近江物語

第八章 懐妊
 秋が過ぎて冬になった。十月のある夜、臥所へ入ってきた東宮に、尚侍は嬉しそうに言った。
「ねえ東宮、聞いて。大事な話よ」
「何だい」
 尚侍は東宮の耳に口を寄せて囁いた。
「私、子供ができたの。貴方の子供よ」
 女としてこれ以上の喜びはないといった様子で、目を輝かせ頬を赤らめる尚侍に対し、東宮は、手放しで喜ぶことはできなかった。
「その事、誰か他に、知ってる人はいるの?」
「まだ誰も知らないわ。私、貴方に最初に知らせたかったの」
「うーん……」
 考え込む東宮に、尚侍は不思議がって、
「ねえ、どうして、おめでとうと言ってくれないの?」
 東宮は、尚侍が日頃の聡明さに似ず、自分の感情だけに浸り切っているのがやや不満で、
「いいかい、そりゃ僕だって嬉しいよ。でもね、桜さんは表向き、いや、半分表向きと言った方がいいかな、主上の妃なんだよ。ところが、主上はあの体たらくだ。妃が何人いようが、到底子は作れないと誰もが思ってるし、実際、三人の妃の誰一人、主上の子を身籠りさえしていない。そこへ桜さんが、出仕するが早いか身籠ったとなれば、誰だって変だと思うよ、まして桜さんが、今迄一度も主上の寝所に召されてないことは、後宮では知らない人はいないだろうし、貴族連中でも、内大臣なんかは知ってるよ。その桜さんが身籠ったとなれば、その子は主上の子じゃあり得ない、じゃ誰の子だ、尚侍と密通したのは誰だ、って事になる」
「密通、ですって!?」
 尚侍は驚いて顔を強ばらせた。
「そうとも。まあ建前はね、尚侍っていうのは後宮の事務職員の一員な訳だから、誰と通じようが構わない訳だけど、そんな事、今時誰も本気にしやしないよ。一条尚侍がそうだったように、尚侍は主上の妃の一人なんだ。それはもう、公然の事実だよ」
「……」
 尚侍は、今更ながらはっきりと認識させられた事実に、声もない。東宮は口調を和げた。
「まあ、もう暫く、ゆっくり考えよう。内大臣には、それとなく知らせてもいいだろうな、内大臣は、桜さんを僕の妃とすることを言い出した張本人だから、僕と桜さんの間は黙認してるだろうし」
「……そうね……」
「何だい、桜さんらしくもない。尻込みする僕を叱咤激励、あの大芝居を打ってのけた桜さんじゃないか。思い悩んだりすると、お腹の子に悪いよ」
 東宮の方が尚侍を励す。尚侍も、やっと顔を綻ばせた。
「そうね、父親が誰だ、と詮索されたって、この子の母親は私なんだもの。母親がしっかりしなくて、どうするの」
・ ・ ・
 翌々日早朝、内大臣が、周章狼狽といった様子で御輿宿へ来た。
「東宮はおられるか」
「私はここにいますよ」
 東宮が、読みかけの歴史書を閉じて立ち上がると、内大臣が入ってきた。
「お人払いを」
 東宮亮などが退ると、内大臣は東宮に膝を突き合わせて坐り、言った。
「大変な事になりましたぞ。尚侍が、懐妊したのです」
 建前としては、内大臣がこんなに深刻がる事ではないし、東宮に至急注進に及ぶ事でもない。実際は、東宮と尚侍が契り交わす仲であることは、内大臣と左大臣だけは先刻承知であるので、真っ先に東宮に注進に及んだのであった。東宮の方は、既に承知の事ではあるが、一応驚いた様子を見せる。
「尚侍が、ですか!?」
「左様です。どうしたものですかな、主上の御胤と装うには」
「そうするのが一番無難でしょうね。しかし、主上が尚侍をお召しになった事が、あるのですか? もし一回でもあるのなら、そうもできましょうが」
 東宮の言葉に、内大臣は困惑して首を振った。
「いや、それが……一度もないと、内侍所全員、口を揃えるのですわ」
「主上が尚侍を一度もお召しにならず、まして主上が温明殿にお渡りになる事など、決してあり得ないのですからね」
 東宮も腕を組んだ。やがて東宮の胸の中に、苦しい考えが浮かんできた。
