近江物語

第四章 転身
 その年の冬、またしても疱瘡が西日本から発生し、洛中にも流れ込んだ。疫病の猖獗を恐れることは上下貴賎を問わず、あちこちの社寺では祈祷が行われている。二条邸内でも祈る者は少なくないが、只一人、異なる思いを胸に抱いている者がある。他でもない、桜である。勿論、自身の本心は大黒丸以外の誰にも語っていないし、大黒丸も恐れをなして桜の言葉を忘れようと懸命になっているので、桜の本心は邸内の他の誰にも知られていない。
 十二月十一日、二の宮が、熱を発して病床に臥した。邸の内外にも、既に病人が出ていた頃である。大黒丸は逸早く知って、夜中にそっと桜に逢って知らせた。
「いよいよね。大黒丸、二の宮の近くに詰めて、入れ替る隙を窺いなさいよ」
 桜は辺りを憚って、ごく小声で囁く。
「近くに詰めて?」
 尻込みする大黒丸に、桜は迫る。
「大丈夫よ。貴方は一度、疱瘡に罹ってるでしょう。疱瘡に一度罹った人は、二度と罹らないって言われてるでしょ」
「う、うん、それは聞いたことあるけど」
「だったら、行きなさいよ。本当なら私が行きたいところなんだけど、私は権大納言の姫という窮屈な身だし、それに疱瘡に罹ったこともないから、私が行く訳にはいかないの」
 尚も気乗り薄な大黒丸に、桜は一層語気を強めて詰め寄る。
「大黒丸、私がこれ程貴方の事を思ってるのに、それでも嫌と言う気? 今は、貴方が立派な身になって、私とも結婚できる、千載一遇の好機なのよ! 貴方が郷里を出た時の約束、覚えてるわね? 今貴方が何もしなかったら、貴方は立派な身になるったって高が知れてるし、まして私とは、決して結婚できないわよ。貴方、私と結婚したいの!? したくないの!?
 私は貴方に、立派な身になって欲しいのよ、だから今まで、こんな窮屈な貴族暮らしに耐えてきたのよ。どうして私が、貴方と駆落ちしなかったか、わかる? さっさと駈落ちすれば、貴方と一緒になれるし、こんな重っ苦しい衣を着て、あの鼻持ちならない古女房連中、私がボロを出すのを見つけて田舎娘と嘲ってやろうと鵜の目鷹の目の連中や、何考えてるのかわからない間の抜けた貴族のお偉方連中に囲まれて、日も当たらない帳台に押し込められて庭にも出られない、こんな窮屈な暮らしから解放されるわよ。でもそれじゃ、貴方は一生、日陰者として暮らさなきゃならない、郷里へも帰れない、それじゃどう仕様もないわよ。だからこそ、貴方が二の宮とうまく入れ替る機会を待ち続けてきたんだから」
 大黒丸は黙って頷いた。
 翌日から大黒丸は、頻々と二の宮の部屋へ行った。侍医や女房も、大黒丸は一度疱瘡に罹ったことがあると聞いていたので、特に止めようともしない。
 発病から三日ばかり経って、漸く熱が引いてきた二の宮は、近くに坐っている大黒丸に気付くと、力ない声で言った。
「ああ……大黒丸だね……来てくれたんだね」
 八月のあの日の一件以来、大黒丸は二の宮に対しひどく屈託した気持を持つようになり、二の宮の方でもそれが漠然とではあるが感じられるのだが、何故大黒丸がそうなったのかにはまるで思い至らず――自分が桜と結婚させられることなど全く念頭になく、まして大黒丸が桜に恋しているなどと知る由もなかったから当然だが――ただ大黒丸が自分に隔てを置いている様子なのを残念に思っていた。それで、重病に臥して気が弱くなっていたせいもあろうが、大黒丸が見舞いに来たと知るとすっかり嬉しくなったのだった。
 大黒丸は、二の宮の物言いが以前にも増して屈託ないのに、冷たい侮蔑が湧き起こってきた。
〈大病の一つもすれば、少しは大人になるかと思えば、これだもの〉
 そんな内心とは裏腹に、表向きはにこやかに、病床の二の宮を励ます言辞を弄する。
「僕だって治ったんだもの、二の宮様もきっと、治りますよ」
