岩倉宮物語

第八章
 綾子が烏丸殿に乗り込んでから四日後、私は村雨を、烏丸殿へ遣わした。表向きは、以前綾子に奉公していた女房が、綾子が烏丸殿に引き取られたと聞き込んで訪ねたという事にし、私の名前を絶対に出さないように、と申し渡しておいた。本当の目的は勿論、綾子が落ち着いた頃を見計らって、邸内の間取りや人員配置に関する詳しい情報を聞き出す事であった。今後は私と綾子との連絡は、正門を通さず、清行あたりを使って隠密裡にやる積りであったが、そのためには邸内の間取り、綾子の居場所といった事を知らなければならない。それで最初の一回だけは、村雨を使い、正門を通して渡りをつけさせる事にしたのだ。
 夕方になって、村雨は帰ってきた。
「綾姫様から、御文をお預りして参りました」
と言って差し出す文は分厚い立文で、包み紙は透し紋の入った上等な色紙である。今迄の、丈夫一点張りの安い陸奥紙に比べると、これだけでも綾子の生活が、相当好転した事を伺わせる。
 文を開いた。私が前以て言い含めておいた通り、微に入り細にわたる詳細な報告書だ。
 邸内の間取り――寝殿、北の対、東西の対、東の対に晴子が住み、仕えている女房は三人、西の対に公晴が住んでいる。艮(東北)に少し小さい対屋があり、自分はそこにいる。艮の対屋の間取りはどうなっていて、渡廊はどうで、塗籠はどこで妻戸はどこだ。
 人員の配置――東の対は晴子の部屋。北面に女房の部屋があり、筆頭女房の小菊の部屋は西の端。他の二人、和泉と菖蒲はその東側。自分が一人の女房も連れていないのを見て、晴子は和泉を、自分付きにしてくれた。和泉には、少し前から付け文してくる男がいるらしい。
 晴子との対面の状況――乗り込んだ翌日、早速、一対一での対面を申し入れ、先方は承諾した。東の対へ乗り込んで対面した。その時の様子。晴子は自分を、守実の恋人だと思い込んでいて、そうではないと言っても、それは世間体を憚っての嘘だと信じ込んでいる。剰え、自分(晴子)はそこらの貴族と違って、身分違いの恋を馬鹿にはしない、むしろ応援する積りだ、などと言った。この限りでは、自分に対して悪い心証を持ってはいないと思われる。それから一転して、守実には兄弟はいないかなどと言って妙に守実に興味があるようなそぶりを見せたので、問い質してやったところ、会った事があると言った。それのみならず、守実に生き写しの男と以前に会った事があり、もう一度会いたいとまで言った。そこで、守実に会わせてやろうと言ったら、さすがにすぐには同意しなかった。きっと晴子と守実の間には、私達の知らない何らかの縁があるに違いない。これを利用できないか――。
 私は文を畳みながら考えた。晴子という人間、私の知らない所にどんな過去を秘めているのか。だが、晴子と守実の間に何やら関係が存在しているとなると、綾子の書いてきた通り、これをうまく利用すれば、全く予期しない事態が展開するかも知れない。それをうまく誘導していけば、素晴らしい結果がもたらされる可能性はある。
 それともう一つ、気になる事がある。晴子が綾子に付けてやった和泉という女房に、付け文する男がいるという事だ。どこかの誰かが、私とは違う目的を持って、烏丸殿の女房に渡りをつけようと図っているのかも知れない。勿論、純然たる恋愛というのもありうる訳だが、やはり自分の行動を基準に考えてしまうのは致し方ない。
 翌日清行が来た時、私は言った。
「清行、お前が付け文している烏丸殿の女房は、何という名前だ? いや、烏丸殿の中では何と呼ばれてる?」
 清行は澄まして答えた。
「和泉、と呼ばれているらしいです。何でも和泉の土豪の娘で……」
 しまいまで聞かず、私は感嘆の声を上げた。
「世間は狭いなあ!」
「はぁ?」
 清行は、私が突然大声を上げたのに驚いて、合点の行かぬ顔で聞き返した。私は興奮さめやらず、清行の肩を叩いて言った。
「綾姫にお付きの女房が一人もいなかったんで、晴姫が女房を一人付けて下さったと、綾姫からの文にあったんだが、その女房というのが、和泉なんだよ。何て偶然なんだろう!」
「本当に、奇遇でございますね」
 清行も、半ば驚き半ば感嘆して言った。
 六月十日、室町殿で、信孝主催の釣殿の宴が開かれる事になった。暑気払いの宴というのは名目で、本当の目的は今年十六歳になる妹の佳子の婿探し、という事らしい。招待されているのは公晴を始め、右兵衛佐、式部少輔、右衛門権佐といった独身者が多いのが、その証左かも知れない。そして信孝の親友であり、かつ独身者である私も、招待されていた。という事は、信孝は私を、佳子の婿候補に擬しているという事か。三条大納言との密約を考えると、何とも皮肉な事態ではある。
 さて当日、清行を伴って室町殿へ行ってみると、信孝は宴席には出ていなかった。父左大臣が言うには、信孝は数日前に釣殿で宴の準備中、足を滑らせて池に落ち、風邪を引いて寝込んでいるという事であった。そんな事では、私達も今一つ興が乗らない。
 そうしているうちに、三位中将がついと立ち上がって、
