽器が歓迎されたはずです。
ヴァージナルは幅1.7メートル奥行50センチほどの長方形で、現在の感覚で言うと電子キーボードくらいの大きさです。当時イギリスではこのタイプの楽器が愛用されたというだけでなく、その頃イギリスで書かれた曲はヴァージナルで演奏することを前提に作曲されているから、グランドピアノ型のチェンバロで演奏するよりもヴァージナルで演奏する方が美しく響く、それはチェンバロで演奏するために書かれた曲をピアノで演奏するよりもチェンバロで演奏する方が美しく響くのと全く同じ、ということです。
……しかし音楽に関する話は、「百聞は一見に如かず」ならぬ「百見は一聞に如かず」で、いくら私がコンサートで演奏者から聞いた話や音楽事典で調べたことの蘊蓄を並べてみても、「音」に関する限り、チェンバロとピアノの音色の違い、グランドピアノ型のチェンバロとヴァージナルの音色の違いなどというのは、実際の音を会場で録音してきてWAVかMP3としてアップして、ダウンロードして聴いていただいた方がよほどよくわかることです。
そうだとしたら、いったいこの文章に何ほどの価値があるのか、という自嘲的な疑問が拭えません。
(1月29日アップ)

1月27日(土)
血を抜いたせい、なんていうことがあるはずはないのですが、昨夜は帰宅してから急に疲労感を覚えて、テレホタイムまで起きていられそうになかったので、テレホタイム前にサーバにアップロードして早々と寝ました。
今回の更新で公開を始めた旧作「釧路戦記」は、今私が参画している下級生リレーSSや約10年前に執筆していた王朝三部作とはジャンルが全く異なるのはもちろんですが、いくつかの余りにも稚拙な最初期の習作を除けば私の最初の小説であるにもかかわらず、公開が王朝三部作より後になったのには理由があります。
今の私から見ると、ちょうど半分しか人生を経験していない時に書いた小説ゆえ、当サイトを訪れる方に時間と費用の負担を強いてまで読んでいただくに値するだろうかという疑問と躊躇があったのが一つ。
もう一つは内容です。題名からしておわかりのように、これは仮想戦記小説です。
しかし私は、作品の主人公たる語り手に、敢えて反戦的・厭戦的思想を持たせませんでした。
前線で敵と戦っている最中に「戦争反対」などと唱えている余裕があるはずはありませんし、何よりも主人公は、妻子を奪った敵への復讐という大義のもとに、自らの意志で戦争に身を投じているからです。
しかしそのこと、つまり戦争を批判的に扱わないだけでなく、何であれ大義のもとに戦争を正当化した文章を書くことが、今の日本にあっては職業作家なら作家生命を失いかねない最大級のタブー、すなわち戦争賛美というタブーを犯したと誤解されるのではないか、という懸念がありました。
もちろん私は職業作家ではないので、文壇から閉め出されることを恐れる必要はありません。こんな零細サイトで文章を公開するのに、PTAや革新政党や労働組合の顔色を伺うのは小心すぎるでしょう。
そういったことを思いながら周りを見回すと、ゲームやアニメやライトノベルといったメディアで、戦争を否定的でなく扱う場合──もっとえげつない言い方をすれば主人公に殺戮をさせたい場合、決まってファンタジーかSFか、いずれにしても「現在および歴史上の過去のどちらでもない」という形を取ることで、「これは絵空事なんですよ」と視聴者・読者に了承を求めることが、一種の免罪符として通用しているように見えます。
ファンタジーでもSFでもない場合、例えば第二次大戦を扱ったシミュレーションゲームでは、個々の兵士の血しぶきが見えないくらいに全体の規模を大きくして、あたかも囲碁や将棋が抽象化された戦争であるのと同じように、戦争を抽象化しているような気がします。プレイヤーは碁石を並べるように部隊を配置し、将棋の駒を動かして相手の駒を取るように部隊を闘わせるでしょう。ドラゴンを相手に剣を振るい宇宙人を相手にサブマシンガンを連射するノリで、ジョイスティックを握りしめてプレイする戦略級シミュレーションゲームというのは、あまりないのではないかと思います。
そこまで考えてから「釧路戦記」を振り返ってみると、執筆当時の姿勢として「リアリズムの徹底的な追求」というのがあったものですから、結果的には、戦争を否定しない文章としては「絵空事」として読者の了承を得るにはリアルすぎる文章になっていると思うのです。
公開したばかりのうちから、作者があれこれ心配しても始まらないかもしれません。作品に評価を下すのは、作者ではなくて読者なのですから。まして全ての読者が、「この作者は反戦的でない、ゆえにこの作品は駄作だ」という評価を下すとは限りませんし。
(1月29日アップ)

