近江物語 |
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第十七章 偽神器
太政大臣雅信は、今日で言うところの糖尿病を永らく患っていたが、この日二条邸で、突然昏倒して人事不省に陥った。左大臣達子息は、競って二条邸に駈けつけた。帝にとっても太政大臣は母方の祖父であるので、蔵人頭を勅使として急ぎ派遣したが、全ては奏功せず、その夜太政大臣は薨じた。七三歳であった。帝と中宮の、両方の祖父だった太政大臣の死去を、中宮はいつになく悲しんでいる。しかし帝にとっては、全く血の繋がっていない名目上の祖父の死を悲しむというよりも、帥宮が先日来て話して行ったことが、何となく気懸りであった。五条院が崩じ、帝の外祖父であった太政大臣が薨ずる一方、前摂政は落飾したとは言え健在だし、小野院は前摂政の姉を母としているから、前摂政が小野院の外戚となる訳である。小野院は五条院の崩御で、いよいよ院政を布こうと野望を剥き出しにしてきたのが帝にはよくわかる。そうなると、自分と不仲の小野院が前摂政派と結託して、自分を退位させて偏愛する四の宮を帝位に就ける、などという陰謀に走る可能性はある。帥宮の言葉が、急に現実味を帯びてきたのが帝には感じられた。 十月に四の宮は元服し、一品式部卿宮となった。親王の品階としては最高位である。帝が元服した時は二品であり、中務卿宮は今でも二品である事からすると、異例の叙階であった。同時に、右大臣の長女周子、元の登華殿女御が産んだ十二歳の晴子内親王が式部卿宮の妃となった。先帝が崩じた年の冬に内親王が生まれた時、今上帝も中宮も、あの虚弱な先帝が子を産ませられるとは意外な事だと思い、中宮に至っては、 「その子も東宮と同じ、本当の父親は貴方だったりするんじゃない?」 などと悪質な冗談を寝物語に言った程である。 「たちの悪い冗談は止してくれ。それより、先帝も子が産ませられると分かって、貴女と東宮への疑いが晴れそうで助かったよ。登華殿が何回も夜御殿へ行ってたのに最後まで不発で、貴女は一発で大当りというんじゃ、やはり疑われるからね」 その時は帝は笑い紛らかしたのだが、さて本当に内親王が先帝の子だったのか、という事になると、親子鑑定法のない時代とて、何とも言えない。皇室の周囲では濃厚な近親結婚が行われているから、誰に似ていると言ったところでその誰もが縁続きだったりするのだ。 さて、その内親王が十二歳で、少々早すぎる裳着を済ませて式部卿宮と結婚したとなると、これは表向きはどうあれ内実は前摂政派の策謀以外の何物でもない。五条院も太政大臣もない今、政界の勢力は、頂点の帝は一まず措いて小野院、前摂政、左大臣の三派鼎立状態である。権勢への飽くなき野望を抱く小野院は、式部卿宮を帝位に即けることを夢見ている。しかし式部卿宮は、母方の勢力が全くなく、前摂政派左大臣派のどちらにも属していない。一方前摂政派は、何とかして左大臣派から勢力を奪い返すという野望があり、しかも今上帝の、急進的な親政によって在来の名門貴族の勢力を殺ぎ、院政をも否定しようとする意向に対しては、利害を共有する小野院と結託しようという考えもある。両派が結束するには政略結婚が第一の策である。幸いに前摂政派には、先帝(これも前摂政の外孫である)の遺児の内親王という有力な手駒がある。この結婚の成立前後に、小野院と前摂政の間で、どのような談合があったのか、それは帝は知らない。 「着々と進んでいますな。主上、御用心下さい」 十一月のある日、秘かに参内した帥宮は帝に言った。場所は勿論、他の公卿達のいない藤壷である。 「何か契機があれば、それに乗じて主上を落飾させ奉る、花山院の先例もあります。もっと遡れば、淡路廃帝の例もあります」 帝はいつものように自信満々で、 「私は多少の事に動揺して出家したりはしないし、淡路廃帝というのは随分昔の話でしょう。