「折角の宴も、少々殿が御欠席では味気無いものです。どうですか、少将殿をお見舞いに参りませんか」
と左右を見回して言った。
「参りましょう」
 私はすぐさま、立ち上がった。
「余り大勢で参っては、御病人には宜しくないでしょう」
と言う者もいる。結局、私と三位中将の他、公晴、宰相中将源満、式部少輔、左馬頭、右兵衛佐の総勢七人で、宴席を抜け出して信孝の私室へ行った。女房の先導で私達がぞろぞろと入ってゆくと、信孝は、
「や、これは皆様方お揃いで。お見苦しいなりで、失礼致します」
 いつもの生真面目な信孝らしく、夜着の襟元を直したり、烏帽子を被り直したりする。
「いや、そう無理なさるな。風邪は治りかけが肝腎なのですから」
 宰相中将が、義弟たる信孝を労るように言う。私達は、信孝の床を囲むように坐った。
 見舞いと言えば、病人を慰め、労り、励すような物だと思う。ところがこの顔触れは、それとは大分違う。まず口を切った三位中将の言葉、
「それにしても、少将殿の御目の高さには、私などつくづく敬服していますよ」
 何を言い出すのかと思っていれば、続いて、
「あれ程京洛を騒がした曰く付きの姫と、親兄弟の御反対を押し切って結婚なさるとは」
 信孝の顔色を伺うと、信孝は病み上がりのせいもあろうが、疲れ切ったような顔をしている。こんな事はもう聞き飽きた、と言いたそうな顔だ。
 ――そういう事か。信孝自身の感情とは別に、世間は信孝と晴子の結婚を、完全な政略結婚と見ているのだ。何と言っても晴子は、京の名門四派の一、烏丸殿の総領娘である。信孝がこの晴子と結婚すれば、烏丸殿の全面的支援が得られるし、烏丸殿から見れば信孝を婿に取ることで最有力派閥の近衛殿と姻戚になれる訳だ。世間が政略結婚と見るのは当然である。ましてこれを口にした三位中将は、兵部卿宮の上の娘を妻としている。確かに追尊太上天皇の孫娘にして二世の女王、血筋は極めて優れているし、才色兼備の素晴らしい姫ではあるが(という噂。私は会った事は勿論ない)、宮廷で出世するための計算でゆくと、余り有利な結婚相手ではない。舅は兵部卿宮であり、政界での勢力は殆ど無く、財力もそこらの受領の方が上だ。その点から見れば、信孝が晴子と結婚したのを、実に優れた計算だと皮肉の一つも言いたくなるのだろう。が、しかし……。
 他の者も、三位中将に続くように何やら皮肉めいた事を言うので、私は半分は信孝に助け舟を出す積りで、もう半分は別の意図を持って言った。
「私は、世間の噂と申すような物には疎いものですから、よくは存じませんが、晴姫という御方は、そんなに風変りな姫であられるのですか」
 信孝は、私が信孝の目の前で晴子と顔を合わせた事があるのを、覚えているだろうか。ちらりと横目で信孝の顔色を伺ったが、信孝の顔には、何でそんな事を言うんだ、というような色は現れていない。私は続けた。
「しかし、人の評判など、不確かな物です。現に、この場におられる方々で、直に晴姫と文をやりとりした方もおられぬ御様子。私としては、興味を惹かれる方ですね。既に少将殿の奥方とは、残念です」
 すると三位中将は、妙に気色ばんだ。
「帥宮殿は、一昨年、都を騒がせた噂を、御存知ないのですか。私なら、幾ら出世の為とは申せ、あれ程噂になった姫に、恋文を贈る勇気はありませんね」
 そりゃ、あの噂の元となった事件には、私は首まで浸っていたのだから、知らない訳はない。だが、ここは一つ、言ってやろう。
「それは一昨年の事でしょう。私達若い者は、ほんの短い間に大きく変わる事があるものです。女は季節のように変わる、と申しますからね」
 含み笑いしながら言ってやると、三位中将は唖然としている。私は酒のせいもあって興が乗ってきた。
「栗は棘に囲まれていますが、苦労して取り出した実は美味なものです。棘を恐れていては、折角の美味を味わう事はできません。そういう物ではありませんか? 少将殿は、それをよく御存じですね」
「そうですよ」
 突然声を上げた者がある。公晴だ。私達の視線を一身に集めた公晴は、
「帥宮殿の仰言る通りですよ。姉はこれ迄、そりゃ色々な事がありましたけど、吉野に長らく静養してたのが良かったんでしょう、結婚以来すっかり落ち着いて、気のせいか綺麗になったような気がしないでもありません。すっかり変わりましたよ。色々世を騒がせるような事もあって苦労したせいでしょうか、その分話題も豊富だし、何はともあれ、一緒にいて退屈しないんですよ」
と、得意然としてとうとうとまくし立てる。公晴にとっては、姉を悪く言われなかったのは珍しく、その上自分と親しい私がそんな風に晴子の株を上げるような事を言ったのは初めてなのだろう。すっかり上機嫌である。
 ふと私は、辺りの雰囲気が変わったのに気付いた。見ると、辺りの者達は、私や公晴の話に妙に興味をそそられた様子で、そわそわとして落ち着かない。
 その時だ、得々と喋っていた公晴の言葉を大鉈で叩き切るように、
「公晴、黙ってろ!」