「そうだ、この際、主上のお召しがあったという事にして、尚侍を一度だけでも、清涼殿へ渡らせたらいかがでしょう? とにかく一回でもお召しがあった事にすれば、後は何とかなるのでは。尚侍には辛い事ですが……」
 東宮の提案に、内大臣は喜んで頷いた。
「そうですな。産み月のずれは、一月くらいなら誤魔化しが効きますから」
「でも、主上は女御方をお召しになることが絶えてないと拝見しますが」
 内大臣はすっかり元気になって、東宮の懸念を打ち消すように言った。
「それは御心配に及びませぬ。主上は近頃ようやく、その方面にお目覚め遊ばされたか、五日に一度くらい、登華殿女御をお召しになられます。桐壷でないのが大いに残念ですがな」
「登華殿、ねえ。右大臣の娘、でしょう。
 まあとにかく、そうとなったら、早く尚侍を、主上のお許へ渡らせましょう。その方面の工作は、伯父上にお任せしますよ」
 身を切る思いで言った東宮の苦衷を、内大臣は知ってか知らずか、苦笑した。
「東宮、私を裏工作の匠と認めて頂いて、恐縮至極です」
 苦笑する東宮の目に、光る物があったのに、内大臣は気付いただろうか。
・ ・ ・
 その日の午後、登華殿女御は、月の障りが起こったと言って、右大臣邸へと退出した。今上帝は、その事がよく理解できないので、夜になると登華殿女御を召し寄せた。内大臣の意を受けた女房が、温明殿に走った。
「参りますわ」
 尚侍は、深い決意と覚悟を以て言った。
 ――昼前、内大臣が温明殿へ来て、尚侍に言った。
「近いうちに、主上のお側へ上がりなさい」
 尚侍は愕然として、思わず扇を取り落とした。
〈え!? ……それじゃ、話が違うじゃないの!〉
 顔から血が引き、少時は舌が動かなかった。だがそこは剛毅な尚侍のこと、すぐに心を落ち着け、努めて素っ気ない調子で、きっぱりと言った。
「嫌です」
 内大臣は声をひそめた。
「これ、何て事を言うのだ。貴女のお腹の子を、主上の御子という名目で産むためには、いいかね、主上に一度でもお召しを受けたという事実が必要なのだ。わかるかね? 主上のお召しを受けずに、主上の御子を産むことができる筈がないことくらい、知っているだろうに」
 尚侍は、どうしても承服しかねるといった調子で喰い下がる。
「東宮の御子として産むことは、どうしても叶いませんか」
 内大臣は首を振った。
「いや、それは無理だ。貴女を尚侍として出仕させたのも、摂政太政大臣家の目を晦ますため、已むに已まれずそうしたのだ。摂政太政大臣が、主上の外祖父としてこの地位にある以上、東宮が主上の妃の一人を、寝盗った上に懐妊させたというようなことは、極力避けなければならん。それが我が左大臣家の為、何より貴女の為なのだ」
 内大臣は、有無を言わさぬ強い口調で迫る。尚侍は、もはや抗弁しても無駄だと悟った。そうなると今度は、別の事が気懸りになる。
〈私が他の男と契ると知ったら、大黒丸はどんなに口惜しがるだろう?〉
 尚侍は、絞り出すような声で言った。
「……東宮は……」
「東宮には、私からよく申し上げておく。これは貴女の為でもあるし、東宮の御身の為でもあるのだ。東宮も、きっと納得して下さるであろう」
 東宮の方から言い出した事だとは、内大臣は言わない。言えば尚侍を、深く傷付けるであろう。そのくらいはわからぬ内大臣ではない。
「……わかりました。東宮の御為なら」
 尚侍は、ようやく承知した。東宮に対する申訳なさで、胸が締めつけられるように痛む。
〈ああ大黒丸、許して頂戴、私が貴方以外の男に抱かれるのを! これも全て、貴方の身の為なのよ、どうかわかって頂戴……!〉――
 清涼殿の夜御殿に来るのは、初めてであった。女房の先導で入ってゆくと、薄明るい灯火に照らされて、衾の上に坐っている人の姿が見える。
〈この御方が主上でいらっしゃるのか〉
 尚侍も他の貴族と同様、今上帝に対しては特別な恐懼、畏怖の念を持っている。東宮は帝を、かなり悪しざまに言いはするが。尚侍は帝の前に手を突き、深々と平伏した。ところが帝は尚侍を見るなり、
