2004年1月前半の日記
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1月15日(木)
今日も雪です。晴天続きよりはこんな天気の方が雪国らしいと言えば言えるのですが、自転車で通勤している身にとっては雪は、降っている最中に自転車を漕ぐ分には雨ほど質が悪くない反面(1月だと気温が低いため、いくら雪まみれになっても室内に入る前にうまく払い落とせば、雨と違ってコートはほとんど濡れないので、自転車に乗るのに傘を差す必要がありませんから)、積もったのが溶けずに、歩行者が踏み固めて不規則な凹凸ができた状態で凍結してしまうと、大雪が降ってからしばらくの間、歩道を走るのには大変な困難を伴います。
歩行者が踏み固めて不規則な凹凸ができている歩道を走るのが困難ならば──考えつくのはただ一つ、車道を走ることです。タイヤにチェーンを巻かないと走れないほどの豪雪地帯ではありませんから、自動車がスタッドレスタイヤで走っている車道は、歩道に比べたらずっと滑らかで、自転車は快適に走れます。

毎週木曜日は小泉内閣メールマガジンを読む日です。今週の第124号では、読者を対象にオンラインアンケートを実施していました。メルマガの新しいコンテンツの提案を募っているので、メルマガならではの双方向性を利用して、「マスコミを介さない世論調査」はできないだろうか、と回答してみました。
購読者が公称百数十万人に達するという内閣メルマガは、その購読者というサンプルが、国民という母集団を偏りなく代表しているか、という点に多少の問題はありますが、人数だけならば現在実施されているどの世論調査よりも大きなサンプルとなりうるでしょう。現在でも毎号、読者の感想を5段階評価と自由記入の形で募っていますが、もっと積極的に世論調査の手段としてメルマガを利用することは、費用対効果を考えるまでもなく、なかなか実用的な案だと思います。
ということをすぐに思いついたのは、マスコミが実施する世論調査と称する物は、たとえ集計結果を捏造していないとしても、設問の段階でいくらでも回答を誘導できるから、それによって調査者が予定した通りの“集計結果”を得て、そんな集計結果によって世論を恣に誘導しようとする例が後を絶たない、というようなことを主張する文章をネットで見たことがあるからです。その文章を掲載していたサイトが特定の新聞社を攻撃することを目的にしているのか、文章を書いた人が私と同じようにマスコミ性悪説に取り憑かれているのか、そのあたりは定かではありませんが、同じ時期に同じような設問項目で実施された世論調査の結果が、調査した新聞社によってけっこう違うことがあるのを見たことがあると、主張は必ずしも的外れではないのかもしれないと思います。

サイトに関して何か、日記を更新するよりもっと創造的な、やりたいと意欲を持てるようなことはないかと考えていて、一昨年の晩秋に始めた「こたつのある情景」連作を完結させることを思い立ちました。
フルカラーで背景も描いた本格的なCGではなく、鉛筆描きのラフ画として描いていたこの連作は、基本的にネタ先行で、1枚目のコメントには「(ネタが)浮かんだはしから描いてみたいと思います」と書いたものですが、描き始めた時に浮かんだネタは4つあったのに、3枚描いたところで中断して、4枚目を描かないうちに春になってしまい、4つ目のネタはそのままお蔵入りしていたものです。
実現しないネタを抱えたまま、またこたつの季節が終わってしまうのは精神衛生上あまり良くありませんし、それにラフ画のコーナー(3号館別館3号室)というのは、こたつ連作の3枚目を公開して以来、かれこれ1年以上も新規コンテンツがないコーナーです。もっとも、永らく新規コンテンツがないコーナーという点では、他にも似たようなコーナーがありますが。
こたつ連作を完結させようと思うに至ったのは、ただ単に永らく更新がないのが寂しいというだけではない、もっと積極的な動機があります。
今はちょうど「Kanon」のゲーム本編の季節にあたっていますが、それとの関連で、Kanonキャラによる新しい連作のテーマが浮かんできたからです。それだけでなく「ONE」をプレイしていた頃から、ONEキャラによる連作をしてみたいという気も漠然と起こってきています。どちらもネタの点数がそこそこに多く、3号館本館に収蔵する本格的なCGにしている時間がないので、ラフ画にして別館に公開するつもりです。
だったら、あと1枚というところで中断したままになっているラフ画の連作などは、新しい連作を始める前に完結させておきたい。そう思って、こたつ連作をなるべく早く完結させることにしたのです。
(2月1日アップ)

1月14日(水)
雪国新潟県と言っても、新潟平野の海に近いあたりだと、1月前半くらいまではそれほど雪が積もることはありません。一昨日新潟市へ行った時などは、小春日和と言いたいくらい、晴れて穏やかな天気でしたし、市内には雪は全然積もっていませんでした。
私の住んでいるあたりも、昨日までは晴れる日が多く、雪もほとんど降りませんでしたが、今日は一転して雪が降っています。それでも自転車で出勤できないほど積もってはいなかったので、自転車で出勤しました。
帰宅して夜はパソコンに向かいますが、どうもあまり調子が上がらないので、調子が出なくてもそれなりにできる作業をしました。
(2月1日アップ)

