岩倉宮物語

第七章
 その日、帰邸した私の部屋へ、清行が来た。
「若殿様宛の御文を、お預りしております」
と言って差し出す文を見れば、日に焼けた陸奥紙に包んだ立文である。差出人は見当がついた。
「うむ、有難う。退って宜しい」
 清行を退らせてから、文を開いた。例の流麗な筆蹟で、通り一遍の挨拶の後、
〈近々またお目にかかりとうございます〉
 綾子が私に会いたいと言ってくるのは、どういう事だろう。ともあれ、善は急げ、だ。今日は方角も支障ないし、今夜早速、行ってみよう。
 私はすぐに、近江を呼んで桜井宮邸へ行くと告げ、清行を供に付けて、夜の道を桜井宮邸へ向かった。誰もいない門を通り、庭木に馬を繋いでいると、
「どなたですか!?」
 女房の声がした。振り返ると、手燭を持った二十歳過ぎの女房が立っている。この前来た時には見かけなかった者だ。無断侵入した騎馬の男二人に向ける目は鋭い。私は軽く会釈して言った。
「失礼しました。帥宮と、従者の左京少進です。綾姫に、お取り次ぎ願いたい」
「かしこまりました。少々お待ち下さい」
 女房は、私の名を聞いて納得したのか、足早に退っていく。幾らも待たぬうちに、同じ女房が戻ってきた。縁側に手を突いて、
「先程は、大変失礼致しました。申訳ございません」
 今度は随分愛想がいい。こんな事は、以前にもあった事だから、一々気にする事ではない。
「いや、お気になさるな」
 女房は手燭を持って立ち上がった。
「どうぞ、こちらへ」
 女房に先導されて、私達は寝殿へ行った。油が少ないのか薄暗い室内に、几帳が一つぽつんと置かれ、その陰に人の気配がある。几帳の前に擦り切れた円座が二枚置いてある。私と清行が並んで座ると、几帳の陰から、
「随分とまた、お早いお越しですこと、この前もそうでしたけど」
 玲瓏たる綾子の声が聞こえた。この声は、私が初めて会った時の、上品に取り繕った声ではない。本音で勝負、といく時の声だ。
「こういう性分ですのでね」
 私は軽く受け流してから、
「この前参った時には、見かけなかった方がいるようですね」
 さりげなく言うと、
「そこにおります、女房ですの?」
 声と一緒に、几帳の陰から紙扇の先が差し出された。扇の指し示す先を見ると、今しがた私達を先導してきた女房が坐っている。屋内の光でよく見ると、女房は、何となく居づらそうな、気まずい雰囲気を漂わせている。これはどういう事なのだろうか。
「この者は、村雨と申します。外記と申す私の乳母の娘ですわ」
 綾子が説明する。
「成程、乳姉妹ですか。しかし、この前こちらへ参った折には、見かけなかったような気がしますが」
 私が同じ事を繰り返すと、綾子は、ぱちんと扇を鳴らした。それから、俄に棘々しい声音に変わって、
「この者は、私の乳姉妹でありながら、父が亡くなるとすぐ、私に見切りをつけて、外記をこのお邸に残したまま、名も知れぬ男と駈落ち同然に姿を晦ましたのですわ。しかも、私の装束や調度を持って」
 綾子の舌鋒に、村雨は一層縮こまっている。
「それがつい先日、臆面もなく戻ってきて、もう一度奉公させてくれと申すのですわ。何でも、男に捨てられて、住む家も食べ物もないのですとか。自業自得ですわ」
 そう思うのも、無理はないだろうな。と思いつつも、客人の前で主人に旧悪をバラされる村雨にも、同情せずにはいられない。
「外記までもが、親馬鹿で泣きつくものですから、持ち逃げした装束や調度の分は只働きさせることにして(宮家の姫とも思えない事を言うな、と私は思った)、置いてやる事にしましたの」
 私は頷いた。ふと、思いついた事がある。
「成程、そういう訳ですか。でしたら……」
と言いつつ身を乗り出し、声をひそめて、
「話があります。村雨を、退らせて下さいませんか」
「ええ。村雨、お退りなさい」
 村雨が退ってゆくと、綾子は、
「何ですの、話とは」
 私は几帳ににじり寄った。
「只働きついでに、私達の計画の手下として役立てられませんかね」
 几帳の向こうで、身じろぎする気配がした。
「村雨を、ですの……?」
 綾子の声は、承服しかねる、という響きを含んでいる。ややあって、不意に綾子は声を上げた。
「私は、反対ですわ! 村雨は、幼い時からずっと信頼してきて、少なからず恩義もあったこの私を、裏切ったのですのよ! 顔を見るのも嫌ですのに、持ち逃げした分を返させずに追い出すのも癪ですから、せいぜいこき使ってやろうと、置いているだけですのよ、さっさと厄介払いしたい位ですわ!」
 せいぜいこき使ってやる、か。大した台詞だ。だがここは、綾子を説得するのが先だ。それは、最早村雨に対する単なる同情心ではなく、私なりの計算があっての事なのだ。まずは一般的な線からいこう。
「貴方を裏切り申したというのは、もう大部前の事でしょう。それから何年も経って、こうして戻って参ったのなら、もう心を入れ替えたと」
 不意に綾子は、甲高い声で嘲笑した。
「心を入れ替える? そんな台詞は、聞き飽きましたわ! 今更、そんな綺麗事が通じる私と思って? 私は、そんなに甘くありませんわよ!」
 尚も甲高い声で笑い続ける綾子に、私は、
「綾姫!」
 うんとドスを利かせて、低い厳しい声で一喝した。驚いて笑い止んだ綾子に、私は尚も厳しい口調で言った。
「私怨私恨に拘っていらっしゃるうちは、貴女はまだまだ、私と組むには甘すぎますね」
「私が? どういう事ですの!?」
 綾子も負けずに、半ば喧嘩腰になってくる。私は腹に力を込めた。