「この人誰? 登華殿?」
 石山の宿所で、兵衛尉の声を初めて聞いた時のような、半ば不快感にも似た違和感が尚侍の胸の内に湧き起こってきた。
〈大体貴族ってのは喋り方が間が抜けてるけど、これはそれとは違うわ〉
 尚侍はそれでも、はっきりと言う。
「尚侍にございます」
 すると帝は、幼児が駄々をこねるような口調になった。
「嫌だ。登華殿でなくちゃ嫌だ!」
〈私だって嫌よ!〉
 尚侍は叫びたくなるのを辛うじて抑えた。女房達が説得しようと躍起になるのを、黙って聞きながら、苦々しい思いに捕われている尚侍であった。
 女房達の説得が効を奏効したのか、ようやく帝は、尚侍を呼び寄せた。その顔を間近に見ると、いかにも低能そのものである。ここにいるのが登華殿女御でないせいか、ぶすっとして不機嫌そうな顔をしている。それでいて尚侍を退がらせるでもなく、結局は共寝する気になったのは、若さ故の肉欲を抑え切れなかったのだろうか。それが尚侍を、一層不快にさせた。
 女房を退がらせ、衾の内へ身を滑り込ませた尚侍であったが、見れば見るほど愛想が尽きる帝である。東宮は、田舎の庶民の子という出自がなせる業か、全身に溢れるばかりの野生的な精悍さを湛えていて、尚侍もそれに惹かれたのだったが、この帝にはそのようなものは微塵もない。とにかくひ弱で、尚侍を抱き寄せようとする腕の力も弱く、もし尚侍が、東宮に対してするように力一杯抱きしめたりしたら、尚侍の細い腕の中で砕けてしまいそうである。尚侍を抱き寄せる動作も緩慢で、東宮が尚侍に対して見せるような激しい情熱の片鱗さえも見られない。尚侍を抱き寄せても、荒々しく尚侍の肉体を求める雄々しさは全くなく、不器用に愛撫を加えながら、よく回らぬ舌で何やら囁くのだが、何しろ口調が尚侍からすれば思いきり間抜けなものだから、精一杯力んで愛の言葉めいた文句を並べるのは滑稽ですらある。
〈あんたそれでも男!?〉
 尚侍は帝への畏敬の念など跡形もなく消し飛んで、呆れ返るやら軽蔑したくなるやら、しまいには強い嫌悪感さえ覚え始めた。尚侍が全く興醒めな様子で、冷たい目を向けているので、帝の方も調子が出ないのか、やがて、
「もう嫌だ。つまんない」
と素気なく言うと、尚侍から身を離し、衾を引き被った。
〈何言ってんのよこのうすのろ! 私の方が余っ程嫌よ! つまんないのはあんたのせいでしょうが!〉
 尚侍はすっかり苦り切った。今やこの情ない男には、嫌悪感以外の何物も覚えず、一刻も早く温明殿へ引き揚げたい思いばかりが募って、尚侍は音もなく衾から抜け出し、身繕いを済ませて夜御殿を出た。二十日頃の月が、やっと山際に昇ったばかりである。先刻尚侍を先導してきた女房達は、朝になったら迎えに来る手筈なので、誰一人として清涼殿にはいない。尚侍はたった一人、静かに渡殿を通ってゆく。
 紫宸殿に差しかかったところで、宮中警護の武官が庭を巡回しているのに行き会った。だが夜間巡回などと言っても気は緩みっ放しで、夜中に女官が一人で歩いているのも、さして気に止める風でもない。まして薄暗い折とて、その女官が尚侍であることに気付く由もない。
 温明殿へ帰ってくると、さすがに女房の一人が気付いた。
「まあ尚侍様、もうお戻りで!?」
 女房が声を上げるのを、
「しーっ! 私が今戻ってきたこと、誰にも言っちゃ駄目よ。明日、夜が明けたら、私が朝まで夜御殿にいたように、うまく装って頂戴」
 女房は黙って頷いた。この女房は地位は低いが、尚侍が近江高島にいた時から仕えている、腹心の部下なのであった。
 翌朝女房達が清涼殿へ行ってみると、尚侍はいない。しかし、尚侍が既に戻ってきていることに薄々気づいていた女房は他にもいたので、騒ぎにはならず、主のいない行列は何事も無かったかのように温明殿へ戻ってきた。女房頭が気を利かせて箝口令を発し、皇妃が夜半前に夜御殿から退出するという椿事は、尚侍側近以外、誰にも知られることはなかった。