 信孝の激しい嗄れ声が響き渡った。公晴は驚いて言葉を呑み込み、私もびくっとして振り返り、二度驚いた。信孝は額に青筋を立て、怒気凄まじい強張った顔で、ぎらぎらした目で公晴を睨み据えていたのだ。
 信孝は左右を見回して、
「皆さんも、いい加減下らない当てこすりで、妻を話題にしないで頂きたい、いえ、今後一切、妻の事は話題にして頂きたくありません、私のいない所ででも!」
 信孝の声とも思えない程荒々しい声で、ぶっきら棒に言い切った。私達は信孝の射るような視線を避けつつ、互いに顔を見合わせた。この貴族社会では、何事も曖昧、婉曲なるを以て良しとするような所があって、多少気に入らない事を言われても、作り笑いしながら引き歌や皮肉で応酬するのが一般的だ。こんな具合に目をひんむいて、嗄れ声で大喝するというのは、余程相手の身分が低いか、それとも年取って癇癪持ちになっている人でもなければする事ではない。
「……わ、私は、失礼させて頂きます」
 三位中将が早口に言って、そそくさと席を立った。私達も一人また一人と席を立った。
「ねえ、どうして信孝は急に、あんな怒り方をしたんでしょう」
 宴席に戻る途中で、公晴が私の袖を引っ張って尋ねた。私は振り返って、肩をすくめた。
「私の方がお尋ねしたいですよ」
 宴席に戻ってからも、公晴は私を捕まえては、ぶつぶつと愚痴をこぼす。
「信孝は、姉を他人に悪く言われる方がいいのかな。僕が折角、姉の汚名を雪いでやろうとしたのに、いきなりあんな凄い怒り方するんだもの……」
 私は呟いた。
「興味を惹かれる、と言ったのがまずかったのかな」
 すると公晴は勢いづいて、
「だって皆、宴席で酔っていたんですよ。興味を惹かれると帥宮殿が仰言ったのも、酒の上の冗談でしょう、そうでしょう?」
 答える代りに私は頷いた。
「やっぱりそうだ。それなのに、あんなにむきになるなんて、信孝ってあんなに、冗談の通じない人だったのか」
 そこへ信孝の従者らしい男が現れた。
「先程は少将をお見舞い下さいましたのに、少将が皆様の御気持を害すような事を申しました由、誠に申訳ございません」
 紋切り型の口上を述べる男の声を聞いて、私は、はっとした。この声には聞き覚えがある。綾子の邸の床下で耳にした、守実の声だ。この男が、信孝の乳母子にして室町殿の家政を預り、信孝と晴子の結婚に頑強に反対し、そのために綾子と組んで信孝を美人局に嵌めようと謀り――その陰謀は私によって粉砕されたが――、そして晴子との間に、何か私の知らない縁があるらしい、大江守実なのだ。私の前に手を突いて平伏した守実を、私は注意深く観察した。
「面を上げなさい」
 顔を上げた守実を、私はしげしげと見つめた。気難かしそうな眉宇の辺り、才走った感のある目や口元。眼光の鋭さは、良く言えば切れ者、悪く言えば狡賢さの表れと見える。そう見えるのは、主人を裏切ろうとした者だという先入観があるからだろうか。
 私は、親しげに声をかけた。
「守実、と言ったかね」
 守実は、びくっとしたように肩を震わせたが、すぐまた平伏した。
「帥宮様が私を御存知とは、光栄の至りにございます」
 私の観察眼は、守実が、帥宮が自分を知っている筈がないのにと思っている事を見抜いていた。確かに私は今迄守実に会った事はないし、今夜の宴席にも守実が顔を出したのはこれが初めてなのだ。
 私は穏かに言った。
「先刻の事は、別に気を悪くしてはいないよ。ただ、あれ程弁少将殿がお怒りになるからには、余程の恋妻であられるのだろうな、晴姫は。どういう姫なのだね」
 守実は当然ながら口籠った。
「恐れながら……どのような姫とは、詳しくは存じ上げませんが……」
 守実が引っ込むと、入れ替りに大勢の女房が現れて、しきりと酒を勧める。私には守実の意図が察せられた。信孝ともめ事を起こした者達を酔い潰して、あの事を忘れさせようという魂胆に違いない。ではあるが私達は、度を過ごす程は飲まないという事をきちんと弁えているから、適当に言を左右にして杯を断っている。飲んでいる者というと、これが琵琶湖の水が酒だったとしても飲み干せる、と豪語する大酒豪の右兵衛佐である。だから結局、酔い潰される程飲んでいる者はいないのだった。一人だけ例外がいて、それは公晴であった。身内を褒めたのに信孝が、肯いてくれるどころか人前で名指しで大喝などしたものだから、その憂さ晴らしもあってか、次々に杯を重ねている。公晴は私が知る限り、それ程飲める口ではないのに、浴びるように飲むのを見ていると、要らぬお節介とは思いつつも制したくなってしまう。
 明け方も近くなった頃、私もいい加減酔いが回ったので、退出する事にした。その頃になると公晴は、もう前後不覚であった。足腰も立たなくなって、従者に両脇を抱えられて退出していく公晴を見送りながら、何やら囁き合っている者がいる。これでまた一つ、あの姉弟に関する良からぬ噂話の種ができた、とでも思っているのだろう。
 帰る道すがら、物見窓を開けて夜風に当たっているうちに、私の頭は次第に普段の冴えを取り戻してきた。
