2001年7月前半の日記 |
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7月15日(日)
朝6時に目が覚めたのに、寝直したのが災いして起床は11時になりました。北陸地方の梅雨明けはまだ発表されていないようですが、今日も昨日に引き続いて晴れて暑いので、自転車を漕いで市営プールへ出かけます。 ──と言いたいところですが、昨日自動車とぶつかったせいかどうかはわかりませんが、朝になると自転車がパンクしています。 それで近所の自転車屋へ自転車を押していき、日曜休店なので明日取りに来ることにして、プールへはバスに乗って行くことにします。 昨日神社の祭りを見たことから思い立って、今日はデジカメを持って出かけました。 といってもその目的はプールにいる水着の女の子を撮ることではなく、縁日の屋台、繁華街の雑踏、あるいは人のいないグラウンドやトウモロコシ畑といった、夏景色を描いたCGの背景に使えそうな風景を撮るためです。 水着の女の子を描くことになったら、その時はデジカメは使わず、もっと別の所から参考映像を集めるでしょう。 今朝方、ふりんとぶらっくさんから暑中見舞写真をいただいたので、今夜はそれを公開します。 広辞苑によると暑中とは夏の土用を指し、夏の土用とは立秋(太陽暦では8月8日頃)の前18日間を指すそうなので、暦の上ではまだ暑中見舞の時期ではありませんが、今年は全国的に梅雨明けが早いようで、新潟県内は7月に入ると同時に真夏になったような陽気です。 そろそろ私も、暑中見舞の制作を考え始めた方がよいようです。 |
7月14日(土)
週末はCGを制作したいのは山々ですが、今日は晴れて暑いので、昼間は先週末に引き続いて市営プールへ泳ぎに行きます。しかしプールへ向けて自転車を漕いでいる途中で、道路から駐車場へ入ろうと左折してきた自動車と接触して転倒。 幸いかすり傷で済み、自転車もほとんど無傷だったので、警察が来て現場検証と事情聴取が済むと、名前と電話番号だけ教え合って、医者へは行かずにプールへ行きました。 ところで前の晩に3時までチャットして、その後4時だの5時までネットサーフしているのでは、充分寝足りて起きるのは昼頃になります。それから食事をしてやおらプールへ出かけると、泳ぎ始めるのは午後2時くらいになります。 3月まで住んでいた市にあった、昨年まで行っていたプールは、午前中はそれなりに人が来ていますが午後になると閑散となるのに対して、今年から行き始めたプールは、午後遅い時間帯に行ってもかなり賑わっているようです。 運動不足解消と体力増進だけを目的にして、わき目もふらずに何千メートルも泳ぎ続けるのなら、空いているプールの方がいいのは言うまでもありません。しかし他の目的がある場合には、あまり空いているプールは目的を達成できない場合が多々あります。 帰りがけに何気なく、割と大きな神社の前を通りかかると、夏の例大祭と書いた幟が立っていて、境内には屋台がたくさん出ています。 昨日から制作を始めようと思い立ったCGの中には、縁日の屋台を背景にしたいと思っているCGがあるので、こういう時には機会を逸さず、さっそく自転車を停めて境内に入り、屋台を一通り眺めて回ります。炊飯器をセットして出かけてきていますから、屋台で買い食いはしませんが、「なるほど、主役のキャラにはこんな物を食べさせてみたいな」と思うような物もありました。 しかし帰ってくると、やや暑気あたり気味のところへ発泡酒を飲んだのが災いして、夕飯後は急激に酔いが回ってきました。CGの制作にかかるどころではなくなって、日記も書かずに早々とテレホタイム前に寝てしまいます。 (7月15日アップ) |
