釧路戦記

第十七章
 翌十七日、朝六時前に私は起きた。前夜作って置いてある冷飯をかき込み、作業計画にかかった。丁度そこへ、河村班と古川班が帰ってきた。
 とにかく要るのは扉の資材だ。資材如何で造る扉も違ってくる。同時に銃座を建設するとなると、人手という問題もある。
 私は河村と古川に言った。
「扉をもう少し頑丈なものにする。そのための資材を基地へ取りに行く。二−三人来てくれ」
 私は河村と小笠原と宮川を連れて、トラックで基地へ行った。車中私は河村に、扉の改善についての案を話した。
「今ある入口の扉には、一センチくらいの鋼板を裏表に張る。中に鉄板が入ってるとしても、二重にした方が安全だ。もう一枚の扉は、今の扉は外開きだから、今の扉の内側に少し離して立てる。これは、同じく一センチくらいの鋼板を木の扉の裏表に二枚ずつ張る。二枚あれば、かなりの破壊力に耐えられる」
 河村は難色を示す。
「矢板、鉄の重さは知ってるだろう。あの扉一枚の大きさの、厚さ一センチの鋼板を四枚も重ねたら、どれくらいの重さになる?」
「三尺の六尺で一ミリが十三キロだから……!」
 五百キロ。
「な、そうだろ。そんな重い扉を、どうやって開け閉めするんだ? 油圧装置でもありゃ話は別だが」
「しかし、薄くすればそれだけ弱くなるぞ?」
 河村は言う。
「矢板、そもそも今度の改良工事は、どういう目的で、どの程度までやる積りなのか、それをはっきりさせないと。あの扉が、小銃で破れなければいいのなら、五ミリの軟鉄板で充分。重機だと一センチは要る。野砲や迫撃砲なら、五センチは必要。バズーカを喰っても破れない扉というのなら、十五センチでも充分と言えるかどうか。
 つまり、どの程度の強度をあの扉に求めるか、が重要なんだ。例えば四センチだと、小銃や軽機で破れなければいいんなら厚すぎる。反対にバズーカでも破れない強度が要るんなら、四センチの扉は作るだけ無駄。そこらへんをはっきりさせる必要がある」
「そりゃ勿論野砲に耐えられる扉は造りたい。しかし、重すぎて開けるのに蒸気機関が要るんでは話にならんし。人力で開けたてすることを前提とすると、重機に耐えられる程度で妥協するか」
 宮川が荷台から言う。
「副小隊長、甘えかも知れませんが、言っていいですか」
 私は答えた。
「言ってみろ。何だ?」
「工事を増やすなら、もっと休みを増やして下さい。今のままだと、哨戒、工事、哨戒で丸一昼夜休みなしで、これが何日も続いたら体が持ちません」
 確かにそれはそうだ。大体哨戒が二直制というのは、哨戒だけなら大した事はないが他の作業をやるとなるとかなりきついのである。
「その事は、換気孔の工事を始める時に小隊長に上申してみた。却下だ。我々の任務遂行の妨げとなってはならんと言うんだが、俺に言わせりゃ要塞の改善工事をやらん事の方が余程任務遂行の妨げになる。大体何だ、小隊長、自分では哨戒も工事もやらんくせに」
 基地へ着いて私達は、兵站部へ行って扉用の資材について上申した。すると兵站部長は言った。
「その扉の事だがね、先月から各地の要塞が同じ事を上申してきているのだ。それで、より丈夫な扉が後方で現在生産中だ。大きさは今の扉と同じ、五ミリの鉄板に代えて一センチの高張力鋼板が二枚入っている。強度は、至近距離からの二五ミリ機関砲弾に耐えられるということだ。
 さてそれで、その扉が、何枚要るのかね」
 私は答えた。
「二枚です」
「二枚か。扉を二重にすれば、一発では破られない、と言うんだろう。どこも同じ事を言ってきた。となれば、右開きと左開きが一枚ずつだな」