1月13日(火)
今日からは金曜日まで、いつも通りの勤務日が続きます。心は早くも次の週末に飛んでいますが、木曜日までの夜は、仕事に差し支えない程度に、あまり時間を要しない更新を続けることにします。
それで今夜はまず、先月5号館に新しいコーナーを作って公開を始めた「100の質問」の追加として、「テキストサイト管理人に100の質問」「二次創作作家さんへの100の質問」を公開することにしました。
もっともこの2つとも、新たに質問を見つけてきて回答してみたのではなく、実質は「にいさんたちへ100の質問」と同様、2002年の1月に回答を公開したのを、その後回答が変わった部分(「テキストサイト〜」の質問提供元を探し出してみたところ、私が2001年秋に最初に回答した当時とは設問の内容が変わっていた項目もありました)を回答し直す程度の作業なので、サイトの更新としては店晒しになっていたコンテンツの埃を落とす程度、本当の意味での新しいコンテンツの増強とは言えないかもしれません。
まぁそうだとしても、2年ないし2年半前に回答した当時とは、当サイト自体が年齢制限なしのサイトから18禁ありのサイトに変わっていますから、それを運営している私の物の考え方が変わった部分もあると思います。例えば「テキストサイト〜」への最初の回答では2ちゃんねるの実態を知りもしないまま盲目的に嫌悪していた節がありますが、今では私自身が 2ちゃんねらー だとサイトの随所でカミングアウトしていますし。
それにしても2ちゃんねるほど、誰もがその存在を知っていながらその名を口に出すことをタブーとするコミュニティはないのではないでしょうか。最近、ある新聞社のウェブサイトで、無料で利用できる範囲の記事検索を行なってみたことがありますが、過去半年間の全記事の中に「2ちゃんねる」を含む記事は3件しかなかったのを覚えています。昨年のプロ野球オールスターゲームに出場する選手を決めるファン投票に際して、2ちゃんねるが震源地となった形で大規模な組織的投票が行われ、そのシーズンも前年も 一度も一軍で登板していなかった中日ドラゴンズの川崎憲次郎投手が最多得票で選出されるという事件がありましたが(結局は本人が選抜を辞退してそれで終わり)、それにまつわる一連の新聞記事に2ちゃんねるという言葉は決して出ず、「匿名掲示板」というような表現がされていた記憶もあります。
(1月31日アップ)

1月12日(月)
11日は一日中、ウェブ日記の更新で終わりました。せっかくの3連休をこんな過ごし方をしてしまうことに抵抗を感じなくなっていくとすると、もしかするとこれは非常に危険な兆候なのではないかという気がしますが、この日の日記を打鍵している1月25日も、同じように終日ウェブ日記を打鍵し続けていることに抵抗を感じている様子がないことからすると、何かが私の中で変わりつつあるのかもしれません。
パソコン以外の日常生活では、例えば食生活は、近所の八百屋やスーパーでなるべく安い野菜を買い(見切り品の白菜半球30円など)、タラ・豆腐・しらたき・エノキダケなどで鍋を作り(メインとなる肉や魚だって、半額で買うのが当たり前と思っています)、3回か4回に分けて食べるというのが、今頃の季節の定番ですが、そうやって自分で作った温かい料理を食べていると、時々「幸せだな〜」と心の底から感じて、満ち足りた気分になり、身も心も ほんわか としてくることが、このごろ確かに増えてきました。独り暮らしだからって、寂しいなんて感じることはありません。他人に介護してもらう必要のない五体ほぼ満足な身体で、人並みに生活してその上コミケに毎回参加していてもそれなりに貯蓄もできる給料がもらえる職に就いていますし、その仕事も、家事をしながらこうやって趣味を楽しむくらいの余裕のある仕事です。今の独身生活を60歳まであと25年間続けると考えると、さすがにその先がちょっと不安になってきますが、40歳まであと5年間続けることには、何の不安も不満もありません。──こうしてまた一人、結婚願望を自ら捨て去った(「諦めた」と言わないあたりがまだ強がりか)30代の独身男性が増えたようです。