1月26日(金)
昼間、職場に献血車が来ました。冬場は全国的に献血者が減って血液が不足するというので、とりあえず健康が取り柄な私は、積極的に献血します。
年間を通してみれば、全血よりも血漿分画製剤の原料となる血漿の方がより不足が深刻だといわれています。それで私としては移動献血車での全血献血よりも、献血ルームでの成分献血の方をしたいのですが、いかんせん私が住んでいる市には、休日に成分献血できる場所がありません。
献血手帳 首都圏に住んでいた学生時代には、授業が早く終わった日や休日に東京へ出かけた時に、ずいぶん成分献血をしました。その蓄積が、右の献血手帳です。
もっともこの献血回数のカウントは、昭和61年から平成7年までの、成分献血と400cc献血の普及を図るために、成分献血1回を3カウント、400cc献血1回を2カウントと数えていた時代に荒稼ぎしたもので、実際に献血した回数としては今回が52回目になります。それでも職場の大多数を占める、献血回数一桁の人には、変わり者と見られているようです。
私は献血制度の意義を理解しているつもりですし、健康状態が許す限り献血を続けようと思っていますが、それと同時に、献血制度がいずれは消滅することを望んでもいます。
それはもちろん、現在の献血制度が無償の善意に甘えているからなどというのではなくて、種々雑多な病原体に囲まれた環境に生きている生身の人間から血液を採取している限り、エイズウイルスや肝炎ウイルスや、あるいは未知の病原体が献血を通じて蔓延する危険性がどうしても排除しきれないからです。
古くは輸血後肝炎、最近ではエイズがそうです。肝炎ウイルスは、現在検出技術が確立されている種類に限れば100%検出できるそうですが、エイズウイルスは現在の技術では感染後しばらくは検出できないというのはよく知られていることです。最近ではクロイツフェルト=ヤコブ病が血液感染する可能性があることがわかって、また問診の項目が増えました。
今私が期待していることは、人類の科学技術がもっと進歩すれば、生身の人間の体を利用せず、大腸菌などを使った生物工学的手段で、あるいはいかなる生命体をも利用しない純粋な合成化学的手段で、あらゆる病原体の混入する危険を完全に排除した合成血液が作れるようになるのではないかということです。そうなった時、生身の人間の血液だけでなく、いかなる生命体も利用せずに作られた合成血液を輸血することが、「エホバの証人」の教義に照らすとどうなるのか、などと考えたこともあります。

1月25日(木)
旧作の小説の公開が「私本落窪物語」「近江物語」「岩倉宮物語」の王朝三部作で一段落しましたが、まだ他にも旧作の小説があるので、CG制作意欲が戻ってくるまで、しばらくはそれらの公開で間を持たせることになると思います。
そこで今夜は、運行日誌を打鍵する前に公開の準備を始めます。
これから公開する旧作の小説は、人生を変えられたギャルゲー「同級生2」に出会う前に書き始めていた物で、最も古い物はパソコンゲームの存在を知る前に書いたものです。
ですから、読むに堪えない文章の稚拙さを別にしても、当サイトの常連の方には全く関心のない作品かもしれません。
それでもいいと思います。そもそも当サイトの開設と運営自体、この運行日誌に最も端的に現れているように、自己満足に過ぎないのですから。

1月24日(水)
一昨日からプレイを再開した「ToHeart」は、目論見通り神岸あかりとのエンディングを迎えました。
これで、次のキャラに目標を定めることができます。
ところで、ごく個人的な感覚ですが、このゲームのように異性と親しくなって結ばれることを目的とするタイプのゲームに、目標とするキャラを「攻略」したり「クリア」したりする、という表現を使うことには、いささか違和感を覚えます。
「いいんちょ普及委員会」の掲示板で、「私は委員長を『攻略してた』のではなく、委員長に『攻略されていた』のだ」ということに最近気付いた、という趣旨の発言に、こういうレスをつけたことがあります。

揚げ足を取るようですみませんが・・・

こうりゃく【攻略】敵地などをせめとること。(広辞苑)
クリア(clear)<問題を>解決する(英和辞典)

なんか私的には、「攻略」あるいは「クリア」という言葉を、
恋愛ゲームには使いたくないんですよね。
委員長って、戦う相手ですか? 解決すべき問題ですか?

