釧路戦記

第十八章
 二二日の夜であった。この日の夜間哨戒は谷口班と酒井班であった。午前零時頃だったろうか、私は串田と一緒に哨戒していた。
 と突然、東南方から銃声が起こった。私は反射的に地面に伏せた。傍を見ると、串田も伏せて息を殺している。
「……逃がすな……」
「……あっちだぞ……」
 遠くから、複数の男の怒号が風に流れてきた。私は体を固くした。数百メートルの距離にまで、敵兵が近づいているのだ。私は、満月過ぎの明るい光の中で目を凝らした。
 一体どういう状況なのか。逃亡者が出たのか。そうだとすると、それは何者か。捕虜になっていた、我々の仲間か。そうであるなら、その逃亡者を助ける義務がある。いつの間にか、桐野が私の傍らにいる。
 何秒かが過ぎた。前方に人影が現れた。私は銃を構えた。夜目にはつまびらかでないが、私の方へ駆け寄ってくる人影は、どうも味方では無さそうだ。その人影の後ろに、もう一つ人影が続いている。その、後ろの人影も、敵兵では無さそうだ。
「?」
 わずかの後、私はその二人が女であることに気付いた。しかも、敵の婦人兵でも無さそうである。これは奇異と呼ぶに値する。私は更に目を凝らした。二人はさらに接近して来る。
「ありゃ民間人らしいな」
「どうします?……!」
 桐野の声の消えないうちに、先頭の女は私達三人の伏せている処へ突っ込み、伏せていた桐野に蹴つまずき、もんどり打って地面に転がった。私は振り向いた。起き上がって逃げようとする女を、桐野が引き止めている。
「シ――ッ! 安心しろ、俺達は味方だ」
 その時、別の女の悲鳴が聞こえた。私はその方を向いた。私は地面を蹴って飛び出した。私のいた所から数メ−トルと離れていない所に女が倒れている。私は彼女に囁いた。
「俺は味方だ、安心しろ。静かにするんだ」
 彼女は体を曲げて、その腓を押えている。私は懐中電灯を取り出し、彼女に手をのけさせて傷口を調べた。弾丸が喰い込んでいるが、骨に達してはいないようだ。私は繃帯を取り出した。その時、銃声と共に地面に弾丸が当たる音がした。私は銃を取り、振り向きざま発射した。敵兵が二人倒れた。私は女に向き直り、応急手当を施した。女は上体を起こした。私は言った。
「どうだ、歩けるか?」
 女は頷いた。私は彼女を立たせ、桐野、串田、そしてもう一人の女のいる所へ歩かせた。ふと私の脳裏をよぎる考えがあった。もし串田一人を女達と一緒にしておくと、夜陰に乗じて何をするか解ったものではない。そこで私は、謹厳実直かつ真面目な堅物と信じている桐野に言った。
「桐野、お前と串田の二人は、朝までここにいろ。俺は哨戒に行く」
 朝までに何があったのかは私は知らない。五時半過ぎ、辺りが明るくなった頃、私は四人の所へ行った。足に負傷している方は桐野の肩に凭れかかり、もう一人は地面に横たわって眠っている。二人とも戦闘要員には見えない。さりとて従軍看護婦でもない。全くの民間人だ。
 三々五々、部下達が集まってきた。女達の姿を目にすると、皆一様に驚きの表情を現した。誰からともなくいぶかしげな声が上がった。私は言った。
「夜半頃、東南方から走って来たんだ。恐らく、敵から逃げてきたのだろう。だから我々には、この二人を保護する義務があると思う。異議はあるか」
 誰にも異議は無かった。酒井が言った。
「もし敵から逃げてきたのなら、東南方に敵の陣地がある筈です。斥候を出しましょう」
「良かろう。次の哨戒の方に命じておこう」
 桐野が女達を揺り起こし、足に負傷しているのは串田が背負って、要塞へ向けて出発した。向こうから河村達が来た。いぶかしげに私達を見る。私は河村に言った。