12日は成人の日で、今年も りゅーとぴあで入場無料のオルガンコンサートがあります。私も去年と同じ、オルガンコンサート〜白山神社初詣〜成分献血のコースで行くことにします。冬の日本海側ですが、今日はよく晴れていました。
オルガンコンサートの曲目については詳しくは触れませんが、りゅーとぴあ専属オルガン奏者の他に、今年はトランペット奏者を呼んで、オルガンとトランペットの曲を演奏していました。
コンサートを聴きに来ている新成人を見ながら、今年は昨年よりも女性の振袖(留袖を着た新成人の女性がいたら、もしかするとものすごく目立つかもしれません)に注目していました。そしてコンサートの次に白山神社に行くと、昨年はほとんど注目しなかった巫女装束に目がゆきます。それはきっと、つい先日まで自由時間という自由時間を注ぎ込んで振袖と巫女装束の絵(年賀CG)を描いていたからですが、振袖を描く参考にした本には全く載っていなかった(だから私は描かなかった)、しかし今日見かけた振袖の女性の多くが身に帯びていて、ある意味では成人式の衣裳を構成する不可欠な一部となりつつあるような物が目につきます。あの白い幅広の襟巻です。
あの襟巻は成人式や初詣にはつき物で、たしかに後ろ襟が開いている着物を着て、さらに髪をアップにするとなれば首周りの寒さは想像に難くありませんから、冬に着物を着る際には実用上の必需品でもあると思いますが、職業的に一年中着物を着ている人つまり力士、芸者、仲居といった人たちは冬にあのような襟巻を巻いているというわけではないようですから、成人式と初詣の振袖に限定された、一種独特な装備品になっているような気がします。
白山神社の巫女装束については、縁起物やお神籤の売場に詰めている巫女は白い袍1枚と赤い袴だけ、祈祷の際に舞を奉納する巫女はその上にもう1枚の白い袍を着ているようでした。巫女装束というのは男性にとっては強い憧憬の的なのか、ギャルゲーにはよく登場する物で、画像貼り付け掲示板でも巫女装束のCGはよく見かける物ですが、今回年賀CGを描く参考にしようとしたCGで、赤い着物の上に白い袍、それも袖の肩の所に切れ目が入っていて袖口を赤い紐で絞るようになっている、なかなかに凝った装束を描いたCGを見つけた時、そのCGに対して「現実にはこんな巫女装束はない」というようなコメントがつけられていたような記憶があります。実際、世のヲタクがかった男性が巫女装束に対してどういうフェティシズム憧憬を抱こうが、現実には白山神社のような大きな神社の神職にとって、巫女装束は「アルバイトの作業服」でしかないわけですから、ある程度慣習に合っていて極端にみすぼらしくなければ、安く調達できて手入れに手間がかからない物へと簡略化していくでしょう。
白山神社に隣接する白山公園は、日本で最初に建設された西洋式公園とも言われる由緒ある公園で、敷地内にいくつもの石碑があります。天気もいいしせっかくの機会なので、白山公園を一通り見て回ることにしました。
まず白山公園建設の由来を記した石碑ですが、これを読むと西洋式公園を建設する理由はレクリエーションといっても遊興のためではなく、Re-Creation(再創造)すなわち英気を養い身体を鍛錬し、個人の心身能力を向上し、もって国民全体・国家全体の総合力、言い換えれば国力を増強して欧米列強に伍するのに資するため、とあります。いかにも明治初期、富国強兵が国是だった時代の気概が溢れています。
その他にもいろいろな石碑があって、北越戊辰戦争の際に奥羽越列藩同盟方についた人と薩長方についた人、戦後はそれぞれ新潟の地で医療や教育に貢献して名士と讃えられた人ですが、そういう人たちの記念碑が並んで建っているのを見ると、どこの藩の城下町でもなかった新潟の庶民にとっては、戊辰戦争は百数十年後にも遺恨を残すような戦争ではなかったのではないか、とも思います。
しかし思うのですが、どの石碑にも解説の看板がその前に立っているのですが、たかだか100年ほど前にしかも歴とした日本語で書かれた碑文に、解説の看板が必要になるということ、これは日本語の変化の激しさを物語っていると思いますが、同時に、いかに現代の日本の学校教育が、自国の文化の継承を軽んじているかの証拠ではないでしょうか。100年ほど前に書かれた碑文、漢文はまだしも、旧字体の漢字に変体仮名を交えた程度の文章、江戸時代なら寺子屋を卒業すれば読めたであろう文章を、現代の私たちは大学を卒業しても、大学や市民講座などで特別に勉強しないと読めないのだとすると。
──かく言う私も、漢字の旧字体くらいは読めますが、返り点のない漢文は読める自信がありません。

成分献血を終えて新潟から帰ってくると、3連休はもうほとんど終わってしまっています。連休前に、この3連休に着手したいと思っていたことを改めて列挙して、その内のどれくらいを実行に移せたかを振り返るようなことは、精神衛生に百害あって一利なしなのでやりません。
それよりも、例えばこのくらいのCGを平日の夜3晩で制作できたことから、明日からの平日も、仕事をしながらでもそれなりの創作活動・サイト運営ができることに自信を持って「いつまでに何をしよう」と思う方が、前向きな姿勢と言えるでしょう。
(1月26日アップ)