「いいですか、何故私が、村雨を私と貴女の手下にしようとしたか、おわかりですか。確かに村雨は、貴女を裏切り申した者です、それを手下とするのは、貴女は御気に召さないでしょうし、私としても一抹の不安がないとは申せません。しかし、一度貴女を裏切り申し、そして今はよんどころなく貴女に助けを求めて参った村雨は、二重の意味で貴女に対して弱い立場にあると、そう思いませんか?」
 綾子は黙っている。私は言葉を継いだ。
「本当なら、貴女にお合わせ申す顔もない者が、針の筵に坐る思いで貴女の御許へ戻って参ったのです、そうせざるを得ない程、追い詰められていたのです」
「だから、昔の事は忘れて恩をかけてやれ、と仰言いますの!?」
 まだ綾子は、わかっていない。私はわざと、侮蔑する口調になった。
「今更私が、貴女にそんな綺麗事を申すとお思いですか」
 それから声を低めて、
「そこ迄追い詰められた者に、今一度だけ奉公の機会を与えてやる、もし貴女の為に粉骨砕身しなかったら、今度こそ叩き出す、その代り働き次第では、持ち逃げした物の事は忘れてやってもいい、と仰言って御覧なさい。生半可な信頼関係に凭れかかっている者など比べ物にならない程、死に物狂いで貴女の為に働きますよ。そう思いませんか?」
「……本当に?」
 綾子は、大分心を動かされたようだ。声音がかなり穏かになっている。
「それに、私達の計画をより確実に成功させるには、より積極的に行動に出るべきだと思うのですが、つまり、貴女がここにじっとして、少将をお待ちになるのではなくて、貴女の方から室町殿なり、烏丸殿なりへ乗り込んで行かれるべきだと思うのです」
「それは、そうですわね」
 綾子が同意したところで、私は続けた。
「それで、実際に乗り込まれるのは貴女ですが、その準備工作に当たる者が要るでしょう。私は室町殿にはよく行っていますし、烏丸殿にも面が割れていますから、準備工作のような事はやりにくいのです。それに貴女が乗り込まれた後、私との連絡役も要ります。そういう任務に当たる者として、先方に面が割れていなくて、私との接点のない者が、欲しかったのですよ」
 少時して綾子は、深い溜息をついた。
「……大した御考えですこと。私、感服致しましたわ」
 こうまで言わせれば大丈夫か。だが、まだ安心はできない。女というもの、一時の感情で理性の全てを無に帰してしまう事がままあるのだ。私は慎重に尋ねた。
「それでは、村雨を私と貴女の計画に、貴女の手下として使うという事を、綾姫はどうお考えですか」
 綾子は、打って変って朗らかに答えた。
「帥宮様がそこ迄お考えなのに、私がとやかく申す事はございませんわ」
 これで私も一安心だ。
「そうですか」
 一息ついてから、私は話題を転じた。
「ところで、大江守実とは、その後どうですか」
「守実ですの?」
 綾子は、訝しそうに問い返した。ややあって、
「あの後、今後の事も相談したいからと、何度も文を遣りましたわ。何日か経ってから、少将様から私に、先日立ち寄らせて頂いた御礼を、というような事で、布など持って参りましたけれど、明らかに、嫌々参ったという様子でしたわ」
「嫌々ですか。それでは今後は、貴女とは組みたくないと、そんな様子でしたか」
「ええ、ですから、しっかり言ってやりましたわ、少将様はお前をとても信頼なさっておいでのようですけれど、その少将様に、お前があんな汚い罠を仕掛けたなどと、知られては困るでしょう、と。そうしましたら、後ろも見ずに逃げ帰って行きましたわ」
 その時の守実の様子を思い出したのか、綾子は含み笑いを洩らした。私も笑いながら、
「それは結構。やはり、私が見込み申しただけの事はありますね」
 それから一息置いて、さりげなく、
「ところで、一体守実は、どういう縁で貴女の御許に出入りするようになったのですかね。確か、貴女の乳母の甥に当たる者だと、伺ったような気がしますが」
「ええ、それはですね」
 綾子は落ち着いた口調に戻った。
「私の乳母の外記の、姉の丹波と申しますのが、少将様の乳母なのです。守実は、その丹波の息子なのですが、いつ頃からでしょうか、時々お米や炭などをこちらに届けに参るようになりました。私が余りにも貧しい暮らしを強いられているので、外記が丹波に泣きついたのでしょうね」
「それで時々出入りしているうちに、貴女を御利用申し上げようと、考えついたのですね」
 綾子は気色ばむ様子もなく、
「まあ、そうでしょうね」
 さて、そうだという事になると、綾子を室町殿に乗り込ませる方法だが、どうやったらいいか。その前に一つ、はっきりさせておきたい事がある。
「いつ頃からですか、守実がこちらへ参るようになったのは」
「さあ……いつ頃でしたか……」
 綾子の返事は頼りない。
「何年何月、まではわからなくても結構です。ただ、守実が村雨と顔見知りかどうか、それを知りたいのです」
「それでしたら、村雨に問い質してみますわ」
「お願いします。村雨と守実が顔見知りかどうか、わかりましたら早目に、私に知らせて下さい。それ次第で、私の作戦が決まってきますから。近日中にまた、作戦会議を開きにこちらへ参りますから、それ迄に貴女は、村雨によく言い渡しておいて下さい、私達の作戦の成功の為に全面的に協力せよ、協力しなかったり、手を抜いたりしたら今度こそ叩き出す、その代り、働き次第では持ち逃げした物の事は忘れてやってもいいと。宜しいですね?」
「わかりましたわ」
 綾子は、いよいよ意気盛んである。