と言った途端、そうならなければ、と一瞬思った自分自身の心に気付いて、全身の血の気が引く思いに虜われた大黒丸であった。我知らず顔が強張ったのに、二の宮も気が付いた。
「どうしたの?」
 少し顔を曇らして、無邪気に訊く二の宮に、二の宮がこれほど幼稚で救われた、と思うと同時に、この幼稚な二の宮を滅ぼすに等しい陰謀に加担している自分が疎ましく感じられて、大黒丸は顔を伏せた。
 翌日大黒丸が二の宮の部屋へ行くと、面会謝絶の状態であった。一夜にして発疹が全身に広がり、さらにそれが大小無数の痘になり、また紫色の斑があちこちに出ているという。熱は更に高くなり、意識朦朧として薬湯も食物も受け付けず、痘を次々に掻きむしって凄惨な顔になっている。荒い息をしながら、やつれた顔を真っ赤にして臥している二の宮を見ると、大黒丸は胸が張り裂けんばかりになって、侍医が制するのも聞かずに二の宮に縋りつき、声を限りに叫んだ。
「二の宮様、僕です、大黒丸です!」
 二の宮は高熱に脳を冒されていたのか、大黒丸を虚ろな目で見ても、何の反応も示さなかった。
 大黒丸が悄然とした様子で西の対へ行くと、待ち構えていた桜が、大黒丸を呼び寄せて訊く。
「どう? 二の宮様の御様子は」
 小近江や侍女がいるので、切実に二の宮の安否を気遣っているという声音を作る。大黒丸はそこまでは考え至らず、
「お会いできなかったから、よくわからないけど……」
と二の宮の病状を、女房から聞いたのよりは軽いように話した。それを聞いて、小近江や侍女達は、いかにも心配だという様子で手を揉んでいるが、帳台の中にいる桜はどう思っていただろうか。
〈面会謝絶、か〉
 その後、東の対から漏れ聞こえてくる二の宮の様子、比叡山のさる高名な阿闍梨が呼ばれて、頭から黒煙を立ち昇らせるほど一心不乱に祈祷している等と聞いて、桜は一層確信した。
〈今夜が峠だわ〉
 夜更け、桜は音もなく帳台を抜け出し、袿袴だけの軽装で――衣擦れの音を立てないように――曹司を出て、東の対へ向かった。几帳や壁の間を縫って、二の宮の部屋の裏側に忍び込んだ。部屋の中からは、老僧の嗄れ声と鐘鼓を打ち鳴らす音が、間断なく響いてくる。
〈こんなに喧しくやられたら、治る病人も治らなくなるわ。病気を治すには安静が第一だってのに〉
 桜は几帳の隙間から、二の宮の臥している几帳の中へ忍び込んだ。仄かな灯に浮かんだ二の宮の顔を見て、桜は息を呑んだ。母を看取ったことのある桜は、一瞥して全てを察した。
 桜は素早く部屋を抜け出し、自分の曹司へ取って返し、大きな伏籠を持ち出すと、それを持って大黒丸のいる雑舎へ走った。大黒丸の寝ている部屋へ、音もなく忍び入ると、小近江達に気付かれぬように、そっと大黒丸を揺り起こした。
「……何だい」
「早く、私について来て、早く」
 桜の先導で、大黒丸は二の宮の部屋の裏側へ忍び込んだ。
「二の宮は死んだわ。坊さん達が気付かないうちに、二の宮になりすますのよ」
 桜は大黒丸に耳打ちする。茫然とする大黒丸。桜は大黒丸を、几帳の中へ押し込んだ。目の前にいる二の宮は、もはや息をしていなかった。
〈よし、こうなったら僕も男だ。やれる限りやってやる〉
 大黒丸は肚を決めた。既に冷たくなっている二の宮から、装束を全部脱がせ、自分も装束を脱いで、二の宮の装束に着替える。二の宮の衣は、何やら不快な感触があちこちにあって、着ながら身が震えた。
 頃合いを見計らって、桜が顔を出す。大黒丸は、裸で横たわっている二の宮の躯を、自分の衣でざっと包んで、滑らすように桜の方へ押しやる。
「あとは貴方次第よ。うまくやりなさいね」
 桜は大黒丸に耳打ちすると、顔を引っ込めた。大黒丸は衾に身を滑り込ませ、わざと荒い息遣いを始めた。
