近江物語

第九章 皇子
 尚侍が退出してしまうと、東宮は、これでまた暫く、尚侍に逢う機会がなくなると思って、多少落胆している。
「でもまあ、いいや。お産が済めば、また出仕してくるんだし」
 東宮はこう言って自分を納得させていた。しかし、尚侍との逢瀬のない夜は、何とまあ味気ない事か。独り寝は、二十歳にもならない東宮には余りにも佗しすぎる。そうかと云って、三条邸や右大臣邸で過ごす夜も堪え切れない。三条邸の徽子は、いくら晩生と言っても、もうそろそろ自分と東宮の間に、何もないまま夜が明けることに、不審の念を抱き始めているようだ。まして右大臣邸の靖子は、夫婦とはどういうものか、すっかりわかっているので、肝心の事をしない東宮には、腹を立ててさえいる。
「私のどこが嫌いなの?」
と言いつつ泣くと思えば、
「あっちの姫にぞっこんで、私とやる元気なんかないんでしょ!? だったらいいわよ、お義理で来て貰いたくなんかないわ!」
と拗ねてそっぽを向いたり、
「貴方がその気なら、私にだって考えがあるわ! 薫を産んでやるわよ!」
と、東宮がびくっとするような脅し文句を吐いたりする。これを夜毎にやられては、東宮も行く気がしなくなる。
〈構うもんか、僕には桜さん一人いれば、それで充分だ!〉
 靖子が怒って罵るのを聞くと、東宮も内心、苦々しく思うのであった。
・ ・ ・
 たまに東宮は、内大臣と一緒に二条邸へ行くことがあった。五月のある日、東宮は尚侍への思い断ち難く、二条邸へ行った折に、内大臣に囁いた。
「尚侍に会いたい。何とかなりませんか」
 内大臣は、困ったような顔で答えた。
「夜ならともかく、昼では……」
 東宮は尚も喰い下がる。
「共寝させろと言ってるんじゃないんです。簾越しでもいい、姿を見て、声を聞きたいんです」
 内大臣は折れた。人の少ない折に、そっと西の対へ行って、簾越しに対面するよう計らってくれた。東宮は西の対へ、独りで行った。周りの女房は、尚侍と東宮の間が、単なる従姉弟の関係ではないことに気付いているので、気を利かせてそっと席を外す。東宮は、音もなく簾の内に入った。
 まず東宮が驚いたのは、尚侍の腹である。もう九ヵ月なのだが、二月に見た時より、倍くらい大きくなっているように見える。
「……信じられない」
 東宮は感嘆して呟いた。尚侍は嬉しそうに、
「この頃は、随分元気がいいのよ」
「元気がいいって? 桜さんが?」
 東宮が間抜けな問を発するのに、尚侍は声をたてて笑って、腹を軽く叩きながら言う。
「この子が、よ! きっと男の子だわ」
 一しきりそんな話をしてから、東宮は言った。
「桜さん、また出仕しても、戸を踏み破ったりしないでよ。今じゃもう、都中の評判だよ」
 尚侍は笑って、
「だって、他の女御方が、あんまり下らない嫌がらせをするんですもの。本当、女の嫉妬って、陰険よね。私がそんなに憎いんなら、正々堂々勝負を申し入れるべきよ」
「勝負!? 何の?」
「何だっていいわよ。私は郷里にいた頃、薪割りやら水汲みやらで鍛えてたから、相撲だったら負けないわ」
「す、相撲!? そんな無茶な!」
 東宮が仰天するのも無理はない。
「じゃあもっと、おとなしいので勝負しましょうか。歌は? ――しをられて、まかるにあらず、――か、あれ、どう?」
 面白がって言う尚侍に、東宮は、
「あの歌かい? いやもう、あの後内裏中、大騒ぎだったんだよ。一晩中女御達が金切り声を上げてさ」
 尚侍は一層笑う。
 東宮は口調を改めた。
「一つ言っていいかい? 桜さん、子供ができてから、ちょっとおかしいよ。何かこう、やたらと騒いでは面白がったり、一緒に話しててもすぐ興奮したり、桜さんらしくないよ。どうしたの? 退出する時の話なんて、聡明な桜さんとはとても思えないよ」