 夜も更けてきたので、私達は退出した。轡を並べて夜道を歩いてゆくと、ふと、
「若殿様」
 清行が、何か気になるという口調で言った。
「何だ」
「あの……」
 清行はやや口籠って、
「若殿様とあの姫様は、一体、その、どういう事をお考えなのでしょう」
 こういう事を面と向かって尋ねるのは、さすがに気が引けるらしい。
「そうか、お前にはまだ、詳しく話してなかったな。実は……」
 綾子と組んで、信孝と晴子の仲を裂こうと考えている事について、ごく大雑把に話してから私は言った。
「お前は私と違って、室町殿や烏丸殿に面が割れてない。だから、その辺の女房なんかに渡りをつけるにも好都合な訳だな」
「はあ」
「だからと言って、余りわざとらしくやると逆効果だ。まあ、渡りをつける機会があったら逃すな、と言っておこう」
「承知致しました」
 翌日、早くも綾子から文が来た。
〈帥宮様の仰言る通り、村雨は私達の計画の為なら何でもする、と申しました。また、大江守実なる者は、全く知らぬと申しております〉
 村雨と守実が顔見知りでないとなれば、村雨に一芝居打たせることができる。私は一日考え抜いて、作戦計画を立てた。
 翌日、私は清行を伴って綾子の邸へ赴いた。私は几帳一枚隔てて綾子と差し向かいになり、村雨を呼び寄せて、三人で額を突き合わせるような格好になった。
「一つ確かめておきたい事があるのですが」
「何ですの」
「現在このお邸には、外記と村雨の他に女房はおりますか」
 村雨に一芝居打たせるためには、それが芝居だとバレる危険を防がなければならない。
「いいえ。外記の他にもう一人おりましたけれど、村雨と入れ違いに辞めて行きましたわ」
 綾子が答えた。
「それなら結構です。私の作戦を、お教えしましょう」
 私が言うと、綾子も村雨も、一気に緊張した様子だ。
「まず綾姫、貴女から守実に宛てて、文をお書きになって下さい。その文には、外記が亡くなった、と書くのです」
「まぁ……」
 綾子が、驚き呆れたといった声を上げた。
「それを受け取った守実が、こちらへ飛んで参ったら、今度は村雨、貴女は母君を、このお邸の中のどこでも結構ですが、徹底的に隠し通すのです。もし守実が参らなければ、その場合は何もしなくて結構ですが」
 村雨は黙っている。
「何日か経ったら、綾姫から守実に、毎日のように文をお書きになって下さい。今度は、外記が亡くなって、いよいよ窮迫してきたから、何とかしてくれ、出来れば室町殿に引き取ってくれ、というような具合にです。まあ、多分守実は、色良い返事はよこさないでしょうね、そうなったら、村雨の出番です。こちらのお邸に奉公する唯一人の女房、という事で、室町殿の守実を訪ねて、綾姫を何とかして頂きたい、と強く迫るのです。いいですか、決して、守実の従妹である事、綾姫の乳姉妹である事を、表に出してはいけませんよ。お邸に残った女房は貴女一人、今日明日にも奉公替えしたいのに、自分が出ていったら綾姫はどうにもならないから、やっとこさ踏み留まっている、ここは是非、守実に綾姫の御面倒を見て頂きたい、綾姫もそのお積りだと、守実に迫るのです。そこ迄強く迫れば、守実も室町殿に、綾姫をお受け入れする事を、承諾せざるを得なくなる筈です。私達の作戦の第一段階がうまく行くかどうかは、村雨、貴女次第なのですよ」
 私は村雨の顔を見ながら断言した。
「……私、うまく出来ますかしら」
 村雨が頼りなげな声を出すと、几帳の向こうから、
「うまく出来ようが出来まいが、やるのです!」
 綾子の棘々しい声が聞こえた。こう居丈高に言われては、却って怖気付いてしまう。現に村雨は、やってみせるとも答えられず、一抜けたとも言えず、進退窮まった顔をしている。
「まあ、まだ心の準備をする時間はあります。綾姫も、そう高飛車に仰言らずに」
 私は二人を宥めてから、話を続けた。
「私は今後暫くは、こちらへは参りませんから、守実を追い詰める段取りの細かい所は、綾姫にお任せしますよ。私が関わっている事を、守実に決して勘づかれないよう、充分注意して下さい」
「わかりました。きっと、うまくやって御覧に入れますわ」
 綾子は自信満々に言い切った。村雨も、これ位の自信は持ってくれないと、手下として使うには不都合なのだが。
・ ・ ・
 五月になった。五月は古来忌月とされていて、帝も五月の間は后妃を遠ざけ、精進潔斎する事になっている。一般の貴族も、五月中は夜歩きを慎む傾向がある。そうすると私が、今のような状況に立ち至ったのは、忌月を物ともせずに桐壷を襲ったせいだろうか、などという考えがふと頭の片隅をよぎる事もある。
 宮中騎射の儀が行われた折の事であった。珍しく桜宮が参内してきた。私は桜宮とは、法成寺入道の件以来、近頃では公晴の件もあって、因縁浅からぬ仲なので、辺りに人がいない折には相当立ち入った話もした。
 そんな話をしている所へ、帝が現れた。
「これは姉上、お久し振りです」
「主上には、お変わりもなく」
 桜宮と帝は、一つ屋根の下に育った姉弟なので、臣下のいない所では相応の礼儀は守りつつも、ごく打ち解けて挨拶する。
 それから三人で、あれこれと四方山話を始めたのではあったが、そのうちに帝は、変な事を言い出した。
「それにしても晴姫は、もうすっかり私を忘れているのではないか。吉野から帰って以来、一度しか文をよこして来ない。口惜しいな」
 私がすっかり醒めた目で見ているのにも気付かないのか、帝は続ける。