 どこの守備隊長も同じ事を考えるものだ。
「では、新しい扉の注文二枚、矢臼別第一要塞……と」
 部長は、机の上の注文書の束に書き込みながら言った。河村が尋ねる。
「いつ頃届きますか?」
「あと一週間はかかるな。内地から運ぶと結構かかるのだ」
「わかりました」
 次に私は総務部へ行って、ドリルを二本借り出した。部長は私に言った。
「他の要塞は最初から換気孔を作ってるか、そうでなくても完成後すぐにドリルを借りに来た。今ごろ、換気孔を作るなんて言ってる要塞は、お前達のところだけだ」
 私は苦しまぎれに言った。
「守備隊長は、換気孔なしでも息ができる体質らしいんですよ、私と違って」
「守備隊長はお前じゃないのか?」
「いいえ、私は『副』守備隊長。守備隊長は要塞で寝てます」
「もしかすると、守備隊長は宮本か? あの無能参謀?」
 私は噴き出した。
「そう、あの宮本参謀!」
 部長は呟いた。
「あれを小隊長にするなんて、お前のとこの中隊長も何を考えてるんだか。余程秋山を気に入ってたと見える」
 帰路、車の中で私は河村達にこの話をした。小笠原と宮川は笑い転げ、河村は言った。
「確かに中隊長は、秋山参謀を手放したくはないだろうさ。となれば、宮本参謀の方を俺達に押しつけることになるな」
 河村がこういう事を口にするのは珍しい。私は言った。
「結局どこの守備隊長も、同じ事を考えてたって事だな。たった一人の例外を除いて」
 要塞へ戻ってみると、兵員室に残っている河村班や古川班の者は、誰一人として工事にたずさわっていない。私は肩を落とした。
「徹夜の哨戒の後で工事をやるのは、どう考えても無理だな。これじゃ、工事にならん」
 河村が言った。
「やるべき事は一つ。哨戒の人数を減らすよう上申するだけだ」
 早速私と河村は小隊長室へ行った。
「哨戒の人数は、絶対に減らせん。この要塞を戦闘の拠点とすることが我々の任務だ。任務遂行を妨げる一切の事は排除せねばならん。従って、哨戒は二個班。一人たりとも減らす訳にはいかん」
 小隊長は強硬だ。河村が言う。
「しかし、部下達は休養を要します。八時間哨戒に出て、八時間工事にたずさわって、また八時間哨戒に出るのがどれくらい疲れる事か、一度やってみたらいかがですか? 私の班と古川班は、昨日それをやったんです。こんな状態が続いたら、哨戒の能率が下がって、任務遂行の妨げになるのは明らかだと思います」
 小隊長は河村に言った。
「それは俺の知った事じゃない。工事をやらせてるのは矢板だ。俺は工事をやれと命令してはいないぞ。俺は矢板に、工事をやってもよいという許可を与えただけだ。文句があるなら矢板に言え。俺は知らん」
 言い逃れだ。大体自分は工事も哨戒もやっていないではないか。私は言った。
「小隊長、哨戒に出た事はありますか?」
 小隊長は相手にしない。
「俺に答える義務はない」
 こう答える者の百人に九九人は、哨戒に出ていないのだ。河村が言う。
「少なくとも俺と古川の番の時に、哨戒に出てるのを見た覚えはない」
「それなら、まず小隊長自ら、『我々の任務』とやらに当たって頂きたいものですな」
 小隊長は向き直った。
「矢板、お前、哨戒に出るだけが要塞守備隊の任務だとでも思ってるのか? 外をほっつき歩くのは、下っ端の仕事だ。上官には、もっと別の任務がある」
 私は言い返した。
「要塞の欠点を改善する工事の陣頭指揮も、上官の任務だと思います」
「……」
「個室で煙草を吹かして、飯がまずいと文句を言って、部下の上申を却下するのは要塞守備隊長の任務でしょうか」
 小隊長が飛びかかってきた、と思う間もなく、私は殴り倒されていた。
