釧路戦記 |
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第三十八章
その日の夕方、私は前線本部へ行った。ここには東京第一中隊を始め、釧路駐屯の各中隊の本部が置かれ、さらに、手狭な衛戍病院を補うために、臨時の衛戍病院が設営されている。一階と二階が病院で、三階と四階に各中隊の本部が入っている。私は病院内を、負傷した部下達に声をかけて回った。一階から二階へ昇る階段のところで、階段を駈け下りてきた秋山参謀と鉢合わせした。「矢板、宮本を見なかったか?」 私はかぶりを振った。 「いや、この階では見てない」 秋山参謀は困惑した顔で、 「全くあいつ、どこへ行ったんだ? 中隊長室の見張りを命じられてるのに」 「見つけ次第、頚っ玉捕まえて引っ張って来よう」 「もしかすると、外にいるかも知れないな。 そうだ、上村か大原に捜させてみよう」 参謀は階段を上って行き、私は続いて二階へ行った。近くの部屋へ入ると、そこには山岡と谷口がいた。 「よう山岡、頑張ってるな」 山岡の笑顔を見ると心が和む。山岡は、あの忌わしい心の痛手もようやく癒えて、釧路の戦闘が始まるとすぐ、臨時衛戍病院の看護婦に志願していたのだ。山岡は窓に近寄った。 「夕日が綺麗。明日も晴れそうですね」 こういう物の感じ方は私には苦手だ。 「おいおい、あんまり窓に近づくなよ。狙撃兵が……」 突然、一発の弾丸が床に撥ね返った。と思う間もなく、山岡は窓辺に崩折れた。背中が破れ、血が広がっていく。 「狙撃兵だ!! 川向こうだ!!」 私は叫びながら窓辺に駆け寄り、川向こうの建物に向かって連射した。 「衛生兵! 衛生兵! 負傷者だ!」 谷口の声がする。幾つかの足音が、部屋に入ってきた。 「狙撃兵だと!? どこらだ!?」 大原の声だ。私は振り返った。床の弾痕と山岡の立っていた場所とを結んで、窓の外へ伸ばしていくと、川向こうの一つの倉庫に当たる。私はそこを指した。 「あの倉庫だ」 「了解。すぐ掃討だ」 大原は駆け足で出て行った。入れ替りに軍医と、衛生兵が数人入ってきた。応急に拵えた病床に、三人がかりで山岡を載せ、止血を始めた。側で見ている谷口は、気も狂わんばかりだ。私は床から、血塗れの弾丸を拾い上げた。山岡の血が、指を濡らした。 応急処置が済んだ。谷口は病床の傍らに坐り込み、山岡の手を固く握っている。 「京子、死ぬんじゃない!」 山岡は目を開いた。両脇に坐り込んだ、私と谷口を見ながら、弱々しく呟いた。 「矢……板さん……真一郎……さん、一つ……一つだけ、言い残すことが……」 私は急き込んだ。 「何? 何だ? 言ってくれ」 私の頭と谷口の頭が、山岡の顔の上でぶつかった。山岡は細い声で、 「あの日……宮本小隊長が、追放された日、あのことは……」 谷口が興奮した口調で言う。 「そうだ、あの宮本小隊長が、お前を!」 私は谷口を手で制した。山岡は途切れがちに、 「あれは、……あれは、私が仕組んだんです」 丁度そこへ、酒井の声がした。 「谷口、いるか?」 足音荒く入ってきた酒井を、私は手で制した。酒井は状況を見てとると、山岡の頭の近くに膝をついた。 「あの前の晩、矢板さんが、串田さん達を、追放しましたね。宮本小隊長が、次の朝、それを知って、矢板さんを、基地へ、送り返す、と、言ってました」 私は頷いた。 「そう、その通りだ。それで?」 「それで、私は、矢板さんに、残っていてほしかった。だから、小隊長が、何か起こして、馘になれば、って思って……随分前から、宮本小隊長は、私を、しきりに、……」 谷口が声を上げる。 「そうだったのか! あいつめ!」 私はまた手を上げて、谷口を制した。 「その夜、私は、宮本小隊長を、誘惑……したんです。小隊長は……すっかり、有頂天になって、いそいそと、私の部屋に、来ました。小隊長が、私の……服を、脱がそうとした時、私、戸が少し、開いてるのを見て、思い切り、叫んだんです……」 そうだったのか。 「京子、お前が、そんな事をするとは、ちっとも思ってなかったよ」 谷口が言う。山岡は、僅かに視線を谷口に向けた。 「矢板さん達が、私の部屋へ来た時、私は、宮本小隊長が、私を襲ったと、嘘を言いました。中隊長の所へ、行った時も、嘘を言いました。皆、私の嘘を、ちっとも疑わずに信じました。私は、上官を、罠にかけて貶め、他の人達を、瞞しました。宮本小隊長は、私に貶められて、罰を受けました。けど、本当は、罰を受けるのは、私です……」 山岡の目から、一筋の涙が流れた。 