まとまった時間がとれる週末には、ゲームをプレイするだけではなく、かねてから制作したいと思っていたCGの制作に取りかかることにします。 制作したいCGの中には「彼女が眼鏡を掛けたら」の第2弾もありますが、眼鏡ということに関して、昨日までプレイしていた「こみパ」のキャラCGを見ていて思い出したことがあります。 眼鏡にもいろいろな用途がありますが、実用的な用途は第一に視力矯正用、そして現在の日本で、私くらいの年齢層より下の人が掛ける眼鏡は、その大部分が近視矯正用の凹レンズを入れた眼鏡であると思います。 ご自身が近眼鏡を掛けている方は、鏡の前に立って、ちょっとだけ顔を横に向けてみてください。ご自身が近眼鏡を掛けていない方は、お近くにいる近眼鏡を掛けている方の顔を、少しだけ横の方から見てみてください。 レンズ越しの顔の輪郭が、レンズにかからない部分の輪郭と比べてどのように見えますか? |
牧村南(こみパ) | 猪名川由宇(こみパ) | 水野友美(同級生2) | 私(^^; |
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いきなり見苦しい物をお見せしてしまいましたが、注目していただきたいのは赤い矢印で指した部分です。要するに近眼鏡の凹レンズ越しに物を見ると小さく見えますから、その分だけレンズ越しに見える(レンズの内側と呼ぶことにします)顔の輪郭がレンズの中心に寄って見えるはず、ということです。
しかし、上に例示したこみパと同級生2に限らず、手許にあるゲームのパッケージ・マニュアル・ビジュアルCGを見た限りでは、レンズの内側の顔の輪郭が、レンズの外側のそれよりレンズの中心に寄って描かれていると断定できる絵は1枚もありません。 上の例で言えば友美の場合、逆に、レンズの内側の顔の輪郭がレンズの縁に寄っています。つまり友美は遠視で、矯正用に凸レンズを入れた眼鏡を掛けていることになります。 百歩譲って、友美が近視だというオフィシャルな設定はないのですから、友美は遠視だということにしましょうか。 それなら南と由宇は。レンズの内側の顔の輪郭とレンズの外側のそれがずれていないのですから、彼女たちの眼鏡のレンズは、近視または遠視矯正用としては、ほとんど度が入っていないことになります。 ということは、彼女たちは乱視矯正用、あるいは何らかの理由で紫外線を高度に遮断するために、眼鏡を掛けている、ということになるのでしょうか。 ──というこじつけをしたいのではなくて、要するに絵を描く人には、もっと実物をよく見て絵を描いてもらいたい、ということです。 こういう描き方をしている人が全てではないと思いますが、眼鏡を掛けているキャラクターの絵を描く時、眼鏡を掛けていない顔を描いてから、眼鏡を別のレイヤーに描いて合成することもあると聞いています。確かにレンズの光沢や色や曇りを表現するにはこの方法は有効なのですが、これだけだとレンズの屈折を表現できなくなってしまうことを、プロのCG画家でも等閑にしているのかと思います。 もっとも私自身、少し前に描いた「いいんちょ2態」では、眼鏡を掛けていない顔を描いてから眼鏡をレイヤー合成する手法で描きましたから、結果として度が入っていない眼鏡を保科智子に掛けさせてしまったわけですが。 |
昨日の項に書いたような事情で、DreamCast版「Kanon」のプレイを続ける意欲がかき消えてしまったので、次にプレイするゲームは、と本棚1段分の未プレイゲームのパッケージ(逝)を眺め渡して、手に取ったのはLeafの「こみパ(こみっくパーティー)」です。
実はこのゲームも、ずいぶん前にちょっとだけプレイして、そのまま放ってあったのですが、それを再開しようと思い立ったきっかけは、こういうことです。 最近はKanonを初めとする「心が痛くなる系ゲーム」が隆盛を極めていて、その系統のゲームは私もWindowsゲームでは「AmbivalenZ」「AIR」「加奈」「Flutter of Birds」「星空☆ぷらねっと」「White Album」「リフレインブルー」「ONE」、コンシューマゲームなら「久遠の絆」「センチメンタルグラフティ」(いずれもタイトルの五十音順)といったところでしょうか、よくまあこれだけ買い込んだもんだと我ながらあきれるほど、新旧取り混ぜて買い込んで、その挙句には多くの人に勧められながらどれ一つとしてプレイしていない体たらくなのではありますが、Kanonにかなり強い影響を受けた今の状態でそういったゲーム、特にお知り合いの方が「これは号泣もの」と勧める「加奈」や「ONE」をプレイしたら、実生活に差し支えるほどの鬱状態に落ち込んでしまうか、あるいは逆にそういったゲームに対する感覚が麻痺してしまうかもしれない、という懸念がありました。 