私としては、委員長を攻略したのでもなければ委員長に攻略されたのでもなく、
「委員長とゴールインした」と思いたいです。

題名通りの揚げ足取り、あるいは余計な差し出口だったと思いますが、言葉の意味から考えるに、「攻略」という言葉は戦争シミュレーションゲームに、「クリア」という言葉は謎解きシナリオのアドベンチャーゲームにはふさわしいものの、恋愛ゲームにはふさわしくないと思うのです。
ゲームプレイに欠かせない「攻略本」は、複合語なのでしかたないと思っていますが。
というわけで私は今回あかりとゴールイン。次は来栖川芹香でしょうか。長岡志保は最後になりそうです。
(1月25日アップ)

1月23日(火)
職場のレクリエーションで、ボウリングに行きました。
私は日頃から、玉を使う競技は、やったことのない射撃を除けば野球からけん玉、パチンコ、そろばん(違)に至るまでことごとく苦手だと公言して憚りませんが、そんな人間がボウリングをやればどうなるかといえば、スコアは2ゲーム合計で170、充分ブービー賞が狙える位置にいます。
特に勝負弱さを実感するのは、ストライクまたはスペアを出した次は決まってガターというあたりでしょうか。
それでも、生まれて初めてボウリングをやった時には2ゲーム合計で93という伝説的なスコアを出したのを思えば、少しは上達していると言えないことはないと思います。
あるゲーム(ネタバレの恐れがあるのでタイトルは伏せます)で、ボウリング場で女の子とデートした時に特定のイベントが発生するには、主人公のアベレージが160必要だとされているゲームがありますが、それはゲームという仮想現実の中のことと思うことにします。

1月22日(月)
自分でもその理由がわからないほど、ネット活動への意欲が低下してしまっているので、今夜もメールチェック以外はネットには接続しないまま、ゲームにうつつを抜かしています。
買ったまま積んであるゲームは新旧取り混ぜておびただしい数に上っていて、どれから手を着けたらいいやら途方に暮れるほどですが、とりあえず手元に攻略本があるゲームから、それと途中までプレイしてあるゲームからというわけで、「ToHeart」のプレイを再開しました。
このゲームではゴールインの対象となるキャラは9人いて、今までにマルチ・保科智子・宮内レミィ・松原葵・姫川琴音の順でエンディングを迎えてきましたが、今度のプレイでは、制作元によってヒロインと位置づけられているらしい神岸あかりを目指します。
わざわざ一番難易度が高い(といっても「同級生2」の水野友美・鳴沢唯・南川洋子に比べたら楽勝ですが)キャラを目指したのは、あかりとゴールインすることがある条件になっていると攻略本に載っていたからです。
──ご存じの方には、もうわかりきったことでしょうが。
それにしてもこの手の、高校を舞台にした「学園もの」ゲーム、先日触れたように有名無実化しているとはいえ煩わしい規制が伴いながらもギャルゲーの主流をなすゲームですが、こういうゲームをプレイするたびに、私自身が高校生だった頃に思いを馳せます。
正直に言ってしまえば、私が高校生だった頃、この手のゲームに出てくるような恋愛沙汰とは全く無縁でした。
その原因の幾ばくかは、男子校に通っていたことにあると思っています。
私は、その高校に通っていた時代を今までの人生の中でも良い時だったと思っていますし、その高校のOBであることを誇りに思っていますが、それでも将来自分の息子が中学3年になって、進学する高校を選ぶことになる時には、共学の高校に進学させたいと思います。
人格を形成する重要な時期に恋愛を経験できるかどうかは、もちろん本人の心がけと時の運が左右する部分が大きいわけですが、環境ということを考えるに、やはり別学よりは共学の方が、その機会に恵まれる可能性が大きいだろうと思います。
もっとも、共学の高校に通っていた兄が言うには、男子校で周りに同年代の女子がいなくて恋愛できないよりも、共学で周りに同年代の女子が大勢いて、なおかつ恋愛できない方が、もっと惨めだというのですが。
(1月23日アップ)