1月11日(日)
昨夜のチャットでは、私がログインしていた2つのチャットルーム両方で、期せずして「CLANNAD」と「同級生3」が相次いで話題になりました。同級生3は、11日夜のチャットでも話題に出ました。どちらも数年前から発売がアナウンスされていながら、いつ発売になるのかいっこうに見えてこず、ファンをやきもきさせているタイトルと言えましょう。
CLANNADについて私が述べた憶測は、こんな事です。
新興のゲームメーカーがゲームを制作し発売して、それが当たって有名メーカーになっていく経過は、いろいろあると思いますが、斬新ですが荒削りなために恐る恐る出したような第1作が好評を博し、第1作の人気で自信をつけて出した、いろいろな面でブラッシュアップした第2作で名声を確立する、という経過をたどったメーカーは、いくつもあると思います。私が思いつくのは、まず
・「プリンセスメーカー(以下「プリメ」)」「プリンセスメーカー2」のガイナックス、次いで
・「雫」「痕」のLeaf
この2つが典型的なところです。どちらもこれらの作品以前にもゲームを発売していますが、ガイナックスはいざ知らず、雫以前のLeafは、ロゴに引っかけて言えば文字通り、芽が出て双葉が開く前の状態だったのではないでしょうか。
それでCLANNADを制作中のKeyですが、これは「Kanon」が上の言い方で言うところの第1作で「AIR」が第2作となるか(メーカーとしての名を重視した見方)、それとも「ONE」が第1作でKanonが第2作となるか(制作チームとしての実質を重視した見方)、意見が分かれると思いますが、ファンの認識としては後者が多いかと思います。その場合AIRは第3作となります。
そしてelfはもちろん、「同級生」を発売する前に幾多の作品で大手メーカーとしての名声を確立していますが、ここでは作品の系列として、同級生を第1作、同級生2を第2作として話を進めます。
さてこうして第2作で名声を確立したメーカーの第3作は、となると、
……ガイナックスのその後、ご存じの方はいませんか?
というのは言い過ぎですが、キャラクター育成シミュレーションゲームというゲームジャンルを確立したプリメ2のシステムそのままで「プリメ3」を発売してはいないはずです。
Leafの第3作は有名な「ToHeart」ですが、ゲームシステムといい雰囲気といい、雫・痕で確立されたビジュアルノベルとはかなり違っていると思います。シナリオで読ませるゲームだとしても、毎日放課後、移動してヒロインに会う→会話を進める→次の段階へ の繰り返しからなるゲームシステムは。続く「WHITE ALBUM」は、ビジュアルノベルシリーズと銘打っていません。
elfは同級生2で、行動の自由度が非常に高いマルチシナリオの恋愛アドベンチャーゲームというゲームシステムを確立したと言えますが、そのシステムで同級生3を発売することなく、次にはかなりシステムを変更した「下級生」を発売しました。
こうして見てくると、いかに新しいゲームジャンルを確立するほど斬新な、そして名声を博したゲームでも、同じようなゲームを3作続けて発売することは、それを避けるメーカーが多いのではないかと思います。言うまでもなく、ゲームメーカーというクリエイター集団にとって、マンネリ化は衰退の最も確実な兆候ですから。
もちろん全てのメーカーがそうだというわけではなく、古い時代にはelfの「ドラゴンナイト1〜3(4は明らかに違うシステムのゲームです)」、アリスソフトの「ランス」シリーズのように、3作も4作も連作で出たゲームもありますが、その頃はゲーム業界の時間の流れが今よりも緩やかだったのではないかと思います。
ここからはいよいよ憶測ですが、Keyを問題にします。
制作チームとしての実質を重視して、ONEを第1作、Kanonを第2作、AIRを第3作と見なすと、どうでしょう。Kanonであのメーカーのあのテイストのゲーム世界が確立したとすると、AIRは「夏Kanon」という揶揄を聞いたことがあるくらいで、Kanonを全ての面で凌駕するには遠く及ばず、ONE〜Kanonときた上昇カーブの延長上にあるどころか、誤解を恐れずに言えばむしろマンネリ化に陥り始めたことが見え始めてしまったのではないでしょうか。
あるいは見方を変えて、メーカーとしての名を取ってKanonを第1作、AIRを第2作と見なした場合、AIRが上で書いた「名声を確立した作品」としての第2作に相当すると言えるかどうか。売れ行きも世上の評判も、プリメに対するプリメ2、雫に対する痕、同級生に対する同級生2に相当するほどの成功は収められなかった、とメーカーが判断せざるを得なかったのではないでしょうか。
そういった具合で、このままCLANNADの制作を続けて発売したら、Keyのマンネリ化は覆う術もなくなると判断されて、根本的な作り直しに踏み切ったか、踏み切ろうとしているか、というのがCLANNADの現況ではないか、と深夜のチャットルームで話したのでした。