「貴様の減らず口は、二度と聞かんぞ!!」
 小隊長は喚いた。
 私と河村は小隊長室を出た。丁度そこへ、山岡が部屋から出てきた。山岡は私を見るなり、驚いて言った。
「どうしたんですか、その顔!?」
 河村が答える。
「小隊長に上申したところが、小隊長を怒らせちまって」
「手当てしなきゃ。こっちへ」
 私は山岡の部屋で、唇の傷の手当てを受けた。歯は折れていなかった。
 河村が心配気に訊く。
「どうするんだ? あれだけ怒らしちまったら、何を上申しても無駄だぞ」
 私は言った。
「仕方がない。俺と、本部班の三人で何とかやるさ。山岡にも手伝わせるかも知れん」
「私に?」
 山岡が声を上げる。
「土を捨てに行くとか、その程度の仕事さ」
 私は答えた。
 私は本部班の者を集めて言った。
「昨日の工事の続きだ。要領はわかってると思う」
 浅野が私を見て言う。
「顔の怪我、どうしたんですか?」
「工事に要る人員を確保しようと上申したら、殴られたんだ。気にするな」
 私の言葉は事実そのままではない。意図して歪めたのではないが、結果的には私への支持を集めることになるであろう。
「俺も手伝おうか?」
 河村が言うが、私は断った。
「気持は有難いが、遠慮しておく。午後の哨戒に備えて寝ておけよ」
 私達は三本のドリルを使って、せっせと換気孔を掘った。本部班の三人は、昼飯の仕度のために工事を中断したが、結局夕方までに四ヵ所の換気孔を開け、鉛管を嵌め込んだ。砲台にも作れば、換気孔の工事は終わりである。天井に近い所の換気孔は、途中で折れ曲がって真ん中が高くなっており、床に近い所の換気孔も途中で折れ曲がって、これは水平方向に曲がっている。工事の難しさを承知のうえで敢えて曲げたのは、弾丸や手榴弾を兵舎の中へ入れられないようにするための考えである。
 今日の夕飯は、玄米飯、馬鈴薯と大根のごった煮、乾肉、わかめの味噌汁、沢庵漬。ごった煮か煮豆は、大体毎食必ずある。乾肉というのが何とも食欲をそそらない代物で、豚か何かの肉を薄く切って、焙って乾した物なのだが、これが味は付いていないし、干からびてボソボソして固く、要するに「かわはぎ」と古雑巾を足して二で割ったような代物だ。せめて塩蔵のすけとうでも食べられれば大いに満足するのに。顎が疲れる事では携帯食糧以下だ。羽田が山岡に言った。
「全く、何でこんなもんを喰わすんだろう? 烹炊部はこれを人間の喰い物だと思ってるのかしらん。料理する方だってもう少し何とか」
 私は、先刻までこの乾肉を疎ましく思っていたのに、この言葉を聞いて急に羽田に対して腹を立てた。私は思わず大声を上げた。
「贅沢を言うな!」
 羽田はたじろいだように見えた。酒井が私に言った。
「またすぐ怒る。これくらいの事で怒らなくたっていいじゃないですか」
 私は尚も声を上げた。
「いいや、そうはいかん。皆、贅沢なんだ! 特に羽田、石田、屋代、中島、その辺の戦後のあの頃を知らん奴等はだ! 戦後二十年、俺は若い奴等の贅沢には腹を据えかねてるんだ!」
 石田が私に向き直った。
「ちょっと待って下さい! そりゃ、『別の物を喰わせろ』ってのは贅沢ですよ、それは僕も認めます。ですが、この乾肉を、かまどの残り火でゆでで、柔らかくして味付けるのが、そんなに贅沢なんですか!? もし何なら、味付けはしなくていいです。水に漬けてふやかすだけでもいいです。食べやすくするのが贅沢だったら、玄米を炊く事も贅沢じゃないですか!? 煮豆だって、焼魚だって……」
 私は返答に窮した。立ち上がった石田は、私を見据えている。突然、屋代が茶々を入れた。