 ――私が晴子に、興味を惹かれる、と言ったのは半分は、あの場の勢いから出た言葉だ。もう半分は、別の意図があったのだが。栗の譬えも、底意があった訳ではない。しかしあの事から一つ思い至った事がある。それは信孝は、案外嫉妬深い性格なのではないかという事だ。酒の上での冗談――と公晴には言った積りだが、本当にそうだったか、と言われると確かではないが――を真に受けて、あれ程烈しく怒り狂ったというのは、私が知っている限りの信孝の平素の生真面目さからは考えられない。生真面目な性格なら、冗談を真に受ける事はあろうが、冗談を真に受ける程生真面目なだけなら、あれ程度を失って怒り狂う事はない。万事曖昧、婉曲を良しとする貴族社会で、あのような振舞がどれ程その人物の評価を下げるか、知らない信孝ではない筈なのだ。少なくとも私の知っている限り。それなら何故? と考えると、やはり、私が言った事や、その後の公晴の喋りまくった事が契機になって、他の者達の好色心がそそられたに違いない事に行き着く。私自身は決してそうではないが、世の男共の中には、既に他人の妻になっている女にちょっかいを出して楽しむ手合が少なくないという。そんな男共が、今夜の事で晴子に良からぬ興味を抱いて、付け文の一つもしてみようという気になるのを、信孝は恐れたのだろう。
 さて、信孝の思いがけぬ一面を垣間見る事ができた訳だが、そうなると次に考える事は、これを――私の壮大なる計画の成就のために利用できないか、という事だ。どんな些細な事でも、どんなに信義に悖る事でも、計画の遂行に役立ちそうな事なら全て利用し尽くす、それが今や私の行動規範となっている。私が生涯を賭して実現せんとする遠大なる計画の前には、どんな事も瑣末事だ。
 午後から参内してみると、信孝が見舞客相手に激怒した事、公晴が憂さ晴らしに飲みすぎて酔い潰れた事が、すっかり宮廷中の噂になっている。病気の治り切っていないらしい信孝は欠勤だが、公晴も二日酔いのためか、欠勤であった。
「弁官が二人して休まれては、困りますな。事務は毎日、どんどん来るというのに」
 公晴の上官である右大弁が、聞こえよがしに言っているのが聞こえる。風邪で休むならまだしも、二日酔いで休むとあっては、こうも言いたくなるだろう。
 私は一日、酒っ気の抜けた頭で考え抜いて、一つの秘策を考えついた。その要点を紙に箇条書きにして、包んで立文にしてから、私は清行を呼んだ。
「お呼びでございますか」
 簀子縁に来て平伏した清行に、
「うむ。もっと近う」
 清行を手招きし、先導してきた桔梗を退らせてから、私は声を落として言った。
「ごく秘密の用件だ。今夜、お前一人で烏丸殿へ行ってくれ。そして、勝手口の方から秘かに侵入して(清行の顔色が変わった。私は構わず続けた)艮の対屋へ行って、この文を差し入れてくるのだ。艮の対屋には、綾姫がおられる筈だから、綾姫御自身に直接手渡して来られればそれが一番良い」
 清行は少時黙っていたが、やがて意を決して答えた。
「承知仕りました」
「頼んだぞ」
 夜更けになって清行は帰って来た。無事帰ってきたところを見ると、烏丸殿の者に見咎められるような事はなかったらしい。私は清行を存分に労ってやりながら、自分でも顔が緩むのを抑えられなかった。
・ ・ ・
 私の秘策とは、どんな策であったか。
 一、綾子のすべき事。近日中に信孝が烏丸殿に来るであろうから、その時、晴子と信孝に一緒に艮の対屋へ来させる。烏丸殿に預かりになっている事の礼をと言えば、信孝は必ず来る。そして二人が来たら、晴子の目の前で、思い切り信孝に媚を売ってみせる事。そうしているうちに話題が守実に及んだら――もしいつ迄も話題にする気配がなかったら、強引に守実の話題に持ってゆく――、綾子は守実の恋人ではないと、はっきり言明する事。何故なら晴子も信孝も、綾子が守実の恋人であると思い込んでいて、その窮地を救うべく綾子を引き取った積りであるから。そうである以上、信孝の性格からして、乳母子の恋人を奪うような事は決してしないから、綾子がどれ程媚びてみせても、信孝は乗って来ないであろう。そして信孝の目の前で、晴子が守実に妙に興味を持っているらしい事を喋ってやる事。この三点は、二つの理由で必要である。第一に、綾子を烏丸殿に受け容れる根拠を失わしめるため。第二に、受け容れ先の晴子の心証を害するため。この二つの理由によって、晴子は綾子を烏丸殿から追い出そうと考えるようになるであろう。それは、次の段階に移るために必要である。
 二、次の段階。晴子に対し、守実の陰謀を全て暴露する事。もし晴子が、何故今そんな事を言うのかと尋ねたら、その時、第一段階が生きてくる。即ち、晴子は自分に好印象を持っていない、そんな晴子の顔色を伺ってまで烏丸殿にいたくない、だから追い出される前に、行きがけの駄賃で晴子に一泡吹かせようと思った、と言ってやるのだ。