「同じようなゲームを3作続けて発売すること」が、多くのメーカーが避けている事だとすると、同級生3はどうなるでしょうか。
同級生3について、今やelfゲームのファンが拠り所とする数少ない(もしかすると唯一の)情報は、1999年12月発行の「電撃姫Special」に載った特集記事です。今を去る4星霜の昔、この記事が出た後にelfが発売した新作ゲームは「エルフオールスターズ脱衣雀」「鬼作」「あしたの雪之丞」「エルフオールスターズ脱衣雀2」「百鬼」「勝 あしたの雪之丞2」「らいむいろ戦奇譚」「河原崎家の一族2」「らいむいろ雀奇譚」「新・御神楽少女探偵団」(発売順)の多数に上ります。思えば私が初めてelfのゲームを知ってから、何とも長い歳月が流れたものです……と懐旧に耽っている場合ではなくて。
その記事が出た時点で、原画はかなりのところまで仕上がっているとされ、何枚かの原画をもとに編集者が「同級生3はこんなゲームになる」という推測を書いているのですが、それは例えば、異なる制服が描かれていることから「複数の学校の女の子と出会うことができる」、制服に長袖と半袖があることから「プレイ期間は従来(2ないし3週間)に比べて長くなっている」という具合です。
ですが、ちょっと待ってください。もしこの2つが同級生3の、同級生・同級生2に対するセールスポイントだとしたら、どちらも同級生2の直後に発売された「下級生」で実現してしまっています。主人公たちの通う卯月学園と違う学校(葉月学園)に通う持田真歩子。4月から翌年3月まで11ヶ月のプレイ期間。同級生3の新味は、いずこにあるのでしょう?
チャットルームで私が言ったのは、「もし同級生2のシステムで同級生3を作ったら、なんのことはない、『竹井正樹氏がキャラ原画を描いた下級生2』になってしまう」でした。
2003年発売という情報が出た「下級生2」も、elfのホームページに公式な情報が出ることも雑誌に続報が載ることもなく、発売が待たれたまま2004年を迎えてしまいましたが、それは今は措いておきます。
そもそも下級生のゲームシステムは、いろいろな点で同級生・同級生2とは違うので、今になって考え直してみると上の発言がおかしいのは明らかですが、同級生3が「セールスポイントにするはずだった点を下級生に先取りされたゲーム」で終わるまいとしたら、何か下級生にない新味を出さなければならないと思いますが、ではどうすればいいか、という問いにelf自身が答えを出せないままになってしまったのではないか。そもそも下級生を同級生・同級生2と違うシステムで制作した時点で、同級生・同級生2と同じシステムで同級生3を作る道を、elf自身が閉ざしていたのではないか、と思います。
(1月25日アップ)

1月10日(土)
今日からは3連休です。成人の日が1月15日から1月第2月曜日に変更されて以来、いわゆる小正月に行うことになっていた年中行事が平日に行わざるを得なくなり、子供や若い衆の動員に苦労するようになった行事があると聞いていますが、伝統行事の保存に携わっていない30代独身の者にとっては、祝日が週の真ん中にあるとか、年によっては土曜日と重なって週末に吸収されてしまうよりは、毎年必ず3連休がある方がありがたいものです。
それで3連休前夜にあたる昨夜から、この連休にやりたい事を列挙して順位付けをしていました。この連休に開始したい、新しい創造的な作業はいくつもあるのですが、それよりは年末年始このかた年賀CGの制作に専念しすぎたせいで滞っている作業を片づけていく方に高い順位を与えることにします。
最初に取りかかったのは、量的には大したことはありませんが昨年暮れにカーブドッチワイナリーや冬コミで撮った写真の整理。この作業を真っ先に持ってきたのは、Norton Antivirusのスケジュール設定の関係で、毎週金曜日の午後8時から10時くらいまでハードディスクの完全スキャンをやっている間、パソコンの動作が非常に重くなるので、パソコンを使った作業がやりにくい(中でもPhotoshopで大きなCGを制作するのはやりたくないです)からでもあります。
アルバムの整理が終わるまでにはパソコンのウイルススキャンも終わっているので、次は冬コミで買った物の整理(Excelファイルへの記載)をやります。

冬コミで買った物をExcelファイルに記載しているうちに、また私の持病の発作が起こって、ここに書くにも値しないような煩瑣な作業を思い立ってしまい、10日の昼間はほとんどそれに費やしてしまいました。全くもって損な性分ですが、今日終わらせておけば、今後もっと他の作業を優先したくなった時(例えばサイト開設4周年記念CGを制作したくなった時)に、今日思い立ったのと同じ作業を思い立ってしまい、この3連休よりももっと貴重な休日を浪費してしまう、という可能性の芽を摘んでおけるわけだから、今やっておくに越したことはない、と自分を納得させることにします。
で、他人から見れば愚にもつかないようなその作業は、夕方には終わったので、次の作業に取りかかります。といっても、これも新しい創造的な作業ではなく、どちらかといえば滞貨の処分に似た作業ですが、クリスマスCG年賀CGのコメントの補足です。
(1月25日アップ)

1月9日(金)
時間的には昨日の事になりますが、年明け最初の小泉内閣メールマガジン第123号が配信されました。いつものように前回のメルマガへの読者の感想から読みます。
昨年最後の第122号(12月25日配信)は、航空自衛隊のイラク派遣部隊編成完結式の直後に配信された号で、音楽評論家湯川れい子氏の特別寄稿が掲載された号でしたが、ジョン・レノンの『イマジン』を引き合いに出して反戦を謳った特別寄稿には、案の定、賛否両論でした。
アメリカがフセイン政権を打倒する目的でイラクに対して武力行使に踏み切った時に、イラクの民衆に危害が及ぶ恐れがあるからといってそれに反対するのは、反米小児病とは決めつけられないと思います。しかしフセイン政権が打倒され、アメリカ軍としての組織的な武力行使が終了し、フセイン元大統領が身柄を拘束されて、これからはイラクの国民生活の復興に協力することで国際社会の足並みが揃った(イラク復興に関してアメリカが提出した国連決議1511は、国連安全保障理事会でフランス・ロシアを含む全会一致で採択されました)今になってなお、「戦争反対」と叫びながら、“自衛隊が”イラクに派遣されることに頑冥に反対し続ける姿勢には、少し前にこの日記に掲げた箇条書きを再掲せずにはいられません。
平和主義小児病……如何なる理由があろうとも軍事行動に協力してはいけない
自衛隊出国禁止令……自衛隊は国内にいればいい、海外へ行くのは別組織を作れ
アメリカアレルギー症候群……イラク復興はアメリカ主導だから日本は協力してはいけない
心因性聴覚障害…首相は戦争をしに行くのではないと言っているが自分にはそうは聞き取れない
生命の重さ不均衡現象……日本人1人の命はアメリカ人100人の命よりも重い

