岩倉宮物語

第九章
 翌朝、綾子から文が来た。ところが文を開き、読み進むうちに、私は愕然とした。
 綾子が晴子を呼びつけて、帥宮が自分を邸に迎え取ろうと文をよこしてきた、と嬉々として言ってやったところ、晴子はどう勘ぐったのか、帥宮の愛人の座を獲得したいのか、と突っ込んできた。そこでつい釣られて、そうだと答え、行きがかり上、室町殿の方が確かに黄金の葉の繁る木を一杯持ってはいるが、自分も宮家の出、やはり黄金よりは身分を取る、と言ってしまった。すると晴子は、何を考えたのか、自分(綾子)が帥宮とくっ付いてくれれば私(晴子)も安心できるから、その件では自分に喜んで協力したい、と言い、烏丸殿へ帥宮を呼んだらどうだ、と持ちかけてきた。感謝の気持ちなど申し上げたい、と言えば、帥宮も来るだろう、もし自分がその気なら、帥宮が自分に好印象を持つように、衣装や女房も貸してやる、といやに意気込んで勧めてきた。そこでさすがに、何か裏があるなと察して、突っ込んでやった、今の今迄敵同士だった晴子が、協力するの何だのと申し出るのには、裏があると勘ぐりたくもなる、と。案の定晴子は動揺したが、それなら会った事もない帥宮が、邸に迎えると言ってきた旨い話に、裏があるとは思わないのか、と逆に切り返してきた。そこで、今の今迄帥宮の申し出に裏があるとは思わなかった、帥宮の身分故に、しかし裏がありそうだと知って、一層この申し出を信じる気になった、裏に何があるのか、事と次第によっては晴子に全面協力しよう、裏があるならその裏の裏をかいてでも、帥宮の愛人の座を射止めてみせる、と一芝居打ってやった。すると晴子は、帥宮が晴子に不埒な考えを持っているらしいから、綾子に文を書かせて帥宮を烏丸殿へ誘い出し、盗賊と間違えた振りをして捕縛し、今後一切晴子に手を出すな、信孝をからかうな、と脅迫してやる、そうすれば夫婦仲は安泰だ、と言った。だから今すぐ、烏丸殿へ誘い出す文を書け、と言ったので、請け合ったふりをして書いたのがこの文だ。晴子の狙いがわかったのだから、体良く断る返事を書いてくれ。以上。
 いやはや、全く予期していない事態が起こったな、これは。まあ私の向こうを張って、何やら陰謀をめぐらしてきたのは、さすが晴子と褒めてやろう。ただ、その陰謀のために手を組んだのが、私と既に深い協力関係にある綾子だったのが、恐らく晴子は気付いていないが唯一最大の、致命的失敗となる事は間違いない。それにしても、綾子の芝居は已むに已まれず打ったにしては上出来だ。晴子から、その陰謀の全てを聞き出したのだから。だとしても、私の愛人の座を射止めてみせる、とは大した台詞だ。綾子にはそんな気は毛頭ない筈だし、私は私で、もし綾子が心を迷わせたら、確実に目を覚まさせる切札がある。私の愛人と東宮妃、どちらがいい、だ。その切札がある限り、晴子がどんな餌を綾子の目の前にぶら下げても、綾子を釣る事はできない。釣られた振りをさせ続ける事が精一杯だ。その一点で、もう私の方が明らかに有利な地歩を占めている。
 さてそれでは、体良く断ってやるか。
〈諸共によも名は立てじ諸共に忍び恋うるは他所にもあれば〉
 まず一枚の短冊に、さらりと書き流してから、もう一枚の紙に、