ですから、なるべく明るいお気楽なゲームで息抜きを図ろうと思ったわけで、そうすると手持ちのゲームの中では「こみパ」か「恋姫」あるいは「PALETTE」あたりかな、となります。 その中で「こみパ」は4月から6月までテレビ(関東中心のUHF──ですから新潟県では視られません(T-T))で放送していましたし、DreamCast版の発売が近づいている(延期に次ぐ延期というのが実情ですが)こともあって、お知り合いの方の間でもかなり話題になっていました。 というわけで10日からプレイを始めましたが、今回はもう「最初にハッピーエンドを迎えるまでは自力でやる」ことを断念して、さっさと攻略サイトを見つけてきて、そこの記述を見ながらプレイします。 このゲームは、簡単に言ってしまえば「漫画同人誌を描きながら女性たちとの恋愛を深めていくゲーム」です。ですが私程度にでも同人誌界を知っている人がプレイすれば、きっと顎が外れるでしょう。 オープニングで同人誌即売会「こみっくパーティー」の舞台として描かれる場所が、いきなり私にも見覚えのある東京ビッグサイトそのまんまですし、即売会の様子はコミケそのまんま、会場で同人誌を買い回ると、その筋では有名らしい、実在する同人作家のペンネームがずらずらと出てきます。 お知り合いのコミケ常連の方が、このゲームを「我が青春の記念碑」と評していたのもうなずけます。 さてマニュアルの記載順でいくと最初にゴールインを目指すのは、同人誌界から最も遠い所にいる高瀬瑞希なのですが、攻略サイトの記載順では猪名川由宇がトップだったので、まずは由宇から始めます。この順序には、攻略サイトの管理者が由宇萌えであることが関係しているかどうかはわかりません。 そしてウェブ日記の更新など完全にそっちのけでプレイを進め、12日の夜、由宇とゴールインしました。 (7月12日アップ) |
7月9日(月)
週明けから連日、夜はゲームをやっています。本当は制作したい──それには、「今このCGを描いてネット世界に問うことが、ネット上に生存する唯一の友美描きたる800としてのレゾンデートルであるっ!」という信念に燃え立っているものもあれば、どっちかというと義理が先に立っているようなものもあるのですが──CGが何点もあるのですが、取りあえずその前に、今プレイしているゲームは片を付けておこうと思って、少し前からプレイを始めていたDreamCast版「Kanon」を、9日はプレイしていました。DreamCast版Kanonのプレイについて、ウェブ日記には何も書いていなかったことに今になって気づいたので、紙日記の記述とセーブデータのタイムスタンプを元にプレイの進捗状況を略記すると、6月13日の夜にプレイ開始、18日に水瀬名雪シナリオを終了、23日に美坂栞シナリオを終了、少し間が空いて7月5日に沢渡真琴シナリオを終了、それから川澄舞シナリオに取りかかったことになっています。 買った時から、DreamCast版Kanonは内容的にWindowsの全年齢版Kanonと同じ、ただキャラボイスがついただけだと知っていたのですが、まあ騙されたつもりになってプレイしてみると、何と言いましょうか──名雪役の国府田マリ子さんの声にはKanonファンの間で賛否両論あるという風説に肯んぜずにはいられませんでした。主役級のキャラの声がしっくりこないとすると、これはプレイヤーとしてはかなり痛いです。 DreamCast版KanonはPlayStation版ToHeartとキャラボイスが、重要な役どころでけっこう重複していて、美坂香里が神岸あかりと同じ川澄綾子さん、真琴が松原葵と同じ飯塚雅弓さん、月宮あゆがマルチと同じ堀江由衣さんです。