話がずれるのですが、2001年9月11日の同時多発テロの後しばらくアメリカ中のテレビ・ラジオでの放送が自粛されたという、曰く付きの反戦歌であるらしい「イマジン」のことを私が知ったのは、いつのことだったか、同時多発テロの後だったと思いますが、今となっては詳しくは思い出せません。ただ、歌詞をネット検索してみた時の第一印象が、
「生命を賭して守るに値すると言える物がない人生って、すごく虚しい人生じゃないかなぁ」
だったのを覚えています。メルマガを見た後で改めて歌詞をネット検索してみたところ、第一印象とはだいぶ違う歌詞だったのですが(3番の冒頭 "Imagine no possesions" 訳例「想像してみよう、財産などないと」を見て「これは共産主義礼賛の歌だ!」と叫ぶほどの共産主義アレルギーではないつもりですが、私は)、1番の冒頭と2番の末尾をつないで、こんな替え歌を思いついたのは、皮肉の度が過ぎるでしょうか。
警告:この下の部分を読んだ方が感じた如何なる精神的苦痛に対しても、
私は一切の責任を負わず、抗議・苦情・罵倒等は一切受け付けません。
その事にご同意いただける方のみ、ご自分の責任においてお読み下さい。
Imagine there's no people 〜 imagine rest in peace...
想像してみよう、人間などいないと 〜 想像してみよう、平和な永眠を...
ま、人間さえいなけりゃ、天国も地獄も国家も宗教も財産もなく、戦争だって起こりませんわなぁ。
(1月25日アップ)

1月8日(木)
昨日深夜に年賀CGをサーバにアップしたので、今日のサイト更新はそれの公開をしたいところですが、帰宅してメールチェックをすると豚雲海さんから年賀メールが届いていたので、豚雲海さんの年賀CGを先に公開させていただくことにします。
豚雲海さんは先の「麗子祭り」の折にはCG6点と4コマ漫画1本を寄贈された、大変に多作な方です。年賀CGも都合6点のURLを頂いたので、どのキャラにしようか、端正なCGとデフォルメCGのどっちにしようかと迷ってしまうところですが、結局はこの「着物真歩子」を選びました。
それから自分の年賀CGの公開に取りかかりましたが、例によっていつもの通りの仕儀で、特に今回は水野友美の相方として松原葵と雛山理緒を描いた経緯(保科智子ファンクラブの一員でありながら)をコメントで解説しなければいけないと思うと、コメントをいくら打鍵しても今夜中に公開できそうにありません。やむなくコメントは途中までにして、夜半前にサイトを更新しました。
(1月25日アップ)

1月7日(水)
1月7日は七草粥の日とされています。5日の仕事帰りに近所のスーパーへ食材を買いに行った時、凍結乾燥した春の七草セットという物を売っていたので、1食分198円という値段は私の感覚からするといかにも高いのですが(私がそこのスーパーで野菜を買うのは、見切り品のキャベツ1/4球が10円という時ぐらいですから)、こういうのは縁起物ですから、少しくらい高くても買ってみることにしました。そして今日の夕飯は、自炊するようになってから冬場はよく雑炊を作るのに使っている100円の土鍋で、七草粥を作って食べましたが、七草粥は1月7日の朝に食べるのが古来の習慣だったようです。
1月7日はまた、広辞苑の「松の内」の項目に「現在は普通七日までをいう」と書いてあるように、松の内が終わる日、言い換えれば正月が終わる日でもあります。その一方で二十四節気で言うところの「小寒」は1月6日から始まっていますから、もし今日のうちに年賀CGが完成しなかったら、年賀から寒中見舞に名目を変えた方がいいか、と本気で考え始めました。暑中見舞が暑中に完成しなくて残暑見舞に名目を変えたことがある身ですから、季節物の名目を変えるのはそれほど躊躇することでもないとも思って。
それは最後の逃げ口上に残しておくことにして、今夜が最後の踏ん張り所と年賀CGの制作に集中し、ようやく完成しました。すぐにCGをサーバにアップし、URLを書いた年賀メールを送信したのは午後12時の4分前でした。