「夜中に東南の方から逃げてきたから保護した。恐らく東南方に敵陣地があり、そこから逃げてきたのだろう。だから、お前の班から二−三人、斥候を出してくれ」
「わかった」
 私は小隊長に事情を報告した。その時、
「女か」
と言った小隊長の目つきが僅かに変わったような気がした。
 要塞へ戻った私達を見た山岡の目に、明らかな猜疑心が現れたのを私は見た。私は河村にしたのと同じように山岡に事情を説明した。しかし山岡の目は「そんな事を聞きたいんじゃない」というような表情を表していた。彼女としては、串田、中島、屋代、石田といった若い連中と、この二人の間を警戒したのに違いない。先日の串田の爆弾宣言に象徴されるようにこの四人などは女に対する欲求が噴出寸前なのである。それを、二人の若い女と一緒にしておいたら何が起こるか。それは殆ど言うまでもない。山岡が、この、男女の交わりに対し極端と言ってもよい程の嫌悪の情を抱いていることは、彼女の過去からして私にも容易に推定できる。だから、事が起こるのを未然に防ぐためにも、女を二人もここに居させることを拒否したがっているのだ。ただ、敵の手から逃亡してきたのを保護するという大義名分がある以上、声を大にして反対することもできないのだ。何分かの後、私の皿に飯を盛りながら山岡はあたりをはばかるように小声で言った。
「串田さんと羽田さんに気をつけた方がいいですよ」
 これが女の直感というものなのか。私は内心、「串田を一緒にしておいたのは失策ったな」と思った。朝飯後、色々と談笑している様子を観察してみると、確かに串田と、足に負傷していない方――斎藤というらしい――は様子がおかしい。斎藤の方から、串田の肩に手を掛けているのだ。私は心の隅に一片のわだかまりを持ちながら、毛布を敷いて寝た。
 九時頃、枕元の無線機が鳴った――無線機は、私が小隊長から借り出したまま、いつの間にか私の持ち物のようになってしまっているのだ――。私は飛び起きた。無線機を取る。
「こちらTYH」
〈こちらEKH。敵の兵舎を発見した。砲撃を頼む。どうぞ〉
 河村は、東海中隊に通信を頼んだようだ。
「位置は? どうぞ」
〈――と、四六番川の谷の南の端、三角点の東北東三百メートルだ。どうぞ〉
「何だ遠いな。砲が届くか? どうぞ」
〈届く筈だ。霰弾頼む。以上〉
「三角点の東北東三百メートル、霰弾。了解」
 私は、丁度起きていた谷口と岸本に言った。
「砲にかかれ。砲撃だ。霰弾でいく」
 二人は梯子段を登って行った。私は地図と無線機を持って二人に続いた。砲台へ登った私は方位角と射距離を計算した。二人はその間に、砲の尾栓を開けて霰弾を装填している。谷口が砲楯の扉から外へ出て、砲門を開いた。
「方位角一六二・八度、距離一○七○○メートルだ」
「一六二・八度、一○七○○メートル……と。準備終わり」
「て――っ」
 轟然たる爆音と共に砲身は後ろへ退った。岸本がすかさず尾栓を開け、谷口が空薬莢を取り出し、次の弾を装填する。無線機が鳴った。
「こちらTYH。EKH、どうぞ」
〈こちらEKH。弾着修正、一○○メートル増し。以上〉
「弾着修正、百メートル増し。了解。
 百メートル増しだ」「了解」
 十発くらい発射した頃、また無線機が鳴った。
「こちらTYH。EKH、どうぞ」
〈こちらEKH。兵舎は充分に破壊された。感謝する。以上〉
「了解、砲撃中止する。以上。
 射ち方止め!」
 私達は兵員室へ降りて行き、再び眠った。私は考えた。本来このような要塞には長射程の小口径加農砲を置くよりも短射程大口径の榴弾砲や臼砲を置くのであるが、砲弾の人力運搬を考えると一○○ミリ以上の砲は置けない。そこで長射程砲を置いてあるのだろう。一○五ミリ加農の射程は一二○○○メートルである。