そういう予備知識を持ちながらプレイしていると、香里の喋り方がときどき「あっ、あかりそっくりだ」と感じられる時がありましたが、真琴とあゆは、葵とマルチの声から想像していた声とはかなり違います。真琴は自称を「真琴」と言うキャラにふさわしく、どことなく幼い感じ、あゆは自称を「ボク」と言うキャラにふさわしく、声変わり前の少年を思わせる感じ、とでも言いましょうか、どちらも役どころに合わせた声で演じられています。声優に詳しい人の話では、堀江さんは別のゲームではこれまた、マルチともあゆとも同一人物とは思えない声で演じられているそうで、さすがはプロの声優です。 さて、名雪→栞→真琴→舞という順でプレイしてきたのは、マニュアル記載順ということもありますが、Windowsの全年齢版Kanonで真琴シナリオを終えた時と栞シナリオを終えた時に感じたことから、「栞シナリオは真琴シナリオの後にプレイすべきではない」と判断したからでもあります。 マルチ(これはHMX-12の意味ではありません)シナリオ型のゲームの場合、シナリオによって質的な差があることはなかなか避けられませんが、Kanonの栞シナリオと真琴シナリオの差は、ゲームの根底にある世界観にまで関わってきそうなくらい大きいと思うのです。この差は、ある意味ではWith Youの真奈美シナリオと菜織シナリオの差より重大です。 まあWith Youの2つのシナリオも、菜織シナリオへの分岐がやや遅すぎるというのか、分岐点以前に真奈美シナリオの核心となる部分への伏線が張られすぎているので、もし真奈美シナリオを最後まで見ることなしに、初プレイで菜織シナリオを終えたとしたら、十中八九、いや100人中99人が、「天都先生の宝玉とチャムナの話はどこへ行ったの?」と思いっきり首を傾げるでしょうけど。
まあそれはさておき、5+1本のシナリオをメインキャラのマニュアル記載順にプレイしていくつもりだったのですが、不幸なことに9日の夜、舞シナリオの中盤まで来て、突然、プレイする意欲が雲散霧消しました。なぜそんなことになったのかと思うに、行く末がわかりきっているゲームのプレイを続けることに倦んだからではなくて、主人公(デフォルト名は相沢祐一)に感情移入できなくなったからです。この手のゲームで、主人公に感情移入できないというのは、かなり致命的です。 舞シナリオの中盤では、その不器用な性格ゆえに学内で孤立している舞が他の生徒に受け容れられるようにと、祐一があれこれ策を弄して、生徒会主催の舞踏会に舞を参加させるエピソードがあります。しかしその場面の祐一の行動が、もし私が舞だったら
ひとたびそうなってくると、祐一が(一般にこの手のギャルゲーの、高校2年である男主人公がそうであるように)上級生である舞と佐祐理に敬語を使わないことまで、私のような古風な人間には違和感を覚えてしまいます。「……祐一うざい、斬る」
と言って抜剣しかねないほど、舞の本心など何も考えていない、要らざるお節介に感じられてしまったのでした。私自身は高校時代あるいは大学時代、一般に言われているように上下関係のうるさい体育会系のクラブなどに入っていたわけではありませんが、それにしても……と思うのです、年上の人間に敬語を使わない、あまたのゲームの主人公を見ていると。 (7月12日アップ) |
今日も晴れています。梅雨はどこへ行ったんでしょうね? こんなに空梅雨だと、新潟県は冬に山に積もった雪が多かったと言われても、夏本番の頃の旱魃が心配になります。
