近江物語

第七章 尚侍
 その年の六月、十六歳の東宮と十四歳の靖子の結婚式が、摂政太政大臣家の権勢を誇示するように派手に挙行された。これで布石はできたと摂政太政大臣が安心したのを見計らって、内大臣の外腹の娘を尚侍として出仕させる話を、左大臣が持ち出した。
「尚侍? 左大臣殿、まだ主上の御子へのお望みをお捨てなさらぬのかな?」
 話を持ち出された摂政太政大臣、不可解な笑みを浮かべた。摂政太政大臣さえも、もう帝には見切りをつけているのだが、それはおくびにも出さないでいるのだ。まして左大臣一派となれば、東宮一辺倒の筈、それが何故今頃になって、帝にもう一人妃を差し出すなどと言ってきたのか、真意が測りかねるのだ。
 左大臣は薄笑いを浮かべた。
「これは慮外のお言葉、主上の御祖父とも思われませんな。私は、てっきり反対なさるかと思い申したが」
 摂政太政大臣は穏かに言った。
「私は反対はしないが。しかし女御としてでなく、尚侍として、というのはどういう思召かのう」
「いやそれは、息子の方から申してきたことなので。まあ大方、本妻に気兼ねしておるのでしょうか」
 左大臣は嘯く。摂政太政大臣も、自分の娘の嫉妬深さには心を悩ませた折もあったので、苦笑いした。この、宮中きっての古狐と古狸の化かし合いは、今日は左大臣に軍配が上がったと見るべきだろう。
 前々から内大臣の胸中で暖められていた案とは云え、実際に尚侍として出仕させる宣旨が下ってみると、事は唐突である。丁度折も折、新院即ち今上帝と東宮の父の、愛妃の一人だった一条尚侍が、母の死を契機に退職し、出家して母の菩提を弔いたいと言い出し、新院が慰留に努めていたのだった。新院は、自分を踏み越えて何をするのかと憤慨する。摂政太政大臣の内諾を得ているので、弘徽殿皇太后が新院の説得に乗り出す。新院より三歳年上で、今上帝の生母でもあり、絶大な権勢を持つ皇太后が言うことでは、新院もさすがにないがしろにできないのだった。
「わかりました。出家したいという人の志を妨げることは、罪作りでもありましょう」
 渋々ながら新院も折れた。
 皇太后の説得工作に力が入ったのは、実は何とも女性らしい理由でもあった。一条尚侍は新院の愛妃の中では最も若手で、皇太后より十六も歳下であった。何と言っても若さは女の魅力の一つである。新院が、今上帝の生母である皇太后と東宮の生母である元の麗景殿女御には相応の敬意を払いつつも、一条尚侍にぞっこんになったのに、皇太后は甚だ心穏かならざるものがあった。あまつさえ新院の譲位の翌年皇子が生まれたのが、一条尚侍への嫉妬の情を一層激しく煽り立てる原因となった。一条尚侍を出家させれば、尚侍への寵愛の行先を失くすことができる――その寵愛を奪い返すことができる、というのではなくて。このへん、女の嫉妬心の浅ましさというものである。
 かくして尚侍の職に空席が一つでき、内大臣の娘律子が、新尚侍として出仕することになった。
「私が? 尚侍に?」
 尚侍という職の建前は、後宮の事務全般の総括、言うなれば蔵人頭のようなものなので、自分には到底務まらないと律子が思い込んだのも道理である。
「内大臣様は、姫様を東宮に差し上げなさるお積りだった筈なのに……どうして急に、尚侍とは……」
 女房連中も納得がいかない。尚侍という名目で、実際は東宮妃の一人であるなどということは、左大臣と内大臣だけが知っている、極秘事項なのであった。内大臣の本妻、三条北の方さえ本意には気付かず、三条帝へ帰った内大臣に、いつもより穏かに、
「例の母なし娘を尚侍になさるそうですね。さすがに母なしでは、更衣にもできませんものね」
