2001年12月前半の日記 |
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12月15日(土)
日記の更新がなかなか追いつかない──というのも、「加奈」をプレイするたびにいろいろと考え込まされることが多いからなのですが──のに、時間は容赦なく過ぎていきます。そうしているうちに藤咲はじのさんから、一足早いクリスマスCGが贈られてきました。そこで今夜は日記の更新は後回しにして、頂き物のCGを公開します。 私のほうも、クリスマスと正月用のCGの制作は、「もう一刻の猶予もない」状態になりつつあります。 |
今夜は、このところ毎月オルガンコンサートを聴きに行っている新潟市の市民芸術文化会館へ、クリスマス・オルガンコンサートを聴きに行きます。今回はオルガンだけではなくて、プロの混声合唱団も出演して、オルガンとアカペラ合唱からなるプログラムが組まれています。
少なくとも日本では、クリスマスは年中行事の中でも最も商業主義に毒された行事と化しているような気がしてなりませんが、キリスト教の伝統を色濃く残すヨーロッパでは、クリスマスイブははなはだ厳粛に、慎ましやかに救世主の降誕を祝う日とされているそうです。学校も会社も商店も午前で終わり、午後は教会でミサに参列し、それから皆それぞれの家庭で晩餐をとる、というように。それで今日のプログラムは、中世以来パリの教会で歌われているというミサ曲と、その合間にバロック時代のオルガン曲の演奏から始まり、グレゴリオ聖歌の旋律に基づくオルガン曲、中世から歌い継がれているクリスマスの歌、ラテン語の讃美歌などが演奏されました。 クリスマスの歌と言われて「赤鼻のトナカイ」が真っ先に出てくるようだとちょっとがっかりします。クリスチャンでない日本人でも、せめて「きよしこの夜」くらいは思い浮かべてほしいものですが、これも作曲されたのは19世紀です。もっと古いクリスマスの歌には、16世紀に宗教改革の口火を切ったルターが当時の民謡に歌詞をつけて「コラール(ドイツ語による讃美歌)」にした曲もたくさんあって、「高き空より我は来れり」「いと高きところには栄光、神にあれ」といったコラールは、バッハがそれに基づいてオルガン曲やカンタータを作曲している有名な旋律で、ヨーロッパの人なら歌詞がなくても旋律を聴けば「ああ、この曲」と思い当たる旋律だそうです。 グレゴリオ聖歌から20世紀の合唱曲まで、アンコールでは「きよしこの夜」の旋律に基づくオルガンの即興演奏もあって、ヨーロッパのクリスマスの雰囲気を味わって帰ってきましたが、今私が住んでいる近くには、カトリックの教会があるのかどうかよくわかりません。もし近くにあるのなら24日は仕事が休みなので、昨年のようにクリスマスイブのミサに、信者でもないくせに潜り込んでみようかと思ってもみたのですが、あまり興味本位なことはしないほうがいいという天の声のようです。 (12月17日アップ) |
12日はサイトを更新してから、また「加奈」のプレイです。シナリオが長くて、攻略本によるとどのシナリオにも選択肢が30ヶ所近くもあるようなので、エンディングの分岐条件を調査するというようなことはやらないことにして、攻略本に載っているチャートの通りにプレイを進めていきます。13日も日記そっちのけでプレイを続行し、エンディングNo.4とNo.5に到達しました。感想はここです。
(別ページの感想は12月17日アップ、2002年1月19日改訂)
ネタバレ防止ページへのリンクばかりが並んでいる日記では、未プレイの方は面白くないでしょうから、ゲームのネタバレ以外のことも書きます。最近は歌詞つきの主題歌のあるゲームが多くて、「加奈」にもオープニング「白い季節」挿入歌「Believe〜つぶらな瞳〜」そしてエンディング「あなたへ」と3曲あります。再インストールした時に久しぶりにオープニングを聴いて、かなりズシンと来たもので、先日秋葉原でサウンドトラックを買ったのですが、初めてエンディングを見てからというもの、ゲームを立ち上げない日はあってもサントラCDをかけない日はないほど繰り返し聴いているので、通勤中にもふっと気がつくと「白い季節」のサビが頭の中で流れたりしています。 そして制作元であるD.O.