「宮本小隊長は、小隊長を馘になり、階級を落とされ、中隊中から嘲られ、のけ者にされていました。私が、あんなやり口で貶めたばっかりに……」 「あいつは元からそうだったんだ! 当然の報いだ!」 谷口が口走る。山岡は声を上げた。 「いいえ! 悪いのは、私です!」 突然山岡は咳込んだ。私は、山岡と谷口を鎮めた。少時して山岡は口を開いた。 「今、私が撃たれたのは、きっと、無実の上官を、瞞して陥れたことへの、報いです…。きっと私は、もうすぐ死ぬでしょう……。当然の報いです……」 谷口は再び、激しく興奮してきた。 「馬鹿な事を言うな! 頑張れ! 生きるんだ! 俺が、お前を撃った奴をぶっ殺して、首をここへ持って来るまで、生きるんだ!!」 山岡は目を開くと、少しはっきりした声で言った。 「真一郎さん、矢板さん、最後のお願いです。もし、私を撃ったのが、宮本小隊長だったとしても、決して、仇討ちなんか、しないで下さい。宮本小隊長は、討伐隊員です。今、この大事な時に、討伐隊員が、仲間を殺すなんて、そんな事、絶対に、しちゃいけません。それに、あの人は、無実の罪で貶められてるんです。その人が、私に復讐したとして、私達の誰が、それを咎められますか? 私達は皆、革命軍に、復讐を誓ってるんじゃ、ないですか? 私も、真一郎さんも、矢板さんも、酒井さんも」 誰も、何も言えなかった。 「私、……もう、殺したり殺されたりは、嫌です。あの人が、……もしあの人が、私を撃ったとしても……そのために、あの人が殺されるのは、嫌です。まして、真一郎さんが、元の上官だった人を殺して、その罪を負うんじゃ、私、死んでも死に切れません。……どうか、最後の、お願い……」 山岡の言葉は、吸い込まれるように消えた。谷口は憑かれたように、山岡の体を揺さぶった。私は立ち上がり、軍医を呼んだ。軍医は、小型の懐中電灯で、山岡の瞳を照らしたが、私を顧みて首を振った。 「京子!! 京子―――――――!!」 谷口は、気が狂ったように山岡に縋りつき、床に拳を撃ち下ろし、慟哭した。私は居たたまれず、銃を手に立ち上がった。 続いて立ち上がった酒井を見て、私は言った。 「出よう。……ところで先刻、何か言いたそうだったな?」 「ええ……ちょっと、人のいない所で」 酒井は、階段を登って三階に行った。私も続いて三階に行き、人影のない隅へ行った。 酒井は切り出した。 「実は、山岡を撃った犯人の目星が」 これは驚くべし。私は急き込んだ。 「何!? 犯人が?」 「現場を見たんじゃないんですがね。山岡が撃たれる少し前、宮本参謀が、川向こうの倉庫に入って行くのを見たんです」 「宮本がか!? それで!?」 「少しして、消音器をつけた銃の音が聞こえたんで、急いで音のした方へ走っていくと、宮本参謀が入っていった倉庫から、スコープ付きの銃を持って逃げる人影があったんです。で、そこへ登ってみると、銃を固定したような痕と、狙撃用の強装薬の薬莢が一つ。そこからは、丁度この病院が正面に見えるんです」 と言って酒井は、薬莢を取り出した。私は、部屋で拾った弾丸を取り出した。 「これは山岡が撃たれた弾丸だ。貫通していた」 「強装薬なら、二百メートルくらいなら人体を貫通しますよ」 「……そうだ、宮本は、狙撃が得意だったな。国体の射撃で入賞したことがあると聞いた覚えがある。川向こうから狙撃して、致命傷を与えるなんてのは誰にでもできる事じゃない」 「要塞へ来た時の私物の中に、自衛隊にもないくらいのスコープがあったの、見憶えがあります」 私は拳を固めた。 「そうか……ここまでくれば、容疑は充分だ。ところで、何でその事、谷口に言わなかったんだ?」 私の疑問に、酒井はまぜ返す。 「私が言おうとしたら、小隊長、黙らせたじゃありませんか」 「……。でも、大原小隊が今、掃討に向かってる。きっと大原は、宮本が犯人とは知るまい。大原に知らせないと、宮本を取り逃がしてしまうぞ」 酒井は、少時考え込んでから言った。 「でも、先刻、山岡が言い残した言葉、あれを聞くと、宮本参謀が山岡を撃ったのも尤もだという気がするんです」 私も、そういう気が全くしないとは言わない。しかし、別の考えもある。私は言った。 「しかしだな、あの時の、宮本が山岡に嵌められた時の状況からすると、宮本は山岡だけじゃなく、俺と谷口をも恨んでいそうな気がするんだ。現に宮本は谷口に向かって、『美人局にかけた』と言ったんだ。だとすると、山岡の狙撃成功で歯止めが効かなくなって、俺と谷口を次の標的にする可能性は充分あると思う」 「だから、先手を打って、宮本参謀を殺すと」 「そういう事だな」 酒井は、非難するような顔になった。 