 三、きっと晴子は、その性格及び、守実に対し幾分好印象を持っているであろう事からして、すぐさま守実を烏丸殿に呼びつけ、一対一で事の真偽を問い質そうとするであろう。事情はどうあれ、一つ部屋に晴子と、内大臣、公晴、信孝、この三人以外の男が一緒にいるという状況が出現する。そこへ信孝が来たらどうなるか。最近知った事だが、信孝は存外嫉妬深い。必ず一波乱あるに違いない。
 四、そこで私は、清行に室町殿を見晴らせ、守実が烏丸殿へ向かったら、信孝の部屋に投げ文させる。晴子と男が一緒にいる、という文をだ。であるから、二を決行する日時を、三日後再び清行を遣わす時に、私に知らせて欲しい。その日、清行を室町殿に張り込ませる。
 五、勿論、四をやったのが私である事は、絶対に晴子に漏らしてはならない。だから、騒動の後で晴子が気を取り直して、綾子の許へ来てあれこれと問い質したら、立案から何から全て自分の一存である、投げ文は使い走りの小童でも買収した、と言ってやる事。決して、私と清行の名前を出してはならない。以上。
・ ・ ・
 三日後の夕方、清行は烏丸殿から帰ってくると、綾子からの文を私に差し出した。開いてみると、決行日時は今夜、と書いてある。
 何ともまあ、性急な事だ。私は清行に言った。
「清行、また任務を言いつけて済まんが、今夜室町殿へ行ってくれるか」
「は。今すぐ、参ります」
 どんな任務を言いつけても、すぐやってくれるのが清行の便利な所だ。
「うむ。いいか、私が今から文を書く。それに礫を包んで、投げ文にするのだ。室町殿を見張っていて、守実という少将の従者だ、知ってるか?」
「は。先日の宴の折に、見かけました」
「そうか。その守実が室町殿を出て、烏丸殿へ向かうのを見届けたら、少将の部屋、東の対屋の南面だ、そこを狙って投げ文するのだ。多分少将は、すぐ室町殿を出て烏丸殿へ走るだろう。そうしたらすぐ戻ってきて、烏丸殿の和泉に宛てて、付け文するのだ。『何か最近、変わった事はありませんか』という具合に」
「付け文、ですか」
 清行は、唐突な事を言われて合点がゆかぬという顔をしている。
「そうだ」
「……わかりました」
「うむ。では、ちょっと待ってくれ」
 私は筆を取り、いつもの自分の筆蹟とは全く違う奇妙な字で、小さな紙に書きつけた。
〈晴姫のお部屋に、何者かわからぬ男が忍んで来ている〉
 私は紙を畳み、清行に渡して言った。
「これを投げるのだ。いいか」
「はっ」
 清行は、すぐさま立って出てゆく。それを見送りながら私は、今夜烏丸殿で何が起こるかを想像し、胸が妖しく高鳴るのを感じた。
 これがもし完全に成功すれば、信孝と晴子の仲は見事に断絶するであろう。勿論そうなる事は、信孝にとっても晴子にとっても、この上なく不幸な事に違いない。私は信孝に対しても、無論晴子に対しても、そんな不幸のどん底に突き落としてやりたいという気を起こすような恨みや憎しみなど、全く持ってはいない。そうでありながら、こうしなければならない。何と言っても、自分が大切なのだ。成程そんな私は、見下げるにも値しない程卑劣極まる、唾棄すべき人間と取られるであろう。しかし、この世のどこに、御身大切でない人間がいようか。自己保身というのは、人間なら誰でも考える事ではないか。その為に他人をどんなに犠牲にしようとも。
 夏の夜の寝苦しさも手伝って、何となく寝付かれないまま、簀子縁に出て月を眺めていると、不意に私の耳は、日頃余り聞かない物音を捉えた。
 東の小路を、蹄の音も高らかに、一頭の馬が北から南へ走ってゆくのだ。検非違使の出動なら、もっと大勢いる筈、さりとて真夜中に、往来で早駆けをやる物好きはいない。と、なると……。
 信孝だ、信孝に違いない。室町殿から烏丸殿へ行くとしたら、北から南へ走る事になる。その時通る道としては、東洞院大路、烏丸小路、そして私の邸の東を通る室町小路、この三本だ。信孝は実際、時々私の邸の前を通って烏丸殿へ行く。公晴が室町殿へ行く時もそうだ。きっと今、信孝は騎馬で、烏丸殿へと急行しているのだ。私と違って信孝は、騎馬で外出する事は滅多にない。その信孝が騎馬で、しかも月があるとは云え真夜中に邸を飛び出したのだ。私の策が図に当たった事は間違いない。
 程なく、簀子縁を渡ってきた人の気配があった。
「若殿様、起きておいででしたか」
 清行だ。私は振り返った。
「うむ。どうだ、首尾は」
 清行は簀子縁に膝を突いたまま、小声で答えた。
「は。今しがた少将様は、只御一人、馬にお乗りになって、物凄い勢いで室町小路を駈けてお行きになりました」
 私は力強く頷いた。
「うむ、上出来だ。良くやった」
 清行は平伏する。
「忝のうございます。では、急ぎ、文を」
と勢い良く立ち上がろうとする清行を、私は手で制して言った。
「まあ、待て。こんな真夜中、それも大騒ぎの起こっている最中に、何か変わった事はなどと文を遣ったら、余りにも時間と状況が合いすぎて、先方に怪しまれる恐れがある。明日の朝、遣ったらどうだ。もう夜も遅い、お前も寝たいだろうし」
「はあ。では、そうさせて頂きます」
 私は清行の肩に手をやって、小声で囁いた。