 その晩の事だった。二二時までの哨戒から帰って来た私達は、遅い晩飯を食べてからすぐ寝た。夜更け、私は物音に目を覚した。時間は午前一時頃だろうか。入口に通ずる扉がゆっくり開いて、一人の男がゆっくり入って来るのが、蝋燭の微かな光の中に見えた。その顔が光に照らされた。羽田だ。この夜更けに何をしていたのだろう? 用便か。考えられる。私は眠っているふりをしながら様子を窺った。何事も無いまま時間が過ぎた。私は再び眠りに落ちた。
 朝が来た。私には、昨夜の事が何となく気になった。羽田の行動には、考えてみるとそんなに不審な点は無い。しかし、私の脳裏には、山岡の言葉が急に重みを増して響いてきた。それを考えると、何となく私は安心できないのだった。斎藤と、もう一人の方――小泉という名であった――の様子にも、わずかながら変化が見られるようになった。今まで通りに振る舞ってはいても、何か微妙な変化が起こっているのだった。それが何なのかははっきりしなかったが。そして遂に、その不安は現実のものとなったのだった。
 八月二十六日の事だった。小泉も、歩ける程度まで回復したので、明日にでも兵站基地へ送ってやろうと思っていた時である。この日は二二時から哨戒で、いつものように谷口班と酒井班は出発した。
 午前二時に私達は、要塞東方の小高い丘の上に集まった。特にこうと決めた訳ではないのだが、いつとはなしに、八時間哨戒の真中の時間に、一旦集まって負傷者の有無などを確かめる習慣になっていたのだった。
 さて集まってみると、串田と羽田がいない。酒井が言った。
「今日もあの二人だ。どうなってるんだ?」
 岸本が言う。
「あの二人は時間にルーズなんだから。どうせ少し遅れて来ますよ」
 私は岸本に言った。
「軍人は何事にもきちんとしなければならん。特に時間にだらしない者は戦闘行動の大きな支障になる」
「副小隊長のお説教はもう充分」
 岸本は受け流す。私は言った。
「もう少し待ってみよう。午前中の哨戒でも少し遅れて来たんだから」
 十五分経った。二人は現れない。
「おかしいな。いつもこんなに遅れないのに」
 酒井が訝る。私は命じた。
「捜索だ。二人ずつ組になって、あの二人を捜しに行く。月も出ている事だし、すぐに見つかるだろうが……三時まで捜す。三時十五分に、ここに集まろう」
 私は、西川と一緒に、西の方へ向かった。要塞の横を通り過ぎ、更に先へと進む。二十日過ぎの月が、南の空に輝いている。今夜は珍しく敵の出ない日で、私は午前二時迄には一度も交戦しなかった。こんな夜には、つい気が緩むのだろうか。
「仲間が見当らないのは、やはり心配ですね」
 西川が分り切った事を言う。
「そうだな。それどころか、一人行方不明になった事が大事件になる事もある。盧溝橋で日本兵が一人行方不明になって、それであの大戦争が始まった。我々の場合は、もう始まってるがな」
 暫く歩くうちに、前方から走って来る人影があった。私は反射的に銃を構えた。
「誰だっ!?」
 私は大声で誰何した。
「山岡です」
 声があった。走り寄ってきたのは、間違いなく山岡であった。私は驚いた。
「山岡、何でお前が、ここにいるんだ?」
 山岡は呼吸を落ち着かせながら言った。
「串田さんと、羽田さんを見つけました」
 私と西川は、同時に声を上げた。
「あの二人を!?」
 私は急き込んで訊ねた。
「どこでだ!? 何をしている!?」
 山岡は低い声で答えた。
「この先の、浅い沢でです。あの女二人と……」
 私は激昂した。
「とうとうやりやがった!! よりによって哨戒中に!! もう勘弁ならん!!