今日は午後から、新潟市の教会でオルガンの演奏会が開かれるので、それを聴きに行きます。私がこの日記で何度も触れた、新潟県在住のチェンバロ奏者も、今日の演奏会に出演しています。 ──オルガンというと、小学校の教室にあった足踏みオルガンを連想する人が多いのではありませんか? あれも広い意味でのオルガンには違いありませんが、私が聴きに行ったのはパイプオルガンです。パイプオルガンと足踏みオルガンの違いは、グランドピアノとアップライトピアノの違いの、256倍は大きいと思ってください。 およそ市を名乗るくらいの町なら必ず教会があり、どの教会にも大小の差こそあれパイプオルガンが設置されている西ヨーロッパ(特にドイツとフランス)と違って、日本ではパイプオルガンというと、特に大規模なコンサートホールに大型のものが設置されることが最近は増えてきたようですが、その反面、町の教会でちゃんとしたパイプオルガンを備えている所はほとんどないようです。私が3月まで住んでいた町の、昨年のクリスマスイブにミサに参列したカトリック教会は、ずいぶん由緒ある教会で建物も立派でしたが、ミサの伴奏をするオルガンは電子オルガンでした。 ですから私たちが生演奏を耳にすることができる「オルガン」というと、コンサートホールにある大型のパイプオルガンと、学校や町の教会にある足踏みオルガンまたは電子オルガンのどちらかになってしまうのですが、今日行った教会には、1920年代にアメリカで作られて町の教会で使われていたという、小型のパイプオルガンがありました。 小型とはいえ手鍵盤が2段に足鍵盤もあり、音色を変える「ストップ(音栓)」が30以上もある本格的なパイプオルガンで、ミサや結婚式の伴奏に使うには充分すぎるほどの楽器だそうです。といっても実は、アメリカの町の教会で購入できるくらいの値段に抑えるために、ちょっといろいろな工夫がしてあって、西ヨーロッパの由緒ある教会にある、同じくらいのストップ数のオルガンに比べると、多少聴き劣りがするらしいです。 まあ、そのようなオルガンですから、オルガン曲というと誰もが真っ先に思い浮かべるに違いないバッハの「トッカータとフーガ ニ短調」をそれで演奏するのは、無理ではないですが楽器の能力を超えてしまいます。それにそのような曲は、コンサートホールの大きなオルガンで演奏したのを、誰もがテレビ・ラジオ・CDで聴き慣れていますから、小さなオルガンで演奏しても聴衆をがっかりさせるだけでしょう。 今日の演奏会の曲目も、オルガン独奏の第1部ではブクステフーデ(1637〜1707)やデュプレ(1886〜1971)の、大きなオルガンのために書かれた曲が演奏されていましたが、どうも楽器の能力を無視して背伸びしすぎたような演奏で、特に低音が迫力不足でした。 コンサートホールにあるような大型のオルガンには、迫力ある重低音を出せるように、楽譜に書いてある音より1オクターブあるいは2オクターブ低い音が出るストップがついています。ところがパイプオルガンというのは、1本1本のパイプが決まった高さの音を出す笛であると考えていただければいいのですが、ある音を出すパイプの長さと太さはだいたい決まっていて、2オクターブ低い重低音を出すためのパイプの長さは、最長で10メートルにもなります。こんなパイプは小さな教会堂には収まりませんし、長さに比例して太いパイプを鳴らすには大きな機械が必要になりますから、普通は小型のオルガンには重低音を出すストップはついていません。この教会のオルガンには、巧妙な仕掛けによって、楽譜に書いてある音より2オクターブ低い音を出せるストップがついていましたが、やはり細くて短いパイプに仕掛けをして出す低音は、10メートルの太いパイプを盛大に鳴らして出す低音に比べると、音質の関係もあって迫力不足です。
その一方で、ヘンデルのオペラとオラトリオ(「メサイア」が有名ですね)の序曲を「チェンバロまたはオルガン」用に編曲した曲、あるいはソプラノの独唱者をゲストに迎えた第2部で、イギリス・ドイツ・イタリアの独唱曲の伴奏をオルガンで弾いた曲は、楽器の大きさに釣り合っていました。曲そのものが重低音を必要とせず、またオルガン全体の音量が小さいので、独唱の伴奏にはちょうどよいのです。
