2004年4月前半の日記 |
---|
←4月後半の日記へ ↑2004年の日記へ 3月後半の日記へ→ |
4月12日(月)〜16日(金)
この1週間は毎日、仕事が終わって帰宅してから寝る時刻まで、捻出できる限りの自由時間を「最後の晩餐」の制作に充ててきました。こんなに時間を費やすことになったのは、やはり自分のCG制作能力(特に、短時間で手早く作業を進める能力)を過信したからだろうと思います。思い起こせば4年前に当サイトを開設して少し経った5月に、「同級生2」メインであるサイトの開設記念として、ゲームのメインキャラのうち八十八学園関係キャラ13人が総出演する「八十八学園の『春』」を制作した時も、13人描くのにはどのくらい時間がかかるかを考えようとせずに制作に踏み切ったため、何日かけてもいっこうに制作が捗らず、制作中の日記には「CGの制作が捗らなくて精神的に少し煮詰まっていた」などと愚痴めいたことを書いていました。 その頃は「ウェブ日記を毎日更新する」ことを自分に課していましたから、CGの制作を優先すると日記の更新が滞ることが避けられず、それも愚痴の種になっていたのですが、ある時巡回先のサイトで読んだ日記に、その日記を書いている人は「ウェブ日記に愚痴は書かない」ことを信条としていると書いてあるのを見て、目から鱗が落ちたものでした。 要するに、「CGの制作が捗らない」と日記に愚痴を書いている暇があったら、その時間をCGの制作に向ける方がよほどマシだ、と悟ったわけです。 さて、そうやって毎晩毎晩、パソコンに向かっている時間のほぼ全部をCGの制作に費やし、CGの制作以外のことをするのはメールと掲示板のチェックだけ、つまりニュースサイトや新聞社のホームページを見に行くことをしないとなると、世間の動静についての情報源は内閣メルマガだけという状態になります。 ですからここしばらくの間、文字通り日本中の耳目を集めていた事件、4月8日に3人、15日に2人の日本人がイラクで何者かに拘束された事件についても、ほとんど知らないままでした。時間を割いて新聞社のホームページを読みに行ったのは、24日の夜のことです。 それでも15日には内閣メルマガに寄せられた読者の感想を読みましたし、職場で自動車に乗って外回りの仕事に出る時にカーラジオが点いていれば、少しは情報が入ってきます。断片的に入ってくる情報から、何となく考えたこともあったような気がしますが、日が経ちすぎてほとんど忘れてしまったようなので、ここには書かないでおきます。 (4月29日アップ) |
4月11日(日)
昨夜は、昨夜と言うよりも今朝と言った方がいいくらいの時間までチャットをしていましたが、今日は朝9時半から行われる復活祭のミサに参列することに決めていた(ミサの後に開かれる祝賀会で飲み食いすることを当て込んでいたと言う方が適切であるかどうかはご想像にお任せします)ので、目覚まし時計を2つセットして予定通りの時間に起きると、朝飯もそこそこに教会へ行きました。一昨年と昨年の復活祭の時にはなかったことなのですが、今年の復活祭のミサでは途中で、昨夜の復活徹夜祭で洗礼・堅信を受けたのとは別の人に、カトリック教会への受入式と堅信式が行われました。ミサの時にも祝賀会の時にも司祭から詳しい紹介はなく、司祭にも当人にも質問しそびれてしまったので、詳しいことはよくわからないのですが、洗礼式を行わなかったことからすると、既にカトリック以外の宗派(事実上はいわゆるプロテスタント)の教会で洗礼を受けてキリスト教に入信している人が、思うところあってカトリックに宗派替えしたのでしょうか。カトリック教会がそのような人を受け入れるにあたっては、もう洗礼は受けているわけですから改めて洗礼式を行う必要はないはずですが(今のカトリック教会は、プロテスタントの教会で受けた洗礼を洗礼と認めないほど排他的ではないはずです)、堅信を典礼として定めていない宗派からカトリックに宗派替えした人が堅信を受けることを望んだ場合には、カトリック教会で洗礼と堅信を受ける信徒と同じように堅信式を行うことにしているのだと思います。 このあたりから先は、信徒でない私が百科事典やインターネットで読んだことに基づいて書いているので、もしかすると勘違いしている箇所があるかもしれないことをご了承下さい。