 山岡、詳しい場所を教えろ! 今すぐ処罰してやる!」
 山岡は吃りながら答えた。
「え、えっと、あの丘の右側の、手前の沢です」
「よし、わかった!」
 私は駆け出した。すぐ後から、草を踏み鳴らして西川と山岡も駆けて来る。西川は私を追い抜いた。私は負けじと抜き返し、山岡の言った沢を目指して走った。
 沢に着いた。四人の姿が見える。男が二人、それに女が二人だ。女二人の、白い裸身が月光の中に浮かび上がる。私は逆上した。
「貴様等あ――!!」
 私は大喝しながら、銃を四人に向けて乱射した――積りであった。一発の弾も出なかった。
「副小隊長!!」
 追いついた西川が、私の腕から銃を奪い取った。山岡が、私の腕を押えようとする。私は二人の手を振りほどき、四人に向かって突撃した。
 先に襲われたのは串田であった。ズボンを上げて、慌てふためいて逃げようとするところへ、私は鉄拳を見舞った。串田の体は宙を飛び、一回転して地面に転がった。私は串田に襲いかかり、数発の鉄拳を浴びせた。
 羽田は女を上にしていた。ようやく女から離れて、一目散に逃げようとするのを私は逃さなかった。私は羽田の背中に飛び蹴りを放った。羽田の目の前は沢であった。羽田の体は、低い崖の下へと転げ落ちた。私はその後を追って、水のない沢へ飛び降りた。尚も逃げようとする羽田を捕え、辺り構わず殴りつけた。羽田が血だらけになって失神したのを見届けると、私は羽田の体を引きずって、崖の尽きる所から登った。
 串田が逃げようとする。私は羽田の体を放り出し、串田の後を追った。途端に串田は何かにつまずいて転んだ。私は串田に飛びかかり、これも滅多打ちにした。
 気絶した二人を放置して、私は二人の女のいる所へ行った。裸のまま震えている二人の女に向かって、私は大声で言った。
「この糞売女め! あの二人の他に、誰とやったんだ!? 言ってみろ!」
 二人は黙っている。私は、近くにいた小泉に、つかつかと歩み寄ると、彼女の髪を掴み、銃剣を抜いて喉元に突きつけて恫喝した。
「さあ、言え! 早く言うんだ!!」
 小泉は、蚊の鳴くような声で言った。
「中島さん……だけです」
「本当だな!? 隠すと身の為にならんぞ!!」
 小泉は黙って頷いた。私は小泉の髪を放し、斎藤の方へ向き直った。
「さあ、あの二人と、中島と、他にいるか!? いたら今すぐに言え!!」
 斎藤は黙って首を振った。
「いないのか!? 本当だな!? え!?」
 斎藤は、微かに頷いた。私は言った。
「よし、わかった! 西川と山岡、この四人を見張ってろ! 西川は銃を持ってるな!? 山岡は」
「これがあります」
 山岡は拳銃を抜いた。
「よし、西川、あの二人が気絶してるうちに武装解除しろ。山岡はこの二人を見張れ。俺は中島をしょっ引いてくる」
 言い残して私は、要塞へ向かった。
 要塞へ入ると私は、懐中電灯で室内を照らして大声で言った。
「中島! 起きろ!」
 中島は奥の方に寝ていたが、私がいるのに気付くと、慌てて起き上がった。
「そこを動くな!」
 私は大股に、中島に歩み寄った。中島は、砲台の方へ逃げようとした。私は懐中電灯を、中島の後頭部を狙って投げつけた。懐中電灯が鈍い音をたてて中島の頚に命中し、倒れかかる中島に私は飛びかかり、痛烈な一撃を与えた。
「おい! 矢板、一体何が起こったんだ!?」
 河村の声だ。私は振り返りもせずに言った。
「串田と羽田が、任務放棄して女とやってたんだ。中島もそうだとわかった。四人と一緒に処罰する」
 河村は言った。
「わかった。俺も立ち会う」
 古川が言う。
「私も立ち会います。中島は、私の部下です」
 私はこの間に中島を叩き伏せた。河村、古川と一緒に、中島を西の沢へ運んだ。
