近江物語 |
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第六章 徽子
三年の歳月が流れた。この間に、帝は三十六歳で譲位して新院と名乗り、小野の御所に移り、当時十七歳の東宮が即位した。東宮時代からの妃は、摂政太政大臣(前の関白左大臣)の孫娘の登華殿女御と梅壷女御、左大臣(前の右大臣)の孫娘で内大臣雅経の長女である桐壷女御徳子と三人いるのだが、何とかして二人の孫娘の腹に皇子を儲けて欲しいという摂政太政大臣一派の必死の願いも空しく、今のところ三人の妃の誰一人として懐妊すらしていない。どころか相変わらず頭も体も弱く、政務は何一つ親裁できず、夜毎寝所に侍るのは妃ならぬ侍医という有様である。こんな有様なので、東宮には兵部卿宮か、その年元服して中務卿宮となった三の宮以外になり手がなく、摂政太政大臣は断腸の思いで兵部卿宮を東宮に立てた。左大臣は、外祖父となる日が近いと思い、手の舞い足の踏む処を知らぬ喜びようである。が、左大臣一派ではあっても内大臣の方は、素直に喜ぶことができない。と言うのも、東宮御息所徽子にも懐妊の様子がないからである。これは当初からある程度予想された事態ではあったが、結婚して三年にもなるのに懐妊せずというのでは、内大臣が焦るのも無理はない。 実際はどうであったか。懐妊する筈がなかったのである。何しろ東宮は、結婚以来徽子と、やるべき事を一度もしていないのだった。これを知るのは東宮と徽子、あとは徽子のごく腹心の女房だけである。 腹心の女房の一人に、宰相の君という、少々才走ってお節介なところのある女房がいた。東宮と徽子が結婚した翌年の夏のある夜、東宮――その頃はまだ兵部卿宮だった。兵部卿宮が徽子の帳台へ入った後、何を思ったか宰相の君は、几帳のすぐ外に控えて、夫婦の閨の様子に聞き耳を立てていた。宰相の君はこの時十九歳だったがまだ独身で、夫婦の間の事に妙な好奇心を抱いていたのだろうか。胸をときめかせつつ聞き耳を立てていたが、そのうちに不審に思い始めた。帳台の中からは、兵部卿宮と徽子の囁き合う睦言は聞こえてくるのだが、装束の紐を解く気配が全くしない。 〈まだかしら? いつまでお話なさる気かしら?〉 そのうちに自分も退屈の余り眠くなり、ついうとうとしてしまった。はっと気付いて、全身を耳にして帳台の中を窺うと、聞こえてくるのは寝息ばかりである。 〈一体宮様と姫様は、ちゃんとあの事をなさっているのかしら?〉 宰相の君は、頬に血が昇るのを感じながら思った。早速、一計を案じた。 翌日兵部卿宮が宮中から帰ってくると、宰相の君はいつものように兵部卿宮の着替えを手伝いながら――兵部卿宮は何でも自分でやろうとするのだが、宰相の君は強いて手伝うのだった――大口袴の帯を結ぶ時、結び目の中に小さな紙片を結び込んだ。そして夜、徽子に夜着を着せる折に、張袴の帯に別の小さな紙片を挟み込んだ。その夜も、兵部卿宮が徽子の帳台に入ってゆくと、その後すぐ部屋に入り、帳台に寄り添って聞き耳を立てていた。 その夜も、装束を解く気配は全く感じ取れぬままに明けた。朝になって、兵部卿宮が参内するので、束帯に着替えさせる折に大口袴の帯を解くと、はらりと舞い落ちた物がある。目ざとく気付いた兵部卿宮が拾い上げてみると、何の変哲もない白い薄様の小片である。兵部卿宮の指に挟まれた小片をちらりと見た宰相の君は、何にも気付かなかったふりをして、参内用の大口袴を兵部卿宮に穿かせる。兵部卿宮が出て行った後で、宰相の君は大急ぎで徽子の部屋へ駈け込んだ。 「姫様、失礼します!」 言うが早いか、まだ寝ぼけ眼の徽子の胸元に手を差し入れた。 「な、何?」 余りにも唐突な行為に、徽子は宰相の君の手を押えることもできない。宰相の君が徽子の胸元から手を引き抜いた時、その指には紅色の薄様の小片がつままれていた。 「宰相、何をするのよ!?」 ようやくはっきりと目覚めた徽子は、両手で胸を押えながら宰相の君を詰問した。 「申訳ございません」 宰相の君は、薄様の小片を握り潰し、徽子の前に手を突いた。 「姫様、昨夜宮様は、姫様の御袴の帯を解かれましたか?」 宰相の君が問うのに、徽子はすっかり不機嫌になって、 「袴がどうしたってのよ? 宰相、お前何かおかしいわよ、朝から人の胸に手入れるかと思えば、袴がどうの、だなんて!」 と棘々しく言うなり、宰相の君に背を向けてしまった。 だが生来気性が穏かな徽子は、夜になると機嫌を直し、宰相の君を夜伽をさせるために呼んだ。