 尚侍も真剣な顔になった。
「そうよね。私も、そう思うわ。でも、何て言うのかな、何かこう、私のいつもの心と違うような何かが、私を衝き動かしちゃうのよ。子供ができると、そうなる事がよくあるんですって」
「頼むよ、余り他の女御達を刺激しないようにしてよ。子供ができて、嬉しいのはわかるけど」
 念を押す東宮に、尚侍は微笑むだけだった。
・ ・ ・
 六月になった。東宮と内大臣しか知らない事だが尚侍はもう産み月である。それを思うと、東宮はどうにも気懸りで、寝ても起きても落着きがなく、度々内大臣を呼びつけては、尚侍の様子を尋ねる。
「東宮、お気持はわかりますがね、こればかりは東宮が幾ら焦りなさっても無理ですな。それより、他の方達に不審に思われますぞ、表向き尚侍は、帝の御妃の一人なんですからな、そのお産に、東宮が余りうろたえなさると」
 内大臣は小声で、東宮を諭す。
「伯父上、貴方も人の父親なら、この気持、わかって頂けるでしょう?」
 東宮は落ち着きのない声で言い募った。
「しっ、他人に聞かれます」
 内大臣は東宮を制止する。
 十日の夜、三条邸の一室でまどろみかけた東宮は、突然がばと身を起こした。
〈大黒丸、早く来て!〉
 尚侍の悲痛な叫び声が、はっきりと聞こえた。いや、聞こえる筈はない、だが東宮は、確かに脳裏に、尚侍の声を聞いた気がしたのだ。
〈待ってて、すぐ行くから!〉
 東宮は大急ぎで直衣を着込むと、素早く帳台から滑り出た。隣に寝ている徽子が目を覚ますよりも早く、東宮は部屋を出ると、厩へ走った。日頃乗り慣れた馬に跨ると、単騎二条邸へと突進した。
 二条邸の門は閉まっている。東宮は、裏手の小路に馬を繋ぎ、生垣の隙間から邸内に侵入した。足音を忍ばせて西の対へ走る。永年この邸に住んでいたから、勝手は知っている。灯の点いている西の対に、音もなく侵入した東宮は、顔見知りの女房とばったり会った。
「まあ、東宮! どうしてここに?」
 女房が声を上げるのを東宮は素早く制し、小声で訊いた。
「尚侍の様子は!?」
 女房はしどろもどろに、
「え、尚侍様、ですか? 尚侍様は、ええ、夕刻から、お悩みで……」
 東宮はいよいよ急き込む。
「お悩み、って、何で!?」
「え、あの、お産の……」
「わかった!」
 女房をそこに残して、東宮はずんずんと奥へ入ってゆく。行くにつれて辺りが煙臭くなり、読経の声が聞こえてくる。
 障子を開けると、そこには内大臣と母北の方、僧侶が一人いる。人の気配に気付いて振り向いた内大臣、東宮を見て仰天、
「と、東宮! な、何で、ここに!?」
 東宮は内大臣に耳打ちした。
「虫の知らせ、とでも言いましょうか。もし朝までかかったら、三条邸の方には、方違えとでも言っておいて下さい」
 几帳の向こうからは、尚侍の苦しそうな声が聞こえる。
「東宮、来て下さったの?」
「そうだ、私だ!」
 東宮は威勢良く返事すると、几帳を撥ね上げて身を乗り入れた。驚いて声も出ない女房達を尻目に、東宮は坐っている尚侍の傍らに跪き、尚侍の手を取って力一杯握りしめ、
「尚侍、私が来たからには、もう大丈夫だ、元気を出して!」
 力強く励ます。尚侍は、東宮が今迄見た事もないほどの苦悶に顔を歪め、脂汗を流している。息遣いも荒い。それでも東宮が側にいるのに、少しは安心した様子で、東宮を見上げて弱々しく微笑む。
「うん、ああ、楽になったわ」
 東宮は懐から手巾を出して、尚侍の額を拭う。尚侍は息を落ち着かせる。
 不意に尚侍は、再び顔を紅潮させ、かすれる声で口走った。
「あっ、あっ、痛っ、痛っ」
「尚侍、しっかり! 私がついてるよ!」
