釧路戦記 |
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第三十九章
午後十時頃、私は錦町にいた。ある角を曲った時、ほど遠くない所から声が聞こえてきた。私は耳を澄ませた。「な、お前、俺とお前の仲じゃないか。戦友だろ? 見逃してくれよお」 「誰が戦友だって? 俺とお前は敵同士だ」 私は声のする方へ歩み寄った。声の主が判った。一人は矢部だ。もう一人は? 「助けてくれ! 殺さないでくれ!」 矢部の、絶叫に近い哀願だ。それに続いて起こった一発の銃声! 私は銃声のした方へ駈け寄った。路地を覗くと、そこに人影があった。銃を構えて引鉄を引いた。…… 弾丸切れだ! ポケットにも弾倉ケースにも一個の弾倉もない。思わず舌打ちした。 「畜生!」 すると路地から声がする。 「そこにいるのは矢板だろう?」 私の名前を何故敵が知っている? 「弾丸切れなんだろう。俺はあんたに言いたい事があるんだ。敵も味方もなしにして、話を聞かないか」 思い出したぞ。矢臼別の要塞にいた時分に民間人に手を出したかどで私に叩き出された中島邦雄だ。あいつめ! 変節にも程がある! もう一発弾丸があれば……。 「何だ。聞こうじゃないか」 私は中島に歩み寄った。中島は言った。 「お互い、武器には手を触れない事にしよう」 「よかろう。話したい事ってのは何だ?」 中島は芥バケツに腰を下ろした。私は壁に凭れた。 「あんたは今、きっとこの俺を罵りたがってると思う。俺を裏切り者だと言って。その事で、一言言いたい。 そもそも俺が討伐隊に入った動機なんてのは大した事じゃない。高校を中退して毎日ぶらぶらしてるのも張り合いがないから、何か刺激的な事でもしようかと思ってた時にさ、『討伐隊』なんてちょっと面白い名前の組織があるって聞いたから、一つ入ってみようかと思ったんだ。入ってみたら軍隊だった。自衛隊へ行った友達が言うのと比べてみたら、給料は出ないけど規律はやかましくないし、居心地が良かったよ」 何たる言い草だ。私が、妻や子供達の怨嗟を晴らすべく決意して入隊した所へ、こんな安易な動機で入った奴がいたとは思わなかった。 「ある時急に訓練が厳しくなったけど、大して苦でもなかったから辞めなかった。そうしたら今年の六月になって、こんな田舎へ連れて来られたと思ったら、あんな原野のど真ん中の穴倉へ入れられた。何にも娯しみがなくて退屈だったけど本物の鉄砲は嬉しかったな。それで人を撃つなんて、刺激的だった」 言う言葉も無い。 「娯しみが無い、の一番は女がいないことだった。山岡は冷たくて色気のかけらも無いし。本当にこればっかりは弱ったよ。 もっと小さい穴倉へ移って暫くして、あんたが小隊長として来た後で、あの日さ、夜の当番が女を連れてきた日。しかも二人。あの時は俺は嬉しかったな。これで暫く振りにやれると思うと。今だから言うけどさ、あの時の連中の中で最初にやったのは俺だよ。串田とかが尻込みしてるからさ。相手は……どっちだったっけな。とにかく久し振りだったしスリル満点だったし、童貞捨てた日と同じくらいはっきり覚えてるよ。結局二人ともやった。 そうしたら何だい。あの晩、寝てるところをいきなり起こしに来て、俺に何も言わせずにぶん殴った。それで外へ連れ出して、串田と羽田が殴られてるとこへ来たら、あの二人があんたに逆らったからと言って俺を殺そうと言うし、あの二人があんたに逆らったのは俺と関係ないのに、巻き添えでまたぶん殴られてさ。歯が三本も折れたんだ。どうしてくれる。俺はあんたに訊きたいよ。あんた、前の戦争で中国へ行ってたそうじゃないか。あんた中国で女を犯した事ないの? どうなんだよ?」 私は言い返した。これ以上この下衆に減らず口を叩かせたくない。 「それなら答えよう。俺は中国で女を犯した事は一回もない。どうだ」 すると中島は虚を突かれたか、少時黙り込んだが、やがて言った。 「へっ! これだから堅物は嫌だね。もしかして、只のインポなんじゃないの? 穴倉を追い出された俺は決心した。もともと大してはっきりした理由もなく入っていた隊だ、こんな目に遭わされて、ずるずると入っているなんて嫌だったからさ、釧路で人混みにまぎれて逃げたよ。 逃げはしたけど行く所も無い。そこで俺は革命軍に入ったんだ。何しろ人員不足で弱ってたとこだから歓迎されたよ。経験があるって事でさ、最初から一等兵。俺より前からいるのが敬礼するんだぜ、いい気分だったよ。 しかもさ、ここには女がいた。革命軍の女兵士は皆、男とやりたくてうずうずしてるからさ、三日に一偏はやったよ。前いたとこと比べると天と地の差だ。 