キリスト教徒が国民全体の少数派である今の日本では、大人になってからキリスト教の教義を勉強し、はっきりと信仰を持った人が、本人の意志で洗礼を受けて入信し、同時に堅信を受けることが多いと思いますが、キリスト教が事実上の国教になっていて国民のほぼ全員がキリスト教徒である欧米では、子供が生まれるとすぐに洗礼を受けさせ、洗礼は事実上の出生届け出になっている場合が多いと思います。生まれた子供が、もし洗礼を受けないうちに死んでしまうと、キリスト教徒になっていないのですから天国に行くことができない、と考えられていたはずですから、新生児死亡率が高かった時代には、一日も早く洗礼を受けさせるのが、両親にとっては切実な願いだったことでしょう。 そうやって本人の意志と無関係に受けさせた洗礼に、キリスト教への入信の儀式としての意味があるのか、という問題提起から始まった宗派が、宗教改革の頃に発生し、成年に達した信徒本人の自発的な意志による洗礼を強調した「再洗礼派」でした。再洗礼派はカトリックだけでなくルター派やカルヴァン派からも迫害され、アメリカに移住したのが多く、アメリカから布教が始まった宗派のいくつか、今のバプテスト派などは、再洗礼派の教義を採り入れて、幼児洗礼を認めていません。 教義の上で再洗礼を退けているカトリックとしても、生まれてすぐ何もわからないうちに洗礼を受けさせられる結果として、信徒としての自覚を持たないまま大人になった信徒ばかりになっている、という批判には考えるところがあったはずで、もともとは洗礼を受けた信徒が聖霊の恩寵によって信仰をより確かなものにするための儀式であった堅信式が、実質的には、幼児洗礼を受けた子供が物心ついて、教義を理解し信仰を自覚できる齢になったところで受ける、一種の成年式として行われているようです。 カトリックではそういう考え方で、洗礼と堅信を同格の儀式(秘蹟)としていますが、プロテスタントの多くは、聖書に載っている秘蹟は洗礼と聖体(プロテスタントでは「聖餐」と呼ぶ宗派が多いようです)だけだとして、堅信を洗礼と同格の秘蹟とは見なしていないようです。 祝賀会の後で家電の量販店へ行き、思い立ったが吉日と、携帯電話を買うことにしました。 これはパソコンと違って、純粋に仕事のために必要になったと感じた道具ですし、ブロードバンドに常時接続できるパソコンが自宅にあるのに、わざわざ外出先で携帯電話を使ってネット遊びや不要不急のメール交換をするつもりはありませんから、余計な機能はいらないし最新型である必要もなし、携帯電話として必要最低限の機能があれば、あとはできるだけ安いのがいいと割り切っていましたが、そう考えていた私の頭を見透かしたのでしょうか、話には聞いたことのある「1円の携帯電話」が売られていました。 1円だからといって、ジャンクや骨董品のような旧型ではなく、カタログを見れば今1万数千円で売られている最新型よりちょっと古いくらいの型落ち品です。しかもそれが何機種もあって、それぞれが様々に、私が念頭に置いていた「携帯電話として必要最低限の機能」を遥かに超えるいろいろな機能を備えているものですから、今まで携帯電話という物を持ったことのない私は、あれこれと目移りしてすっかり迷ってしまいました。 もし私が「携帯電話+α」な小型情報端末を持つとしたら、どんな機能が欲しいか、としばし考えて出た結論は、「それはデジカメではないか」でした。 3年前にここへ引っ越してきたばかりの頃、その頃持っていて今も使っている銀塩カメラに取って代わらせるつもりではなく、写真にしてアルバムに貼って保存するほどではない風景や室内などを気軽に撮影してCGの背景に利用するのにはこのくらいで充分だろうと思って、30万画素の小さなデジカメを1万円弱で買ったことがありました。しかし実際に風景などを撮影してみると、できる画像が、銀塩カメラで撮影した写真をスキャンしたのに比べてあまりにもみすぼらしく、ほとんど使わないまま、思い出したように2年後に使おうとしたら何も写らなくなっていて、それっきりどこかへしまい込んだままになってしまっているという、「安物買いの銭失い」を地で行く結果になったのは、今でも「失敗したなー」と思う限りです。 そういう前科があるものですから、銀塩カメラより手軽に写真が撮れるデジカメがあってもいいと思っていたものの、銀塩カメラが生きている間はデジカメ単体を買うことには消極的だったのですが、携帯電話を買うことにしたこの機会に、デジカメ付き携帯電話を買うのもいいな、と思ったのです。 といっても今では、型落ち品の携帯電話でもたいていの機種にデジカメが付いているのですが、標準的な機種に付いているデジカメは30万画素級で、3年前の経験から言ってデジカメとしては非力すぎますし、100万画素以上のデジカメが付いている機種は、デジカメが内蔵されている上半分(携帯電話をお持ちの方ならわかると思います)が厚ぼったく、全体も重くなるきらいがあります。