「少将も少将だ。今迄の行き掛りを思えば、広い心で妻に文なりと書かせても良いではないか。少将と晴姫は、もう既成事実が先行しているのだから。あんなに心の狭い男とは思わなかったぞ」
 帝はまだ、晴子に執心しているようだ。どういう気なんだろう。既成事実があると言ったって、新婚早々の妻に他人への恋文を書かせる夫がどこにいる。
「まあ、新婚早々ですから、妻を一人占めしたくもなるのではないでしょうか」
 私が穏かに言うと、
「でもなあ……」
 帝はまだ不満そうだ。
 何が不満だ、筋違いも甚しい。そんな自分中心、利己的な物の考え方しかしないから、実の兄に骨髄に徹する恨みを抱かれるのだ、そうとは気付いているまいが。私は内心の思いを顔に出すまいと注意しながら、帝の次の言葉を待っていた。
 そのうちに帝は、ふと思いついたという顔で言った。
「どうだろう正良、二人で少し、信孝をからかってやらないか?」
 何をやろうというのだ。既成事実の存在は帝も既に認めているのだから、強引な横車を押すのではあるまい。そんな大人気ない事をやるのなら、私だって黙ってはいないが。
「何をなさると仰せられますか」
 私が、至極穏かに尋ねたのに、帝は私を宥めるような調子で、
「まあそう、心配するな。権力を傘に着て横車を押すような事はしないから。私と正良は、結構良く似ているだろう。そこでだ、正良も晴姫に興味があるような素振りをしてやるのだ」
 私は素早く考えをめぐらせた。今の私にとって、一番必要な事は何か。そのために、この話に乗る事がどう作用するか。
「その程度の事でしたら、安心しました。特に君臣の義に悖る、という事でもなさそうですし、ちょっと面白そうですね」
 私が乗り気になった素振りをしてやると、
「まあ、主上も岩倉宮も、何を仰言るのです。お止めなさいませな」
 桜宮が口を挟んだ。しかしその口調は、真剣に帝を諌めるというのでは全くなかった。
「でも、そのような事をしたら、きっと私は信孝に恨まれてしまいますね。彼とは長い仲ですから、どうもそういう事は……」
 こうやって、少し辞退する様子を見せるのも、駈け引きのうちだ。案の定帝は一層乗り気になってきた。
「それ位で壊れるような友情じゃないだろう。ほんの少し、からかってやるだけだよ。私達は似ているから、きっと信孝は慌てるよ。面白いじゃないか。そう深刻に考えなくてもいいよ」
 私は笑いを浮かべながら言った。
「勅諚とあらば、お受け仕らない訳には参りますまい」
 帝は苦笑した。
「相変わらずだな、正良は。それでも前よりは、柔らかくなったが」
 私はまぜ返した。
「柔らかくなったとは、諌言申さなかった事を仰せられるのですか」
「諌言するとは、初めから思っていなかったさ。勅諚云々なんて、笑って言う辺りがさ」
 帝が笑いながら言うと、桜宮が、
「ほんに主上も、相変わらずでいらっしゃいますこと」
「や、これは一本取られましたな」
 帝が額を叩き、一座は笑いに包まれた。
 和やかな雰囲気の中にあっても、私の頭脳の一半では、冷徹な計算が働いていた。このような機会を逃さず捉える事、それは公私両面で、帝に親しくなり、帝の信頼を厚くし、――そして帝を油断させ、帝に誤った先入観を持たせる事への布石なのだ。考えてみるが良い、帝が私を、油断ならぬ奴だと思って疑いの目で見ているのと、信頼できる者、自分に不利な事はしない者と思い込んで見ているのとでは、自分が何かした時に帝の持つ心証がどれ程異なるか。それを考えれば、どんな些細な事でも自分に有利な事は利用し尽くすという基本的立場から言って、私がどのような行動に出るべきかは、自ずと明らかになる事であった。
「でも主上は、私が主上の仰せられる事とは関係なく、本当に晴姫に興味を持たれたら、というような事はお考えになられなかったのですか」
 私が素朴な疑問を呈すると、帝は笑いながら答えた。
「それは考えるには及ばないよ。いつか正良、晴姫のようなお転婆姫は好きではないと、私に向かって断言したろう」
 案外、昔の事も覚えているではないか。
「変な事を、覚えておいででしたね」
 私が肩をすくめると、帝は一層興に乗って、
「そりゃ、誰々が好きだ、とは誰でも言うけれど、誰々が嫌いだ、と言うのを聞いたのは、あれが最初で最後だから」
「全然好きでもない人を、好きになった振りをする、というのは難しそうですね。うまく演じられるかどうか」
 などと言いながら私が、内心どんな事を考えていたか、帝には知る由もなかったろう。
 中旬のある日、東市へ買い出しに遣っていた清行が、帰ってくるなり私の部屋へ来た。
「何だ、清行。市で何かあったのか?」
 東市は左京職の管轄だから、東市で何か起こった場合清行も無関係とはいかないが、それを私に言いに来るのはお門違いである。
「いいえ、この前の、室町殿か烏丸殿に……」
と言いかけた清行を、私は急いで遮った。
「待った! もっと近う」
 清行は、私のすぐ目の前まで来て坐り直した。改めて私は尋ねた。
「室町殿か烏丸殿に渡りをつける、という話だな?」
「左様です」
 清行は、小声で話し始めた。
「今日東市へ参りましたら、見るからに裕福なお邸に奉公している女房という感じの、ごく若い女が、草履の緒が切れたらしくて難儀していたのです。で、気の毒に思ったものですから、草履の緒をすげてやって、お邸まで荷物を持って送ってやったのです。そのお邸というのが、烏丸殿だったのです。ですから、これはその、先日若殿様が仰せになった、室町殿か烏丸殿の女房に渡りをつける機会だと思いまして」