〈実に素晴らしいお芝居を打たれましたね。これで晴姫は、貴女をお味方と思い込まれ、御自分の策を全て貴女に打ち明けなさるようになるでしょう。それが私に筒抜けになるとも知らずに。後はいかに上手く、晴姫のお味方の振りをなさり続けられるか、です。さて、同封の短冊の歌は、まあ、こんな物です。これを晴子に見せて、帥宮は綾姫が目的ではない、だとしてもこれはあんまりだ、と一暴れしておやりなさい。そうやっておいて、晴姫の次の一手を、しかと見極めるのです。きっと晴姫は、貴女を使って私を誘い出すのに失敗したからとて、それで引き退りはなさらないでしょう。何か、策をめぐらされる筈です。それにも協力するふりをして、二人で晴姫の裏をかいてやりましょう。近いうちに清行を参らせますから、その時迄にわかった限りの事を、私にお知らせ下さい〉
 二枚の文を一緒に包んで、村雨に持たせて烏丸殿へ届けさせた。さあてこれで、私の向こうを張った気になっているあの晴子が、次にどんな手を打ってくるか。どんな手を打って来ようとも、綾子と組んだが運の尽き、晴子の手の内は全て、こちらにお見通しなのだ。そう思うと、今から高らかに凱歌を上げたくなってきた。
 翌日の夜更け、私は清行を烏丸殿へ遣わした。正面切っての遣いには村雨は使えても、極秘に綾子と連絡を取るのは、夜陰に乗じて塀を乗り越える位の事はできる男でなければならない。それで今迄も、綾子と私の連絡役は、大抵清行を使っていたのだ。
 明け方近くなって、清行は帰ってきた。綾子からの文と言って差し出したのは、分厚い立文だ。早くも晴子は、次なる一手を考えついて、それを綾子に全部打ち明けたらしい。
〈帥宮様からの文を頂戴致しましてから、早速晴姫にお会いしたい、と和泉に申させましたら、晴姫は私を、小菊の局にお呼びになりました。行ってみましたら、何故か守実がおりました。きっと晴姫が、帥宮様を盗賊と間違えた振りをして取り押えるのには男手が要るから、その打ち合わせに、とでも仰言って呼びつけなさったのでしょう。
 それで、例の御歌をお見せして、帥宮様は随分と思い込みの激しい御方ですのね、と晴姫に喰ってかかりましたら、やはり晴姫も、大した事はございませんわね、偶然が重なっただけなのでは、と仰言いました。そこで私が、行きがかり上、そこ迄偶然が重なるのはおかしいとけしかけてやりましたら、意外にも守実が同意しました。偶然なのかどうかは、帥宮様に直接、問い質すのが一番だろうとも。それから、やはり守実は小知恵が働きますわね、晴姫様がお呼びになる必要もなく、内大臣様の御手を煩わす事もなく、弁少将殿から御覧になっても晴姫に落度はなく、世間の非難も帥宮様御一人に集中するような方法がある、と申しました。しかも、うまく行けば私がすぐにも、帥宮様の愛人の座を射止められるかも知れないとまで申すので、私は一も二もなく賛成した振りをしました。結局は晴姫も、その線でいこう、と賛成なさいました。
 私の聞き出した限りの守実の策を、以下に記します。
 帥宮様が本当に晴姫に懸想しておられるなら、何らかの行動に出られる筈、一番ありうるのは、烏丸殿に忍び込まれる事です。ですから、忍び込みやすいように、烏丸殿を人少なにします。そのために、北の方様に、お寺詣りをお勧めします。そうすれば大勢の女房がお供し、必然的にお邸は人少なとなります。ただ、普通の寺では、家政をお預りになる北の方様は、そうそう乗り気にはなられないでしょうから、大和の帯解寺という、大層霊験あらたかで御婦人方の信仰を集めている寺がございます、そこへお詣りしては如何、とお勧めになって下さい。次に、もし帥宮様が忍んで来られた折に、弁少将殿がおられると、晴姫の御立場がありませんから、弁少将殿を暫く烏丸殿から遠ざけます。これは守実が手を回します。第三に、晴姫の一番の側近である小菊を、晴姫から離します。そのためには、皆が出払ったその夜に、和泉に清行を呼ばせ、小菊が直に会って、付き合っても良い人間かどうか判断してやる、と言うのです。