しかもそれは、外戚の恵美押勝が孝謙法皇に叛いて滅ぼされたから廃されたのであって、今の朝廷に、私や父院に叛乱を企てる程気骨のある者がいるとは思えませんがね」 と言って快活に笑う。 「その御自信が命取りとならなければよいが」 帥宮は呟いた。帝は一向に意に介しない風で言う。 「それはそうと、竹生島行幸は十二月二日の出発と決まりました。入道が、病状が思わしくないというので、出来る限り繰り上げたのです。子供達にとっては、初めての遠出ですし」 竹生島行幸は、九年振りである。政務が閑で、農繁期に当たらず、中宮も身重でない時期というのは、なかなかないものであった。秋頃から、中宮の祖父の入道が病に臥し、八十近い高齢のせいもあって病状がはかばかしくないので、中宮は大いに気を揉んで、一日も早く祖父を見舞いに行きたいと帝に懇願していたのだった。子供達のうち、前回の行幸に伴われて行ったのは東宮と二の宮だけだが、どちらもごく幼い時分の事なので、全然行幸の記憶はなく、近江の地は初めて行く地に等しい。東宮や二の宮は、曾祖父が病に臥しているということを理解していて、それが気懸りになっている様子だが、三の宮や女二宮などは、近づく旅が楽しみで、毎日浮かれてはしゃぎ回っている。成長の差というのもさる事ながら、性格の差がよく表れていると帝は思うのだった。 ・ ・ ・
十二月二日、近江行幸の一行は内裏を出発した。帝と中宮、七人の子供達、随行する公卿は内大臣兼東宮傅(元の按察大納言)、大納言兼東宮大夫、大納言兼中宮大夫他三人、殿上人は七人、帝の側近の若手、言うなれば改革派ばかり集まった。行幸というのに、前摂政派や左大臣派の大物公卿の随行はない。「来たがらない者も無理に来させる事はないでしょう、私と中宮の、私的な行幸なのですから」 帝は何も気にしない風であったが、一人だけ危惧を抱いていた者がある。帥宮であった。帥宮自身は実に不都合な事に、十二月三日から七日まで厳重な物忌となり、その間は一歩も外出してはならぬという事態になったので、行幸に随行もできないし宮中の動静を窺うこともやりにくい。 七日間の行幸では、内侍所に置かれている神鏡は携行しない。いつとはなしにできた慣習であった。剣と爾は行幸の常として、近衛中将が携行する。 〈もし私達の留守中に保守派が私を廃しようとしても、神器三つのうち二つはここにあるのだから、神器の受け渡しなしに践祚はできないのだ。何も心配はない〉 帝は、中将が捧げ持つ剣爾の箱を見ながら、心の中で呟いた。車が進発してしまうと、同車した三人の息子達との談笑に時を忘れ、神器の事は頭から去ってしまった。 〈どの子もかけがえのない私の息子達だが、三人三様だな〉 東宮は小さい頃は、昔の桜がそうだったように活溌な子で、行幸の車から落ちた事は今でも帝も中宮も思い出す。長じてくると年齢相応の落着きも加わり、長兄らしく弟妹達の面倒見も良い。他人を思いやる心、これは人の上に立つ者には欠かせないというのが帝の信条の一つだが、その点では東宮は全く申し分ない。行幸前から、病臥している曾祖父を案じ、出発の朝は雪がちらついていたが、騎馬で随行する武官や牛飼が寒くないかと案じている。 二の宮は東宮と対照的に、小さい時から大人しい子で、女一宮にやり込められて黙って泣いていた事が帝の印象に残っている。学芸には兄弟の誰にも増して関心を持ち、史書や地理書を飽きもせず読み込んでいる一方、詩歌や音楽も嗜む。きっと左大臣に似たのだろうと中宮は言うが、誰も知らぬ真実からすれば皮肉な話だ。行幸の車の中でも、辺りの風景を詩にしようと苦吟して、兄の東宮に斜に見られている。 三の宮は兄弟の誰よりもやんちゃな子で、車の中では少しも落ち着かず、雪が吹き込むのを物ともせず窓を開け簾を上げて、外の景色を見てはしゃいでいる。 「三の宮、寒いよ。