1月21日(日)
この頃は週末の夜というと、テレホタイムが始まるとメールと伝言板のチェックは欠かさずやりますが、チャットや巡回はほとんどやらない夜が増えてきました。
ネット活動ができなくなるほど健康状態が悪いわけではないのですが、不思議なことです。
他の趣味と同じように、一時期あまりにも熱中した反動が出てきているのかもしれません。
もちろん義務でやっていることではないのですから、やりたくならないのを無理にやることもないでしょう。しばらくはゲームでもやりながら、気が変わってネットに復帰したくなるのを待つことにでもしましょう。
あ、サイトの更新は続けますから……。

1月20日(土)
昨日飲み過ぎたせいで二日酔いですが、雪下ろしという肉体労働をした割には筋肉痛にはなっていません。
雪も止んだので、図書館へ調べ物に行きます。
1月17日で発生から満6年になる阪神大震災は、まだ「歴史」になるには早いような気がしますが、国史大辞典(吉川弘文館)の「補遺」に載っていました。
その項目には、都市直下型地震の発生に際して明らかになったいろいろな問題点が書いてありましたが、多くの問題点が明らかになった反面、伝染病・略奪・パニックが発生しなかったことを、特筆すべき事として挙げてありました。
先日、中米のエルサルバドルで大地震が起こって、日本からも援助隊が派遣されていますが、熱帯地方で大規模な自然災害が起こると、それに続いて発生するのが衛生条件の悪化による伝染病のようです。
それから、非常事態に慣れていない人の心が動揺するためにパニックが起こり、生活物資の不足と治安維持能力の低下によって略奪が起こる、というのが自然災害に続く現象なのでしょう。
日本でも関東大震災の時には、「朝鮮人が井戸に毒を入れる」というデマが広まったのは紛れもない事実です。
阪神大震災の後、伝染病が流行しなかったのは、発生した季節が冬だったからかもしれません。むしろ震災後ずっと、今に至るまで話題になっているのが、PSTDと呼ばれる精神的外傷らしいというのが、衛生条件が良くなっている反面で人の線が細くなっている、先進国の現状を表しているような気がします。
しかし略奪とパニックが起きなかったのは、季節とは無関係です。
略奪が起きなかったのは──治安維持機関がちゃんと機能していたからなのか、救援物資がそれなりに届いて、略奪しなくても済んだからなのか、地域のコミュニティ内での相互監視が働いていたのか、日本人は大人しい民族なのか。
パニックが起きなかったのは──正確な情報がもたらされて人心を安定させていたのか、パニックを起こさない理性が保たれていたのか、パニックを起こす元気もなかったのか。
中にはとんでもない勘違いもあるかもしれませんが、いろいろと考えさせられました。
(1月21日アップ)

1月19日(金)
今日は朝から、寮生総出で独身寮の雪下ろしです。
独身寮で雪下ろしをするのは、昭和61年以来実に15年ぶりということです。寮に住んでいる同僚には、その時の雪下ろしを経験している者はいませんでしたが、数年前に小千谷から転勤してきた者がいました。
魚沼の入り口に当たる小千谷は、私が住んでいるあたりよりも雪が深くて、毎年のように職場の雪下ろしをやっていたそうなので、彼の指図で雪下ろしをやります。
午前中は晴れていたので、近所の民家でも雪下ろしをしていました。
さて屋根の雪下ろしが終わると、窓の外は2メートル以上の雪の壁になりました。
雪下ろしの前と後
屋根の上にも軒下にも1メートル以上の雪(水色)が積もっている状態で、屋根の雪を軒下の雪の上へ下ろせば、下ろした雪(青)は軒下に元からあった雪の上に積み重なります。ですから雪下ろし後、窓の外には積雪深よりずっと高い雪の壁ができるわけです。
そうすると、昭和61年のように積雪深が3メートル、母屋の軒と同じくらいになったらどうなるかと言えば、母屋の周りの雪をどかしてからでないと屋根の雪下ろしができません。
平年でも積雪深が2メートルを超える津南や入広瀬では、母屋の雪を周りの雪の壁の上に積み上げる形になることから、雪下ろしではなくて雪上げと呼ぶそうです。
それはそうとして独身寮では、屋根から下ろした雪で駐車場が埋まったので、駐車場の雪を片隅に寄せたり、寮は道路から少し奥まったところにあるので道路へ出るための道を開削したりして、夕方までかかって除雪を終えました。
夕方からは雪下ろし慰労会と称して、寮内で飲み始めます。真冬にもかかわらず大汗をかいた後なので、ビールがいくらでも飲めます。
……で、いくらでも飲んでいると、飲み会の後半から翌朝までの記憶がないという事態になります。
(1月21日アップ)