のホームページ(注意:このサイトのメインページは18禁です)では、その3曲の楽譜をダウンロードできるようになっていることに、差分ファイルを探しに行って気づいていました。となるとさっそく、楽譜をダウンロードしてきましたが、なぜか楽譜に歌詞が書いてないので、CDを注意深く聴いて、ライナーノートに載っている歌詞と音符の対応関係を把握し、Photoshopで歌詞を楽譜に書き込んでいきます。 たとえ趣味でも何か楽器をたしなんでいる方なら、楽譜を見れば初見で音楽を頭の中に思い描くことができると思いますが、私にはそれは無理です。それでも楽譜を見ながら何度も聴いた音楽は、そこそこ細かいところまで覚えていて、自分では絶対演奏できない交響曲でも、後で楽譜だけ見ていても頭の中に音楽を流すことができます。それはつまり、楽譜として目から入る情報と音として耳から入る情報が、頭の中で音楽として組み合わされ、どちらかというと視覚情報のほうが主に記憶されているからではないかと思います。 こうやって主題歌を楽譜つきで、アカペラで歌えるくらいまで覚えておけば、もしかしたらオフ会の折にでも誰かに聴かせる機会があるかもしれません──旋律を隅々まで覚えることと、聴くに堪える声で歌うこととは全く別物ですが(自嘲笑)。 さて話は変わって、ネット上での私の古いお知り合いの一人であるkuntaさんのサイト「kunta's room」が、そろそろ開設1周年を迎える頃では、と思って巡回してみると、12月12日が開設1周年でした。しかも、最近チャットルームでお知り合いになった藤咲はじのさんから、相互リンクのお礼も兼ねた記念CGが寄贈・公開されています。 私としてもkuntaさんのお気に入りのキャラを前に伺ってから、CGの題材が浮かんできたところでもあるので、今度の週末は寄贈作品を制作するつもりです。 そうは言っても、お知り合いの方々に広く作品をお贈りすることになるクリスマスまであと10日あまり、さらに新年までの時間も残すところ20日を切りましたから、そっちの制作にも取りかかることを考えないといけないのですが(今年も冬コミに行く予定ですし)。 (12月15日アップ) |
12月10日(月)〜12日(水)
12月になると、新潟県は急に寒くなってきて、すっかり冬です。朝晩だけでなく、昼間も雨が降って気温が上がらない日が増えます。11日の朝には、雪が積もっていました。週末のチャットで、北国にお住まいの方と話すと、決まって話題になるのは自動車のタイヤです。私の職場も、大半の人は自家用車で通勤しているので、今頃になると冬用タイヤの買い換えが話題になりますが、私は就職以来徒歩または自転車で通勤しているので、タイヤの買い換えとは無縁。いつも「持たざる者は気楽だ」とうそぶいています。 9日の項の続きになりますが、北条時宗が「死にたくない」と言ったことから思い出したことです。 「加奈」の終盤、いよいよ危険な状況に至った加奈に隆道が「どんな願いでもかなえてくれる神様がいたとして……加奈なら何を願う?」と尋ねた時、加奈はこう答えます。
ずっと前に、「88らいぶらりぃ」に公開されている作
戦名・不可能さんのSS「NO PAIN NO GAIN」を読んだ時、深く深く考え込まされたことなのですが、病気の治癒のために最も大切なことは、患者が「死にたくない」「生きたい」という心、言い換えれば「生への執着」を持ち続けることだというのです。そして生への執着を維持させるためには、「死への恐怖」を煽ることも時と場合によっては正解であり、医師の技術だけではどうしようもない面もあるところの、患者の意志を、生きることへ向け続けさせることが看護婦の仕事であると。「……生きたい」「生きたいよ……もっと」