窓、閉めろよ」 東宮が文句を言う。三の宮は聞き入れる様子もない。東宮は少々不機嫌な声を上げる。 「大体お前、ちょっと落着きがなさすぎるぞ」 帝は微笑む。 「東宮、そう言うお前だって、昔は何かというとはしゃぎ過ぎて、そうだな、昔の行幸の時、お前が車から落ちたのはこの辺だったな」 東宮はむくれて、 「またその話。どうして大人って、僕等の小さい頃の話ばかりするんだろう?」 二の宮は一人、逢坂の関と冬の行幸を詠み込んだ詩か歌を作ろうとして頭を捻っている。 やがて車は逢坂の関を過ぎた。前回の行幸の時は、晴天の下琵琶湖を一望し、遠く伊吹山地まで見えたが、今日は雪模様で、琵琶湖も灰色に沈んでいる。 ・ ・ ・
三日の宵、高島郡司の館に着いた。この辺りまでくると雪はかなり深く、車を進めるのも難儀である。護衛の武官が馬上で震えているのを見て東宮は気の毒がる。「父さん、冬の行幸は武官達が可哀想だよ」 帝も火桶に炭をくべながら言った。 「そうだな。車に乗っていてもこの寒さだ、騎馬の者は辛かろう」 郡司の館へ着くと、主の郡司は、前回の行幸の時にも増して鄭重に歓迎する。 「このような鄙の茅屋に御来駕を賜り、恐懼の至りにございます。おお、これは東宮、立派にお成り遊ばされた」 そう言われても東宮は郡司を覚えていないのだった。それでも礼儀正しく挨拶して、帝に続いて大広間へ向かう。中宮は、かねてから聞き及んでいた事ではあるが、実際現地へ来ると矢も盾も堪らず、入道の病臥している部屋へ足早に向かった。 九年の間に入道はすっかり老いさらばえて、骨と皮ばかりになって臥している。尼や老女房達が付きっきりで看病しているところへ、中宮が足早に入ってくると、入道は顔を上げた。 「お祖父様!」 入道は苦しい息の下から、 「……おお……桜……」 続いて帝が入ってくると、加持の僧達は深々と一礼した。東宮達も入ってきた。 「お祖父様、この子達が、主上と私の子供です」 中宮が言うと、入道は上体を起こし、東宮達を見回した。 「七人……七人もの宮達を成すとは……桜、お前の運勢は、それ程優れておったのだ。……桜、お前こそ、我が家門の誇りだ……この齢になって、これ程の光栄を目にする事ができて、儂にはもう、思い残す事はない」 入道が低い声で呟くのへ、中宮は、 「お祖父様、縁起でもない事を仰言らないで!」 入道のやつれた顔に、ふと寂しげな微笑が浮かんだように帝には見えた。 「病人には安静が第一。さ、主上、宮様方、大広間へお来し下さい。膳は整うております」 郡司は立ち上がった。 折が折とて余り豪勢ではない宴が開かれ、夜も更けた頃、郡司の家来が、足音も荒く大広間へ歩み入ってきた。郡司は気分を害した様子で、 「何事だ」 家来は膝を突き、緊張した声で、 「都より、帥宮殿の従者と仰せられる方が見えました。火急の御用件で、主上に拝謁を賜りたい旨です」 「帥宮の?」 帝と郡司は顔を見合わせた。 「私でなければならぬ用件の筈。私が会って来ましょう」 帝は素早く席を立ち、郡司が何か言おうとするより早く、郡司の家来に続いて大広間を出た。 都から来たのは、帥宮の家司で、帝もよく知っている左兵衛佐であった。頭から足まで雪を被り、寒さに震えながら坐っている。 「帥宮から私に、どんな用件か」 帝の問いに、兵衛佐は震えながら答えた。 「主上が廃せられ、式部卿宮が践祚されました」 ・ ・ ・