 東宮は慌てて、力一杯尚侍の手を握り、もう片手で尚侍の肩を抱いて、自分も甲高い声で口走る。東宮の手を、尚侍も、爪が喰い込むほど強く握り返した。
「それ、もうすぐですよ!」
 年老いた産婆の声がする。
「そら、頑張って! あと一息!」
 東宮も声に力が入る。尚侍は歯を喰いしばり、必死の形相で踏んばる。
「ああっ!」
 尚侍が一声、絞り出すように叫んだと同時に、別の力強い泣き声が床の方から起こった。
「生まれましたよ! 鋏を取って!」
 産婆の声も、若返ったようだ。几帳の内外から、安堵の声が上がる。
 東宮の腕の中で、尚侍は安堵の余り、力が抜けてぐったりとなった。東宮は尚侍を胸に抱きしめ、汗ばんだ髪を撫でた。
「よくやったね。もう大丈夫だよ」
 東宮が労ると、尚侍ははらはらと涙を流しながら、
「ああ……私、産んだのね、貴方の……」
 東宮は慌てて尚侍の口を覆った。こんな事を、うっかり他人に聞かれたら大変だ。東宮は声高に、
「若宮か、姫宮か?」
 産婆は、生まれたばかりの赤児に産湯を使わせながら返事した。
「若宮にございます」
 尚侍は目を閉じたまま、こくりと頷いた。
 程なく胞衣も出て、尚侍の出産は無事終わった。尚侍は産着に包まれた赤児を産婆の腕から抱き取り、胸に抱いた。言葉の通り顔が赤く、瞼が腫れぼったい。まだ目も開かないのに、尚侍が衣の胸を開くと、その乳房に吸いつき、無心に乳を貪る。覗き込む東宮は、この小さな生き物が、自分と尚侍の子であるという事実の前に、何とも名状し難い不思議な気持に捕われていた。
〈これが、僕の子供、なのか……〉
 九ヵ月余りの間、自らの腹に子を納め、自らの血肉を以て子に命を与え、子を育んできた尚侍に比べて、東宮にとっては、この子が自分の分身という意識が薄いのは仕方がない。
 尚侍は、出産で相当疲れているだろうと東宮が思うのに、疲れた様子も見せず、無限の幸福に身も心も浸り切って、恍惚とした顔で胸に抱いた赤児を見下ろしている。やがて赤児は乳を飲み足りたのか、尚侍の胸の中で、静かな寝息をたてて眠ってしまった。女房が赤児を、尚侍から抱き取り、産屋に新しくしつらえた床に寝かせる。別の女房が産飯を捧げ持って来て、赤児の枕頭に置いた。尚侍もその傍らに横になった。
 東宮が几帳から出てくると、内大臣は言った。
「東宮、三条邸へお帰り下され。尚侍は、七月下旬にお産をしたことにしますから、それ迄は誰にも、尚侍のお産を気付かれぬように、東宮も気をつけて下され」
「……わかりました」
 東宮は二条邸を後にし、夜陰に乗じて単騎三条邸へ帰った。
・ ・ ・
 尚侍の出産は、極秘とされた。徹底的に隠蔽するために、僧や産婆も内大臣のごく腹心の者を呼んだのだ。出産後は、尚侍の乳がよく出るからと言って、乳母もつけなかった。女房もごく腹心の者以外は近づけず、赤児の世話は専ら尚侍が一人でしていた。尚侍としては、最愛の我が子の世話を心ゆくまで一人でできるので、大喜びであった。夜中に何度も起きて乳を飲ませたりおむつを替えたりするのも全然苦にならない。そんな様子を内大臣から伝え聞いた東宮は、自分も側に付き添って、赤児の世話をしたいものだと思う毎日である。
「下々の者ならいざ知らず、東宮ともあろう御方が、左様な事を仰言っては」
 内大臣が言うのに、東宮はつくづく、貴族社会の生活とは窮屈なものだと思うのだった。
・ ・ ・
 七月二十一日が、内大臣の計算した、表向き尚侍が出産したことにする日であった。その日の夜、内大臣の主催で産養が営まれることになり、東宮も母の元麗景殿女御、弟の中務卿宮と共に招待されて、揃って二条邸へ来た。
 赤児は今日生まれたことになっているので、参列者には顔を見せない。東宮は宴が始まると、祝杯もそこそこに退出して、尚侍の部屋に忍び込んだ。