「これで、既成事実ができましたな」
 内大臣は、ほっと安堵の溜息をついて言った。差し向かいに坐っている東宮は、浮かぬ顔である。
「……申訳ござらん。御心、お察しします」
 さすがに内大臣も、東宮の最愛の人を、事実の捏造のために他の男に委ねたことに、内心、心苦しいものを感じているのだった。
「いいえ、私から申し出た事です」
 東宮は、内心の苦衷を押し隠し、努めて明るく言葉を作った。自分自身、男として帝に嫉妬するというよりは、尚侍の保身の為とは云え、尚侍を他の男に任せる決心をした自分を、腑甲斐なくも思い、恨めしくも思っているのだった。昨夜も夕暮れまで宮中にいたにも拘らず、尚侍への忸怩たる思いから、夜になると早々に内裏を退出し、三条邸へ帰ってきた東宮であった。
「でもこれで、尚侍への風当りが強くなるでしょうね、きっと」
 東宮は低く呟いた。
「……主上の御子でない子を産んだ、と言われるよりは……」
 内大臣も言葉を濁す。
・ ・ ・
 その夜東宮は、居ても立ってもいられなくなって、早々と温明殿に忍び入った。この頃になると、尚侍の側近の女房の中には、東宮が頻々と通ってくるのに薄々勘づいているのもいるが、暴き立てると尚侍の立場を悪くするだけなので、極力見て見ぬふりをしている。易々と尚侍の部屋まで入った東宮は、高鳴る胸を押えつつ、尚侍の帳台の垂布を掻き上げ、そっと身を乗り入れた。
 尚侍は、帝とは何もなかったものの、東宮に対しては限りなく後ろめたく思っているので、東宮が入ってきても到底その顔を正視できない。尚侍が扇で顔を隠して俯向いてしまったのを見て、東宮も一層自責の念に苛まれた。だがここで躊躇する東宮ではない。さっと帳台の中に入ると、尚侍ににじり寄ってその手を握った。尚侍は横を向きつつ、微かな声で呟いた。
「東宮……私が他の男の側へ上がったこと、どんなにか辛く苦しく思ってるでしょう……」
「いや、僕は……」
 東宮が言いかけるのを遮って、尚侍は東宮に向き直り、はっきりと言った。
「でも、どうか信じて。昨夜、私と主上との間には、何も、何もなかったのよ」
 東宮、言おうと決心してきたことを口に出すより先に、意外な事に驚いた。
「何も!? 本当に?」
「本当よ。それで私、月が出たばかりの頃にここへ帰ってきたのよ」
 こうなると東宮は、別の事が心配である。
「何もしないで、月が出たばかりの頃に? そ、それって、主上の勘気を蒙ったって言うんじゃないのか!? それじゃ、逆効果じゃないか!」
 尚侍の方が、東宮が不安がる理由がよくわからない。
「どうして? 主上は、決してそんな、私に対してお怒りだとか、そういう御様子はなかったわよ」
「そうなの? だったらいいんだけど」
 東宮が安心した様子を見て、尚侍は言った。
「主上って、大黒丸の言った通りね。あれじゃあ、女御方が御子を産みなさらないのも無理もないわ。本当に、何もなさらないし、いえ、もしかして、何もなされないんじゃないかしら」
「それで、何事もなかったんだね」
 尚侍は表情を改めた。
「でも、幾ら何もなかったと云っても、私が他の男の側へ上がったことには変わりないわね……昨夜貴方が、どんなに辛い思いでいたか、想像するだけで……御免なさい、私だって、不本意だったのよ……」
 俄かに尚侍は、袖で顔を覆った。肩を震わせてしゃくり上げながら、切れ切れに呟く。
「でも、でも、東宮、貴方の為、貴方の為だと、お父様に……」
 尚侍は、東宮自ら発案した事だとは聞いていないらしいと、東宮は察した。東宮は素早く、尚侍の前に手を突いて言った。
「いや、桜さんが謝る事じゃない。謝るのは僕の方だ。どうか心を落ち着けて、聞いて欲しい」
「……え?……」
 尚侍は泣き止んで、まじまじと東宮を見つめた。東宮は痛切な口調になった。
「内大臣はどう話したか知らないけど、桜さんを主上の側へ上がらせるよう言い出したのは、他でもない、この僕だ」
「東宮!?」
