近江物語

第五章 元服
 年が明けて一月、十三歳になった二の宮(本当は大黒丸)の元服式が、帝のお声がかりで盛大に営まれた。加冠役は二の宮の祖父右大臣、理髪役は伯父の権大納言、その他の役も権大納言の次弟の中納言雅兼、末弟の参議兼中将雅忠と、右大臣家総出であった。元服と同時に二品兵部卿親王となった。
 その夜兵部卿宮は、車に乗せられて三条邸へ連れて行かれた。
「どこへ行くのです」
 兵部卿宮は、同車した権大納言に尋ねた。
「三条の邸です」
「僕、いや、私の邸は二条ですが?」
 すると権大納言は、意味ありげに笑って、
「宮様も、もう御成人なられた方。お独りでお寝みでは……お分りですか」
 兵部卿宮はむっとした。
〈それくらいわかってらあ! 何だってこう、ねちねちした言い方をするんだろ!〉
 だが三十を過ぎた大人を、この時代ではもう大人と見倣される者が、面と向かって罵るのは不体裁である。
「……結婚、ですか」
 兵部卿宮は、わざと恥じらうように言った。権大納言は含み笑いする。
 三条邸の東の対に通された兵部卿宮は、女房に先導されて一室に入った。薄暗い室内をゆるゆると歩み、几帳をくぐると、そこに一人の姫君が横たわっている。
〈この人を、僕の妻にする気なのか!〉
 兵部卿宮は、束帯の紐を締めたまま、ゆっくりと坐り込んだ。恋愛も何もない、ただの政略結婚である。兵部卿宮は一人の男として、こんな結婚には気乗りがしない。
〈僕の妻となる人は只一人、桜さんを措いて他にはいない、て心に決めたんだ。それなのに、こんな顔を見たこともない姫と、結婚なんかできるか。僕だって男だ、男の矜持がある。最後の一手をするしないは男が決めるんだ、僕は何もしないぞ!〉
 翌朝兵部卿宮は、昨夜の束帯姿のまま、三条邸を後にした。紐一本乱れぬままの帰邸に、女房連中は不審に思ったかも知れない。帰邸するとすぐ、兵部卿宮は、桜の曹司に忍び寄り、一枚の畳紙を投げ入れた。
 昨夜兵部卿宮が二条邸から連れ出され、三条邸へ行ったと聞いた桜は、我知らず湧き上がってきた嫉妬の情に、一夜眠れずに明かした。
〈大黒丸! 私がいながら、三条へ行くとは何よ! 私との約束は、何だったの!〉
 口惜し涙に袖を濡らしつつ、しまいには、兵部卿宮は大黒丸が為り代った偽物だ、本物は疱瘡で死んだ、とバラしてしまおうか、とまで思いつめたのは、恋に盲いた女の短慮という他はあるまい。そうして涙を流しているのを、侍女は幼馴みが傷心の余り失踪したせいだと思い込んでいるのを、滑稽だというのは気の毒だろう。
 そこへ、畳紙が投げ込まれたのだ。侍女が拾って、桜の許へ持ってくる。桜が広げてみると、小さな字で、

 「約束は守りました」

 これだけでは他人が拾っても何の事だかわからないだろう。だが桜は、全てを了承した。顔に、ふっと笑みが上ってきた。
 兵部卿宮は、元服して官職も貰ったので、内裏へ出仕することになった。何と云っても今上帝の第二皇子とあって、即日昇殿を許され、殿上の間に伺候することになった。
 清涼殿の殿上の間は、上は摂関から下は六位の蔵人まで、昇殿を許された殿上人が屯す部屋である。そこへ蔵人の先導で入ってゆくと、並みいる貴族の目が、一斉に集中した。
「二品兵部卿宮のお成りにございます」
 蔵人に紹介されて、兵部卿宮は笏を持ち直した。左右大臣に大納言、錚々たる月卿雲客の視線が痛い。三ヵ月前の自分には、覗き見る事さえ思いも寄らなかった世界の真只中に、今自分は身を置いているのである。
 軽く会釈して、末席近くの空いた所に坐ると、周りの貴族達が、ひそひそと囁く気配がする。兵部卿宮は黙って、悠然と坐っている。
〈しかしまあ、暇だな。もしかしてこれから毎日、ずうっと昼間はこうやって坐ってるのかな? 貴族のお偉方は、この日本全部を治めてるっていうから、さぞかし大忙しなんだろうと思ってたけど、大違いだ〉