と言ったくらいである。帝は到底、新尚侍の腹に皇子は儲けられるまいと、三条北の方も思い込んでいた。この方が、まだ律子自身より読みが深いが、それでも内大臣の真意にまでは至っていない。
 本当の標的にされている東宮はどうか。
〈これで、桜さんに会う機会ができるに違いない!〉
 尚侍は常に内裏にいる。東宮は二条邸へは滅多に行かないが、内裏へなら毎日行っている。それに、参内した東宮の居場所、時には宿泊場所ともなる御輿宿は、内侍所のある温明殿のすぐ南側であり、かつどちらも、帝の御座所である清涼殿からは遠い。宿泊と称して尚侍に逢いに行くことは案外容易なのではないか。
 内心喜び勇みながらも、外見は何の気もない風を装っている。新尚侍の出仕ということは、表向きは後宮の事務総括者の赴任であり、半ば公然の秘密としても帝の妃が一人増えることで、東宮には何の関係もない。やたらに喜んだりしていると、不審に思われる危険が大きい。
 七月十五日、内大臣の娘律子は、尚侍として出仕した。入内ではないので、儀式張ったことはないが、正三位の位を賜い、輦車を許すという宣旨が下った。永年勤続賞で従五位下を貰う者と、出仕するためだけに正三位を貰う者との差は何なのだろうか。
 温明殿へ入った律子は、周りの雰囲気に完全に圧倒されている。二条邸も、近江の郡司の館から出てきた律子にとっては、この世とも思えぬほど華美な世界であったが、宮中という所は、雰囲気が洛中とは大違いだ。尚侍として出仕するということで、内大臣が気合を入れて集めた侍女達、女房十五人女童四人に取り囲まれて、温明殿の一室で律子は茫然自失の体であった。
 その日東宮は、今日参内すると宮中から三条邸の方角が方塞りになって当分帰れなくなると、三条邸の者達が心配するのをよそに、さっさと参内して御輿宿に屯していた。
 昼過ぎに、尚侍出仕の行列が通ってゆく。それを眺める東宮の目には、うっすらと光る物さえあった。
〈あの行列の中に、桜さんがいるんだ! 今日という日を、どれ程待ち焦がれた事だろう! 元服して二条邸を離れてから、三年余になるのか……!〉
 夜になるのが待ち遠しい。早く夜にならないか。しかし今夜は満月だ。
〈どうせまた何か、ろくでもない酒宴をやると言ってくるに決まってる。酒宴しか娯しみがないんじゃなかろうか、貴族てのは。いい大人が、夜中に酔っ払って放歌高吟だなんて、胸糞悪いったらありゃしない!〉
 やがて日が暮れた。予想通り、蔵人が呼びに来る。
「東宮、観月の宴においでになりませんか」
 東宮は近くにいた女房に、
「暑気当たりで気分が悪い、と言ってくれ」
 女房が出て行って、東宮の言上を伝える。
「暑気当たりとはお気の毒に。なれば一層、宵涼みがてらおいで頂きたく存じます」
 この蔵人も、東宮から見れば余計な世話を焼く男だ。
「疲れたから今夜は早く寝たい、と伝えろ」
 東宮は面倒臭くなって、言葉もぞんざいになる。やっと蔵人は引き退がった。
 すっかり辺りは暗くなった。女房連中は早目に退がらせ、東宮は一人、そっと御輿宿を忍び出た。
 温明殿の内侍所へは、難なく入り込めた。東宮は全身の感覚を研ぎ澄ませ、桜の気配を探ろうと努める。
 奥の方の一室に侵入してみると、立派な帳台が置かれている。辺りに女房のいる気配はない。東宮は足音を忍ばせて、そっと帳台に近づき、垂布を掻き上げた。そこに眠っている姫、立派な装束に身を包み、一人臥しているのは、誰か? 東宮は注意深く顔を近づけた。
 不意に姫は寝返りを打った。東宮の目の前に現れた寝顔、それこそ間違いない、桜の顔であった……。