デジカメ付きの携帯電話といったら今ここに並んでいる中ではどの機種がいいかと店員に尋ねると、馬鹿正直にも「100万画素級のデジカメつき携帯電話は、デジカメとしては中途半端だし携帯電話としては重くて嵩張るし、あまりお勧めしない」と答える始末です。 それでも、最初からデジカメとしては役に立ちそうにないのが見え透いている30万画素級のデジカメが付いている機種や、まず使う当てのない動画機能が付いている機種よりは、携帯電話としての機能を妨げない程度には高性能のデジカメが付いている機種の方がいいと考えて、100万画素級のデジカメが付いている機種の中では、上半分が薄くて軽い機種を選びました。 さて携帯電話の本体は1円でも、電話会社と契約することによってかかる費用は月額1円というわけにはいきません。KDDIのau通信サービスというのに対応した機種でしたが、利用できる最も安い料金プラン(コミコミOneライト、EZwebなし)でも基本料金が月額3000円以上かかり、自宅の固定電話の基本料金が月額1680円なのに比べると、いかにも割高です。 こういったところでも、どうしても必要というわけではない契約はしないで、できる限り安く抑えようとして、EZwebなし、すなわちインターネットも電子メールも利用しない契約にしてきたのですが、帰宅して箱を開けて、さて携帯電話に付いているデジカメで撮影した写真を携帯電話からパソコンに送るにはどうするのかと(てっきり普通のデジカメと同じように、USBケーブルで携帯電話をパソコンに接続すると思っていました)取扱説明書を見ると、電子メールに添付して送るか別売の専用ソフトを使うしか方法がないらしいです。 EZwebの基本料金は月額210円ですから、それをケチらなければいけないほど生活に窮しているわけでもありませんし、そんな小銭を切り詰めた結果として携帯電話が無用の長物になってしまっては本末転倒ですが、「外出先で携帯電話を使ってネット遊びをする」欲望に負けてしまう可能性を最初から封じるために、あるいはスパムメールに煩わされないために、EZwebを利用しない契約のままにしておくのも一つの考え方かもしれません。 (4月24日アップ) |
4月10日(土)
昨夜は洗濯物を焼き払いかねないほど気分が荒廃していましたが、よく晴れた今日は、土曜日としては早い時間に起きて、洗濯物と布団を干してからCGの制作に専念しました。やはり、雑念が入らないように雑事を済ませてから心おきなく作業に集中するのが良いようで、この日一日でだいぶ作業が進んだ気がします。「過越の3日間」の3日目に当たる今夜は「復活徹夜祭」が行われます。洗礼を受けて新たにキリスト教徒になる人がいる場合、この夜に洗礼式を行うのが最もふさわしいとされていて、一昨年と昨年に引き続いて、今年も復活徹夜祭の時に洗礼式と堅信式が行われました。 (4月24日アップ) |
4月9日(金)
今夜は「過越の3日間」の2日目に当たり、イエス・キリストの受難を思い起こす「主の受難」という、キリスト教会の年中行事では最も厳粛な儀式が行われます。もちろん私もそれに参列するつもりで、帰宅が遅くなってもいいように昨夜は弁当を2つ作ったのですが、仕事を終えて教会へ向かう途中で頭の中に巣くっている考えといえばこれが、今週はいつになく洗濯物が多いので、帰宅してから洗濯を始めると夜中までかかってしまい、ただでさえ遅れている例のCGの制作は今夜はほとんど進まないだろう、なんていう愚にもつかない考えです。そんな事を考えていては心が落ち着くはずがなく、こんな荒廃した精神状態で教会に行くことは、教会に対する冒涜でなくて何であろうか、と思って気が滅入ったほどでした。教会から帰ってくると、案の定、洗濯物が洗濯機を4回 回すほどもあって、見ているだけで気分が荒んできます。そういう時は、洗濯をしながら部屋の掃除をします。すると、気分が落ち着いている時に部屋を掃除すると「これは使えるかもしれないから取っておこう」と思うような物が「目障りだから捨ててしまえ!」という判決を受けることになるので、不要品の処分が進んで部屋が片づくという効能が期待できます。実際、「使えるかもしれないから取っておこう」と思って取っておいたような物が、その後本当に役立った事なんて、ほとんどありませんから。(引っ越し前の大掃除の時の日記) と言ってもこれも程度問題で、あまりにも気分が荒んでいる時に洗濯物の山を前にすると、「もし水で洗って綺麗にならなかったら火で浄めてやる!」と思って、それを実行してしまう惧れがあるので、注意が必要です。──そんなの私だけですかそうですか。 (4月24日アップ) |
4月8日(木)