「この乾肉ってのは、普段から顎を鍛えて、肉弾戦になったら敵に噛みつけっていう本部の作戦じゃないかな?」
 普段だったら、ここで誰かが吹き出して、「人が味噌汁飲んでる時に笑わすな!」というような声が上がるのだが、この時はそうではなかった。石田が振り返って、屋代を怒鳴りつけた。
「こういう時に変な冗談を言うな! 俺は本気で、大真面目で副小隊長と談判してんだぞ!」
 屋代は黙ってしまった。隅の方で食べていた山岡は、手を止めて事の成り行きを見守っている。私は声を落とした。
「そうだ。俺が言い過ぎた。俺の負けだ。
 山岡。明日からは何とか要望に応えてやれよ」
「はい」
 山岡はまた、何事もなかったように食べ始めた。相沢が石田に言った。
「お前も度胸のある奴だな。副小隊長と談判するなんて」
 私は相沢に言った。
「そういう考えはよせ。俺だって感情的になりゃ、こう言い過ぎる事もある。俺だってお前と同じ人間だ、間違えない訳がない。『上官の言う事は絶対正しい』なんて考えで接されるのは俺は好きじゃない。遠慮せずに、理不尽だと思った事はすぐ談判してくれ。但し、敵と戦闘中は絶対服従だぞ」
 これが私の本音だ。私だって、階級章を取ればここにいる部下達と同じ人間に過ぎない。だから「特別な人間」として接してもらいたくはないのである。旧軍では星一つ上ならその人間の言うことすることは絶対に正であり、それに反対することは絶対に悪であった。それには、私は、一人の普通の人間として疑いを感じ続けていた。今またここで、そんな旧弊な、理不尽な論理を持ち出されるのは実際不愉快だし、部下達も堪らない。ただ、戦闘中には、一切は命令と服従で成り立っていなければならない。指揮系統に混乱を来すことがあっては戦闘は遂行できないからである。
 この日の風呂は、谷口班と酒井班の番だった。四個班のうち二個班は、夜十時まで哨戒に出ているからで、一日交代で風呂に入る。ただし小隊長だけは別で、毎日、その日の番の班よりも先に入る。こういうことを平気でするような特権意識が、小隊長の最も嫌われるところであろう。風呂は兵舎を出て左へ二十メートル程行った崖下にあり、五メートル四方くらいの板囲になっている。この風呂を立てる者も、以前本部にいた時は輪番だったが今は本部班の四人の仕事だ。本部班の四人は哨戒を免除される代りに炊事と風呂の仕事を当てられているのである。本部班は、他の班の後で風呂に入っているようである。山岡と他の三人を分けて、一日毎に入っているらしい。風呂の水は、倉庫の石油缶の水ではなくて、その都度川から汲み、大きな樽に詰めてトラックで運んでくる。最初私は、この大きな樽を何に使うのかわからなかった。湯舟に浸っている時、石田が私に話しかけてきた。
「前々から言おうと思ってたんですけど」
 私は勘づいた。平然として言った。
「何だ?」
 石田は風呂釜の方を窺ってから、何となく言いにくそうに、人目をはばかるように小声で私に言った。
「実は女の事なんで」
 そら来た。これは私の身にも覚えはある。私も二十数年前、軍隊にいた時分には石田くらいの年だったから、これはかなり深刻な問題であった。ここは話を聞くだけ聞いてやるのが先だ。
「副小隊長も御存じのように、僕達がここに来てから二ヵ月以上になりますが、この間、一偏だってしてないんですよ。この頃は本当に手もつけられないくらいで」
「そんなか?」
「副小隊長はもう四十五でしょうが。僕は二十三ですよ。羽田が僕と同じ、中島が二十二、串田も二十二、屋代なんか二十一、何しろ皆、戦後のあの頃を知らん若い奴等ですから」