夕方宮中の兵部卿宮から手紙があり、母女御の具合が悪いので今夜は帰れないと書いてきたのである。 夜が更けるに従って、女房は一人また一人と自室へ退出し、宰相の君一人が残った。二人きりになると、徽子は宰相の君を近くへ招き寄せて訊いた。 「今朝の事だけど、お前、何が言いたかったの? 私の袴の帯がどうとかって」 宰相の君は声をひそめた。 「昨夜、宮様は姫様と一緒にいらっしゃる時、姫様の御袴の帯を、お解きなさいましたか?」 さすがに、袴を脱がしたかとは問えなかったのだ。顔を赤らめる宰相の君に、徽子は不思議そうに、 「いいえ、私が起きている間には、帯には御手も触れなさらなかったわよ。それがどうかしたの?」 晩生の徽子には、それが何を意味するのか皆目見当がつかなかった。宰相の君は顔を一層赤らめて、 「そうですか。……いえ、止しましょう。姫様も、お忘れになって下さい」 こう言われると逆に追及したくなるのが人情というものだ。徽子の方が身を乗り出し、 「何かあるね。言いなさいよ」 「いいえ、何でもありませんわ。お寝みなさいませ」 宰相の君はそそくさと話を切り上げて、徽子が止めるより早く部屋から抜け出した。後に残された徽子は、一人ぼんやりと物思いに耽った。 〈宰相は何が言いたかったのかしら? 宮様は大抵いつも、私と一緒にお寝みになるけど、私の袴の帯を解きなさった事は一度もないわ。それがどうしたというのかしら? 袴の帯を解くのは、着替える時とお湯を使う時、それに樋殿へ行った時、それだけじゃないのかしら? 寝る時に袴の帯を解くなんて、今まで一度もした事ないのに?〉 自分の部屋へ逃げ帰った宰相の君は、今朝の事を思い出していた。 〈やはり私の思った通りだった! 宮様と姫様は、あの事をなさっていない!〉 だが宰相の君は、事実を確認しただけで、その背景までは察知し得なかった。 〈まあね、宮様はまだ十四歳、そういう事を御存知でないとしても不思議じゃないし。教えて差し上げる姫様も、十七歳というお歳の割には晩生でいらっしゃるし……〉 宰相の君は一人、納得しているのだった。 翌朝になると、徽子は昨夜の宰相の君とのやりとりも大方忘れてしまった。生来、物事に頓着しない性格のせいでもある。 ・ ・ ・
そのまま歳月は流れ、今上帝は十八歳、東宮は十六歳の春を迎えた。今上帝の外祖父として権勢並ぶ者のない摂政太政大臣であるが、いかに権勢盛んでも帝に皇子を儲けさせることだけはできない。となると、次代の帝になることがほぼ確実視されている東宮に、妃を入れておくのが得策というものである。弘徽殿皇太后の兄の右大臣家周には娘が二人あって、上の娘は今年二十歳、五年前に入内して今では登華殿女御と呼ばれている。下の娘靖子は今年十四歳で、最近裳着を済ませたばかりである。この靖子は、齢の割に早熟で大柄、この時代の公卿の娘としては強健な方であったので、摂政太政大臣一派が東宮妃に打ってつけだと見たのは尤もであった。早速右大臣が水面下の工作に走る。「右大臣殿は、登華殿女御の妹君を東宮に差し上げなさるお積りらしい」 「主上をお見限りなさるのかな」 「しっ、声が高い!」 殿上の間は、この噂で持ち切りである。こうなると面白くないのは左大臣一派である。ある日左大臣は、内大臣を呼びつけて言った。 「雅経、どうする気だ。登華殿女御の妹君は徽子よりずっと丈夫だという噂ではないか」 「それは聞いております」 老人の性癖で愚痴っぽくなっている左大臣は、苦々しい口調でこぼす。 「元はと言えばお前の見込違いだ。徳子の方を東宮に差し上げておけば、今頃若宮が生まれておったであろうものを」 〈何を今更。少々御脳がお弱くても、若宮を産ませるには差支ないと仰言ったのは父上ではないか〉 聞いている内大臣も、内心苦々しい思いである。 〈やはり、こうなったらあの子を出すか〉 内大臣はようやく決心して切り出した。 「父上、私の外腹の娘を出しましょう」 年を取って忘れっぽくなっている左大臣は、 「はて、外腹の娘とは?」 「お忘れですか。近江におりましたのを見つけ出して、二条邸の西の対で母上に養われている娘にございます。東宮と同い歳の筈ですから、十六になりますか」 左大臣は俄に乗り気になった。 「ほう、そんな娘がおったのか。それなら、早くその娘を、東宮に差し上げるがよい」 だが内大臣には、外腹の娘を東宮妃の一人とすることに多少気兼ねもあるのだった。