私は洗礼を受けたキリスト教徒ではありませんが、キリスト教に対しては「クリスマスは、子供がプレゼントを買ってもらえる日」だとか「クリスマスイブは、エロゲーの主人公が意中のヒロインと『あーんな事』や『こーんな事』をする夜」なんて思っているかもしれない人たちよりは関心を持ち、典礼や教義を理解しようとしているつもりです。そして、キリスト教の教義としては、クリスマスよりも復活祭の方をより重要な行事としています。カトリックの教会では、復活祭(日の決め方は「春分の後の最初の満月の次の日曜日」となります)に先立つ木曜日を聖木曜日と呼び、この日の夜から復活祭までの4日間を「聖なる過越の3日間」と呼んで、4日間にわたって、イエス・キリストの受難と復活を記念する一連の儀式が執り行われます。 木曜日から日曜日までの4日間なのに「3日間」と言うのは、古代パレスチナの習慣に基づいて日没から翌日の日没までを1日と数えるからで、木曜日の日没から金曜日の日没までが1日目、金曜日の日没から土曜日の日没までが2日目、そして土曜日の日没から日曜日の日没までが3日目となります。
私がこの一連の儀式に続けて参列したのは、今の住処に引っ越してきた後、一昨年が初めてでした。その年の復活祭は3月31日でしたが、その時のことは日記のこの辺りに長々と書いてあります。昨年の復活祭は4月20日で、この日記には何も書いてありませんが、その年も仕事をやりくりして儀式に参列しました。そして今年の復活祭は4月11日つまりこの次の日曜日なので、今日から過越の3日間が始まり、私がいつも行っている教会では今夜7時からミサが執り行われます。そのことは前からわかっていたので、今日は残業しなくて済むように手回ししておき、夜8時過ぎまでかかるミサの前に腹ごしらえしておくために、昨夜は弁当を2つ作っておきました。 過越の3日間に行われる儀式の式次第は繰り返しませんが、その幕開けとなる聖木曜日のミサは、カトリック教会の典礼書に「主の晩餐の夕べのミサ」と書いてある通りで、いわゆる「最後の晩餐」を記念して行われます。ミサの途中で行われた説教では、この最後の晩餐の時にイエスが弟子たちに説いた「イエスの犠牲によって神と人との間に結ばれた新しい契約(イエスの福音を初めとする文書を指す「新約聖書」という言葉は、そもそもこれに由来します)」が、それ以前に結ばれた古い契約(いわゆる「旧約聖書」に記されている契約)と決定的に異なるのはどこか、ということについて、古い契約はユダヤ民族だけが神の恩寵に与ることのできる契約であったのに対して、新しい契約はそれを信じる全ての人が救いに与ることのできる契約である、というように説いていました。つまり日本人である私たちが、キリスト教を信仰することによって神の恩寵に与ることができる(と信じることができる)のは、イエスの犠牲があったからこそなのだ──というと早とちりかもしれませんが、キリスト教が世界宗教になり得たのは、この教義があったからでしょう。 ところで、私が当サイトの開設4周年に際して、サイトの初心に立ち返る意味で「同級生2」キャラ総出演で、3月半ばから制作していたCGの題材は、まさに「最後の晩餐」です。ですから本当は、4月1日の開設4周年に間に合わなかったなら、次に目標としていた制作期限は今日4月8日だったのですが、結局は間に合いませんでした。 (4月24日アップ) |
4月7日(水)
夕方、出先から戻る車の中で、平成13年8月に小泉首相が靖国神社に参拝したことに難癖を付けて慰謝料を取ろうとした訴訟に判決が出たというニュースを耳にしました。判決としては慰謝料の請求は却下、つまり「自分が靖国神社に参拝したくないからといって他人が靖国神社に参拝することに難癖を付けるのはダメ」となったようですが、判決文に「小泉首相の靖国神社参拝は違憲」という表現があったことが問題になっているようです。 「信教の自由」を持ち出して訴訟を起こした原告がどういう人たちだったのかを、新聞社のウェブサイトで見ると、「あーやっぱりねー」と思うのですが、ここには書かないことにしておきましょう。ですが私がそのニュースをカーラジオで聞いた時、最初に思ったことは、的外れかもしれませんが 「内閣総理大臣には信教の自由(靖国神社に参拝する自由)はないの?」でした。 判決そのものも、国が勝訴した形になっているので「首相の靖国神社参拝は違憲」という部分に対して国が控訴することはできず、敗訴した原告側も、訴訟を起こしたことで所期の目的は達したと判断したのか控訴せず、それで結局、首相の靖国神社参拝の憲法論議が高裁に持ち込まれることなく判決が確定したらしいです。原告と被告の両方に花を持たせる玉虫色判決は、日本人の国民性に合っているのか頻繁に見かけますが、悪意に満ちた言い方をすれば「国が控訴する道を封じた」ような判決に感じられました。 なぜ三権の長である首相は、伊勢神宮その他の神社には参拝してもいいのに靖国神社にだけは参拝してはいけないのか、なぜ首相が靖国神社に参拝すると、特定の少数の国による内政干渉のお先棒を担いで騒ぎ立てる勢力がいるのか、憲法第20条に書いてある「政教分離」がそれほどの錦の御旗なら、なぜ敢えて名を挙げませんがある政党は非合法化されないのか、考える私自身が不愉快になるような事柄はいろいろあるのですが、止めておきます。 (4月23日アップ) |