「ああ、東宮! 会いたかった」
 尚侍は東宮を見て声を上げる。
「僕もだよ。赤ん坊を見せて」
 東宮が言うと、尚侍は嬉しそうに赤児を抱き、東宮に見せた。赤児はもう目が見えるのか、目の前に現れた人間を、不思議そうな顔で見ている。
「随分大きくなったねえ」
 生まれたばかりの赤児の顔は、何か人間の顔でないような顔だったのに、一月余り経った今は、人間らしい顔になっている。東宮がそう言うと、尚侍は笑って、
「ひどいわ、人間の顔でないなんて」
 東宮も笑って言った。
「この子が、今日生まれたと言っても、誰も信じないね」
 あれこれと話し込んでいるうちに、赤児がむずかり始めた。
「おお、よしよし、お乳が欲しいのね」
 尚侍は胸を開いて、赤児に乳を哺ませる。東宮はそれを見て、不思議そうに、
「その子が何も言わなくても、わかるの?」
 尚侍は東宮に一瞥もくれず、
「わかるわよ、私の産んだ子ですもの」
 自分の血肉でこの子を養っている満足感でか、尚侍は東宮がいる事など忘れてしまったかのように、うっとりとしている。それを見ている東宮は、漠然とした疎外感のような、胸の奥が虚しくなるような感情に捕われた。
「ああ、幸せ! 生きてて良かった……。この子と一緒なら、他に何も要らないわ……」
 尚侍が感極まって口走るのに、東宮はわざと意地悪く、
「尚侍、貴女一人の子じゃないんだよ」
 父親の自分を忘れるな、と言いたかったのだ。
「……わかってるわよ」
 尚侍も、幾分落着きを取り戻して言った。
・ ・ ・
 九月十二日、五十日の儀が営まれた。この儀の時に、赤児は雄仁と名付けられた。この頃になると、何やら喋ったり笑ったりするようになった。赤児が盛んに手足を動かし、喋ったり笑ったりするのを、興味津々で見ている東宮に、尚侍は言った。
「もしかして薫も、産み月をごまかしてたんじゃないかしら?」
 東宮には尚侍の言うことがわからない。
「薫が五十日くらいで喋ったって書いてあるでしょ? あれ、おかしいわよ、この子と比べると」
「そうだね。でも、人によって差があるかも知れない」
「そうね。十九歳で、まだ子供並の頭の人もいるもんね」
 尚侍は、随分危険な事を平然と言ってのける。東宮の方が、驚いて坐り直したくらいだ。
 やがて東宮は声をひそめて言った。
「でも大丈夫かな。……そのうち主上に、この子を会わせることになると思うんだけど、主上、自分の子じゃないって気付かないかな?」
 尚侍も一抹の不安を抱いて頷いた。
「そうねえ。自分の子だ、そうじゃない、なんていうのは、理屈で考えて決めることじゃないからね。幾ら主上があれでも、だから大丈夫、とは言えないから。むしろああいう、子供並の頭だからこそ、私達よりずっと勘が鋭いなんてこともありうるわね」
「そうだよ」
 尚侍は顔を上げて、快活に言い切った。
「大丈夫よ、この子は私に似てるもの。男の子は母親に似るって言うでしょ? 私に似てる以上、私の子であることは間違いない、でも父親が誰かとなると、それだけじゃわからない。私が、主上の御子ですと頑強に言い張れば、そうでないとは言えないわよ」
 東宮は一抹の不安を拭い去ろうと、今一度赤児をあやした。赤児が声をあげて笑うのを見て、自分も心が和んで、尚侍の部屋を後にした。祝宴の席へ戻ると、内大臣に、
「伯父上、尚侍をいつ、出仕させなさるのですか」
 内大臣は上機嫌で、
「明後日が佳日ですから、その日に。若宮も一緒に、主上に御対面させますよ」
 東宮は頷いた。
「明後日ですね」
(2000.8.27)

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