「チェンバロまたはオルガン」というのは、バロック時代のイギリスでは、もちろん教会にオルガンはありましたが、ドイツやフランスと違って大型のオルガンは設置されず、足鍵盤のない小型のオルガンが一般的だったことによります。足鍵盤のないオルガンのために書かれた曲は、右手と左手だけで演奏できるわけですから、チェンバロやピアノでも演奏できます。それにバロック時代の鍵盤楽器のための曲は、オルガンの足鍵盤を除けば、ロマン派時代のピアノ曲・オルガン曲ほどには楽器特有の表現やテクニックを追求しませんでしたから、バロック時代にはチェンバロとオルガンのレパートリーは、それほどはっきりとは分かれていませんでした。もっと降ってモーツァルトのアリアを、ピアノの代わりにオルガンで伴奏したとしても、それほど違和感はないでしょう。
演奏会の後でアンケートがあったので、今後の要望として、バロック時代より後に作曲された、小さいオルガンのための曲を取り上げてほしい、と書いてきました。日本ではパイプオルガンそのものがあまり市民生活になじみがないためもあるのでしょうか、私たちが日常よく聴くオルガンのための曲というと、バッハの作品のそれも一部でしかないようですが、教会での礼拝とオルガンが不可分の関係にある西ヨーロッパでは、バッハより後にもオルガンのための曲が連綿と作られています。もちろんモーツァルトの頃からピアノが鍵盤楽器の王座に就いたのと軌を同じくして、オルガンのための曲はあまり書かれなくなりましたが、ドイツ方面ではモーツァルト、メンデルスゾーン、リスト、ブラームス、ラインベルガー、レーガー、ヒンデミット、フランスではフランク、サン=サーンス、ヴィドール、ヴィエルヌ、デュプレ、メシアン、J・アラン(全員の名前を知っている方がいたら相当のオルガン通です)といった作曲家が、オルガンのためにさまざまな曲を残しています。それらの曲の中には、ショパンやリストがピアノによる表現の極限を追求したように、大きなオルガンによる表現の極限を追求した曲もあるわけで、そのような曲はこの教会のオルガンでは演奏できませんが、一方では町の教会でミサの前後に演奏するのにふさわしいような、あまり熟練していない演奏者が小さなオルガンで演奏できるような曲もあるはずです。私たち日本人がほとんど知らないそういう曲の中から、珠玉の佳品を選んで演奏してくれれば、オルガン曲は「トッカータとフーガ ニ短調」だけではない、ということが一般の人にもわかってもらえると思ったのでした。 (7月9日アップ) |
7月7日(土)
今日は七夕です。新暦7月7日には、日本列島中部は梅雨に当たっていて星空が見えないことが多いのですが、新潟県は今夜は晴れています。昨夜も例によって夜遅くまでチャットルームに入り浸り、さらにその後で日が昇るまでICQで話し込んでいたので、起きたのは正午近くになっていましたが、起きてみると快晴です。 そこでさっそく、今月1日から営業を始めた、少し離れたところにある市営プールへ行きます。 去年の今頃もプール通いのことを日記に書いていましたが、小さい頃から運動全般が苦手だった私にとって、小学生の時に水泳教室に通って身につけた水泳は唯一、人並みにできる運動です。 最近は太って皮下脂肪が増えてきたので、きっと温水プールでもいっそう浮きやすくなってきたことでしょう(逝)。 さて夏の週末に市営プールへ行くと、もちろん私の他にも泳ぎに来ている人がいるわけです。そうやって他の人が来ているのを見ていると、その中でも特に10代の女の子に目が行くのは否定しませんが、そうやって実物を見ているうちには、「サイトに公開するイラストには女の子の水着姿を描かない」という自主規制を緩和してはどうだろうか、という思いが胸をよぎることがあります。 それは今し方自主規制と言ったくらいで、およそ根拠のあるものではなく、きっとプロバイダも水着姿のイラストをアップロードすることを禁止しているはずはないのですが、ただ単に人と同じことをしたくない、という程度のものです。 もし女の子の水着姿のイラストを描くことがあるとしたら、その時はリアリティにこだわるでしょう、私の性格からして。 まず第一に、学校のプール(授業か部活)または公営プールなら、必ず水泳帽を着用させます。 それからゴーグルは競泳大会公式ルールで認められた形の物に限定。