4月6日(火)
4月は、学校を卒業した若い人たちが大挙して企業や官庁に就職する季節ということで、今頃は新社会人のマナー研修があちこちで行われていることと思います。私の部署でも「電話のマナー」というようなプリントを目にしたので、昼休みに読んでみましたが、一般にマナーとして確立している事項でも、実際に自分自身の体験に照らすと、必ずしもそれが最善とは限らないのでは?と思うことがあります。 具体的に言えば、誰か宛にかかってきた電話を受けた時、取り次ぐべき人が不在だった場合の対応です。そんな場合、取り次ぐべき人がその日のうちに戻ってくることがわかっているのならば、受けた人が言うこととされている決まり文句は、「戻りましたら折り返しお電話いたしましょうか?」だろうと思います。これは、電話をかけてきた相手にもう一度電話をかけ直させる負担を避けるために気を利かせる意味で、そういうことになっているのだろうと思います。 しかし私自身の経験からするに、何か用事があって電話をかけた相手が不在だったとして、私がその日オフィスなり自宅なり、要するに1本の固定電話の前に夜までずっと座っているのなら、先方からかけてもらってもいいのですが、私もその日その時間以後、外出する用事があって、しかも携帯電話を持っていないとなると、先方から「いつになるかわからないが電話する」と言われてしまうと、いつになるかわからないその電話がかかってくるまで、私は身動きできなくなってしまいます。職場では、外出する用事をキャンセルして電話を待っているわけにはいきませんから、自分の用事を優先しますが、そうなるとありがちな事態は、私が部屋に戻ってくると「××の○○さんから電話がありました」と伝言があり、すぐに電話すると先方は不在で「折り返し電話します」と言われ、そしてまた私が席を外している間に先方から電話がかかってくる──何時間も外出している時ならともかく、トイレに行くためにほんの数分間席を外している間に限って電話がかかってくるというのは、「マーフィーの法則」に認定される資格がある、と思うのは私だけではないと思います。自宅でも、夕方帰宅してから深夜にパソコンを切って寝るまで、何時間もの間ほぼ継続して、電話にすぐ手が届く所に座っているのに、実家から電話がかかってくるのは決まって、ほんの数分間トイレに行っている間、ということが何度かあったので、実家でパソコンを買ってインターネットにつないだのを機に「自分に用事がある時はメールを出してくれ、電話はかけないでくれ。自分も電話はかけないから」と両親に申し入れたものでした。 ですからこの頃は、職場からでも自宅からでも、電話をかけた相手が不在だった場合は、電話に出た先方が気を利かせようとしているのは承知の上で、相手がいつ頃戻るかを聞き出して、戻っていそうな時間にこちらからもう一度電話をかける、と言うことにしています。 しかしここで、私から電話をかける時はそうする、というのとは逆に、誰かが私に電話をかけようとする場合のことを考えると、30代半ばの中堅職員で、しかも外へ出ていることが多い職員である私が携帯電話を持っていないというのは、相手にも職場の同僚にも余計な負担をかけているに違いない、と思い至ります。ブロードバンドで常時接続できるパソコンが自宅にあるのに、何も外出先で携帯電話を使ってネット遊びや不要不急のメール交換をすることはないからと、この歳まで携帯電話を持とうとしないできましたが、社会人として携帯電話を持つことを検討しなければならない時代になっているようです。 (4月23日アップ) |
4月5日(月)
ウイルスメールという物、しばらく来なかったと思うとやおら新種が大流行するという傾向があるようですが、この日帰宅してパソコンを起動した時ばかりは、ウイルスメールのあまりの氾濫ぶりに、メールソフトを強制終了しようかと思いました。