1月18日(木)
まだ雪が降り続きそうなこと、そして週末には雨が降るおそれがあることから、独身寮に住んでいる者は明日有休を取って寮の雪下ろしをすることになりました。
……「雨が降れば雪が解けるからいいではないか」と思った人はいませんか?
5センチくらいの雪なら、雨が降れば解けます。しかし、降る水が雪にならずかろうじて雨になるくらいの気温の時に、1メートル以上積もった雪の上に雨が降っても、雪は解けません。それどころか降った雨を雪が吸って、新雪よりずっと重い雪になるのです。
屋根に載っている雪の総重量が雨の分だけ増すのもさることながら、雨に濡れた雪は比重が増して、「こすき」やスノーダンプでの雪下ろしが困難になります。
従って雪国では、寒気が緩んで雪が雨に変わる時が曲者で、雪が降った後雨が降らないうちに雪下ろしをしなければなりません。
(ここから下は1月21日アップ)
今週に入ってから、夜は主に「WordsWorth」を攻略本と首っ引きでプレイしていましたが、今夜ようやくエンディングに達しました。
といっても、まともにレベルアップ(のための際限なき雑魚キャラ狩り)をやる気はなかったので、前に書いたようにセーブデータ書き換えツールを使って、そのツールでセットできるレベルの上限すなわちレベル99でゲームを始めた結果です。
しかしレベルが高くなると弱い雑魚キャラは出現しなくなると思っていたのに、レベル99でも特定のマップに限って非常に弱い雑魚キャラが出現するのが、ただ単にうざったいばかりでなく、言ってみればしたくもない殺生を強いられるので非常に苦痛でした。
この手のファンタジーRPGに付き物の雑魚キャラ狩りとレベルアップについては、どうしても理解できないことがいくつもあります。
殺生を繰り返すと、なぜ自分が死亡するまでに要するダメージが増えるのでしょうか?(レベルが高くなるとHPが増えること)
なぜ野獣や昆虫などの人外の生物が、人間の通貨を持っているのでしょうか?(雑魚キャラ狩りをすると所持金が増えること)
誰か、合理的な説明ができる人はいるでしょうか?
それともこういった疑問は、ファンタジーRPGをプレイする際には持ってはいけないのでしょうか? 「なぜファンタジーRPGには(現実の世界には存在し得ない)魔法が存在するのか」という疑問と同じく、「それを言っちゃあおしめぇよ」という回答しか用意されていない疑問なのでしょうか?
こんな非生産的な愚問は止めるとしても、エンディングを見ているうちにふと感じた疑問があります。
少しネタバレになります。エンディングの中には、私たちと同じ普通の人間である主人公が、人間よりずっと寿命の長い種族と結婚するというのがあります。
人間よりずっと寿命の長い種族が登場するというのも、ファンタジーのお約束の一つなのですが、そういう種族と人間が結婚した場合、相手は若い身空(その種族の基準での)で配偶者(人間)に先立たれ、その後何百年も生き続けなければなりません。
それは、想像もできないほど不幸なことではないでしょうか。
立場を逆にして考えると、私たち人間が、姿形や知能や精神は人間と同じで、寿命だけが犬や猫と同じくらいしかない生物と結婚するようなものです。
私はペットを飼ったことはありませんが、犬や猫を、天寿を全うするまで飼ったことのある人なら、私の言いたいことがおわかりいただけるかと思います。
犬や猫なら、先立たれても「ペットだから」まだ割り切れるかもしれません。でも姿形も知能も精神も自分と対等な「配偶者」だったら?
私が管見する限り、この点について深く追求したファンタジーは見た覚えがありません。
むしろSF方面に、生身の人間より遙かに長命あるいは短命な「アンドロイド(人間型ロボット)」と人間の関わりという形で洞察した例が見受けられるような気がします。