 沢へあと少しとなった時、私の足は止まった。見よ! 山岡が羽田に捕えられている。西川はどこだ? 縛られて、薮の中に転がされている。
「しまった!」
 私達を見つけたか、串田が私達に、西川から奪ったのだろうか、銃を向けて言った。
「中島を連れて来たのか?! それなら、今すぐ中島を放せ!」
 何たる言い草だ。私は怒鳴った。
「それが上官に対する口のきき方か!?」
 串田は続ける。
「黙って中島を放せ! それから、我々に充分な手当をして、安全な場所へ逃がせ!」
 全身の血が、憤怒に激り返るかと思われた。さすがの河村も、怒りに震えている。
「あの世だって安全な場所には違いあるまい」
 私は呟いた。河村が制する。
「矢板、待て。二人が人質に取られているんだ。今ここで射ったら、西川はともかく、山岡が死ぬぞ」
 私は歯がみした。少時考えてから呟いた。
「中島は放そう。それから三人一遍に殺したって遅くはない」
 私は串田に向かって言った。
「中島は放そう。だから、山岡を放せ」
 ところが羽田が言った。
「断る。山岡は連れて行く。男三人に女二人では足りない。山岡を入れれば三人だ」
「無茶苦茶な事を言ってるな」
 河村が呟く。私は言った。
「なら西川を放せ」
 串田はこれも拒否した。
「断る。そっちが四人になったら、我々を襲う積りだろう」
 河村が小声で言った。
「いざとなったら、こっちにも人質はいる」
 それを聞いて、中島が暴れ始めた。古川が中島を怒鳴りつける。
 私は河村に言った。
「ここは譲歩しよう。西川は後で助ければいい」
 河村は頷いた。古川にも言って、中島を放させた。中島は、串田の方へ向かってゆく。
 串田が言う。
「次は、我々の手当だ。こんなに殴ってくれたからには、それ相応の手当はして貰う」
 山岡が叫ぶ。
「私は嫌よ!」
 河村が言う。
「山岡はこう言ってる。だから西川にやらせよう。そのためにまず、西川を解放しろ」
 羽田が言い返す。
「そんな手に乗らないぞ!」
 さて当の西川はと見れば、これはしたり、いつの間にか手足の縛めを解いてしまっている。河村も気付いた様子だ。西川は、そっと三人の後ろに回り込んだ。私は言った。
「俺がやろう。殴ったのは俺だ」
 私が二、三歩進み出ると、串田は言った。
「武器を捨てろ!」
 私は黙って銃を銃剣を外し、地面に置いた。その時、小石を二つ三つ、右手に握った。
 私は立ち上がった。
 その時、西川が、丸腰の中島に組みついた。三人の間に、動揺が走った。私はこの時とばかり、串田の顔を狙って小石を投げた。礫は串田の眼を直撃した。銃を取り落として眼を覆った串田に、私は猛然と襲いかかった。顎に鉄拳を放ち、のけぞったところへ下腹に第二、第三と鉄拳を打ち込んだ。串田はどうと倒れた。
 さて羽田はどうしたか。山岡を楯にしていた羽田だが、この山岡に左手首に喰いつかれて、慌てて振り払おうとしている。河村と古川が、山岡を引き離そうとしている。私は羽田に向かって走った。この時羽田は、私に向けて右手の拳銃を発射した。銃声は辺りに響いた。
 弾は私の耳朶を擦った。これで羽田を叩きのめす正当性ができたというものだ。私は羽田に襲いかかり、羽田の頬に渾身の力を込めた鉄拳を炸裂させた。羽田は、山岡と河村、古川諸共地に転がった。私は叫んだ。
「河村、山岡を頼む! 古川、中島を押えろ!」
 河村は、地に放り出された山岡を抱きかかえ、横っ飛びに羽田から離れた。古川は、西川と格闘している中島に走り寄る。私は羽田の右腕を捻り上げ、拳銃を奪った。羽田が奪い返そうと手を伸ばした時、がら空きになった鳩尾に、肘鉄を撃ち込んだ。羽田は気絶した。