 人の気配を感じたか、姫はふと目を覚ました。目の前に見える顔は。
「大黒丸……!」
「桜さん!」
 双方の口から同時に、低い囁き声が迸った。二人が最後に会った日、二の宮が二条邸で、疱瘡のために誰にも知られずに亡くなった冬のあの日から四年、いや、近江志賀の郡司の館を出て、固い約束を交わして別れた早春のあの日から十年、その歳月は、瞬時に二人の間から飛び去った。今や二人は、東宮として、尚侍としてではなく、大黒丸として、桜として、幼馴染として対面していた。
 東宮は袂から、一本の小さな簪を取り出し、尚侍の額髪に差した。
「これが僕の、約束の証だ」
 尚侍は嬉し泣きに泣きながら、東宮の手を取った。
「大黒丸……愛しい貴方、来てくれたのね!」
 東宮は、音もなく帳台に登り、尚侍の傍らに身を横たえた。二人は、満身の力を込めて互いに抱き合った。東宮は、ぎこちない手つきで尚侍の帯を解き、夜の帳の内で、二人は肉体も精神も、分ち難く結ばれた。尚侍の初めて経験する、めくるめく愛の交歓であった――そして東宮も、初めて経験することであった。東宮は内大臣の娘徽子に対してだけではなく、右大臣の娘靖子に対しても、鋼鉄の意志を以て、男の操を守り通したのであった。そのために靖子からは随分、恨まれている東宮であったが、どんな苦言も恨み言も、全て、
〈桜さんとの約束、決して破らないぞ〉
 この一念で耐え忍んできた東宮であった。
「……痛いの?」
 東宮の腕の中で尚侍が、ふと顔を歪め、目尻に涙を滲ませたのを見て、不安気に東宮は尋ねた。
「ううん、痛くなんか、ないわ……嬉しいの。ああ……これで私達、一心同体なのね……もう決して、貴方を、放さない……」
 尚侍は微笑み、感極まった声で、答えるというよりひとりごちた。
「僕もだよ。……桜さん、貴女に逢えて、本当に嬉しい……もう決して、他のどの女にも、心を寄せたりなんかしない。桜さんは僕だけの人、僕も、桜さんだけの人……」
 東宮の惜しみなく注ぐ愛情を、尚侍はその豊満な肉体の全てを以て受け止めた。
・ ・ ・
 たちまちのうちに、と東宮が恨めしく思うほど早く、夜が明けてきた。東宮は後ろ髪を引かれる思いで、尚侍の許を去り、御輿宿に戻った。夜通し、全力を挙げての愛の交歓は、若い東宮の強壮な肉体にも、さすがに深い疲労をもたらした。東宮は御輿宿へ戻ると、衾を引き被り、深い眠りを貪った。東宮職の者が朝飯を持って来た時、眠い目をこすりながら起きて、味もわからぬといった様子で食べると、また眠りを貪ろうとしたが、なかなかこのように狭い世間ではそうもいかない。東宮が昨夜の宴会に出ず、今朝も半病人のような様子だと聞いて、貴族連中がしきりと御輿宿へ来る。しかも来るだけではなく、寝たい一心の東宮を、無理に起こしては、気分はどうだ熱はないか、はたまた昨夜の宴会では誰がどんな歌を詠んだ、誰が何を弾いたと、東宮にとっては実に下らない事ばかり、くだくだと喋っていく。
「ああもう、うるさいったら! 静かに寝かしといてくれよ!」
 しまいに東宮が腹を立てて、つい声を荒げて貴族連中を怒鳴りつけると、若公達は引っ込むが代りに老公卿が来て、皆東宮を気遣っているのだと尤もらしく弁解する。
〈本当にあの連中、何とかならんかな!? 東宮が一人寝ているのをこれだけ気にするなら、その分町の庶民や田舎の百姓の暮らしにでも気を遣ったらどうなんだ〉
 やっと夜になった。昨日の今日ではさすがに体が持たないのか、今夜は酒宴はない。それで貴族連中が退出すると、東宮は早速、温明殿へ向かった。