 石田は熱してきた。私は苦笑した。先刻の事に対するささやかな逆襲のつもりか。
「何しろはけ口が全然ないんですよ。本当に。そのうち、中島あたりが山岡に手を出すんじゃないですか」
 これは危険だ。これだけは絶対に避けねばならない。私は少々威嚇した。
「もし山岡に手を出したら、その時は俺がこの手で処断するからな」
 すると今までの会話を聞いていた串田が反駁した。
「そりゃ筋違いってもんですよ。生理現象に対処するのに力で抑えるってのは、それこそ一日二回以上便所へ行くなと言うのと同じじゃないですか。僕とか石田とか、二十を出たばかりの健康な男ですよ。四十五の人と同じ基準で考えられちゃ堪りません」
 かなり強い口調だ。こうなると命令で抑えつけるのはまず無理だ。とうとう串田は言い切った。
「もし八月中に回答が示されなかった場合は山岡に対し実力行使に及びます」
 とその時、板囲いの外から、
「私は嫌です!」
 かなり興奮しているらしい山岡の声。
「いないと思ったのに、こりゃ全部立ち聞きされたみたい」
 串田が狼狽する。山岡は尚も言い募る。
「何故私が、というより女というものが、男の犠牲にならなければならないんですか? それだけは絶対に嫌です! もし実力行使に及んだなら、私も実力行使に出ます」
 串田や石田の表情が変わった。私は苦悩した。どうやったら若い連中と山岡の衝突を回避できるか。下手をすると極めてゆゆしき事態に陥ることは見えている。私は言った。
「……何とか解決策を見出だそう」
 これは聞きしに勝る事態だ。このまま本当に放っておいたら、暴動が起こる可能性さえないとは言えない。
 翌十八日、今度は銃座建設にかかった。私は本部班が朝飯の片付けを済ましたのを見て、本部班の者を集めた。今日の工事の内容を説明してから、「金鎚とたがねとシャベルを持って来い」
 私は外へ出て、どの辺に横穴を作るかを考えた。辺りは大体疎林であることを考えると、これらの木の梢より高くなければならない。すると、大体地上十メートルくらいがいいだろう。
 私は要塞に入り、兵員室の奥の垂れ幕を掲げた。上を見上げるとかなり高い。土を運ぶには、砲弾を運ぶための鉄の箱を使うことにしよう。私は梯子段を十メートル程登ってから、さて崖はどっちだったかと思案した。崖から入って、右へ曲がった奥にこの竪穴があり、奥の方に梯子段があるのだから、梯子段を尋常に登ったとすると右に崖はある筈だ。私は左足を梯子段に乗せ、右足は反対側の壁に突っ張って、さらに梯子の縦の材に左手をからませ、たがねを壁に当てて金鎚をふるい始めた。すぐ上の梯子段に懐中電灯を置いて手元を照らす。岩片が下へ落ちて行った。早川が心配そうな声を出した。
「副小隊長……。命綱着けなくて大丈夫なんですか?」
 それはそうだ。私はこの頃、年柄にもなく蛮勇を披露してばかりいる。この高さから落ちたら危い。私は懐中電灯を持って、梯子段を降りた。
「いい所に気が付いたな。倉庫に綱があったら持ってきてくれんか」
 と言って私は、浅野が持ってきた綱を腰のベルトに結びつけた。そうしてから、再び梯子段を登っていった。綱を適当に短く結んで、梯子段にゆわえつけた。
 殆ど休みなしに掘り続けること数時間、下の方から声がした。
「副小隊長。昼飯ができました」
 私は作業を止めて、たがねや金鎚をポケットに入れ、梯子段を降りた。両手の肘が疼く。約五時間、殆ど休まずに掘り続けた事になる。肘の痛みをこらえながら昼飯を済ました。