「良くやった! 正にその通りだ、烏丸殿に渡りをつける、絶好の機会だ」
 私に褒められて、清行は嬉しそうだ。
「お褒め頂いて恐縮です」
 私は快活に言った。
「この件に関しては、お前に任せた。出来るだけ上手に、その女房に取り入ってくれ。但し、私の名前は、余り表に出さない方がいいと思う。先方がお前の身元を怪しむような事でもあったら、帥宮に仕えている者だ、と言ってやる位はいいと思うが」
「は」
 清行を退らせてから、私は頬の肉が緩むのを感じた。綾子は多分室町殿へ乗り込む事になるだろうが、もし事態が変わったら、烏丸殿へ乗り込ませ、晴子と対決させるという選択肢も考慮しなければなるまい。そうなった場合への布石として、私とも綾子とも一見無縁な人物を通じて、烏丸殿に渡りをつけておく事ができれば、それはそれで好ましい事だ。
 二十五日頃、綾子から経過報告の文が来た。それによると、打ち合わせの翌日、早速守実に文を書いたが、触穢を恐れたのか守実も丹波も邸へは来なかったらしい。五日程経ってから、毎日のように文を遣って、頼りになるのは守実だけだ、今迄の事を思えば何もしないとはよもや言うまい、何とかしてくれ、とせっついてやったが、全くなしの礫らしい。それで今日、いよいよ村雨が室町殿へ乗り込み、守実を脅迫する事になったという。何度も自分を守実に見立てて予行演習したから、きっとうまくやるに違いない、と書いてきた。
 さあ、いよいよ私達の作戦が、音を立てて動き始めた。綾子が守実に、半分泣きつき半分脅しを入れて、室町殿へ乗り込む。室町殿は信孝の本邸、言うなれば敵の本丸だが、それだけに信孝がいる時間も長い。五月の忌月で、信孝は烏丸殿へも足を向けていないという事だ。となれば……信孝だって若い男だ、二十日余りも夜離れを続けている所に綾子が現れて、あの天下一品の口説きをかませば、つい心が迷う事もあろう。そうなってしまえばこっちの物だ。私の遠大な計画は、一歩その成就に近付いた。
 ふと、雨音に交じって、車の音が聞こえた。東の小路を、車が北から南へ通り過ぎてゆく音だ。雨の降る日に、車で外出する者は余りいないと思うが、誰なのだろう。四月中は信孝が、よく私の邸の前を通って烏丸殿へ通っていたが、信孝は忌月の戒めというような事を結構気にする性だから、今日烏丸殿へ行ったとも思えない。
 明日は六月という日の朝、綾子から文が来た。
〈昨日、丹波から文がございました。それによりますと、少将様が烏丸殿に私をお預り頂くようお持ちかけになり、晴姫も承諾なされた由にございます。来月の早いうちに烏丸殿へ乗り込みとうございますし、今後の打ち合わせもしとうございますので、近々こちらへお越し下さいませ〉
 これはまた、意外な展開になってきたぞ。十中八九、乗り込むなら室町殿と思っていたのに、烏丸殿に乗り込む事になろうとは。でも、これはこれでいいだろう。室町殿であれ烏丸殿であれ、綾子を乗り込ませる事ができれば、それでいいのだ。敵の土俵に乗り込んだ綾子が、どんな働きを見せてくれるか、お手並拝見といこう。
 それにしても、もっと意外なのは信孝が綾子を預る話を持ち出したことだ。あの時の状況やその後の経過、そしてまた私が知っている限りの信孝の性格からして、信孝が綾子を愛人にしようという気になったとは到底考えられない。だから信孝の真意は、別の所にあるとしなければならない。信孝は綾子の生活の窮状を、知らない訳ではない。だとしても、綾子に対する単純な同情心から持ち出したとは、俄には信じ難いところもある。単純な同情心から持ち出したのなら、烏丸殿でなくとも室町殿に引き取ると言えばそれでいい訳だ。何も烏丸殿に預けると言って、多分綾子の事を知らないであろう晴子を煩わす事はない。……いや待て、こういう事か。信孝即ち若い男が、綾子即ち若い姫を自邸に預かるなどと言えば、晴子即ち若い男の新妻は、余程の大度量の持ち主かネンネか馬鹿でなければ、夫が愛人を作ったと思い込むだろう。信孝の事だから、そう誤解されるのを恐れて、その姫の身柄を妻に任せる事によって、愛人を作ったのではないとの証にしようとしたのだろう。だが、燈台元暗しとも言う。少し穿った見方をすれば、妻の本邸に預ける事自体が韜晦策と取れるのではないだろうか。内大臣の北の方を始め、烏丸殿の老獪な女達は、そこ迄勘ぐるかも知れない。信孝は、そこ迄は考え至らなかったのだろうか。
 ともあれ、予想せざる展開に対処する為に、早急に綾子と相談しよう。雨も丁度止んだ。私は清行を伴って、綾子の邸へ行った。
「しかし、予想もしなかった事になりましたね」
 私が驚きと慨嘆を混ぜて言うと、
「本当ですわね」
 綾子の声に、私は意外に思った。これ迄になく力と張りがあり、まさにやる気充実闘志満々といった声だ。乗り込む先が室町殿でなく烏丸殿となった事を、喜んでいる様子さえある。
「烏丸殿にお預けとなるのが、それ程嬉しいのですか。烏丸殿は、敵の本丸ですよ」
 私が言うと、綾子はいよいよ意気盛んで、
「敵の本丸へ乗り込んで、晴姫と渡り合うのは、望む所ですわ! それに私、まだ晴姫には、一度もお目にかかっておりませんもの。一度、とくと拝見したいと思っておりましたのよ」
 何だろうね。私はそっと呟いた。
「それって、女の意地って奴ですか」
「あら」
 図星だったらしい。私は更に声を低めた。