公営プールなら、コインロッカーの鍵を失くさないように左手首に着けている、というのも基本です。 これを忠実に描くと退く人が続出するかもしれないのですが、大会に出場するレベルの女子選手は、普通の女の子とは体型が違います──一流の選手なら、肩と腿の筋肉の着き方を選手やコーチが見れば、どの種目の選手だかわかるという、それくらいに。一流の運動選手はみな、私のような凡人とは異なる鍛え抜かれた肉体の持ち主ですが、水泳選手は特に肩の筋肉の着き方が際立っています。 そう言われてみると、学園物のゲームに登場する女性キャラに水泳部員は少なくないのですが(桜木舞・渡辺つぐみ・藤崎詩織など)、どうも彼女たちは一流選手ではなさそうです、体型的に。 やはり、肩幅が腰幅より広い女の子の絵というのは、制作サイドも描きたくないんでしょうかね? |
7月4日(水)〜6日(金)
今週の新潟県は梅雨たけなわで、日によっては大雨が降っていますが、そんな日でも天気予報を見ると、雨が降っているのは北陸地方と東北地方だけで、関東以南は早くも夏本番のような猛暑が続いているらしいです。差し当たって最優先したい作業は、お知り合いの方に差し上げるCGを制作することですが、晴れて暑い日に外仕事をしているうちに、まずふりんとぶらっくさんに差し上げるにふさわしいCGの題材が浮かんできました。そこで、仕事を終えて帰宅すると、さっそくCGの制作に取りかかります。 日記そっちのけで制作を進め、6日の夜に完成したのでお贈りします。 その間にも次のCGの題材が浮かんできますが、少しくらいは日記に時間を割いてやるとしましょう。 (7月6日アップ) |
7月3日(火)
担当を終えたリレーSSに、例によって制作余話を書いていたら、思ったより時間がかかってしまいました。それを済ませてから日記を打鍵し、月初ごとの更新つまり掲示板のログを保存する作業をします。 本当はそういったルーチン的な作業よりも、新しいCGを制作したり雑文を打鍵したりといった、より創造的な作業を優先したいのですが、このところ暑さのせいもあって、ちょっと気力減退気味です。 CGの制作には、自分の所だけで公開したいCGのネタがたくさんあるばかりではなく、お知り合いの方のサイトに寄贈したいのがいくつもあるのが、それを最優先したい理由です。 「そこつやの館」が25万HITを達成して日が経っていますし、「Flintblack's Homepage」はあと1週間で開設2周年です。 もう少し先ですが「88らいぶらりぃ」が8月1日で開設3周年、「桂芳恵精神病棟」が8月19日で開設4周年。もちろんその前に、暑中見舞の季節が来ます。 (7月4日アップ) |
7月2日(月)
先月8日に大阪府の小学校で児童が無差別に殺傷された事件は、連日マスコミを賑わせているので、テレビも見ず週刊誌も読まず世間の動静に疎い私でも知っています。昨日の読売新聞に載っていた記事は、些細な記事ですが気に留まったので触れてみたいと思います。それというのは、群馬県の市立小学校で教諭がホームルームの時間に「犯人は死刑。足から切り刻めばいい」と児童に言ったのが児童の父母から抗議された、という記事です。 なんで近頃の子供の親は、そんな些細なことを問題視して騒ぎ立てるんだろう、というのが第一印象でしたが、もうちょっと考えてみたことを、議論の方角が見当違いであるという批判を受けることを充分承知の上で書きます。 まず私の立場は死刑容認派であることを言明します。それに反対の方は、ここから先の文章を読まない方がいいです。