 中島は西川と古川に組み伏せられている。私は中島の胴腹に、たて続けに拳と膝蹴りを打ち込んだ。中島は体を折って気絶した。
 その時、ばらばらと足音がした。見上げると、谷口や酒井や、哨戒に出ていた部下達が駆け寄って来る。私は立ち上がって言った。
「この三人は追放だ。任務を放棄し、山岡と西川を人質に取って、逃げようと企てた。就中この羽田は、俺に向かって引鉄を引いた。俺は副小隊長として、この三人をこれ以上、要塞に置いておけん。酒井、古川、いいな」
 辺りは静まり返った。私は続けた。
「この女二人も、同じだ。即刻追放だ」
 私達は、気絶した三人を縛って運び、二人の女には銃を突きつけ、あたかも捕虜を護送するかのようにして要塞へ戻った。トラックの荷台に、串田、羽田、中島を縛って転がし、女二人を乗せ、西川と石田を付けた。
 出発準備ができた。私はトラックに乗り込んだ。トラックを運転して、基地に着いた。私は大隊本部へ行った。夜中の四時であるから番兵が起きているだけだ。私は番兵に取り次がせた。やがて、睡たげな本部中隊長が来た。私は事の次第を説明した。本部中隊長は言った。
「その二人は、朝になったら釧路へ送らせよう。
 三人については、こちらで決める。中隊長には、私が話しておく。何にしても粛清はいかんよ」
「事の動機は何であれ、私に引鉄を引いたのは事実です」
「その事実は甚だ重大だが、半殺しにする程殴ったのはやり過ぎだ」
 私は西川、石田とトラックから五人を降ろし、トラックを運転して要塞へ戻った。
・ ・ ・
 鉄拳制裁のやり過ぎで右手が痛む。指は腫れて膨れ、手首や肘も痛みが取れない。しかも夜更けに暴れたために寝足りず、昨日の疲れが全然取れていない。という次第で実に気だるい午後を迎えた。粛清によって部下が三人いなくなった兵員室にも、疲弊れた雰囲気が立ち込めている。床に点々と血が飛び散っているのが異様だ。
 昼になって、小隊長が私を呼びつけた。私は睡い目をこすりながら小隊長室へ行った。小隊長は居丈高に怒鳴りつけた。
「お前はよくよく僭越な行動が好きだな。一体誰の許可を得て、俺の部下を追放したんだ!? 俺は許可した覚えはないぞ」
 返す言葉もない。
「ここまできたら、もうお前をここに置いておけん。今すぐ、基地へ送り返す。お前がここへ来た時に俺が言ったこと、忘れてないだろうな?」
「どうぞご勝手に。私を追放した後、何が起こるかは知りませんが」
 小隊長は喚いた。
「減らず口を叩くな!」
 とは言っても、やはり小隊長は、部下の造反を恐れていたのであろう。その日は結局、小隊長は私を基地へ送らなかったのだ。
 その夜のことであった。私は何となく寝つかれずにいた。腕時計を見ると、十一時である。私は毛布を被った。
 その時だ。少し開いた扉から、山岡の悲鳴が聞こえたのは。私は飛び起きた。枕元の懐中電灯を右手に持ち、左の腋に銃を挟み、毛布を跳ねのけて立ち上がった。
 殆ど同時に、谷口も飛び起きた。私は大股に兵員室を出て、山岡の部屋へ向かった。
 山岡の悲鳴が続く。私は山岡の部屋の扉を開け放った。懐中電灯の光の中に浮かび上がった者こそ、誰あろう、宮本小隊長であった。
「小隊長!!」
 私は懐中電灯を持ったまま、銃を構えた。小隊長は身をよじり、すっかり狼狽した声で叫んだ。
「ま、待て! 俺が悪いんじゃない!」
 盗人猛々しいとはこの事だ。谷口が叫ぶ。
「問答無用! 黙れ!」
 私は、温厚な谷口がこれ程の怒りを露したのを見たことがなかった。谷口は私の右から進み出た。その銃の銃口は小隊長の胸に向けられていた。
 小隊長は叫んだ。
「ほ、本当だ! 山岡が、俺を、誘惑したんだ!」