「いいか、只の付け文じゃないんだ。和泉を通じて、烏丸殿の内部事情、特に今夜の騒ぎの顛末を探り出すのだ。ただ、出来るだけさりげなく、な。邸内のごたごたというのは、本当なら決して邸外へ洩らしてはならない事なんだ。それを上手に誘導して、書かせるなり喋らせるなりするんだからな」
「承知仕りました。では、御前、失礼」
「あ、そうだ、もう一つ」
 立ち上がろうとした清行を、私は呼び止めた。
「明日の朝行くんだったら、綾姫にも、邸内の様子をお伺いしてきてくれ。きっと綾姫のお耳にも、騒ぎの様子は入っている筈」
「はっ」
 清行は退っていく。床についた私は、一層胸が高鳴り、頭の中を様々な考えが去来して、まんじりともしなかった。
 翌日、日が高くなってから、清行は帰ってきた。簀子縁に膝を突き、
「若殿様、和泉から、初めて返事が参りました。御覧下さい」
と言いながら、懐から結び文を取り出し、私に差し出す。私は手を振った。
「いや、いいよ。他人宛の恋文を読む程、野暮じゃない。昨夜の件について、何か書いてあるかどうか、それだけ教えてくれ」
「は」
 清行は文を開いた。私は清行ににじり寄る。
「……昨夜遅く、少将様がたった一人、馬にお乗りになって、しかも弓をお持ちになって乗り込んで来られ、東の対屋では只ならぬ物音がしていたので、怖くて眠れなかった、と書いてあります」
 私は力強く頷いた。
「そうか。その和泉という女房は、相当口が軽いらしいな。その方が好都合だが」
「御意」
 私は声をひそめた。
「それはそうと、綾姫の御様子は如何だった? こんなに時間がかかったんだから、綾姫にもお会いしてきたのだろう?」
「は。私が参りましたのが、丁度朝餉時で、和泉が姫様に御膳を運んでおりましたので、塗籠に隠れて聞いておりましたら、昨夜の騒ぎの事を和泉が姫様に申し上げておりました。その後すぐ、晴姫様が艮の対屋へ乗り込んで来られたので、出るに出られず聞いておりました。綾姫様は晴姫様に、色々と申し上げておいででしたが、昨夜室町殿へ投げ文させたのは姫様御自身で、使い走りの小童を買収したと仰言ったのが、解せませんでした」
 私は、にやりと笑って言った。
「それはな、そう装うよう綾姫に私から申し上げておいた事だ。私とお前が、綾姫と手を組んでいる事は、烏丸殿の誰も知らない、知られてはならない事なのだから」
 清行は納得したようだ。
「左様でございましたか」
 私は更に尋ねた。
「それで、晴姫の御様子はどうだった? お声位は聞いただろう」
 清行は考え込んだ。
「さあ……昨夜は結局、収まる所に収まったとか、これ迄少将様は嫉妬などなさった事がないとか、仰言ってましたが……でも、相当綾姫様に、やり込められておいでだったと思います」
「わかった。それで、一部始終を聞き届けて、塗籠から出てきた、という訳だな」
「は。それから……」
と清行は、思い出し笑いを隠すように口元を押え、
「東の門から出ようとしましたら、東の対屋から、北の方様でしょうか、少将様が酒乱だとは今の今迄存じ上げなかった、是非とも室町殿のお耳に入れて、善処して頂かなくては、と随分興奮した声が聞こえてきまして。きっと晴姫様も、辟易なさったでしょう」
 私は笑いを噛み殺した。
「それはきっと晴姫が、昨夜少将が何やら騒ぎを起こしたのは、酒を飲み過ぎたからだと言い繕ったんだろうな。そうか……」
 ともあれ私は、いつものように参内した。すると意外な事が起こっていた。殿上の間へ入ってゆくなり、左衛門佐が私を見て言った。
「これは帥宮殿。昨夜は、面妖な事がございましたね」
 私は何の事かわからず、不審に思って聞き返した。
「はて、何事でしょう」
 すると左衛門佐は、大仰な身振りをしながら、さも驚いたといった声で言った。
「おや、御存知ありませんか。昨夜弁少将殿が、たった一人で馬を駆って、物凄い勢いで帥宮殿のお邸の前を駈け抜けて行ったのですよ。昨夜遅く、偶々帥宮殿のお邸の前を通りかかりましたら、弁少将殿が片手に鞭、片手に太刀をひっ提げて、南へ向かって真っしぐらに馬を駆ってゆくのに行き会いまして」
 私は意外な成行きに驚いた。私自身では、信孝と晴子の間に一波乱起こそうとは思っていたものの、信孝個人を噂話の的にして貶めてやろう、などという気は毛頭なかったから、どんな騒ぎが起こってもそれを表沙汰にはすまい、と思い定めていたのだが、全然別な所から漏洩したのは予想外だった。
「そうだったのですか。ええ、確かに蹄の音は聞きましたが、いつもの検非違使の出動だとばかり思っていました。まさか弁少将殿が、南へ……」
 すると右兵衛佐が、ぽんと手を打って、
「そう、南、ですよ。室町小路を南と言えば、それ、烏丸殿ではございませんか。さてさて弁少将殿が、夜も夜中に烏丸殿へ、太刀ひっ提げて単騎突入、こは一体、どうした事ぞ」
と、妙に芝居がかった声を張り上げる。左馬頭が続けて、
「それは必竟、かの晴姫に逢わん為ならん。晴姫恋しさに取りも敢えず、夜をついて烏丸殿へ赴けるか」
「こは異な事を。恋しさに堪えかねたるならば、太刀とは何ぞ、太刀とは」