と。話題が飛躍するのは承知ですが、宗教の本質について考えてみます。 ある程度体系的な教義を持っている宗教はたいていどれも、「来世」という概念を持っていると思いますが、それは結局、その宗教に心の拠り所を求める人々に、死への不安に対する回答を与え、死への恐怖を解くことにあると思うのです。 命ある人間にとって、死への恐怖はまさに本能に根ざすものですが、それは本能であると同時に「死んだらどうなるのかわからない」という不安があることにその大きな理由があると思います。わからないからといって「それじゃあ一つ、試しに死んでみよう」ってわけにはいきませんからね、こればかりは。 そういう不安と、不安から発する恐怖を抱いている人々に、「死んだ人は天国に行って、安らかに暮らしているんですよ」と説く、乱暴な言い方をしてしまうと、宗教はこれに尽きると思います。もっとも、さらに体系的な教義を持っている宗教は、例えば仏教やキリスト教がそうですが、誰でも天国に行けるわけではなくて「生前の行いが悪いと地獄へ堕ちるぞ」と付け加えることを忘れてはいませんが。 「NO PAIN NO GAIN」の中で、ある医師が自問するのですが、世の中の宗教家たちが言うように「死んだら天国に行ける」のだとしたら、医師の仕事はいったい何なんだろう、ということになるでしょう。生と死の岐路にある患者に対して、現世につなぎ止めるために死への恐怖を煽ることも辞さないのが医療行為だとすれば、死への恐怖を和らげることを目的とする宗教とは、正反対の立場をとることになりますから。 そう考えると、医療と宗教は対立することになります。低レベルな物言いになりますが「医者が神頼みするようになったらおしまいだ」とも言いますし。 しかし今のところ、医学は万能ではなくて、どうしても治療しきれない病気というのはあります。患者がその状態になったことが明らかになった時、末期治療というのですか、たいていの医師は「患者の肉体的苦痛を極力軽減する」ことを目的にした医療を始めると思います。そこで勇み足をすると「安楽死」になってしまうのですが、肉体的苦痛を軽減することを目的とするのは、宗教が言ってみれば精神的苦痛を軽減することを目的とするのと、目指すところはそれほど違わないのではないかと思います。 さて「加奈」というゲームは発売後、かの「Kanon」と泣きゲーの覇を競ったと聞いているくらいで、きっとファンサイトがあちこちにあるだろうと思ってインターネット検索をかけてみると、やはりあちこちにサイトがありました。中にはゲームのBGMを奏でる機械式オルゴールを本当に作ってしまったというグループもあるくらいです。 そんなサイトを渡り歩いているうちに、どこかのサイトで見つけた文章なのですが、「隆道は加奈の葬式に参列していなかったのではないか」という推測が書いてありました。あるいは「葬式を土葬で行っているのではないか」とも。というのは、あるエンディング(私も未見)の文章が、ちょっと不自然だというようなことから。 今の日本では衛生上の理由からも火葬が一般的に行われていますが、その場合残された人が故人の死を本当に実感するのは、臨終の時よりもむしろ骨揚げの時なのだとか。私自身の経験からしても──と言っても私は、人の臨終に立ち会ったことはないのですが──たしかに故人(私の場合は祖父母)の遺体を見た時には、まだ本当にその人の死を実感できなくて、ただ両親や叔父叔母が集まってくるのを見て「子や孫たちが集まってくるから葬式なんだな」なんぞという印象があったのに、火葬が済んであの真っ白い遺骨を目の当たりにすると──荼毘に付した後の人の骨って、あんなに真っ白いものだとは、初めてそれを見るまでは思いもよりませんでした──もう本当に、その人はこの世にいない、決して帰ってこないのだ、という認識が急に身に迫ってきたものでした。 ──という文章を打鍵しているだけで胸がこみ上げてくるのは、人としてまっとうな感情を持っている証拠だと思いたいです。 (12月12日アップ、14日改訂) |
12月9日(日)
昨日は朝から夕方までゲームをして、夜が更けてからチャットルームに行き、チャットの後でさらに巡回して、初夏なら日が昇っているような時間帯に寝る。起きてみると外はまだすでに暗く、時計の指す時刻は6時。もちろん午前6時なんかではなくて午後6時。今さらですが、独り暮らしをするには「自らを律する」能力が不可欠であることを思い知らされます。 とりあえず今日は、大河ドラマの最終回を視るのを中心にして、その前後にウェブ日記──特に昨日プレイした「加奈」の感想を、印象が薄れないうちに──を更新することにします。 今年の大河ドラマは今夜が最終回ですが、臨終が迫った時宗が、時輔や息子達に「本当は死への不安でいっぱいだ」「死にたくない、もっといろいろな所へ行き、いろいろな人に会い、いろいろなことをしたかった」というようなことを言うのは、享年34歳、志半ばにしての若すぎる死であったとはいえ、大河ドラマの主人公としては私が知る限り初めて聞いた台詞のような気がします。それがちょうど、昨日プレイしていた「加奈」の一場面と重なって、はっとしました。 |