天地が一瞬にして潰え去ったかのような衝撃であった。帝はしばし、声も出なかった。〈私が!? 廃されたと!? 式部卿宮が、践祚!? そんな馬鹿な! 剣と爾は、ここにある筈じゃないか、それがなくて、どうして践祚できるんだ!?〉 帝はやがて、喉が裏返ったような声を上げた。 「中将! 中将は居るか!」 剣爾の捧持を務める右近中将が、足音荒く駆けつけて平伏する。 「右近中将、これに!」 帝は上ずった声で、早口に叫ぶ。 「神器は! 神器はどうしたのだ!」 「こちらにございます!」 中将は、帝の寝所に宛てられた部屋へ走る。帝も後を追う。 寝所に、剣と爾を納めた箱が置かれている。中将と帝が駆けつけてみると、例の悪戯盛りの三の宮が、中宮達の目を盗んで神器の箱を弄んでいる。 「これ、三の宮! その箱を悪戯してはいかん!」 帝が声を荒らげた丁度その時、三の宮は、神爾の箱の蓋を開けた。駈け寄って三の宮の手を押えようとした帝は、金縛りに遭ったように立ち疎んだ。 神爾の箱には、何も入っていなかったのだ。 ・ ・ ・
「……神爾が……」中将は腰を抜かし、擦れた声で呟いただけで言葉が続かない。帝は、崩折れるように膝を突き、高鳴る胸を鎮めつつ、中将を叱咤した。 「中将、しっかり! 宝剣の箱を、開けてみよう! 立会いを命ずる」 帝は宝剣の箱を引き寄せ、震える手で紐を解き、恐る恐る蓋を持ち上げた。 何も入っていない。 帝と中将の双方の唇から、声にならない音が漏れた。 騒ぎを聞きつけて、郡司、中宮、公卿達もぞろぞろと集まってきた。帝は膝をがくがくさせながら立ち上がり、震える声で言った。 「行幸は中止だ。即刻、都へ戻る」 一斉にどよめきが起こった。帝は続ける。 「剣も爾も、ここにはない。都にある筈だ。それを用いて、式部卿宮が践祚したのだ。私を廃し、式部卿宮を擁立せんとする者共が、謀りおったのだ! 出発の支度をせよ!」 夜半過ぎ、一行は郡司の館を後にし、還幸の途に就いた。小さい子供達は事情が呑み込めず、不思議がっているうちに程なく眠ってしまったが、東宮や二の宮は、事の重大さに気付いている。特に東宮は、今上帝が退位した場合次に帝位に即くのは自分であることが前々から約束されていた筈だと知っているので、別の者が帝位に即いたらしいということに、理不尽な怒りをすら感じていて、眠るどころではない。 翌四日の卯の刻(午前六時)、一行が坂本まで来た時、先に走っていた兵衛佐が引き返して来たのと会った。兵衛佐は報告する。 「逢坂の関は、閉ざされています。衛府の者が数十人、関に詰めております」 帝の践祚の時は、関所を固めさせる固関の儀式というのがあるが、今度という今度は通常の固関ではない。帝方に内通しようとする者を阻止するためである。経過をたどると、式部卿宮践祚の儀が決行されるより少し早い三日の午の刻頃、極秘の使者が京を発ち、申の刻(午後四時)には逢坂の関は閉ざされていた。クーデターが決行されたと知った帥宮は、そうなった場合逢坂関は閉ざされると予想したのだろうか、兵衛佐に八瀬大原から途中峠を越えて高島へと走らせたのだった。 「そうか。向こうがその気なら、こちらにも考えがある。皆、比叡山を突破しよう」 帝は、車の周りに集まった随行の貴族達に言った。 「この南、郡司の館の近くから、比叡山の南田ノ谷峠を通って北白川へ通ずる間道がある。狭いし急な道だから、車は通れまい。そうすると、馬が四頭に牛が三頭か。 中宮と子供達は、馬と牛に乗せて、他は皆徒歩で行こう。皆、沓の用意をしなさい」 帝の言葉には凛とした響きがあり、貴族達は皆、黙って従った。兵衛佐の馬に中宮と四の宮を乗せ、兵衛佐は馬の口を取る。他の親王達は牛の背に一人で乗り、内親王達は馬に、武官に抱えられて乗る。帝自身は沓を履いて徒歩で行こうと言ったが、貴族達はそれでは余りにも畏れ多いと反対し、結局女三宮を中宮が抱き、武官の一人が馬を降りて、空いた一頭に帝を乗せることにした。 通る人も稀な間道は、雪が積もって通るのに難渋する。しかも登り坂とあって、徒歩の者も牛馬も、すぐ疲れ果てて進めなくなる。 〈逢坂を強行突破した方が良かったかな〉 帝はふと思ったが、もう峠は近く、ここまで来て引き返す訳にも行かない。未の刻(午後二時)になってようやく峠を越え、京洛への下りにかかった。雪の積もった山道を下り、洛中に近い北白川へ着いたのは戌の刻(午後八時)、丸一日の強行軍であった。 ・ ・ ・