1月17日(水)
先週末から降り続いている雪はようやく止みました。職場の敷地内の積雪は130センチです。
新潟県のこの辺りだと、鉄筋コンクリートの本建築は2.5〜3メートルの雪に耐えられるように設計されていますが、渡り廊下や木造建築や車庫はそこまで頑丈ではないので、外回りの仕事を担当する部署の職員が、午後から総出で屋根の雪下ろしをやっています。

昨日の項に、雪国の生活は「北越雪譜」の時代に比べればずっと楽になっているはずと書きましたが、それはあくまで平時の話です。
私が住んでいる新潟県は、以前住んでいた神奈川県よりは地震が少ない県ですが、それでも数十年に一度は大地震があり、両親は昭和39年の新潟地震を経験しています。そして今月に入ってから、魚沼から頸城にかけての地域で地震が相次いでいるのが気がかりです。
6年前の1月17日は、阪神大震災のあった日です。
もし豪雪地帯で、真冬に大地震が起こったら。
木造家屋の耐震基準は、屋根に1メートル以上の雪が載っていることを前提にしてはいないでしょう。つまり家屋の倒壊は、雪がない場合に比べて激増するはずです。
次に火災は。時間帯によりますが、夏より火災が発生しやすいのは容易に想像がつくと思います。湿度が高く雪に覆われているので延焼はしにくいかもしれません。しかし豪雪で道路が埋まっていれば、消防車の出動などほとんど期待できません。
消火活動、救助隊の出動、救援物資の輸送、住民の避難、いずれも道路あってのものですが、平時の冬には道路の確保に威力を発揮する融雪パイプは、水道管より浅い所に敷設されていますから、大地震が起こったら真っ先に機能を停止するでしょう。
平場よりもっと大変なのは山奥です。地震そのものと地震が引き起こす雪崩とで、至る所道路が通れなくなるでしょう。交通杜絶した山奥の被災地では、家が倒壊しても救助隊が辿り着けず、家を失った住民に救援物資を届けることができず、怪我人や病人を里へ搬送することができず……人口当たりの人的被害率は、雪がない場合より遙かに高くなると予想せざるを得ません。
もし豪雪地帯で真冬に大地震が起こった後、ヘリコプターが飛べないほどの吹雪が何日も続いたら……そこから先、山奥の被災地で発生するかもしれない事態は、あまり想像したくありません。
(1月18日アップ)

1月16日(火)
雪は一日中降り続き、夜には積雪120センチに達しました。
こうなってくると、幹線道路の除雪がブルドーザーでは追いつかずロータリー車が出動するようになり、近所の民家では総出で屋根に登って雪下ろしを始めます。私の住んでいる独身寮も、この調子で雪が降り続くようだと、週末を待たずに有休を取って雪下ろしをしなければならなくなるかもしれません。
豪雪と、それに伴ういろいろな雪国特有の事──雪下ろし、雪囲い、自動車を持っていればタイヤ交換──を、生活苦と呼ぶかどうかは人次第ですが、「北越雪譜」の時代に比べれば雪国の生活もずっと楽になっているはずです。
今はどんな山奥でも雪上車・スノーモービル・ヘリコプターのどれかは行けますから、雪のために病人や怪我人を搬送できないということはなくなりましたし、山間部の生活道路は雪崩対策も進んでいます。平場ではよほどのことがない限り高速道路と鉄道は動いていますから、真冬でも生鮮食料品が食べられます(これは笑い話ではありません)。
江戸時代以前、いや昭和初年まで、冬は丈余の雪に埋もれる寒村だった、塩沢(「北越雪譜」の著者鈴木牧之の出身地)を初めとする南魚沼の各地は、今ではスキー場の並ぶ一大リゾート地帯となって、豪雪の恩恵を享受しています。
そこまで雪の恩恵を受けているとは感じていない私でも、雪が止んだ時にふと雲の切れ目から見える空の青さ、軒下に下がった1メートルを超すつららを見ると、これを見ることができるのは私たちだけなのだな、と思います。
豪雪と共にある冬が長いからこそ、春の訪れを何にもまして実感できるのだと、私が子供の頃までは新潟県に住んでいた両親は言います。
新潟県人の忍耐強い性格は、豪雪の中で長い間暮らすことによって作られるのだとも。
(1月17日アップ)

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