それというのも、メールチェックが終わるまでに、サーバにウイルスメールが50通溜まっていたからです。もちろんそれらは全部、アンチウイルスソフトによって水際防禦されたわけですが、いちいち削除を確認し詳細(ウイルスの種類)を表示するダイアログが出る、これが50回繰り返されると、詳細を見る気もしなくなってきます。最近のウイルスは、感染したパソコンのテンポラリフォルダからメールアドレスをランダムに探し出し、適当に宛先と送信者アドレスを偽造してメールを送信する、という症状を示す物が多いと聞いていますが、そうすると私宛にウイルスメールが殺到するということは、当サイトのトップページに表示してある私のメールアドレスをテンポラリフォルダに保持しているパソコンが多い、すなわち当サイトが多くの人たちの目に触れるようになってきた現れ、ということになるのかもしれません。 (4月22日アップ) |
4月4日(日)
金曜日の夜、毎週末恒例になっている食材の買い出しに行くと、スーパーや八百屋の値札が付け替えられていました。このところ毎晩「同級生2」CGの制作にかかりきりで、新聞社のウェブサイトを見に行くことがすっかり間遠になっていた私でも、3月頃からスーパーへ買い出しに行くたびに店内で流れている放送を聞いていれば、消費税法の改正によって4月1日から「総額表示方式」が実施され、商品の値札に税込み価格を表示することになったことくらいはわかります。近所のスーパーは、チェーンによっては3月頃から総額表示方式の値札に付け替えていましたが、個人経営の八百屋が値札を付け替えたのは、4月を迎えてからだったようでした。 よくわからないのは、このたび導入されることになった総額表示方式は、従来から書籍・雑誌などに限って行われていた内税方式と同じなのかどこか違うのかということもありますが、そもそも消費税の導入以来十数年が経ち、私たち消費者は外税方式に慣れてきていたのに、なぜ今になって小売業者に少なからぬ負担を強い、消費者にはさしたるメリットがあるとは見えないばかりか便乗値上げの危険すらある、表示方式の変更が行われたのか、ということです。 小売業者の負担ということでは、いわゆる100円ショップが「105円ショップ」と看板を掛け替えなければならなくなる、というのは冗談だとしても、この日記を打鍵しているのは4月21日ですが、その頃になってもまだ「システムの変更が間に合わないので従来通りの方式で価格を表示しています」と書いてあるレシートを受け取ることがあるくらいです。便乗値上げの危険については、小売業者は消費者からその疑いを持たれるのをよほど恐れているのでしょう、どのスーパーの店内放送も「お客様がお支払いになる金額は変わりません」と繰り返しているくらいです。 スーパーの掲示だったか何だかで、総額表示方式により「支払う金額がすぐわかるようになる」という意味のことが書いてあるのを見た時には、「日本の消費者は5%の消費税をその場で暗算することもできないと思われているのか──日本人も舐められたものよのう」と思ったものです。 ですが最近になって、職場で拾い読みした新聞(特に反政府的な論調を持った新聞ではなかったはずです)に、レジを通る際に値札の表示金額と別に消費税が徴収される従来の方式に比べて、総額表示方式は「税金を徴られている」という感覚が薄く、従って「将来、消費税率を上げることになっても、大衆の抵抗感が少ないだろう」という目論見があるのではないか、というようなことが書いてありました。 考えてみると、5%の消費税以外に間接税がかかっている商品はいろいろあり、中にはタバコやガソリンのように、税抜き価格と課税額のどちらが高いのかわからないような商品もありますが、そういう商品を買う際に税抜き価格と課税額の合計金額だけを見て買っていると、その商品には消費税以外にずっと重い税が課されていることに、すぐには思い至らないかもしれません。 レジで精算して最後に支払金額を上乗せされると「払わされたー」という印象が強くなるに違いない、ということについては、客に自前の買い物袋を持参しようという気を起こさせ、もって資源保護に役立てる方策として、前にこの日記に書いたことがありますが、それと逆のやり方が導入され、その真意が「将来の増税への布石」かもしれないとなると、やはり賢明な消費者は、政府のすることに目を光らせていなければいけないようです。 (4月21日アップ) |
3月26日に思いついた一発ネタに基づいて、30日と31日の2日間で制作し、当サイトの開設4周年兼エイプリルフールとして公開したCGには、公開後しばらく経った4月18日になってコメントを打鍵しましたが、CGを公開してあるページに付けたコメントとは別に、CGを制作している間ずっと考えていたことがあります。