 桜は、二の宮の躯を折り曲げて、大黒丸の衣でしっかり包み、帯で縛った。それを伏籠に入れ、伏籠を引きずってそっと抜け出した。早くどこか、人目に付かぬところに埋めてしまわないと。
 桜は伏籠を引きずって、雑舎の北側へ行った。雑舎から鍬を持ち出すと、衣の裾をからげ、跣足のまま地べたへ降りた。植込みの陰に、伏籠が入るくらいの穴を掘り、その中へ伏籠を落とし込み、土を盛り上げた。
〈後で、きちんと供養してあげるからね〉
 冬の冴え渡る満月に照らされた桜の顔は、羅刹女さながらの美しさと恐ろしさを湛えていた。
・ ・ ・
 翌朝侍医が診察すると、二の宮の熱は嘘のように下がり、顔の痘も乾いている。まだ顔色は悪いが――大黒丸はここ数ヵ月、失恋の傷手に心患っていたのだ――快方に向かっていることは明らかであった。こんなに急激に回復したのに、全然不審の念を抱かないのはどうした事だろう。比叡山の阿闍梨も、齢のせいでかなり耳が遠くなっていたので、夜中に起こった出来事に全く気付かず、御仏の加護の賜物よと得意になっている。二の宮の病気を見事に治しおおせたというので、世人はこぞってこの阿闍梨を誉めそやし、今上帝や先帝からも豪勢な下賜品やら寄進やらがあって、阿闍梨の名声はいやが上にも高まった。
 二条邸の一部では、別の動揺が起こっていた。十五日の夜、大黒丸が忽然と消えたのだ。まるで神隠しに遭ったかのように、影も形もない。一つ部屋に寝ていたのに、朝になったら衾だけ残して消えていたとあって、小近江の驚き騒ぐ様子は一通りでない。半狂乱になって邸中走り回り、塗籠の中から床下、遣水の中まで探し回ったが、どこにも衣一枚落ちていない。そのうちに、もしかすると桜との仲に絶望して姿をくらましたのか、と思いついて、桜の曹司へやってくるなり、泣く泣く、
「大黒丸の事、何か御心当りはございませんか」
と言って桜に縋りつく。桜は急に、小近江が可哀想になったが、ここはうまく立ち回らねば、と考えて、
「いいえ、何も。大黒丸が何か?」
 小近江は泣きながら、
「今朝起きましたら、いないんですよ。もしかして、姫様との仲を裂かれる辛さに、絶望して行方を絶ったかと……」
 後は言葉にならず泣き伏す。桜は驚いたふりをした。
「大黒丸が!? ……きっとそうよ、私との約束が叶いそうになくなって、思い余って行方を絶ったんだわ! ああ……どうして私に、一言、言ってくれなかったの!」
 自ら発する言葉の空々しさに、桜は自嘲の笑いを漏らしそうになった。慌てて口元を覆い、悲しむそぶりをする。
 当の大黒丸の方は、まだ暫く安静にしていなければ、と侍医に言われるまま、几帳の中で横になっている。そうしていても、大黒丸が消えたと小近江が騒ぐ声が漏れ聞こえてくるので、小近江が可哀想でならなかった。だが、今更後へは退けない。今となっては、母親代りにもなってくれた小近江を冷酷にも見捨て、二の宮を演じ切ることだけが、自分に残された道なのだ、と思い切った。そこまで思い切れたのは、所詮小近江は実母でも乳母でもない、一介の他人だったからではないだろうか。桜が乳母の小近江を欺くことに躊躇しなかったのとは別の理由であろう。
 小近江はとうとう、心痛の余り病床に臥した。下仕えの男の子が、権大納言の御落胤の姫君と知らずに筒井筒の仲となり、結ばれる望みを失って失踪した、という話は、いつの間にか世間にも漏れ広がり、町の女達の紅涙を絞ることになった。侍女達の噂話になったのを聞いて、内心では笑いが止まらない桜であった。外見は、筒井筒の恋が破れたことを悲しんでいるふりをしていたが。右大臣の北の方が、二の宮はとても立派な親王だといって慰めるのに至っては、聞きながら噴き出すのを怺えるのが精一杯であった。
(2000.8.23)

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