・ ・ ・
 激情の迸るままに一夜を過ごした尚侍は、東宮が去った後、ふと不安にかられた。内大臣は自分を、二の宮即ち今の東宮の妃とするために近江から迎え取ったということは、小近江も白状した事だ。そして、その当初の内大臣の目論見通り、自分は東宮、他ならぬ大黒丸と、深い契りを結んだ。だがしかし、内大臣は自分を、東宮妃としたのではなく、あくまで尚侍として出仕させたのだ。自分を迎え取った時と、思惑が変わったのだろうか。もしそうだとしたら、自分は内大臣に対して、取り返しのつかない過ちを犯したことになる。だがこの不安が内攻して深く思い患うことなく、すぐに一つの開き直りに解消したのは、貴族の出自でない尚侍の、生来の豪胆さのなせる業であろうか。
〈構わないわ、私と大黒丸は愛し合ってるんだもの。もし私達の仲が表沙汰になったら、お父様は最初から、こうなさる積りだった筈と、皆の前でお父様を問い質してやるわ。大黒丸も東宮なんだもの、私との仲を認めるよう、主上を通じて働きかければ、誰も手出しできないわ!〉
 そうと開き直ってしまうと気が楽になって、早速頭を切り換えた。夜はともかく、昼は後宮事務総括として、誰にも後ろ指さされぬよう職務を全うしようと思い定め、大いに気合を入れて、内侍所の実質的な総取締役である古参の藤典侍の部屋へ行った。
 ところが尚侍の予想に反して、
「尚侍さん、貴女本当、何も御存じないんですね」
 五十に手の届く齢の藤典侍は、皺の寄った顔を一層皺だらけにして大笑いした。
「建前はね、貴女が後宮の総元締ですよ。でも本当はね、尚侍というのは、主上のお妃の身分の一つなのよ。だから貴女は、内侍所のお仕事は何もなさらなくて結構。内侍所は、私等典侍で保ってるんですのよ」
 尚侍は、思わず聞き返した。
「主上の……お妃!?」
 藤典侍は、何をわかりきったことを、という口調で、
「そうですよ。貴女、源氏物語は読んだことはおありでしょう? 朧月夜の君とか、玉鬘とか」
「……ええ……」
 さすがの尚侍も、声がかすれた。
「おや、どうなさいました? 主上のお妃の一人となるのが、不本意でいらっしゃるので? そうでしょうね、何人も女御さん方がいらっしゃるのに……」
 幾分同情するような藤典侍の言葉も、尚侍の耳には入らない。部屋へ戻った尚侍は、日頃の剛毅さも半ば潰えて、帳台の中で震えていた。
〈そうだったのか……お父様は私を、主上のお妃になさる積りで、尚侍として出仕させなさったんだわ。……それなのに、東宮と契ってしまった……もし露見したら、幾ら東宮でも、主上の逆鱗に触れたら、助からないわ……きっと私も……〉
・ ・ ・
 殆ど激情の赴くままに、東宮は再び尚侍の部屋へ来た。東宮を帳台の内に迎え入れた尚侍は、昨日とは打って変って打ちしおれている。
「どうしたの、桜さん」
 不安気に訊く東宮に、尚侍は赤い目を上げて、震える声で呟いた。
「東宮、私達の事が表沙汰になったら、私達、破滅だわ」
「どうして。内大臣は、桜さんを東宮、つまり僕の妃にする積りなんじゃないの?」
「そうじゃないのよ。今日、藤典侍に訊いたら、尚侍っていうのは、主上のお妃のことだ、って言うのよ。つまりお父様は、私を主上のお妃になさる積りで、出仕させなさったんだわ。それなのに……」
 言い終えずに尚侍は啜り泣く。
「内大臣が!? 桜さんを、あの主上に?」
 東宮の胸の内に、激しい怒りが湧き起こってきた。
〈そんな話があるもんか! 帝ったって、幾ら腹違いとは云え、あんな、建前だけでも兄弟であることが恥ずかしいくらいの、ひ弱な死に損いの薄ら馬鹿じゃないか! そんな奴に、桜さんを取られてたまるか!〉