 哨戒二個班体制を取っていると、谷口班と酒井班は、河村班及び古川班と、完全な擦れ違い生活を送るようになる。どちらかが哨戒に出ている時にもう一方は兵員室で休み、常にどちらか一方は要塞にいない。哨戒が中断するのを防ぐために、決して全隊が一度に要塞に集まらないようにしているのだ。だから食事も、例えば朝六時までが谷口班と酒井班で、六時から十四時までが河村班と古川班だとすると、六時前に河村班と古川班は食事を済ませて出る。入れ替りに谷口班と酒井班が戻ってきて朝飯にする。必ず二回に分かれるのである。だから、小隊は事実上二つの隊に分かれ、その間に、両方に接する位置に本部班があることになる。この、唯一の接点たる本部班であるが、先日の串田と山岡の発言以来、かなり険悪になってしまっている――少なくとも谷口班及び酒井班とは。こうなってくると、副小隊長として、河村班と古川班の方も心配になってくる。私は二十日の夜、河村を捕まえて訊いた。
「ちょっと訊きたい事があるんだがな」
「何だ?」
「一昨日あたりから、班の若い連中と山岡との間の雰囲気はどうだ?」
 河村は溜息をついた。
「ああ……。かなり悪くなってるようだぞ。特に中島。あいつと山岡は口もきかない。矢板の方はどうだ?」
「こっちも険悪だ。串田が特に」
「……大体察しはついたぞ。あいつら女に飢えてるからな。山岡に手を出そうとしたに違いない」
「その通りだ。串田の奴、十七日の夜に無茶苦茶な事を言ったんだ」
 突然、串田が後ろで大声をあげた。
「いかにも言いましたとも!」
「わっ!」
「串田、いたのか。何を言ったんだ?」
 今度は河村が串田を問い詰める。串田は悪びれずもせずに言い放った。
「今月中に副小隊長が、僕達に女を当てがわなかったら、山岡に実力行使をかけると言ったんです。小隊長には言うだけ無駄ですからね。副小隊長なら何とかしてくれると思ったんです」
 私は思わず拳を握りしめた。河村は私の情勢を察したか、素早く私の手首を握って動きを制すると、ごく穏やかに串田に言った。
「その気持は解る。俺だって男だ。二ヵ月も女を断ってれば、欲求不満が嵩じて頭に来そうになることもある」
「じゃ何だ、河村、お前は、もし串田達が山岡を手籠にしようとしたら、それを黙って見逃すのか!?」
 私は思わず、叫びながら河村に詰め寄った。河村は平然と私を制した。
「最後まで聞けよ。
 串田、そんな風に頭に来そうになったら、自分の任務を考えるんだ。そんな事を考える暇があったら、敵兵の接近を警戒する方に頭を向ける。我々の任務は唯一、敵を倒す事なんだから」
 串田は河村に反駁する。
「僕だって、その程度の事は分かってます。そんな建前論じゃ済まされないんですよ。任務第一任務第一って、百偏唱えたって、頭の半分は別の事考えるわ、下っ腹は言うこと聞かないわ、若さの悩みここに極まるとしか言えません。それを、四十五の人に分って貰うのは、土台無理なのかな……」
「この野郎!」
 私は遂に河村の手を振り切り、串田の顔を狙って拳を飛ばした。それよりも素早く串田は身を翻し、私の拳は空を切って崖にめり込んだ。強い痺れが、拳から肩へ走った。
「……!」
 まだ痺れる右手をさすっていると酒井が呼んだ。
「串田、行くぞ!」
 串田は去り際に、嫌な口調で言った。
「副小隊長が尻を貸すってんなら、少しは考えてみますかね」
 もし河村が私を抱き止めなかったら、私は串田を打ちのめしていただろう。
「串田! 貴様! 冗談でも言っていい事と悪い事があるぞ!」
 私の怒号に、串田は答えなかった。
(2001.2.4)

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