「そうだ。でも、弁解がましくなるけれど、僕は、自分の保身の為にそれを言い出したんでは、決してない。桜さんが、父親の知れない子を身籠ったと言われて、宮中の皆から爪弾きにされること、それだけは何とかして、避けたかったんだ。そのために、桜さんには気の毒な事になるだろうけど、心を鬼にして桜さんを、主上の側へ上がらせるよう、内大臣に言ったんだ。
 打算的だと言われてもいい、卑怯者と言われてもいい、でも、桜さんが父親の知れない子を産んだと言われて、一生その汚名を背負ってゆくよりは、一夜だけ、他の男の側へ上がらせる方が、まだしもましだと思ったんだ。そこのところ、わかってくれるか。
 そうだ、桜さんが近江にいた頃、桜さんの母君は、きっと辛い思いをしていた筈だ。小近江から聞いたんだよ。桜さんの母君は、父のわからない子を身籠って、大きなお腹で近江へ帰ってきて、そして桜さんを産んだんだ。それから亡くなるまで、父のわからない子を産んだと言われて、ずっと辛い思いだったろうと僕も思う。桜さんも、そう思わないか?」
 尚侍にも、思い当たる節がある。亡き母が、追われるように再婚先を出て、高島郡司の館へ出戻った後、母も尚侍自身も、肩身の狭い思いをしてきたのだった。
「僕は桜さんに、そういう思いをさせたくなかったんだ。僕自身の身の安泰なんてことは、これっぽっちも思わなかったんだよ」
「東宮……! そこまで私の事を……」
 尚侍は涙にむせびながら東宮ににじり寄り、顔を上げた東宮の胸に身を投げ出した。尚侍の胸のわだかまりは、涙に洗い流されるように、溶けて消えていった。
 ――「ああ、何て素敵なんでしょう!」
 東宮の腕の中で、尚侍は情交の余韻に浸りながら、ふと呟いた。
「貴方って……あの男とは大違いだわ……」
 幾ら褒められても、他の男と比較されては面白くないのが一般の男だろう。そのくせ、新しく通い出した女を以前からの女と比べて得意がるのが、この時代の貴族の男共である。東宮は、一般的にそういうものだと思うと、尚侍のやや軽率な言葉も一層愛おしく思えてくるのだった。
「あ……」
 尚侍も、自分の言葉を耳で聞いて、初めてそれが、男にとっては面白くない言葉かも知れないことに気付いた。口を押えて頬を赤らめる尚侍に、東宮は微笑して、
「いいんだよ、僕が主上に比べて、どれ程桜さんを愛しているか、それがわかったなら」
 こう言ってのける東宮は、一人の男として、帝を完全に圧倒し切った自信に満ちていた。帝は、かつて尚侍が二条邸へ来た時の二の宮とは違って、もはや東宮の競争者ではなかった。東宮は帝を、内大臣と同じ、利用するだけ利用する一介の人間としか見ていなかった。この不遜な自信は、偏に東宮が、尚侍の愛を専有する唯一の人間であるということに根差していたのに違いない。その東宮の自信が、尚侍にも伝わったのだろう。
 東宮はふと呟いた。
「でもこれから、桜さんの後宮での立場は、きっと今より悪くなるだろうなあ。それだけが心配だな」
「あらどうして?」
 どうもここしばらく、尚侍は自分の感情に浸り過ぎる気味がある。以前だったら、もっと的確に情勢を判断して、部外者たる東宮が言うより前に、事態を把握する、それだけの聡明さはある尚侍だと、東宮は思っている。
「わからない? 貴女は主上の後宮に、一番新しく入ってきたんだ。それが真っ先に懐妊じゃ、他の女御方がどう嫉妬するか、僕は怖いよ。何たって後宮と言えば、女同士の嫉妬の坩堝と言われてるし」
 尚侍は声をたてて笑った。
「貴方がそこまで、気を回しすぎよ。私が誰かわからない男の、子を身籠ったんならともかく、主上の御子よ、誰が私に敵うというの、本当は貴方の子だけど」
「そう簡単でもないと思うけど……」
「私は桐壷更衣ほど弱くないわよ、むしろ藤壷中宮の方かな」
 この頃の宮中では、源氏物語が人口に膾炙しているので、現実に起こっていることを源氏物語の類似場面に譬えて言うことが少なくない。