 東宮は尚侍を、ひしと胸に抱き締め、力強く囁いた。
「桜さん、心配しないで。僕も男だ、それに、僕が今こうしてあるのは、桜さんの御蔭だ。桜さんを、主上如きに渡すものか、身命を賭しても、守り抜いてみせるぞ!」
 尚侍は東宮の胸に顔を埋めたまま頷いた。
「桜さん、主上って、どんな奴だか知ってるか?」
 今上帝を「奴」と呼ぶ東宮に、尚侍は驚いて顔を上げた。東宮は尚も言い募る。
「主上だの、十善の御位だのって言われてるけど、本当は只の、どう仕様もない薄ら馬鹿だ! 新院が、従姉の皇太后と結婚なんかしたから、あんなのが生まれたんだ!」
「しーっ! 人に聞かれたら、どうするの!?」
 尚侍は思わず、東宮を強く制止した。東宮はやや口調を和げた。
「でもね、それだから僕も安心できるんだ。僕はよく宮中に泊るからわかるんだけど、主上は、後宮の妃達、登華殿に桐壷に、梅壷、そういう人達と夜を過ごした事なんか、僕の知る限りじゃ一度もないんだよ。とにかくすごく体が弱くて、あの歳まで生きて来られたのが不思議なくらいでね。だから桜さんも、主上に呼びつけられる心配は、しなくていいよ。仮にもし呼びつけられたとしても、主上にはできっこないさ、昨日僕がしたような事は、ね!」
 東宮が意味深長に囁くのに、尚侍は躯の奥深くが疼くのを感じて、思わず頬を赤らめた。
・ ・ ・
 翌朝東宮は、温明殿から御輿宿へ引き揚げて少し仮眠すると、東宮大進に、内大臣が参内したらすぐここへ来るように伝えよ、と命じた。
 昼過ぎ、内大臣がやって来た。
「東宮、お召しですか」
「ええ、内密の話です。も少しこちらへ」
 膝を進めた内大臣に、東宮は切り出した。
「伯父上は、いかなる御考えがあって、あの人を尚侍として出仕させなさったのか、あの人の従弟として、伺いたい」
「新尚侍、ですな」
「そうです。でも尚侍とは名目、本当は主上のお妃の一人、というのは知っています」
「おやおや」
「私だってここ三年間、一条尚侍と新院の御様子を拝見して来ましたからね」
「これは参りましたな。お若いのに、余りそう、宮中の本音まで見抜かれては」
 言い紛らかそうとする内大臣に、東宮は身を乗り出した。
「どうなのですか伯父上、何故あの人を、主上のお妃に差し上げようとお考えになったのですか」
「まあまあ東宮、そんなに力みなさるな」
「伯父上は娘を私の妃とし、ゆくゆくは外戚として、権勢を摂政太政大臣一派から奪い取ろうとお考えなのでしょう。ところが私も不本意な事ながら、徽子さんは私の子を身籠らない。それなら、もう一人の娘を私の妃として、私の子を産ませたい、そのお考えを前々からお持ちで、それで近江くんだりから、外腹の娘を迎え取ったと、以前から世間では噂されていますがね」
 いよいよ痛い処を突かれた内大臣、言い紛らわす策を弄するばかりである。
「将来は帝の御位に就かれるべき御方が、口さがない世間の噂などに耳を傾けなさるとは、軽はずみな御振舞ですぞ」
「世間の噂は置いておきましょう。この際、伯父上のお考えをはっきり伺いたいのです」
 東宮の真剣な追及に、内大臣は、もはや逃げ隠れできぬと察したのか、表情を改めた。
「では申しましょう。……娘を尚侍、つまり主上の妃の一人となしたのは、摂政太政大臣家への目晦し……。本当は、東宮、貴方の妃となす積りなのです。これは摂政太政大臣殿も御存じない、私と父左大臣だけが示し合わせた事です」
「やはり、そうだったのですね」
 東宮が表情を和げたのを見て、内大臣は、
「ただ、表向きは尚侍ですからな、そこは弁えて頂かないと」