それは、「なぜ日本人は自分たちの名前を、自国語では『姓・名』の順で表記するのに、外国語(ローマ字、アルファベット)では『名・姓』の順で表記するのだろうか?」という疑問です。 例えば、この日記で何度も話題に出している小泉内閣メールマガジンにしても、日本語版では小泉首相の名前を「総編集長:内閣総理大臣 小泉純一郎」というように「姓・名」の順で表記していますが、「らいおんはーと」の冒頭は英語版では[Lion Heart -- Message from Prime Minister Junichiro Koizumi]となっていて「名・姓」の順です。 日本人と同じように自国語では自国民の名前を「姓・名」の順で表記する国というと、中国と韓国がまず思い浮かびますが、これらの国では英語で表記する時でも「姓・名」の順を変えていないようです。思いついたほんの一例として、在日韓国大使館のホームページを見てみると、大使の名前は日本語版のページで「氏 名:羅 鍾 一(Ra, Jong-yil,ラ・ジョンイル)」英語版のページで「Name : Ra, Jong-yil」と表記されています。(元のページの表記通り。ただし「ラ」の次の「・」のみ、元のページでは特殊な記号らしく、テキストエディタにコピー&ペーストすると文字化けするので、全角の「・」に変えました) 残念ながら、在日中国大使館と、それからもう一つ自国語では自国民の名前を「姓・名」の順で表記する国であるハンガリーの在日大使館のホームページには、大使の名前を英語で表記したページがありませんでした。 一方、英語圏の国の在日大使館のホームページを見てみると、アメリカ大使館のホームページはなぜかアクセスできませんでしたが、イギリス大使館のホームページでは、大使の名前は英語版のページで「Sir Stephen Gomersall」日本語版のページで「サー・スティーブン・ゴマソール」と表記されていて、相手国の言語に合わせて「姓・名」の順に変えるということはしていません。 とするとこの、自国民の名前を表記する際の順序を自国語と英語で変えるという習慣は、日本独特の物なのでしょうか。自国語では名前の表記が「姓・名」の順なのに陸続きの周辺諸国が全て「名・姓」の順で表記しているハンガリーも、もしかすると周辺諸国の言語で表記する際には順序を変えているのかもしれませんが。 在日韓国大使館 http://www.mofat.go.kr/mission/emb/embassy_jp.mof?continent=AS&si_dcode=JP-JP§ion=A
もっとも最近では、日本人の名前の順序は「姓・名」なのだから、英語で表記する際にもそのまま表記するべきだ、とする人が増えてきたようです。私の仕事の関係でも、漢字で「姓・名」の順に書いた下にローマ字で「姓・名」の順で書いてある名刺をもらったことがありますし、メールの送信者名や署名が、ローマ字で「姓・名」の順になっていることがときどきあります。在日イギリス大使館 http://www.uknow.or.jp/be/ さて、「名倉由依(なくら ゆい)」という日本人の名前をローマ字で表記するとしたら、たいていの人は姓と名の順を逆にして「Yui Nakura」と表記すると思います。このキャラが登場するゲームである「MOON.」のマニュアルに、この順で表記されていますし。 ですが私としては、日本独特なのかもしれないこの習慣には、学校で英語を習い始めてから20年以上経った今でも、なんだか違和感があります。最近になって、中国や韓国では自国民の名前を英語(アルファベット)で表記する時にも姓と名の順を変えないようだと知ってからはなおさら。 ですからCGそのものが完成して、あとはこれを作るだけという時に至っても、「Y.N.」とするか「N.Y.」とするか決心が付きかねていました。 結局は、サイトを見に来る人たちの大多数にとって、こっちの方がしっくり来るであろう「Y.N.」としたわけですが、もし──ということで思ったこと、考えようによってはずいぶん残念なことだとも思うのですが、こんな「もし」があります。 もし「同級生2」に、姓の頭文字がヤ行、名の頭文字がナ行であるヒロインキャラがいたら? まぁ、もし私の手元にある夥しい数のゲームの中に「姓の頭文字がヤ行、名の頭文字がナ行であるヒロインキャラ」が登場していたとしても、そのゲームが同級生2でない以上「『同級生2』メインサイトの初心に返って」というミスリーディングは使えませんから、来年以降それをエイプリルフールのネタにすることはないでしょう。 同級生2にはこのように、普通は「名・姓」で表記するローマ字のイニシャルを「姓・名」の順で表記すると別の登場人物になるという組み合わせは存在しませんが、何となく手持ちのゲームを眺めていたら、意外や意外、「Kanon」にはそのような組み合わせが3組も存在することに気付きました。