内容はどうであれリレーSSの担当を終えたので、「WHITE ALBUM」最後の一人に向かいます。
攻略本の通りにプレイしていてもどうもうまくいかない(発生条件の限られている必須イベントが発生しない)ので、インターネット検索を使って攻略サイトを探し当て、そこから得た情報も参考にして進めていき、どうにかエンディングに到達しました。感想はここです。 (12月6日アップ) |
12月3日(月)〜4日(火)
「WHITE ALBUM」のプレイもあと一人を残すだけとなりましたが、いくらいいプロットが浮かばないからといって、リレーSSをほったらかしにしてゲームに逃避しているのでは、無責任のそしりを免れませんから、まずはとにかくリレーSSの構想を練ることにします。ですが、前にリレーSSを投稿してから4ヶ月もの間「下級生」の世界から遠ざかっている間に勘が鈍ったのか、あるいはこのところの精神的変調のせいかはわからないのですが、いくら考えても、良さそうなプロットが全く浮かんできません。 それどころか、構想を練る参考にしようと思って、ストーリー的に終盤にさしかかって来るであろう第80話あたりから後の文章を(本来なら私が担当すべきだった第95話の次あたりを中心に)読んでみたところが、恋路という名の迷路にさ迷う主人公の姿が、私には極めて肌に合わない物に感じられてきました。 結局、いくつか浮かんだ案の大部分を廃棄して、前の回に続ける形でごく小さな断章を書き、それを投稿して担当を終えることにしました。 (12月6日アップ) |
12月2日(日)
昨夜のチャットで、正月物のCGの題材について示唆されるところがありました。かなり狙っているというか、見ようによってはフェチ入っている題材ではありますが、正月はこれで行くことになると思います。クリスマスについては、昨年の「聖母マリア」よりは没個性的ですがイメージが浮かびつつあります。 今日はまた「WHITE ALBUM」をプレイし続けて、観月マナと篠塚弥生のエンディングに到達しました。 本当は緒方理奈も同時進行で進めていって、どこがシナリオの分岐点になっているのかを調べてみようという変なことも企てていましたが、ごく初期の段階でこの3人同時進行は無理だと諦めたという次第です。感想はここです。 これで残ったのは理奈だけになりました。理奈と、兄の英二と、由綺と、冬弥。プロダクションの中で、どんなストーリーが繰り広げられることでしょうか。 (12月3日アップ) |
12月1日(土)
昨夜は久しぶりにチャットルームに行ったのに、午前2時という大して遅くもない時間に沈没してしまいました。このところどうも様子がおかしいのですが、今日は起きるとすぐ、月が変わったことでもありますし、心機一転を期してCGの制作に取りかかります。 チャットやオフ会でいつも親しくさせていただいているなりぽしさんのサイト「麗子となりぽしの部屋」が、12月3日で開設2周年を迎えるので、その記念に寄贈するCGです。 なりぽしさんに何かCGをお贈りすると言ったのは、10月26日の夜、サイトが40000カウントを達成した時で、その時は「最近のなりぽしさんの浮気相手4キャラを描く」なんて不謹慎なことを言っていたのですが、実はCGを描けるほど知っているキャラがいなかったので、その案は立ち消えになりました。 そうしているうちに、ゲームで設定されている新藤麗子の誕生日(11月14日)も過ぎ、開設2周年が近づいてきたので、「2周年」という題で描くことにしたのですが、それで何を描いたかは、この日記をお読みになっている方はもうご覧になっているでしょう。よくよく、奇矯な振る舞いが好きな人間です。 この週末にはリレーSSの構想も練らなければなりませんし、クリスマスと新年にお知り合いの方々にお贈りするCGの題材も、そろそろ考え始めておかなければなりません。 |
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