何てったって楽しかったのはなあ、二−三人で町へ出かけることさ。金がないから行くべき所へは行けないだろ。じゃどうするかって? 裏通りなんかでさ、襲うんだよ。女なんか、口では嫌がってたって本当はやりたがってるのさ。ちょっとうまくやりゃすぐ喜ぶんだから単純なもんさ」 もし山岡が聞いたら憤怒に発狂するだろう。 「最高に楽しかったのは十月のいつだったかなあ、学校帰りの女子高生を襲った時さ。やっぱり処女を犯す喜びはやってみなきゃわかんねえな」 絶対に殺してやる。生きて明日の朝日を拝めると思ったら大間違いだぞ。宮崎の悲しみをわからせてやる。 「それはそうとして、あんたは俺のことを裏切り者だと言いたいんだろうけど、俺は裏切り者なんかじゃないぞ。だって、矢部の奴、もう味方じゃないんだもの。ハハハ」 私の心の中に、激しい憤怒が湧き起こってきた。それは急速に頭のてっぺんまで昇りつめ、固く握った拳にみなぎった。 「じゃあな。何か言いたいことは無いか? あんたは俺を殺せない。武器を使えないからなあ。あんた、それとも男の約束を破る?」 「言い残すことはそれだけか?」 私は、憤怒に燃え盛る心を抑えながら言った。声が震えた。 「あ、そうだ。ちょっと面白い話があるんだ。聞かしてやろう。 昨日の朝だったな。俺は分隊の仲間と一緒に、川の南の方の人家に押し入った。一ヵ月間も戦わなかったから、久し振りで面白かったよ。そこの家で食い物と金を手に入れて、住んでる奴等、俺達に抵抗したから次々に殺した。全く馬鹿な奴等だよ。二階へ逃げてった子供がいたから追っかけてって、思い切り犯した。やっぱり年増よりガキの方がいいや、しかもそいつは処女だったし」 もしかするとこいつは、宮崎の家に? 「何て名前だったかな……宮なんとか、」 とうとう私の怒りは大爆発した。私は中島の頬に鉄拳を炸裂させた。中島は芥バケツもろとも引っくり返った。 やっと顔を上げた中島は、恨みがましい声で言った。 「いきなり何するんだよ……痛えじゃないか」 私はその顔に唾を吐いて罵った。 「黙って死ね!」 中島は突然、私の前の地べたに顔をすりつけた。私はその後頭部に、長靴の踵を撃ち下ろした。頭蓋骨が割れる音がした。 「助けて……」 中島が喘いだ。私は尚も中島に唾を吐きかけながら罵った。 「助けを乞うた矢部を、殺した貴様に、そんな口をきく資格は無え! さっさと死ね!」 中島はよろめきながら立ち上がると、やにわに腰の銃剣を抜いた。私は言った。 「まだ誰か殺す気か?」 中島はいきなり銃剣を突き出してきた。私はその腕を両手で鷲掴みにすると、腕を外側へねじり上げ、肘を自分の膝の上に打ち降ろした。凄絶な音と共に中島の右肘は逆に折れ曲がった。 「ぎゃああああああっ!!」 中島は口から血しぶきを飛ばして絶叫した。 「うるさいんだよ」 私は地面に散らかった芥を拾い、中島の口に詰め込んだ。 中島は銃剣を左手に持ち替えると、尚も私に向かってきた。頭を割られた奴の、どこにこの生命力があるのか。私は中島の左腕を掴むと、渾身の力を込めてねじり上げ、中島の握った銃剣を、中島の左目に突き刺した。中島の腕の力が弱まった瞬間、私は銃剣を奪い取って口に銜え、中島の体を俯向けに地べたに投げつけた。すかさず私は中島の左腕を掴み、肘を力任せに踏み潰し、肘をへし折った。 さあ両腕を折ってしまえばこちらのものだ。私は中島の体を仰向けにし、両手を左右に広げて、銃剣で掌を串刺しにした。これで中島は地面に磔になったも同然だ。私は中島に馬乗りになった。 「どんな具合に殺されたいか言ってみろ」 おそらく、私の生涯に口にした、最も恐るべき言葉であろう。中島は首を振るだけだ。 私は中島の上体に鉄拳を雨霰と叩き込んだ。顔が潰れ、肋骨が砕け、胸が凹んだ。中島は顔の下半分から胸まで血に染めている。私は宙に飛び上がると、中島の鳩尾に猛烈な鉄拳を叩きつけた。胃が破裂した感じが拳に伝わった。中島は血と未消化物を吐き散らしながらのたうち回った。 やがて中島は、断末魔の痙攣をすると、動かなくなった。変節漢中島邦雄は死んだ。私は心の中で言った。 (矢部、仇は取ったぞ。お前の無念、この俺が晴らしてやったぞ。これでいいだろう。安らかに成仏しろよ。 宮崎、お前の仇も取ってやったぞ。こいつが、お前を生娘でなくした奴だ。そいつは、俺の手に殺された。殺されなければならなかったのだ。お前が憎んでも憎み切れぬその男を、俺が殺してやったのだ。少しは気が晴れただろう……) (2001.2.10) |
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