と言うのも、本妻の三条北の方通子は弘徽殿皇太后の異腹の妹、即ち摂政太政大臣一派の一員なのであった。本妻腹の娘に若宮が生まれないからと言って外腹の、母もない娘を二番手とするというのは、妻の一族の手前どうもやりにくいのであった。左大臣家としては、摂政太政大臣家との関係を悪化させまいとしての政略結婚だったのだが、今になってみると内大臣にとって三条北の方は足枷にも感じられるのであった。 血統という事を別にしても、三条北の方はかなり嫉妬深く険のある性格で、二条邸西の対にいる外腹の娘に対して、呪詛こそしないものの甚だ不快に思っているのは、内大臣にもよくわかる。内大臣が二条邸から帰ってくると、棘々しい口調で、 「あの母なし子はいかがでした?」 と言うのが常であった。内大臣の主催で裳着式を挙げた折には、十日ばかり顔も合わせず、口もきかなかった程である。つくづく、三条邸に迎え取らなかったのは正解だったと思う内大臣であった。 ・ ・ ・
二条邸の西の対で、内大臣の娘として不体裁でない程度には扱われている桜は、十三歳の時に裳着式を挙げた。桜という名前は女童のようで、公卿の姫君にはふさわしくないと言って、父は律子という名前に改めさせた。邸内では、相変わらず近江の君と呼ばれている。裳着を済ませた律子の、内なる物思いは日増しに増す一方だった。大黒丸は首尾良く二の宮に為り代わったものの、そうなってしまうと却って、気楽に連絡も取れない。そのうちに大黒丸は元服すると、三条の権大納言、自分の父ということになっている人だが、その娘、自分の異腹の姉に相当する事になる姫の婿に取られてしまった。時たま大黒丸、元服後は兵部卿宮、今では東宮からは、いつか必ず貴女と結婚する、それまでは決して他の女と契り交わすことはしないと、短信が届くことはある。律子もそれを、固く信じているのだが、何と言っても直接会えないもどかしさが募るばかりである。東宮は三条邸と宮中を往復する毎日で、二条邸には母の、元麗景殿女御に挨拶するとて、月に一度くらい顔を出す程度である。三条邸に来ると言っても、東宮ともなると身分柄、東宮傅以下大勢引き連れての行啓となり、長居もできないし西の対に顔を出すこともできない。物々しい行列の前駆の声や、車や騎馬の大勢で出入りする気配を遠くに聞きながら、ふうっと溜息をつく律子であった。 今日は東宮の行啓と聞くと、朝からいつになくそわそわとして落着きがなく、行啓の行列が邸に入ってくるのを聞きつけると、女房が目を離した隙には簀子縁にまで出て、一目でも行列を見ようとし、東宮一行が帰ってゆくといつになく打ちしおれた様子になる。そんな律子を見ているうちに、律子は東宮に恋しているのかと勘ぐる女房も出てくる。 「この頃姫様、何か御様子がおかしいわね」 「そうそう。大黒丸とかいう童がいなくなってから暫くは、その童の事を悲しがっていらっしゃったのに、この頃は違うわ」 「あの御様子は間違いなく、東宮に恋してらっしゃるわね、私の拝見するところ」 「どうした風の吹き回しでしょうね?」 「何でも、大黒丸とかいう童は、東宮と瓜二つだったそうじゃありませんか」 「あらそれじゃ何、東宮をその童の形代に? まあ、畏れ多いこと、罰が当たりますわ」 「まさか、光源氏じゃあるまいし。それじゃ男と女が逆よ」 女房達は口さがない。帳台の中で聞いている律子、 〈その東宮が大黒丸なのよ〉 とは命に代えても言うことはできない。 律子が東宮に恋しているらしいという噂は、内大臣の耳にも入った。二条邸の主人である、左大臣の北の方も女房の噂話を聞きつけて、それとなく左大臣に聞かせたらしい。左大臣は、それは一層好都合だと思ってか、 「早く律子を東宮に差し上げよ」 と内大臣をせっつく。 「それは確かにご尤もですし、私も最初からその積りで迎え取った娘です。でもやはり、摂政太政大臣殿の手前、何かと、その……」 内大臣は、この気弱さが最大の欠点だと、昔から左大臣は思っているのだった。 「東宮御息所とするのがまずいと言うのなら、尚侍という手はどうだ? 建前は女官の一人、表向きの本音は帝の妃、しかして真の本音は東宮の妃。ここまでやれば、摂政太政大臣家の目を晦ませられようが」 左大臣は入れ智恵する。齢は取ってもこの老獪さは一向衰えない。内大臣は喜んで、 「成程それは名案。では早速工作開始と行きましょう」 (2000.8.23) |
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