もしどうしてもCGの名目を年賀から寒中見舞に変更したくなかったとしたら、最後の手段は「旧暦」になるでしょうか。手元にあるカレンダーには旧暦の日付が載ってないので、年が明けてからチャットルームで旧暦を口に出したら、他の人がわざわざ調べてくれたのですが、今年の旧暦1月1日は、新暦の1月22日になるようです。
昨年の年末、クリスマスCGを少し遅れて公開した後で、ある人とチャットしていた時、「年賀と違ってクリスマスは『旧暦』という逃げが通用しないから(公開が遅れると肩身が狭い)」と言ったのですが、実はクリスマスにも旧暦という逃げ道がないわけではないかもしれない、と思いつきました。
もちろん、江戸時代の和暦でクリスマスを祝うわけではありません。
年末に新潟市へ行った時、市内にあるロシア総領事館の前を通ったことがありますが、「休館日は土日の他1月1〜3日と7日」という掲示が出ているのを見ました。三が日は日本の官公庁に合わせているのかもしれませんが、7日は日本では平日です。とすればロシア本国の祝祭日に合わせて休館しているというのは当然考えられることですから、1月7日は何かロシア独自の記念日、例えばロシア革命にまつわる記念日なのだろうか(レーニンの誕生日だったりしたらちょっとイヤだなと思わないでもなく)と思ったのですが、ロシアでは20世紀に入ってもユリウス暦(現行の西暦((グレゴリオ暦))が1582年に施行される前の暦)を使っていたのですから、ユリウス暦とグレゴリオ暦のずれは何日だったかと思い出してみると、グレゴリオ暦の1月7日はユリウス暦の12月25日にあたることに気付きました。その後でネット検索してみて、ロシア正教会はクリスマスなどの祝祭日を全てユリウス暦で行なっているという記述を見つけて、やっぱりそうだなと納得した次第です。
(1月25日アップ)

1月6日(火)
年が明けてからも年賀CGの制作にかかりきりですが、昨夜kuntaさんから年賀CGを頂いたので、今夜はそれの公開を先に済ませることにします。
それから年賀CGの制作を再開しましたが、一日も早く完成させなければと焦っているはずなのに、この期に及んで「(葵は箒、理緒は段ボール箱を持っているのに対して)友美の両手が空いているから、ハンドバッグでも持たせてみたい」などと思い立ってしまう始末です。振袖の参考資料に使った写真集に、幸か不幸か、振袖に合わせるようなハンドバッグのカタログも載っていたものですから。
(1月6日アップ 1月25日補足)

1月5日(月)
年末年始の休みが終わって、今日からは通常通りの勤務ですが、昨夜はそんなに夜更かししたわけではないのに、朝から睡くて仕方がありません。年末年始の休みの間の平均睡眠時間を日記帳の記述から割り出してみると、どう考えてもふだんの勤務日(午後12時過ぎには布団に入り、午前8時に起床する)よりも短いのですが、そういった不摂生の悪影響が、日が経ってから現れてくる齢になったのでしょうか。
インターネット外の紙の年賀状は、年が明けてから4日までの間に出し終わりましたが、ネットの年賀メールは、1月1日に出せず、正月三が日の間に出せず、普通の職場の正月休みの間にも出せず……という状態になっています。余計なことは言わないで、CGの制作より優先順位の低いことは極力せず、この日も寝るまでの時間のほとんどはCGの制作に充てました。
(1月24日アップ)

1月4日(日)
今日は朝9時半から、この前私がクリスマスイブのミサに行った教会で主の公現の祭日(公現祭)のミサと、それに続いて新年祝賀会があります。以前に制作した「三乙女の礼拝」のコメントで、この祭日を顕現祭と書いて(宗派によってはEpiphanyを顕現祭と訳するのを参考にしたようです)、ずいぶんしかつめらしい事を書きましたが、実際にカトリックでは公現祭をどのように位置づけてどういう説教が行われるのか聞いてみようと思ったのと、帰省中にはしなかった初詣、そして新年祝賀会で無銭飲食することを当て込んで、年賀CGの制作を後回しにしてまでミサに参列することにした次第です。公現祭は本来は1月6日なのですが、今は新年最初の日曜日に行うことになっているようです。
説教の内容は、なるほどなーと思ったものでした。占星術の学者たちが、メシアとして生まれたイエスを拝むために東の方からエルサレムに来た時、王が祭司長や律法学者に、メシアが生まれることになっている具体的な場所を尋ねると、彼らは「ベツレヘムに生まれると預言されている」と答えたのですが、そう答えた彼らは幼子イエスを拝みに行かなかった。これは取りも直さず「知識として知っているということと信仰とは別だ」ということだと。今の私がまさにその状態にあることに思い至って、心の痛さにのたうち回ったかどうかは、ご想像にお任せしますが、「三乙女の礼拝」を描いた頃には福音書のそのあたり(全文はここを何度も読んでいたはずなのに、今日の説教で説かれたようなことに全く気付かなかったのには、聖書も漫然と読んでいては文字の羅列でしかないことを思い知らされました。
己の不明を悟らされたミサの後、祝賀会で飲み過ぎて、帰ってからしばらく寝てしまいました。夕方に起きて年賀CGの制作を再開し、やっと葵を仕上げましたが、明日は仕事始めだというのに肝腎の友美はこれからが作業本番、どれくらいの長丁場になるかは想像もつかないという状態です。
(1月24日アップ)