 こう思ったのは、一刻ほども坐り続けて、腰がそろそろ痛くなってきた頃だった。そこへ蔵人頭が来て、
「兵部卿宮。主上のお召しにございます」
 またざわめきが起こる。兵部卿宮は、今上帝の次男(ということになっている)だから、遅かれ早かれお召しがかかるのは当然だが。しかし兵部卿宮にとっては、亡き二の宮の実父に見破られるかどうかという正念場なのであった。兵部卿宮は、ゆるゆると立ち上がろうとして、足が痺れてよろけ、隣にいた刑部少輔に倒れかかった。やっとの事で態勢を立て直し、失態を詫びるのを、少輔は兵部卿宮を支え、励してくれた。刑部少輔なんていうのは全くの窓際族で、この人も貴族としては全く枝葉の出で、五十近くなってようやく永年勤続賞的な従五位下を頂戴し、刑部少輔という閑職にありついたのだった。それだから、次期東宮、将来の帝の最右翼たる兵部卿宮が倒れかかっただけでも、一生の名誉と思い込んでいる様子がある。
 帝の御座所に、蔵人頭の先導で入ってゆく。簾の向こう側、一段高くなった床に人が坐っている。簾の横に坐っているのは、朱色の袍を着た、年の頃は兵部卿宮と大差ない若者だ。隣に壮年の貴族が坐っている。兵部卿宮は床に坐り、深々と頭を下げた。
「兵部卿宮、面を上げなさい。もっと、近く」
 簾の内から声が聞こえる。この声の主こそ、天下万民を統べる今上帝その人であるのだ。だが兵部卿宮の胸の内には、至尊の主上に対する恐懼の念も、父に対する敬愛の念も、どちらも湧いてこない。
 兵部卿宮が顔を上げると、帝は女官に命じて簾を上げさせた。
〈この人が、皆がその名を口に出すのも憚る、主上なのか〉
 簾の向こうに坐っている帝は、二の宮があと二十年も経ったらこうなるだろうというような顔の、一人の三十男、としか見えない。ただ、着ている袍の色だけは、殿上の間に屯す貴族――兵部卿宮もその一人だが――と違い、黄茶色というか独特な色である。
「そなたが参内する日を、心待ちにしていたよ。さ、もっと近く寄って、父に顔をよく見せてくれ」
 帝は、父親としての親愛感に溢れた声で言う。兵部卿宮は覚悟を決めた。
〈この人に見破られなければ大丈夫、それに余りぐずぐずしていて変に思われても困る〉
 簾の前までにじり出た兵部卿宮の顔を、帝はまじまじと見て言った。
「昨冬そなたが疱瘡に罹ったと聞いて、父も東宮も、どれ程心配したことか。元服もせずに、虚しくさせてしまったら、どれ程残念な事だったろう」
〈どうやら大丈夫だな〉
 兵部卿宮は一まず安心したが、まだ用心はせねばならぬ。
「主上、不吉な事を仰言いますな。私、元服致しましたからには、菲才ながら主上と兄東宮をお助け申し、天下万民の為に力を尽くす所存にございます」
 何とも威勢の良い所信表明である。台閣に列する者、このくらいの気概がなくてどうする、と兵部卿宮は思っている。ところが帝はふっと微かな寂しさの混った苦笑を洩らした。
〈天下万民、か。兵部卿宮は、まだ何も知らないんだな、今の政治の実態を〉
 さすがに帝という立場上、こんな事をあからさまに口にはできないので、
「東宮を助けるとは殊勝よのう。私もそう思っていたところだ」
 東宮は今上帝の第一皇子である。関白左大臣家隆の娘、弘徽殿中宮嬉子を母として生まれ、今年十五歳である。ところが帝も左大臣一派も悩んでいることには、この東宮は生来体も頭も弱いのであった。これも何代にもわたる近親結婚の所産であるが。体は同じように弱くとも頭はまだ常人並である二の宮を早く元服させ、東宮の後見につけようと帝は心を砕き、そこへ二の宮の生母麗景殿女御の父右大臣の一派がつけ込み、あわよくば二の宮を次期東宮に、と目論んでいたのだった。もっとも右大臣一派と言えども、東宮を見放している訳では勿論なく、二の宮の従姉にあたる権大納言の娘徳子を東宮妃として、もしかして男皇子が生まれでもした場合への布石は怠りない。このように外戚の地位を確保するために二股も三股もかけるのは昔から行われてきたことだ。