単なる偶然の符合でしょうか、それとも何か隠された意味があるのでしょうか? そうかと思うと、もう周知の事実だと思いますが「flutter of birdsII」に登場するメインヒロインたちの名前は、「名・姓」の順で表記しても「姓・名」の順で表記してもイニシャルが変わらない、という共通点があります。 雪柳ゆず(ゆきやなぎ ゆず) 春原鈴葉(すのはら すずは) 眞樹村摩緒(まきむら まお)
楢原成実(ならはら なるみ) 榧場かずら(かやば かずら) 東木 茜(あずまき あかね) (以上シルキーズホームページでの記載順)
これは偶然ではなくて、明らかに意図して命名した結果でしょう。しかしここまで頭韻を踏んだような名前が、全登場人物が10人程度であるゲームに1人登場するくらいなら、そう不自然でもないのですが、揃いも揃って、しかもイニシャルだけでなく仮名で表記した頭文字まで同じとなると、あまりにも狙いすぎているようで、何だか鼻についてきます。
(4月20日アップ) |
4月2日(金)
3月以来の懸案事項だった「同級生2」CGの制作は、予想よりも大幅に遅れていましたが、4月17日にもなってようやく完成したので、18日に公開を済ませ、19日からは溜まりすぎた日記の更新をぼちぼち再開することにします。
1日に配信された、小泉内閣メールマガジン第135号には、新企画「らいおんインタビュー」とて、小泉首相へのインタビューが掲載されていました。ですが第1回と称する今回のインタビューを読んで、私はメルマガ購読開始以来初めて、この記事への読者投票に「不満」を投じました。 読者からの質問が多かったテーマということなんでしょうが、最初のテーマが【ストレス解消法と休日の過ごし方】……東京都千代田区の小学生が、学校の生活科の授業で首相官邸を見学して書いた学級新聞ならいざ知らず、一国の政府が、生活保護受給家庭が納めた血税と新潟県に建設された原発の電気を使って発行するメルマガに載せるに値する記事とは、私には思えませんでした。 後半はもう少しまともなテーマで、【年金について】要するに国民年金制度の延命措置についてでしたが、内閣メルマガで首相なり坂口厚労相なりがいくら弁を揮うのを読んでも、保険料を払う人数が受給者の人数より未来永劫にわたって何倍もの数であり続けることを前提とした現行の国民年金制度は、強制的に加入させられる『国営ネズミ講』ではないのか、という疑問が払拭できません。 保険料だけで現行の給付水準を永久に維持し続けることは不可能だという自明の真理を、さすがに政府も隠し通しきれなくなってきたのか、保険料負担率をあまり上げず、給付水準を少し下げ、足りない分は税金で補填すると言っていますが、その税金を納めたのは誰でしょう。税制の抜け穴を駆使して法人税を払わずに済ませることに躍起になっている大企業ではなく、所得税や消費税を払わずに済ませることが制度的に不可能な私たち国民ではないですか。いくらそうやって税金を投入したり保険料率と年金額をいじったりしたところで、ネズミ講という物は原理的に破綻することが免れないのですから、年金制度の「改革」と称しているのを見ても「延命措置」にしか見えないのです。 とこう考えているうちに、非難の矛先が政府から別の方へ向いてきたのですが、ここから先は次第に電波が強くなってきそうなので、ここには書かないことにしておきます。どうしても読みたい人はクリックしてください。 (4月19日アップ) |
4月1日(木)
本日、当サイトは前身「800Tours」として開設してから満4年を迎えました。
こうして1年間サイトの運営を続けてくることができたのも、サイトを訪れては折に触れてサイトや公開作品に感想を下さった皆さんの、温かいお励ましのおかげと、深くお礼申し上げます。今後も当サイトをよろしくお願いいたします。 ……に続く日記の本文には、内閣メルマガのことや、開設4周年記念として3月31日の夜に公開した新作CGのことなど、いろいろと書きたいことはあるのですが、例の「同級生2」CGの制作が遅れているため、日記本文のまとまった打鍵はもうしばらく保留にします。 この次に日記本文の更新があったら、その時は同級生2CGが完成したか、それとも同級生2CGの制作を断念したか、どちらかだと考えてください。もちろん作者としては、後者のような事態になることは全力を挙げて阻止する所存です。 |
ページのトップへ戻る |
---|
←4月後半の日記へ ↑2004年の日記へ 3月後半の日記へ→ |