 山岡が泣きながら叫んだ。
「嘘です! 私が、小隊長を、誘惑しただなんて!」
 小隊長はやにわに拳銃を抜き、山岡に突きつけた。
「このアマ! 俺を嵌めやがったな!」
 谷口が怒鳴った。
「そんな脅しが、俺に通用すると思ったか!!」
 谷口の銃が火を噴いた。小隊長の拳銃は、部屋の隅へ飛んだ。谷口は、まだ硝煙の立っている銃口を、小隊長の額へ向けた。
「今すぐ、京子から離れなさい。さもないと……」
 谷口の言葉には、私さえぞっとするような凄味があった。小隊長は、万事休すといった体で、両手を上げて立ち上がった。小隊長は、谷口に不可解な微苦笑を見せて言った。
「上官を美人局にかけるとは大した奴だな」
 谷口は銃口を小隊長の額に向けたまま、厳しい口調で言った。
「もう一回、そんな事を言ったら、本当に殺しますよ」
 私は小隊長に銃を向けて言った。
「私を基地へ送り返すと、昨日言いましたね。約束通り、私を基地へ送っていって貰いましょうか」
 小隊長は低い声で言った。
「嫌だと、言ったら……?」
 私は平然と言った。
「小隊長は、昨夜の哨戒に出たまま行方不明になりました、と報告するだけです」
 実際、小隊長を殺してどこかに埋めてしまっても、今の状況では誰にも知られはしないだろう。
「基地へ、行こう」
 小隊長は、絞り出すような声で言った。
 私がトラックを運転し、山岡を助手席に乗せ、谷口と小隊長を荷台に乗せて基地へ向かった。基地へ着いた私は、中隊長に面会を求めた。
 出てくるなり中隊長は、小隊長をじろりと見て言った。
「宮本、遠路はるばる色狂いを叱られに来たか」
 どういう事だ? 誰か中隊長に、先刻の事を報告したのか?
「昨日矢板が連れてきた女二人を尋問したらな、二人のうち一人が、宮本、お前に強要されて、あれをしたと言ったんだぞ! 身に覚えがあろうが?」
 私と谷口は顔を見合わせた。二人とも、あの三人以外とは無関係だと言った筈である。小隊長は、すっかり色を失っている。
「それで今日は何の用事だ? 代りの女をよこせとでも言いに来たか?」
 私は小隊長に代って言った。
「実は先刻、小隊長が、山岡の寝入りばなを襲ったのです」
「何ぃぃ!!?」
 中隊長の形相が変わった。何か言い出そうとした小隊長も、震え上がって黙ってしまった。
「山岡、詳しく説明してくれ」
 中隊長に言われて、山岡は、事の次第を詳細に述べた。途中二、三度、小隊長が口を挟もうとしたが、中隊長に大喝されて黙り込んだ。山岡が説明を終えると、中隊長は厳然と宮本に言い渡した。
「貴様は馘だ! それだけじゃない、今日限り、二線に降格だ! これも貴様の身から出た錆だ。自業自得だ!」
 小隊長、いや元小隊長は、がっくりとうなだれた。
 私と谷口、山岡は要塞へ戻った。部下の皆に、事の次第を説明し、私が小隊長となった事を告げた。朝になって帰ってきた河村達にも話した。河村は言った。
「惨めな奴ほど、去り際も惨めなものさ」
 こうして私は、副小隊長という妙な身分を十三日で捨て、晴れて小隊長となったのだった。
 しかしちょっと腑に落ちない点がある。あの二人と、当然関わりを持っていると予想していた屋代と石田が、実は全く関わっていなかった事だ。私は当の二人に訊いてみた。
 石田曰く、
「僕は串田ほど頭に来てなかったから、結構冷静に考えることができたんです。つまり僕の果すべき任務のことと、さらに副小隊長のことと」
 屋代は面白いことを言った。曰く、
「僕、まだ童貞なんです」
 私は思わず笑った。
(2001.2.4)

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