「女の意地で、晴姫と張り合いなさるのは構いませんがね、私達の本来の目的を、お忘れにならないで下さいよ。もし貴女が少将と、その、やる事やってしまわれたとなると、東宮妃に推挙申し上げるのには、二の足を踏まざるを得ませんからね」
 こんな事、男の口からだって言わせるかね。
「んまあ……」
 さすがに綾子も、事が事だけに絶句した。辺りに漂った妙な雰囲気を打開すべく、私は話題を転じた。
「さて、それで、少将への返事ですが」
 綾子は得たりとばかり、
「勿論、有難くお受け致します、と書きますわ」
 私は頷いた。
「そうです。そのついでに、何日に烏丸殿へお渡りになるかを書いた方が、先方の受け入れ準備の都合もあるでしょうから」
「そんな事まで?」
 首を傾げる綾子に、私は内心呆れ返りながらも、諭すように言った。
「先方の準備の都合にまで気を回してやるという気配りを見せれば、先方の受ける印象が良くなるでしょうが。先方に、就中少将に悪い印象を与えては損なのですよ」
「そうですわねえ」
 綾子は漸く納得して、一人で頷いている。
 幾ら宮家の一人娘とは云え、これ程迄に世間の常識に疎いとは思わなかった。側仕えの女房がしっかりしていなければどうにもならないと言うのも、こういう実例を見ればよくわかる。
「では、お渡りの日取りは、暦を見てお決めになって下さい。それから次に、外記と村雨ですが」
 実はこれが、今私が最も考えあぐねている問題なのだ。綾子と村雨に、ピンシャンしている人間を死んだと思い込ませるという芝居を打たせた以上、外記の存在は当分の間隠し通さなければならない。では、どこに。一人でか、誰かと一緒にか。一人で、と言うのは、監視が行き届かなくなるから好ましくない。と言って、外記を隠しておく、たったそれだけの事に村雨を拘束してしまうのは勿体ない。場所も問題だ。この荒れ邸は、主人が去って空き邸になる予定である。そこに外記を隠しておいて、万一守実が、何気なく訪れでもしたらえらい事になる。私の目が最も良く届く所と言えば、私の邸を措いて他にないが、どうだろう。村雨は、私と綾子の連絡役として存分に使い、しかも綾子には仕える女房が一人もいなくなったと表向き装う必要性がある以上、私の邸を足場とする事になる。それならついでだ。外記も一緒に、私の邸に引き取る事にしよう。村雨が日頃一緒にいる方が、外記も安心して、余計な軽挙妄動をしないでいてくれるだろう。村雨さえ、外記に本当の事を洩らさないよう厳重に言い含めておけば良い。
「……と私は考えた訳ですが、貴女はどうお考えですか」
 私が綾子に、自分の考えを説明し終えてから尋ねると、綾子は、
「外記と村雨を、周りの人がどう見るか、それが問題ですわね。まさか外記を、帥宮様の愛人とは思わないでしょうけれど」
と強ち的外れでもない事を言った。
「村雨は、新しく雇った女房だと言えば通じるでしょう。外記は……女房仕事をさせる訳にもいきませんからね、いつ誰の目に触れて、生きている事が守実に知られないとも限りませんから。どうしましょうかね」
 私は考え込んだ。外記は、ここ暫くは見ていないが、私が初めてここへ来た時に応対に出て、私とは満更知らぬ顔でもない。しかもその時、綾子の窮状に深く同情し、安楽な生活を送らせてやろうと言った私の、心にもない長広舌を聞いている。もし私の邸へ引き取ったとすれば、私の顔を見る度に、綾姫はどうしたと喰い下がるだろう。そういう厄介は避けるしかないが、どうやって避けるか。
 考えあぐんで、私は言った。
「何とかなるでしょう。村雨をうまく使って、外記を黙らせれば。貴女の方からも外記に、余計な事はしないように、厳重に申し渡しておいて下さい。そうそう、外記は、守実が貴女を御利用申そうとした事は、知っているのですか」
 ふと思い出した事だ。
「ええ、それは知っておりますわ。守実が計画を持ちかけて参った時、側におりましたもの。初めは反対しましたけれど、しまいには嫌々ながら、少しですけれど協力しましたわ」
 綾子は意外な事を言う。私は思わず聞き返した。
「協力したのですか!?」
 綾子は、私の態度の変化から、私と同じ事に気付いたらしい。低く含み笑いして答えた。
「ええ、確かに協力しましたわ。守実が持って参った睡り薬を、酒や白湯に混ぜて、少将様に飲まそうとしたのは、外記ですわ」
 私は低い声で呟いた。
「そうですか。それなら……」
 綾子は面白そうに言った。
「帥宮様が何をお考えか、当てて差し上げますわ。外記と守実、二人揃って少将様を罠に掛けようとした事、少将様に知られたくなければ大人しく帥宮様の言いなりになれ、と外記に仰言るとお考え、違いまして?」
 私は扇で掌を打った。
「と言うのは少々毒が強いですね。後ではそう言ってやるかも知れませんが、初めは、これが守実の計画だ、今が一番大事な時だから、安心して守実に任せるように、と言ってやる積りです。下手に動くな、守実には文も出すなと。もし守実が、既に死んでいる筈の外記から文を受け取ったら、守実の方が死にかねませんから」
 ここが一番肝腎な所なのだ。外記の生存を、守実に絶対に知られないようにする事である。
 少時して、不意に綾子が口を開いた。
「これが守実の計画だ、と仰言るのでしたら、外記が亡くなった事にするのも、守実の計画のうちだ、と仰言れば宜しいのではありません?」
 私は、はたと膝を打った。
「成程、それは名案! 仲々冴えていらっしゃる、綾姫は」
 おだてではなくて、本当にそう思った。何故私は、こんな簡単な事に気が付かなかったろう?