 帝に促されて、兵部卿宮は東宮に向き直った。
「東宮、兵部卿宮にございます。初めてお目にかかります」
 異母兄弟というのは、子供のうちはずっとそれぞれの母の許で養育されるので、東宮と兵部卿宮が会ったのは今日が初めてであった。兵部卿宮が挨拶するのに、東宮は応えない。よく見ると、涎を垂らしながら眠っている。
〈何だこいつ!?〉
 内心驚きと落胆と軽蔑を禁じ得ない兵部卿宮であった。東宮の隣に坐っていた東宮傅が、東宮を揺り起こす。
「東宮、お目覚め下され!」
 やっと目を覚ました東宮、涎を袖で拭うと、兵部卿宮をぼんやりと眺め、東宮傅に、
「この人誰?」
 東宮傅、春だというのに額に汗を浮かべ、
「東宮の弟宮、兵部卿宮様にあらせられます。兵部卿宮様、非礼をお許し下され」
 兵部卿宮は内心苦笑しながら、外見では微笑んで、
「いいえ、春眠暁を覚えず、ですから」
 こんなのが、当意即妙と言われる訳だ。東宮傅も蔵人頭も胸を撫で下ろす。
 その日夕方から、桜を愛でる宴が催されるということで、兵部卿宮も出席した。昼間は特に何をしているというのでもない公卿連中は、宴となると俄然活気づいて、酒をせっせと酌み交わしながら夜遅くまで談笑しているのを、兵部卿宮は鼻白む思いで見ている。
〈公卿って、こんなもんか。その公卿が集まってやっている政治というのも、どんなもんだろ。兵部卿というから、兵部省の全権を任せられるかと思ってりゃ、兵部省へは行かなくてもいい、と言うんだからな〉
 権大納言と共に、早目に退出して三条邸へ帰った兵部卿宮は、昨夜のように徽子の部屋に導かれたが、今夜も何もする気はない。酒に酔ったと口実を設けて、一人さっさと寝てしまった。
 三日目の夜、初めて兵部卿宮は、姫の顔を見た。痛々しいほど痩せて青白く、衣の重さにも堪えかねるといった体である。
〈こんな人に僕の子供を産ませようだなんて、そんな無茶な事、できないよ、本当に〉
 兵部卿宮は、血色も良く丈夫そのもののような桜を思い出した。
〈それにしても、いつになったら桜さんと結婚できるんだろ。権大納言に、それとなく当たってみようかな〉
 その夜も、何事もなかった。兵部卿宮は勿論、指一本触れる気はないし、徽子の方も、十六歳という齢の割に晩生で、男が何もせずに、綿々と語りながら添臥しているのに、全然疑問を感じていないのだった。
 翌日兵部卿宮は参内する途上、同車している権大納言に、何気なく言った。
「ときに伯父上、いつ頃結婚させるお積りなのですか」
 権大納言、唐突な話に訝りながら、
「何の話です? 結婚させるとは、誰を?」
 兵部卿宮は一層何気なく言った。
「二条の邸の西の対にいる、伯父上の姫君ですよ。誰を婿に取るお積りなのですか」
 権大納言、ようやく兵部卿宮の真意を察した。そのうちに裳着式を挙げて、いつかこの兵部卿宮の妃としようと考えてはいたのだが、先方からはっきりと言われてしまうと、些か面喰らうのも事実である。動揺を隠そうと、
「兵部卿宮、徽子と結婚したばかりで、何を仰言るかと思えば、ほほほ」
と笑いに紛らかそうとする。兵部卿宮、
〈自分からやり出した事じゃないか! 何を白ばっくれてるんだ、馬脚を表したのにも気付かずに〉
と内心不愉快である。怒りを抑えて、
「何も、私を婿に取ってくれとは申してませんよ」
 本音をわざと隠す。貴族連中の、虚々実々、本音を言わない言葉の駈け引きを、早くも身に着けていると見るべきか。
(2000.8.23)

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