こうやって晴姫の周りから、忍び込む障碍を一つずつ除いてから、最後に、これが一番大切なのです、晴姫と私が入れ替ります。つまり私は、晴姫の御衣装を纏って東の対屋に唯一人で居り、晴姫が艮の対屋に移られます。きっと帥宮様は、和泉から、晴姫が東の対屋におられる事を聞き出しておいででしょうから、周りに誰もいないのを見すまして、真っすぐ東の対屋へおいでになるでしょう。そして私を手籠めにしたところへ、晴姫が登場なさり、『不埒な男が、大切な御客人の綾姫に、狼藉を働いている』と大騒ぎなさいます。これで、帥宮様は絶体絶命、そして私は、帥宮様との既成事実を楯に、愛人の座を射止められる。以上です。
 如何なさいますか? 初めから終いまで、徹底的に無視なさるも良し、途中まで罠に掛かった振りをなさるも良し、帥宮様に、お任せします〉
 私は拳を握りしめた。
 ようし、こうなったら私も勝負に出てやる。正々堂々と勝負、いや、違う。こちらは綾子を通じて、先方の手の内を知り尽くしているのだ。初めからこの勝負、私の勝ちは見えている。守実の小知恵、晴子の浅薄な意地、これらを両人の目の前で粉砕してやる。私と勝負するには十年早いという事、思い知らされる二人の顔が目に浮かぶ。
 二三日後、一つの噂が発生した。内大臣の北の方が、娘の晴姫のために、大和の帯解寺へ懐妊祈願に参籠する、というのであった。しかも北の方は、異様に乗り気になって、渋る内大臣を説き伏せて同行を承知させたという。大臣の一人が都を出て、大和くんだりまで出かけるとなれば、朝廷としても無関心ではいられない。噂はたちまち、都中を席捲した。
 守実の作戦、第一段階は成功したな。帯解寺という寺、長谷や石山に比べたら無名だが、子宝の御利益があるという事では知る人ぞ知る寺、なのであろう。それにしても当年十九歳、しかも新婚三ヵ月足らずの晴子が、子宝祈願とは、ね。そういう事を晴子に勧めた守実という男、確かに小才の働く奴だ。晴子はどんな思いで、それを受け容れたのだろう。
 参内してみると、殿上の間で信孝が、同僚や上司の厭味の矢面に立たされているところであった。
「幾ら舅殿と姑様がお揃いで参詣なさっても、貴方がやる事やらなきゃ、晴姫は懐妊なさらないんだからね」
 などと何とも聞き苦しい事を言うのは、信孝をからかう最右翼、三位中将であった。その度に周りの者達はどっと哄笑するし、哀れな信孝は人の輪の真中で、真っ赤になって俯いている。見るに見かねて私は、助け舟を出した。
「いい大人が大勢で、一人をからかうものじゃありませんよ。結婚すれば誰でも、子供が欲しくなるでしょうに」
 すると口の減らない三位中将はまぜ返す。
「おや帥宮殿、さては帥宮殿は、晴姫が懐妊なされては懸想のし甲斐がない、とお思いですかな」
 誰があんな跳ねっ返りに懸想するかっ!? と言いたいのをぐっと抑えて、私はさらりとかわした。
「少将殿の前で、その話は止しましょう」
 それでも三位中将は口が減らない。
「帥宮殿の場合は、子宝の前に、まず御結婚ですね。いや、もしかするともう、どこぞに子宝を儲けられているかも」
 うっ! ……顔色が変わらなかっただろうか、それが一番心配であった。三位中将が、あの秘密を知っている筈がないのに、そうだと理窟では解っている筈なのに、こんなに激しく動揺してしまう。きっと柏木は、こんな心境だったに違いない。
 私は強いて笑顔を作りながら言い返した。
「どこぞに子宝、それは三位中将殿でしょう」
 三位中将は一瞬顔を歪めたが、照れ笑いしながら扇で額を叩いて、