「桐壷ねえ……桐壷女御が、一番嫉妬しそうな気がするんだけどな」
 不安気に呟く東宮に、尚侍は元気一杯、
「大黒丸、しっかりしなさいよ! 私は大丈夫、女御方三人が生霊になって出てきても、ぺしゃんこになるまで調伏して、天竺まで吹っ飛ばしてやるわ!」
 力強く言い切り、声をあげて笑うのだった。
・ ・ ・
 東宮の懸念は現実となった。数日後に参内した登華殿女御は、既に右大臣邸にいて情報を得ていたので、参内するなり、
「私のいない間に主上のお側へ上がるなんて、何という了見かしら! 梅壷さんを差しおいてからに!」
と語気荒く憤慨する。梅壷女御は登華殿女御の従妹で、今一番の権勢を誇る摂政太政大臣の孫娘なので、登華殿女御とは強い同族意識があって、桐壷女御や尚侍に対しては共同戦線を張っているのだった。桐壷女御も、母方の祖父は摂政太政大臣で、登華殿、梅壷の両女御に対しては同族意識があるし、尚侍に対しては本妻腹だという強い優越感を常日頃持っているので、尚侍が登華殿女御退出の隙を突いて帝の側に上がったことに、激しく嫉妬している。
「何よっ、あんな劣り腹の分際で!」
 桐壷女御にまで敵対されては、正しく尚侍は孤立無援である。孤立無援で温明殿に籠っている尚侍も、決して弱気になりはしない。気心の知れた女房と一緒に、箏をかき鳴らしたり歌を作ったりして、無聊を慰めている。懐妊の事はまだ表沙汰にはしていないので、産着を縫ったりする事はしない。東宮は一月に、かなり長期の物忌に服すことになって、ずっと三条邸に籠り切りであった。
 二月の初め、物忌の明けた東宮は尚侍の臥所へ入ってきた。尚侍はもう六ヵ月なので、大分腹がせり出してきている。今まで妊婦を身近に見たことがなく、尚侍に会うのも一か月ぶりなので、一か月の間に急に尚侍の腹が出てきたのに、東宮は驚き、半ば恐怖感すら覚えている。
「凄いお腹だね! 痛いとか苦しいとか、そんな事ないの?」
 感嘆の溜息を漏らす東宮に、尚侍は笑った。
「ちょっと重いけどね。貴方、女房なんかが身籠ってるの、見た事ないの?」
「見た事ないな」
「じゃあ私を見て驚くのも無理ないわ。でもこんなのまだまだよ。産み月になると、こうなるんだから」
 尚侍は笑いながら、手振りで示した。東宮は仰天して後ずさりする。尚侍は一層笑って、
「何も怖がる事ないでしょ? 化物や何かが入ってる訳じゃなし、貴方の子供よ、入ってるのは」
「そ、そうだよね」
 東宮は恐る恐るにじり出てきた。尚侍は張袴の帯を解いた。この正月に巻いたばかりの腹帯が見える。東宮は不思議そうに、
「何その、お腹に巻いてるの?」
「腹帯よ、知らなかった?」
「知らなかった」
 尚侍は微笑みながら東宮の手を取った。東宮が訝るのを、尚侍は東宮の手を、腹帯の上の隙間から差し込ませた。
「あ!……あ……」
 驚きの余り言葉も出ない東宮に、尚侍は満面に喜びの笑みを湛えて、
「ね、動いてるでしょ? 貴方の子供よ! 暮の頃から、動いてるの。ああ! 新しい命が、私のお腹に、宿ってるんだわ! 何て素晴らしい! 私、女に生まれて良かった! 成仏できなくたって、愛する男の子供を身籠って、産んで育てられる方がいいわ! そうよ、女は成仏できないなんて、子を産めない男の僻みよ!」
 殆ど感情失禁に近い有様で、目に涙を浮かべて次々と口走る尚侍に、東宮は何も言えない。掌に伝わってくる、何か超自然的な物の動きは、もしそれが他人の子だったら、東宮には不気味なものとしか感じられなかったであろう。だが、自分が尚侍を抱き、愛の交歓を重ね、その結果が今ここに、その存在を父なる自分に対し強く主張しようとするかのように蠢いているのを思うと、言いようもなく不可解な感動が、胸の奥から激しく衝き上げてくるのだった。
〈これが……僕の……子供……〉
「……僕が母さんのお腹にいた時、きっと僕の父さんも、こうやって、僕が母さんのお腹の中で動くのに触って、驚いたり喜んだり、したんだろうなあ……」