「帥宮様に比べたら、私などまだまだですわ、おほほ」
 謙遜してみせる綾子は、すっかり上機嫌だ。私はやっと肩の荷が降りた思いで、気楽に言った。
「では貴女の方から、外記によく言い含めておいて下さいますか。勿論、私が中心になっている事は隠して、そう、守実が私に頼み込んで、外記を私の邸に預って頂く事になった、という具合に。綾姫が烏丸殿に乗り込まれるための計画の一部として、外記は亡くなった事になっているから、今後絶対に室町殿へは、文一本書いてはいけない、と守実が申したと」
「わかりましたわ。私が言う事なら、外記は必ず守ります、守らせてみせますわ!」
 綾子は、きっぱりと言い切った。
「お渡りの日取りが決まりましたら、すぐ、私にお知らせ下さい。私の方も、外記と村雨を受け容れる都合がありますから」
と言い置いて、私は邸を後にした。帰る道すがら、私は清行に尋ねた。
「烏丸殿の女房の方は、その後どうだ。あれっきりという事はないだろう」
 清行は答えた。
「は。あの後三四回、文を書いてやりました。ですがまだ、返事は貰っておりませんです」
「返事は貰ってないのか。……もしかして先方は、お前の身元を知らないとか、そんな事はないだろうな?」
 秘密任務で渡りをつける以上、私の名前を出さないようにとは言ったが、自分の身元まで伏せてしまっては困る。すると清行は、
「左様な事はございません。身元も住処も、初めて会った時に申しました。大体付け文と申す物は、一度や二度で返事が貰える物ではございません、私の今迄の経験から申しますと」
 清行の口調には、そんな事も知らなかったのか、という色が僅かに浸んでいる。私はそれに気付かなかったふりをして、さりげなく言った。
「そうだろうな。まあ焦らず、ゆっくりやってくれ。押しが強すぎて嫌われては、元も子もないからな」
「承知致しました」
 案外この清行は、この方面の経験を積んでいるらしい。殆ど経験のない私が、余計な事を言うには及ばなかっただろう。
 六月二日、綾子から文が来た。引越しの吉日は六月四日と決まり、四日の夕方に烏丸殿入りする事になったらしい。そこで、四日の昼迄に、村雨はともかく外記を引き取りに来て頂きたい、と書いてある。
 これはちょっと忙しいぞ。私は近江を呼んで言った。
「昔私が、九条辺りで庶民並の暮らしをしていた時分に、何かとお世話になった人がいるのだが、その人から先刻文があったのだ」
「はい」
「何でもその人は、今ではすっかり零落して、その日の暮らしにも事欠く有様らしい。元は、幾らかの身分のある人だったのだが。それで、昔の恩義もあるから、暫くの間こちらへ引き取って面倒を見て差し上げたいと思うのだが、近江は、どう思う」
 近江は、
「昔お世話になった御方に、御恩返しなさるとは、実に結構な事でございます。ただ……」
と僅かに言い淀んだ。
「ただ何だ?」
「その御方の、御身元は……。いえ、若殿様をお疑い申す訳では決してございませんが、一応女房頭として、お伺いしようと思いましたので」
 そう言うだろうと思った。身元の怪しい者を邸に入れる訳にはいかぬ、と考えるのは、邸の実質的な管理責任者たる女房頭として当然の事である。だが、そう正面切って問われると、私は外記の姓名も家系も知らない。
「うーん、実は私も、詳しいところ迄は良く知らないのだが、若い時分にはどこかの邸に女房として奉公していたらしいから、決してそんな、身元が怪しいという事はない筈だ」
 外記、という名前も、この邸では伏せておこうと思いついたのだ。何しろ外記は、この世に存在していない事になっている人間である。万一この邸にいる事が外に知られた場合に備え、名を変えさせる位はした方が良い。
 私が苦しまぎれに言った事を、近江は真に受けたらしい。
「わかりました。若殿様が一方ならず御恩のお有りの御方とあれば、私共にとっても同じ事です。私が真心を込めて、お仕え申しますわ。決して、疎略には致しません」
 いつも近江がするように、堂々と胸を張って言い切った。私はほっとして言った。
「そう言ってくれると有難い。それで、急な話で申訳ないんだが、明日と明後日が吉日だと言うんで、明後日に引き取りたいのだ。それ迄に、部屋の支度、できるかな」
 さすがに近江も、これは少し難題だったらしい。少し眉を寄せたが、程なく答えた。
「……何とか致します」
「頼んだよ」
 四日の朝、私は車を一台出させ、清行と轡を並べて綾子の邸へ行った。清行と村雨に、外記の荷物を車に積み込ませ、私は綾子と会って最後の打ち合わせをした。烏丸殿に入ったら、可能な限り早く信孝と晴子に会って、自分に対する感触を掴む事、烏丸殿の間取りや人員配置を調べられる限り調べる事、落ち着いた頃を見計らって村雨を遣わすから、以上の事を書面にして私に知らせるよう言い含めた。最後に外記の処遇について話し、
「それで、外記という名は、私の邸では伏せる事にしました。何か代りの名を、考えてやって下さい」
 私が提案すると、綾子はさして考え込みもせずに言った。
「帥宮様が九条にお住いでした頃、お世話になった方という事になさるのなら、九条、では如何でしょう」
 私は頷いた。
「九条ですか。いいですね。では今後は、もし綾姫から外記に文をお書きになる事があるとしたら、九条宛でお書き下さい。宜しいですね」
「わかりましたわ」
「では、外記改め九条はそれで良いとして、村雨は。私としては、今日一緒に、自邸へ連れて行こうと思うのですが。私としても二度こちらへ参る手間が省けますし、貴女がお渡りになった後で出入りしては、室町殿に不審がられるでしょうから」
 すると綾子は俄に声を上げた。
「では私を、一人でここに残して行かれるんですの?」
 私は平然と答えた。
「その方が宜しいのではないですか、先方に、貴女が困窮のどん底にあると思わせるには」
「……一人で、なんて……」
 綾子は、妙に躊躇している。
「貴女らしくもない、弱音ですね。これから烏丸殿へ、一人で乗り込んで行かれるのに、こんな事で躊っていてどうなさるのです」
「……」
 漸く肚が決まったのだろうか、几帳の向こうで綾子が、居ずまいを正す気配がした。と思うと、
「帥宮様、今几帳の外には、帥宮様の他は誰もおりませんの」
 いつもの気力溢れる声とは違う、妙に甘い声がした。私は面喰らった。
「え? ……ええ、誰も、おりませんが」