日本において現在効力を有する刑法に、殺人犯に死刑が適用できること(*1)が規定されていますから、この教諭が児童に犯人は死刑にすべきだと言ったのは、全く問題はありません。しかしその先、死刑の方法として「足から切り刻む」と言ったのは勇み足です。歴史上、たしか清代までの中国には、本当に死刑囚の足先から切り落としていく、凌遅処死という処刑方法がありました。普通の斬首や絞首と違って死刑囚に絶大な苦痛を与えるこの方法は、ですから叛逆罪のような、特に罪状重大な犯人に対する極刑として行われたようです。 しかし日本の現行刑法では、死刑の執行方法を絞首刑(*2)と規定しています。 さてそこで、市立小学校の教諭ということは、地方公務員です。国家公務員であると地方公務員であるとを問わず、公務員には法令遵守義務があり、公務員として採用された時に書かされる宣誓書に、法令遵守義務についても書いてあります。私が知っている限り、法律の条文として明文化されているのは憲法第99条(*3)だけですが、憲法が国の最高法規である以上、憲法に基づいて公布され施行されているその他の全ての法律にも、その法律を尊重し擁護する義務を負うべきであると解釈します。 ということはこの教諭は、公務員としての職務の執行中に、法律が規定していない行政行為を行うべきだと発言したことになり、私が思うにこれは法令遵守義務違反です。 よってこの教諭は、授業中にストライキを煽動するというような、違法行為教唆の廉で責任を追及されるかもしれませんが、それ以外の点で責任を追及されるべきではないと、私は考えます。 (*1)刑法第199条 人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。
(*2)刑法第11条 死刑は、監獄内において、絞首して執行する。 (*3)日本国憲法第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 (7月3日アップ) |
7月1日(日)
週末の度ごとに徹夜でチャットしては、午前中、場合によっては午後まで寝ているのでは、どうも健康上良くないと思いながら、それでも自らを律してネットを控えることができないのを、薄志弱行といいます。昨夜も朝までチャットしていたのですが、その折にシルキーズの次期作「愛しの言霊」が話題になりました。 リメイクと会員限定通販を除くとここ数年の新作は「臭作」「脱衣雀」「鬼作」という体たらくに、私はもうエルフを見限りつつあったのですが、エルフの別ブランドであるシルキーズは、最近の作品「Flutter of Birds」がお知り合いの方々の間で話題になっていることもあって、少しは気にかけていました。 そこでシルキーズのホームページ(注意:このサイトのメインページは18禁です)を見に行ってみると、前の晩に幽霊譚を打鍵したばかりの私に、まあ何という偶然でしょう、女の子の幽霊が出てくるゲームです。 幽霊となってこの世に出て来るには、私がリレーSSで桜子を、古くは「岩倉宮物語」で澄子をそう設定したように、現世に相当強い執着があるはずです。そうでなくて誰の霊でも気楽に出てこられるなら、霊媒師という職業は成立しませんし、だいたい今生きている人間より物故者の方がずっと多いのですから、この世は幽霊で溢れかえってしまいます(真面目にやれぃ!>自分)。 そうやって現世に強い執着を持って出てきた女の子の幽霊を、現世の人間である男主人公が相手にするゲームを作るとしたら、ハッピーエンドはやはり、幽霊が現世への執着を解いて安らかに成仏するという形になるのでしょうね。幽霊が肉体を獲得して生身の人間となって生き返るなどという、単なるご都合主義を通り越した、生命の尊厳に対する最大級の冒涜をやってほしくはありません。 そうすると、ヒロインが生身の人間である普通のギャルゲーとは、ハッピーエンドとバッドエンド、そこへ至るまでの道程は、かなり違ったゲームになるでしょう。ヒロインが成仏して主人公の前から姿を消すことがハッピーエンドだとしたら。逆にバッドエンドは、ヒロインがいつまでも妄執を解けずに彷徨い続けることだとしたら、ヒロインをいつまでも見ていたかったらバッドエンドを目指す、なんていう変なことになるのかもしれません。 どんな作りになるのか、お手並拝見といきましょう。 (7月3日アップ) |
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