1月3日(土)
起きたのは昼前でした。夜更かししすぎたので睡眠時間は充分とは言えませんが、今日はとにかく、年賀CGの制作を最優先で進めることにします。
午後3時頃に背景の原画を描き上げ(いつも通りの手抜きな背景ですが)、人物3人の原画をスキャンしてパソコン上の作業に移ります。友美の振袖の模様は、昨年からチャットルームで高言していた通り、原画集の丸写しではないのを参考資料を見ながら描くことにしましたが、参考資料を見ているだけで気力が尽きかねないので、もっと簡単に描けそうな部分、つまり昨年のうちに原画は仕上がっていた葵と理緒の巫女装束あたりから作業を始めることにし、午後7時には理緒をいちおう完成としました。
しかしCGの制作という一つの作業だけをずっと続けていると次第にテンションが下がってくるので、夜が更けてから新年最初のチャットをしようと思って、行きつけのチャットルームの一つに顔を出してみました。
あまり長居しないうちにチャットは散会になったので、CGの制作を再開し、朝から出かける用事がある明日そして仕事始めになる明後日に差し支えない程度に続けます。
(1月24日アップ)

1月2日(金)
帰省先から帰ってきたのは2日の早朝でした。例年通りに乗り慣れた夜行高速バスで帰ってきたにもかかわらず、バスに乗る際の騒ぎのせいで興奮状態になってしまったのか、バスの車内ではほとんど寝られず、そのために帰宅してから午後まで寝てしまいました。
そんな状態だったので、自分の年賀CGの制作を本格的に再開することはできず、2日の朝までに頂いた年賀CG・写真の公開準備作業をしているうちに夜になってしまいました。今夜は最低限の作業として、頂いた年賀CGと写真の公開だけはします。
そして年賀CGの制作はひとまず置いておいて、お知り合いの人たちのサイトの掲示板に、年賀の挨拶書き込みをします。自分のサイトの掲示板に、この時点で年賀の書き込みがなかったことは、べつに、気にしてなんかいませんよ、ええ、これっぽっちも。
しかしそれをしていて気付いたことは、私のサイトと相互リンクさせてもらっているサイトでありながら、私が最後に書き込みしたのが昨年の年賀の挨拶書き込みだったサイトがいくつもあった、ということです。いかに私が日頃、お知り合いの人のサイトの巡回を等閑にしているかの証左と言われても、返す言葉がありません。
そういうサイトの管理者の方たちとは、みんながみんな1年間全く御無沙汰だったわけではなくて、時折チャットルームでお話ししている人もいるのですが、いつだか「チャットで日常的に話していると、改めて掲示板に書き込みすることが減る傾向があるかもしれない」と言ったことがあるのを思い出しました。
挨拶回りが終わってからは年賀CGの制作を再開し、朝まで作業を続けました。
(1月2日アップ 1月24日補足)

2004年1月1日(木)
新年明けましておめでとうございます。
……に続く本文をきちんと打鍵できるのが何日後になるか、今年ばかりは本当に予測ができません。
そうなる最大の理由はもちろん、昨年までは年賀CGを年内に制作してサーバにアップしておき、1月1日午前0時を過ぎるとすぐに年賀メールを出していたのに対して、今年は年内に年賀CGの制作が終わらず、そのまま冬コミ→帰省せざるを得なかったからです。
我が家の年中行事の一つとして、元日には一家揃って写真を撮る習慣を、今住んでいる場所に家を建てて両親と父方の祖父母が同居を始めてから30年以上続けてきました。最も多い時で7人(祖父母、両親、兄、妹、私)だったのが次第に減って今は4人(両親、兄、私)になりましたが、兄は今年結婚することになったので、来年以降の可能性は2つです。義姉が加わって5人になり、その後は甥姪が加わって次第に増えていく可能性と、逆に兄夫婦が抜けて3人になり、その後も3人のままが当分続く可能性です。
私が結婚する可能性? ……すみません、聞こえませんでした。私、生まれつき難聴なもので。

実家へ来る時、下道を11時間かけて走ってきた兄は、帰りも下道を丸一日走っていくといって、一家集合写真を撮ると早々に帰っていきました。
私は午後から自分の荷物の荷造りをしますが、冬コミ関係の物は万一の事故で失われると取り返しがつかないので、あの異様に重いカタログ以外はリュックサックに詰め込んで自分で持ち帰ることにします。宅配便で送ることにしたのは、冬コミのカタログの他は、母が顔なじみになっていた洋品店が閉店することになったので母が見繕って買ってあった冬物衣料、妹が私にといって編んで実家に送ってあったセーター、私の手に余るほどの穴が開いたために実家に送って修繕を頼んであったズボンといったところです。
そして、池袋から夜行高速バスに乗るのにちょうどいいくらいの時間まで実家にいて、実家を後にして池袋へ向かいましたが……
……休日ダイヤのために速い電車がなかったのか、バスの発車時刻を思い違いしていたのか、池袋まであと少しというあたりまで来た時に、バスの発車時刻に間に合いそうにないことに気付きました。
池袋に着いてみると、新潟行きの夜行バスの、私が乗るはずだった1号車は発車した後でした。
バスターミナルの職員に泣きつくと、2号車の客と2人連れで予約したのに空席の関係で3号車に回されたという客が1人、今夜になって2号車に空席ができたために2号車に移ったらしく、それで3号車に空席が1つできたというようなことで、どうにか3号車に乗ることができました。なんだか今年は、年明け早々波乱含みです。
(1月2日アップ 1月24日補足)

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