 内大臣も表情を緩めたので、東宮には冗談を言う余裕が出てきた。
「もし私が尚侍と通じて、それが表沙汰になったりしたら、源氏物語の再現ですね。須磨流謫なんて事にならないように、気をつけないと」
「本当に。東宮は主上の、異腹の弟であられるし」
 内大臣も、扇で口元を覆って笑う。この笑い方も、女々しくて嫌だと思っている東宮ではあった。
 実際のところ、東宮にもほんの僅か、不安がない訳ではなかった。東宮にはその下に、今は元服して中務卿宮と呼ばれている三の宮がいるのだ。自分が余りにも、今上帝を蔑ろにした行動を取ると、今上帝の外祖父である摂政太政大臣の圧力によって、東宮の地位が中務卿宮に移る危惧は捨て切れない。摂政太政大臣がその気になったら、左大臣にとっては中務卿宮も自分も同じ孫だから、摂政太政大臣と事を構えるまいとして、東宮廃立を黙認するかも知れぬ。そうなると、自分はどうにもしようがない。
 だが、それでも夜になると、夜の闇が理性の目を覆うのか、尚侍への抑え難い激情に衝き動かされて、温明殿へ向かう東宮であった。尚侍の帳台の中で、東宮は尚侍に、内大臣の本心を囁いた。
「……そうなの。……お父様は、摂政太政大臣様をお憚りになって、私を尚侍になさったのね」
 尚侍は、ようやく愁眉を開いた。尚侍が和やかな微笑みを浮かべたのを見て、東宮はそっと尚侍を抱き寄せた。
「ああ、幸せ……」
 尚侍は東宮の腕の中で、恍惚にも似た溜息を漏らした。東宮は理性も何もかなぐり捨て、我を忘れて尚侍との愛に没入してゆくのだった。
 こうして東宮は、毎晩のように尚侍の寝所へ通い続けた。若さ故のあり余る精力を、これでもかこれでもかとばかり、尚侍に注ぎ込み続けた東宮は、さすがに少々疲れが出てきたようである。
「ねえ東宮、他の方々は、貴方が妙に疲れてるようだとか、そういう事に気付かない?」
 ある夜尚侍は、快い疲労にまどろみかけた東宮に囁いた。
「大丈夫だよ。僕は、そこらのひ弱な貴族連中とは体の出来が違う。大して疲れやしないよ。それにさ、少々疲れ気味で気だるく見えた方が、そこらの連中と同じように見えて丁度いいさ。連中、元から近親結婚で体が弱いくせに、毎晩々々、あちこちの女と寝てるか深酒喰らってるかどっちかなんだから。朝の殿上の間なんかひどいよ。二日酔で酒臭い連中がさ、そこら中で居眠りしてるんだ。そこへ僕一人、相撲取みたいに体力を持て余してたんだよ、この前までは。僕には妻、桜さんの腹違いの姉だよ、それがいるのに、毎朝元気一杯で参内するから、連中不思議がってたくらいなんだ」
「そうなの。貴族の方々って、もっと雅びやかなのかと思ってたわ」
 東宮は唇を歪めた。
「何が雅びなもんか! 女漁りと酒飲むこと、これしか娯しみのない連中さ。巷の庶民が、どんな暮らしをしているか、苟くも国政に携わる者、じかにその目で見、耳で聞き、手で触れてみなくちゃ。それなのに、貴族の誰一人、そんな事しようとも思わない。頭にあるのは官位昇進のこと、下々の庶民の事なんか、一寸だって考えたことはないんだ」
「……」
「桜さんは郡司の館にいたから、少しは洛外の人の暮らしってものを知ってるだろう? 僕は洛外は余り良く知らないけど、洛中の庶民の暮らしは、この宮中の誰よりも良く知ってる積りだ。将来僕が帝位に就いたら、庶民のための政治というものを、実現してみせる。これは僕の、もう一つの約束だ」
 庶民の間から身を起こし、庶民の間に身を置いた者だけがなしうる決意であった。
(2000.8.23)

←第六章へ ↑目次へ戻る 第八章へ→