 東宮が感無量で呟くと、尚侍は俄に顔を曇らせた。
「……私のお父様は、そういう事は、なさらなかったわ」
「……そうだったね。御免ね」
「いいのよ」
 何となく雰囲気が湿っぽくなったのに気付いた東宮は、話題を変えようとした。
「それで、いつ頃、生まれるの」
 尚侍は指折り数えながら、
「そうね、ええと……六月かな。でもね、主上のお側へ上がった日からすると、七月の末に生まれたことにしないと、月が合わなくなるって、お父様は仰言るの」
 これは東宮も、何となく危惧を感じていたところだ。
「一月以上も遅らさないといけないのか。どうする気かな、内大臣は」
「さあね、何とかなるでしょ。月足らずで生まれて、立派に育った子もいるんだし、月足らずで生まれたことにしちゃってもいいんじゃないの」
 尚侍の方が、あっけらかんとしている。
「前にも増して肝っ玉が太くなったね」
「これくらいでなきゃ、子供なんか産めないわよ」
 東宮と尚侍は、顔を見合わせて笑うのだった。
 その後間もなく、尚侍は三条邸へ退出することになった。帝の子を身籠って、その出産のための退出ということになると、他の女御の心の穏かでないことは一入である。退出の前に一度、帝に挨拶を述べるため、清涼殿へ赴いた。
「『あやしきわざ』をされてもいいように」
 尚侍は、数人の女房に掃除道具を持たせて先導させた。それを知って他の女御達は一層立腹する。尚侍が渡殿に差しかかると、前後の戸の錠を鎖してしまった。尚侍はそれに気付くと、おろおろする女房達を尻目に、ふっと笑って、
「下らない事をするわね。沫雪のように踏み破ってやろうじゃないの」
と呟くが早いか、衣の裾をまくって尻にからげ、戸板の継ぎ目を狙って気合一発、戸を踏み破った。戸板は見事に割れ、大穴が開いた。戸の向こうにいる女房連中は、悲鳴をあげて、こけつまろびつ逃げ去ってゆく。尚侍は袖をまくって、戸の穴から手を入れ、錠を外した。
 何事もなかったかのように戸を開けると、そこに東宮が、呆然として突っ立っている。
「あら、東宮」
 尚侍は、一応他人の手前、相応の礼儀を見せる。東宮は、やっと我に返った様子で、そそくさと去ってゆく。すわとばかり抜刀した東宮坊の者は、刀を納めて後に続く。
「な、何て事をなさるんですか、尚侍様!」
 女房達は、まさか尚侍が戸を踏み破るなどという蛮行に及ぶとは思いもよらず、驚きの余り茫然自失の体であった。ようやく落着きを取り戻すと、戸板の破片を片付けなどして、行列は出発した。
 尚侍の蛮勇に恐れをなしたか、帰路は渡殿の戸を鎖し込める者はなかった。来る時踏み破った戸に差しかかった時、尚侍は笑いを抑え切れず、くっくっと笑った。周りの女房達は、もう何も言えない。
 尚侍が渡殿の戸を踏み破ったという噂は、瞬く間に内裏中に広がった。
「いやはや、本当に近江の君ですな」
「あんな方の許へ夜這いをかけたら、生きて帰れるかどうか。おお怖」
 事件の目撃者である東宮は、貴族連中があれこれと言い騒ぐのを聞き流しながら、全く別の思いを抱いていた。
〈あんな事をして、お腹の子に障らないかな〉
 東宮には、父親としての自覚が芽生えてきたようである。
 そのうちに、また別の噂が流れてきた。尚侍が輦車で退出する時に、
「しをられてまかるにあらず口惜しくばまかでたまひね同じ由にて」
「貴女達にいびられて退出するのではない、口惜しかったら貴女達も、私と同じ理由で退出してごらん」
という歌を詠んだ、というのだ。
〈やれやれ、桜さんもちょっと、調子に乗り過ぎだなあ。子供ができてから、どうしちゃったんだろう?〉
 東宮は内心あきれている。この噂を聞いて女御三人、一気にヒステリーを爆発させ、夜になっても内裏では、金切り声が絶えなかった。
(2000.8.27)

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