と二人で漫才を始めたところへ、左少将が口を挟む。
「もしや誰か、晴姫に不審な御挙動ありと、少将殿に密告したのでは」
 私は、危うく声を上げそうになった。これこそ、私がした事そのままではないか。
「げにもげにも。あの晴姫なら、我々の思いも寄らぬ事をなさりかねん」
 兵衛佐が一層声を張り上げたので、皆はそれに気を取られ、私の顔を見る者はいない。
 翌日には、噂は一層広まっていた。しかも尾鰭が付いて、信孝が晴子の行状を疑って乱入したとか、門を閉ざされて門前で大暴れしたとか、門を打ち破ったとか、しかもその時信孝が、酔って見境いなくなっていたと、誰もが言う。信孝が余り酒に強い方でないのは、誰もが知っている事だから、あの信孝が我を失ったからには、酔っていたとしか考えられぬ、という発想から来ているらしい。噂の中には、信孝が晴子の密通の現場に踏み込み、晴子を散々に打ち据えたなどという、両人の名誉のために甚だ芳しからぬものもある。噂の的となっている信孝は、昨日も今日も参内していない。
 夕方、帝の御前で、私の他数人の公達が召されて、笛を合わせていた。合わせた後で、何となく数人で喋っているうちに、不意に、
「右少弁、こちらへ」
 簾の向こうから、帝の声がした。帝が公晴を、直々に召すのは、よくよくの事である。笙を担当していた公晴は、俄に緊張して、恐る恐る進み出て平伏した。
 帝の声がする。
「評判の姉君と、有能な弁少将の御仲は、どうだね。抜き打ちに近い婚儀で、都中を驚かせたものだが。何やら面妖な噂を、聞いたよ。弁少将が、烏丸殿で一暴れしたとか」
 これだけ殿上の間で、右兵衛佐や左馬頭が喧伝すれば、帝の耳にだって入るさ。
 公晴が、驚きの余りであろう、声も出ずにがたがた震えているのを見て、兵衛佐や左少将が、どっと笑い出した。簾の向こうの帝も、冠が揺れている。私は唯一人、憮然として黙り込んでいた。
 公晴が蒼惶として退って行ってから、私は誰に言うともなく、やや声を上げて言った。
「帝の御耳にまで達してしまわれたとあっては、弁少将殿も一層、面目を失う事でしょうな」
 実際私としては、信孝を貶める積りは毛頭なかったのだ。それが、こんな喧しい噂になってしまったのは、不本意な事であった。
 翌日私は、またも清行を烏丸殿へ潜入させ、綾子から、その後の烏丸殿の内情を報告させた。それによると、信孝はあれ以来まだ烏丸殿へは来ていないらしい。晴子には私が書いてやった通りに言ってやったら、依然強気ではあるが、相当打撃を受けていた様子である。そして、いよいよいつ追い出されるかわからない状態になったから、次の作戦を教授してくれ、と最後に添えてきた。
 私は考え込んだ。次の作戦、と云って、信孝と晴子を一挙に離婚に追い込めるような秘策がある訳ではない。それに、綾子をいつ迄、烏丸殿に置いておくか、そこが問題でもある。晴子と綾子は、いつ迄も一緒にいられる状態ではない。それに、綾子を烏丸殿に乗り込ませるという作戦は、もう所期の目的は達成した、と考えざるを得ないのではないだろうか。確かに信孝は、綾子に靡いた様子はないが、それはこの先もそう変わらないだろう。信孝と晴子が、本当に深い恋仲である事は、やはり認めざるを得ないし、それに、これは綾子にも言ってある事なのだが、綾子を末は高仁親王妃に推挙すると言って綾子を釣ってあるという事を考えると、綾子にこれ以上の事はさせられないのだ。もし綾子が、信孝を籠絡する事に成功して、行き着く所迄行ってしまったら、その綾子を高仁親王の妃に、というのはちょっと無理だ。それは綾子も、当然了承している事だ。籠絡せよ、但しやる事はやるな、と言うのが、土台無理な要求なのであった。
 この際、綾子を私の邸に引き取ろうか。そこから先の事は、また二人で知恵を出し合って考える事にしよう。
 翌日の夕方、私は村雨を使いとして、綾子に文を遣った。
〈晴姫に睨まれておられる貴女は、さぞかし居心地のお悪い事と、お察し申し上げます。私も熟考致しましたが、貴女に烏丸殿へ乗り込んで頂き、お二人の仲をかき乱すという私達の作戦は、所期の目的を一応達成したものと考えざるを得ません。そもそも貴女の将来の立場を考えますと、少将を完全に籠絡せられる事は不都合な訳ですから。そこで、近日中に貴女を、私の邸へお迎え致そうとの結論に至りました。それから先は、貴女と私と、知恵を出し合って考える事に致しましょう。
 さて、私が貴女をお迎え致そうと申し上げた事を、貴女から晴姫、或は少将に仰言るならば、きっと晴姫は、どのような縁で、と貴女にお尋ねするでしょう。その時は、私が初めて貴女に文を参らせた時の事、覚えておいでですか? あの通りに、仰言るのが良いでしょう。中務少丞政文から貴女の話を伺って、私が貴女に御同情申し上げ、少丞の母を通じて、自邸へお迎え致したいと申し上げた、あの通りにです。あの時の文をお持ちでしたら、それを見せてやっても宜しいでしょう。
 では、御健闘を祈ります〉