 すると突然、几帳を撥ね上げて、綾子はいざり出てきた。私が呆気に取られているうちに、綾子は私の手を取った。綾子の華奢な、柔らかな指の感触に戸惑っているうちに、綾子は勢い良く顔を上げて、熱っぽいまなざしを向けた。私は思わず、頬が熱くなるのを感じた。
 綾子の容姿は、私が知る限りでは、最も美形の部類に属する。信孝があの時、美人だ美人だと言っていたのも、むべなる哉である。桜宮ほど典雅ではないし、澄子ほど清楚でもないが、その分艶やかさで勝っている感じだ。そして目の輝き。意志の強さをありありと物語っている。ただ目付き全体に、どことなく裏表があると言うか、小狡さのような物が匂っている感じがするのは、私と組んで陰謀を企てているという先入観があるからか。だがそんな事より、
「ど、どうなさったのです、一体!?」
 私はいつになくどぎまぎして、尋ねる声も上ずっている。綾子は熱っぽい声で、訴えかけるように言った。
「一度、帥宮様の、御顔を拝見したかったのです」
 これじゃまるで、恋の告白じゃないか。私は慌てて説得に乗り出した。
「ちょ、ちょっと、お待ち下さい、今の私達は、こういう事をしている場合ではありませんよ。貴女は、末は東宮妃、そのために今日、烏丸殿へ乗り込まれるのです。本当の目的を、お忘れになっては」
 私が躍起になってまくし立てると、不意に綾子は、にやりと笑って遮った。
「わかっておりますわ。帥宮様と私とは、男と女であります前に、手を組んだ同士ですものね」
 すっかり、いつもの声に戻っている。それから手を離し、胸を張って、
「如何でした、私の演技? きっとこんな具合に、少将様を口説いてみせますわよ」
と言い終わるが早いか、さも面白そうに笑った。私は額に噴き出た汗を拭うと、肩の力を抜いて、愛想笑いしながら言った。
「驚かさないで下さいよ。まあ、今の調子でなさって下さい。御健闘をお祈りします」
 程なく村雨が来て、外記の支度が出来たと知らせた。その時には既に几帳の向こうに戻っていた綾子は言った。
「村雨、お前も外記と一緒に、帥宮様のお邸に参りなさい。今すぐ、支度をするのです」
「はい」
 村雨は、こうなる事を予想していたのか、素直に返事した。村雨が退ってゆくと、私はその間に綾子に外記を呼ばせた。
 すぐに外記は来た。私を見ると、深々と平伏する。
「この度は守実が、帥宮様に御無理を申しましたそうで、恐れ入りましてございます」
 守実が私に、外記を預ってくれるよう無理に頼み込んだ、と綾子は言ったらしい。私はにこやかに応じた。
「いや、大した事ではありませんよ。それより、綾姫にこそ私の邸においで頂こうと思っていたのに、守実はそれには及ばぬと言っていたのが、解せぬと言えば解せぬ事で」
 わざとらしく首を傾げてみせると、外記は、
「ほんに守実は、何を考えているのでございましょう。私が亡くなった事にしてあるから、決して守実や姉に文を書いてはならぬなどと」
 綾子が、やや居丈高な声で、
「守実には守実の策があると、何度も言ったでしょう」
 綾子に言われると、何も言い返せなくなってしまう外記であった。私はさりげなく言った。
「先日また守実が来ましてね、貴女をお預りする事に関して相談したのですが、貴女が私の邸にいる事が、万一にも室町殿に知られてはならないから、用心のために貴女の名前を変えるようにと言ってきたのです。私の邸の者には貴女を、何か私に縁のある人だと装うようにと言ったので、私は昔九条に住んでいましたから、その自分にお世話になった人という事にして、九条と呼ばせて貰います。宜しいですか」
「結構でございます」
 九条は深く平伏した。何条という名は、女房名としては官職名や国名より高級な名前なので、九条と呼ばれるのが内心嬉しいのだろう。それにしても、私が拵え上げて綾子に吹き込んだ嘘を、一から十まで信じ切り、何の疑問も持っていないようなのがいじましい。
 やがて、村雨が簀子縁に来た。
「帥宮様、私の支度は、整いました」
「うん。では綾姫、これにて失礼」
 私は腰を上げた。九条は坐り込んだまま、しんみりした声で、
「姫様、お名残り惜しゅうございます……」
と言うなり鼻を啜った。
「めそめそするのではありません。いつか又、会う日もあるでしょう。さあ、早く行きなさい」
 と言う綾子の声も、思いなしかいつもより力強さがない。綾子の微妙な様子を敏感に感じ取ってか、九条は一層もじもじしていたが、やがて決心がついたのか、すっくと立ち上がった。私を振り返って一言、きっぱりと、
「参りましょう」
「うむ」
 私達四人は、綾子の邸を後にした。道中、車の中からは、九条と村雨の声が洩れていた。私は出発間際に九条に、名前の事について村雨に話しておくように、と言っておいたのだ。本当の事情を幾分かは知っている村雨は、私が九条に吹き込んだ事を、どのように受け止めるだろうか。だが、九条の言う事に、それは違う、本当はこうだ、などとは言うまい。そんな事は決して言わないように、私は村雨にも釘を刺しておく事を怠らなかった。
 自邸に着くと私は、近江を呼んだ。
「例の人が来た。部屋の支度は、出来てるか」
「整ってございます」
 近江は胸を張った。
「そうか、なら、部屋へ通してくれ。それで、その人を呼ぶ時には、九条と呼んで欲しいという事だ。だから、少納言と桔梗にもそう言っておいてくれ」
「かしこまりました」
 立ち上がりかけた近江を、私は呼び止めた。
「ああ、それから、もう一つ。九条には娘さんがいるんだが、私が九条をここに引き取ろうと書いてやったら、ただ世話になるだけでは心苦しいからと、娘さんを女房として奉公させたいと、そう言ってきたんだ。村雨というその娘さんの方もその気らしいんだが、近江はどう思う、女房頭として」
 女房頭として、という風に顔を立ててやると、やはり自尊心をくすぐられるのか、さすがの近江でもやや有頂天になる気味がある。
「異議はございませんわ。でも、随分と義理堅い御方ですね」
「昔から、そういう人だったんだ」
 こうして、外記改め九条と村雨の二人は、すんなりと私の邸に受け入れる事ができた。表向きは九条は、私の客分として、村雨は新参の女房として。女房も家司も、この二人に疑いの目を向けている様子はない。
(2000.12.4)

←第六章へ ↑目次へ戻る 第八章へ→