「それこそ、同僚殺しの罪ですよ。バレたらどう弁解するんです?」 「じゃあ、殺さずに捕まえて、中隊長にでも引き渡すか。だとしても、大原には知らせないと、大原達の掃討は無駄足になっちまう。……中隊長のところへ行こう」 私は、中隊長室の札が掛かっている部屋の戸を叩いた。 「矢板小隊長と酒井班長、入ります」 「入れ」 中隊長の声を聞き届けてから、私は戸を開けた。部屋には中隊長と、秋山参謀、それに三人の兵だけがいる。予想通りだが、宮本はいない。 「先刻、二階で山岡が狙撃されたらしいな」 中隊長が言うのへ、私は冷たい口調で、 「山岡は、死にました」 一瞬、部屋中に肌寒い空気が流れた。私は尚も事務的に、 「その件に関してなんですが、宮本を重要参考人として、至急、呼び出して下さい」 中隊長は些か不機嫌な声で、 「呼び出す、だと? それが出来れば苦労はない。儂だって、昼間から捜しとるんだ。見つけ次第、職務怠慢で糾問したい位だ」 私は秋山参謀に向かって、 「秋山参謀、先刻、宮本を捜させたのは、誰にだった?」 秋山参謀は向き直った。 「上村にだ。まだ戻って来ないな」 これはまずい。 「山岡が撃たれてから二時間か……ほぼ確実に、取り逃がしたな」 私が呟いたのは、中隊長の耳に入った。 「取り逃がしたと? どういう事だ? 詳しく説明してみろ」 そこで私と酒井は、山岡が死の間際に言ったこと、酒井が目撃したこと、宮本に容疑をかけた根拠について、一部始終を話した。只一つ、私が先手を打とうと思っていることだけを除いて。 「もしその通りなら、宮本は今頃、トンズラしてどこかに隠れてるかも知れないな」 参謀は言った。 「いや、案外ぬけぬけと、ここへ戻ってくるかも。我々が宮本を疑ってると、もし宮本が思ってないとしたら、下手に隠れたら却って怪しまれる、と思うだろう……」 私が言い終わらぬうちに、一発の弾丸が窓を破り、私の首を掠めて扉に命中した。 「まただ!!」 私は身を屈めたまま廊下へ飛び出し、壁に撥ねて床に転がっている、まだ熱い弾丸を拾い上げた。中隊長室へ舞い戻ると、床に伏せた参謀の前に、山岡が撃たれた弾丸と一緒に差し出した。 「今の弾丸だ」 参謀は眼鏡を外し、二発の弾丸を丁寧に見比べて言った。 「この二発は、かなり高い確率で、同じ銃から発射された弾丸だ。ここの旋条痕が……」 しまいまで聞かずに、私は中隊長に向かって言った。 「間違いない、山岡を撃ったのも、私を狙ったのも宮本です! 宮本の追討命令を!」 中隊長は私を制する。 「慌てるな。我々の敵は、何だかわかってるだろうが?…そう言えば矢板、昔、石塚を殺した事があったな? また討伐隊員を殺す気か?」 あの時の事を! 私は少時絶句したが、精一杯の反論を試みた。 「あの時は、石塚が私を撃ったのも、私が石塚を撃ったのも、偶発的でした。しかし今は、状況が違います。宮本は、明らかに私と、あと、谷口を、殺そうと、その、虎視眈々と……」 中隊長は言った。 「とにかく儂は、宮本を殺さずに捕まえたい。部下の安全を図るのは、上官の義務だ」 私は喰い下がった。 「私だって中隊長の部下です! 私が狙撃兵に狙われてるのに、私の安全を図るのが、中隊長の義務でないとでも?」 中隊長はすっかり気分を害した声で、 「矢板、そんなに宮本を殺したいのか!? 宮本を殺さずに、矢板が狙撃される危険を除こうと考えとるのがわからんか! 退れ!」 それから中隊長は、私など眼中にないといった様子で、傍らの兵に、 「無線機貸せ。上村と大原に、宮本を捕まえさせる」 参謀が立ち上がって、小声で私に言った。 「今夜はどこか、狙撃される心配のない所で寝るんだな」 私は黙って退出した。後から出て来た酒井が小声で言った。 「大体小隊長は、過激なんですよ」 私は興奮醒めやらず、呟いた。 「酒井、お前にはわからんかな。自分の命を狙う奴がいて、そいつが誰だかわかっていて、しかもそれを防ぐ最も確実な手段を持っているとなれば、その手段を使いたくならんか? 戦闘員として?」 「それが過激なんです。いくら戦闘員だからと云って、相手が誰だろうと殺せばいいというものじゃないでしょう」 私と酒井との間、いや、私と他の仲間との間に、目に見えない溝が横たわっているような気がした。 (2001.2.10) |
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