 そうやっておいてから、今度はこちらの支度である。私は近江を呼んだ。参上した近江に、私はさりげなく尋ねた。
「近江は、この前私が、桜井宮のお邸へ参った事があったの、覚えているだろう?」
「はい。桜井宮様は、もう疾うにお亡くなりになって、姫君が御一方でお住まいの筈、と申し上げましたと思います。若殿様は確か、懸想じみた事では決してない、と仰せになりましたね」
 近江の記憶力は大した物だ。
「そうだな、そんな事も言ったな。で、桜井宮のお邸から帰ってから、何か話したかな」
 何も話してはいないのだが、空とぼけて言ってやると、近江は何の疑惑も持たない様子で答えた。
「いいえ、何も伺ってはおりません」
「そうか、何も話してなかったのか。実は、こういう事なんだ。宮が亡くなられてから、御遺産で細々と暮らして来られたものの、近頃ではそれも殆ど底をついてしまって、かなり窮迫したお暮らしを強いられておられるらしいんだ、その姫君は。私の前では、決してそんな、憐れみを乞うような態度は取られず、誇り高く振舞っておられたがね。乳母の縁だか何だかで、僅かながら暮らしの援助もして貰っているから、それで何とかやって行けると。で、自分で言うのも何だがこういう性格だから、懸想じみた考えを持つにも至らなくて、すっかり忘れていたのだ」
「左様でございますか」
 今一つ辻褄の合わぬ事を言っているにも拘らず、近江が疑念を抱いている様子が見られない。余り何事にでも、主人の言う事に唯々諾々と従う女房というのは、却って考え物ではあるのだが。
「それがね、昨日、九条と話をしていたら、九条が不意に、その桜井宮の姫君の話を持ち出したんだ。初めて知ったんだが、九条は昔、桜井宮に御奉公していたらしいんだよ」
 まあ、嘘じゃあないな。この辺の話は、相当苦労して作文した話だが。
「不思議な縁でございますね」
 近江は素直に、相槌を打つ。
「最近――九条がこちらへ来てから、だな、桜井宮の姫君から九条に文が来たそうだ。それによると、頼みの綱だった乳母も、先頃亡くなってしまって、もうどこからも援助を得られる当てがない。最近九条が、帥宮様の邸に引き取られたと風の便りに聞いた。ついては私――姫君だよ、私の暮らしを、僅かでも援助して頂けるよう、帥宮様にお願いしてくれないか、と姫君から九条に、頼み込んできたらしい。それで私も、以前桜井宮のお邸へ伺った時の事を思い出してね。あの時はまあ、当の姫君が、私の援助がなくても何とか暮らしてゆける、と言っておられたものだから、他人がそんな差し出がましい事をしなくとも良かろう、と思っていたのだが、あの時の暮らし振りは、端目にも相当、窮迫しておられた様子だった、まして今は、もっと厳しくなっておられるだろう、と急に何かこう、胸に迫る物があってね。私自身、昔はそれはひどい赤貧のどん底にいたから、一層姫君のお暮らしの厳しさが実感されて」
 私は、内心ではここが肝腎、と下腹に力を込めながら、表向きはいかにも同情に堪えないといった様子で、しみじみと述懐してみせた。
「それでは、その姫君のお暮らしを、援助して差し上げなさるお積りなのですね。でしたら何も私に仰せられなくとも、家司に申し付ければ宜しゅうございましょう」
 近江が言うのへ、私は少し口籠りながら、
「いや、それがね。……もうお邸にいるのは姫君と女房が一人か二人、門番もいないというんで、この頃は都も物騒だから、いっその事、こちらへ引き取って貰えないか、と仄めかしているんだ、九条が。自邸はほら、北の対の半分位は空き部屋だから、姫君お一人位なら……。それに、既に自邸で面倒見ている、九条と村雨も、その姫君とは知らぬ仲でもないし、一緒にして差し上げた方が、と思うんだが……」
 近江にとっては、客分が増えれば増えるだけ、自分の仕事が増える訳だから、出来る事なら受け容れたくないところであろう。それを思うと、つい歯切れが悪くなる。
「出来るだけ、近江の手は煩わさないようにしようとは思うんだが」
 すると近江は、笑いを噛み殺すような顔をした。すぐに、笑いを含んだ声で、
「何を仰言るかと思えば、そんな事でございますか。御心配には及びませんわ。私は女房頭、客人のお世話の事は、私にお任せ下さいませ」
 この時程、近江を有難いと思った事はなかった。私は手を合わせて拝みたい思いで、
「そう言ってくれると助かる。いや本当に、有難い」
 我知らず、安堵の溜息が漏れた。これ程私の為に尽くしてくれる女房は、都中探しても他にはいないだろう。私と近江の関係は、全幅の信頼に基いた絆と言ってもいい。
 それから今度は村雨が帰って来るのを待って、九条と村雨を呼んで、入念な口裏合わせを行った。近日中に綾姫をこちらへお迎えする事になるが、それは九条から言い出した事だ、綾姫の頼みの綱だった乳母とは、九条とはあくまで別人だ、と。目の前に坐っている人間を、死んだ事にするというのは、よくよく面倒なものだ。
(2000.12.4)

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