京では、二日の朝行幸の一行が出発すると、早速クーデターが決行された。三日の昼の間に逢坂を閉じ、帝への通報者が出るのを阻止しておいてから、酉の刻(午後六時)に在京の前摂政派、小野院派の公卿殿上人が参内すると、すぐさま内裏の諸門を封鎖し、宮中のどこかに隠してあった宝剣と神爾を紫宸殿に渡御せしめ、式部卿宮を東宮に立てると同時に践祚せしめ、さらに今上帝を退位させ、元の東宮中宮を廃す宣命が発表された。さらに翌四日臨時の除目が発表された。内大臣以下、近江へ行った先帝(近江へ行幸した帝をこう呼ぼう)派の公卿殿上人は、悉く免官せられた。やがて、帥宮の家司兵衛佐が洛中から姿を消したことが判明し、衛府勢が帥宮邸を包囲し、帥宮を拘束した。先帝の一行が比叡山中を強行突破して帰京したのは、その直後であった。
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一行は一条大路を西へ進む。陽明門へ来ると、門は固く閉ざされている。門前を固めている数十人の武官は、牛馬に乗り徒歩で来る一行を、還幸の行列とは気付かない。「門を開けよ!」 兵衛佐が進み出て声高に命ずる。 「帝の御命令により、何者に対しても勅許なく門は開かれませぬ」 責任者らしい武官が答える。先帝は馬から飛び降り、つかつかと歩み出ると声を荒げた。 「誰が帝だ!? 帝は、この私だ! 還幸した帝を内裏から締め出す法があるか、今すぐ門を開け!」 還幸の予定は八日であったから、突然の還幸は全く予期せぬ事態であった。程なく門が開かれると、衛府の武官が大勢出て来て行列を取り囲む。 「還幸した帝を、いつまで内裏の外に立たせておく気だ? 早く入れないか! 中宮も子供達も疲れておるのだ!」 強行軍の疲れも見せず、先帝は居丈高に叫ぶ。右大将が進み出て来た。 「先帝には」 言いかけるのを遮って、先帝は一層声高に、 「誰が先帝だ!? 私は退位してはいないぞ! 誰か、帝の名を騙る者がおるのか? ならばそ奴は逆徒だ! その逆徒を、今すぐここへ引いて参れ!」 中宮もたじたじとなる勢いで右大将に迫る。随行の貴族達は、疲れていたせいもあって、激昂する先帝を制しようともしない。右大将は落ち着き払って、 「先帝には、五条御所へ渡御あらせらるべき由、当今の勅諚にて」 ぬけぬけと言ってのける様子が先帝には一層癪に触って、声を嗄らして怒鳴る。 「当今とは誰だ! 帝位を盗み、我が名を僣称する逆徒を、今すぐここへ引いて参れ!」 言うなり先帝は、後ろにいる東宮亮の佩刀を抜き放ち、切先を右大将の目前に合わせた。衛府の武官達は、すわと色めき立つ。数人の者は太刀に手をかける。 その時、中宮はひらりと馬から舞い降り、先帝に駆け寄るとその腕に縋りついた。 「主上、早まりなさいますな! もし人を傷付ければ、主上とて罪を被り、獄に繋がれましょう、もし衛門達と斬り合えば、主上の身も危のうございます、どうか、御立腹の余り御身を損なわれぬよう!」 中宮の高い澄んだ声は、夜の闇を裂いて辺りに響き渡った。先帝は渋々刀を収めた。 「では訊こう。剣爾を箱から盗み出し、空の箱を捧持せしめた者は誰か、誰の指図か」 先帝の問いに答える者はない。 「ならばこれから清涼殿へ行って、帝を僣称する者に問い質そう。道を開けよ、灯を持て」 先帝は肩を聳やかして門を入ろうとする。中宮、兵衛佐、公卿達も続こうとするが、たちまち門は閉じられた。のみならず武官達が寄り集まって人垣となり、先帝は身動きが取れない。やがて他の門から輦車・牛車が差し向けられて、先帝、中宮、子供達、随行の貴族達は車に押し込められ、五条御所へ護送された。 (2000.9.21) |
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