「これは一本取られましたな。でも、出てくるのが玉鬘ならいいですが近江の君では困るので、探そうという気はありませんね」
(筆註 玉鬘・近江の君……共に「源氏物語」内大臣の落胤。玉鬘は光源氏に見出され、鬚黒の後妻、更に尚侍となる。近江の君は田舎者で貴族社会に馴染めず、皆に嘲弄されて終わる)
 三位中将は、どこかに隠し子がいるのだろうか。しかも一瞬見せたあの表情からして、相当不都合なところに。だが、その詮索は今しなくてもいい。
・ ・ ・
 内大臣一行の出立は、七月三日の事であった。一昨年の今頃は、随分色々な事があったが、二年経った今日も、午後から黒雲が広がり、雷電が空を走り、不穏な雰囲気が辺りに漂っていた。雷が鳴る度に、近衛の武官が庭に出て弦打をする。その音を聞きながら殿上の間に伺候する私の胸の内には、ひしひしと迫り来る大事の予感があった。そう言えば、去年の五月の末、称善寺に詣でた桐壷に不意討ちをかけた夜も、雷雨だったような気がする。今夜私は、烏丸殿へ清行と共に乗り込み、晴子と差しで対決する積りだ。晴子−守実連合軍と、綾子を味方に付けた私との知恵比べである。実際のところ、相手の手の内を一から十まで知り尽くしている私の圧倒的有利は疑う余地もないが。
 夕方になると雷雨は収まって、晴空が広がった。近衛の陣が解かれると、私は帝に召された。
 帝は私を近く召し、小声で言った。
「今日、内大臣の一行が、大和へ向けて出立した事は、既に聞き及んでいるだろう」
 私はいつものように、丁寧に受け答えする。
「御意にございます」
 帝は、幾分気分を害したように言った。
「幾ら何でも、烏丸家でも、気が早過ぎるではないか。結婚して三月足らずと言うのに、すぐにも孫祈願とは。ああいう物は、時に任せるのが良いのだ。私だって承香殿に男皇子が恵まれる見込が薄くなって、寂しい思いをしている。それでも表立った祈願等は、女御の立場もあるから、控えているのに」
 じゃあ桐壷はどうなんだ、とは言うまい。
「仰せの通りにございます。御結婚から三年というのならわかりますが、三月というのは、性急過ぎますね」
 帝は身を乗り出し、一層声をひそめた。
「どうだ正良、今夜、烏丸殿へ行ってくれるか?」
「勅使としてですか」
 私がわざと大真面目にボケをかますと、
「まさか。私から晴姫への、ごく私的な文だよ。その文使いを、頼みたいのだ」
 帝は笑いながら言った。
「文使いですか」
 帝は一層複雑な含み笑いをして、
「烏丸殿は人少なだ。そっと忍び込んで、晴姫に文を届けてくれれば、それでいいのだ。あくまで内密に、な」
「内密に、ですか。内密に忍び込んで、晴姫とお会いしたその時に、信孝と鉢合わせしたら、相当不都合な事が起こりそうですね」
 そうならないよう、烏丸殿の方で手筈を整えてくれる事を信じてはいるが、そんな事は帝は知るまい。私が、さも思い付きのように言ってやると、帝は頷いて言った。
「それは大丈夫だ。信孝は昼間から、母君が御病気という事で、鴛鴦殿(鳥羽にある室町殿の別邸)に行っている。先刻も雷鳴の陣を解くが早いか、鳥羽へすっ飛んで行った」
 私は内心、深く納得していた。信孝の母が病気というのは、守実の差し金に違いない。そう言えば信孝は逆らえないと、計算ずくであろう。確かに守実という男、小才は働く男だ。
「わかりました。で、御文は」
「これだ」
 帝は、結んだ文を懐から取り出した。薄紅色の極上品の料紙に、香を焚き染めてある。
「確かにお預り仕ります」
 私は結び文を帝から受け取り、懐に収めた。帝がどういう魂胆で晴子に文を遣わすか、それは知った事ではない。私にはもっと別の目的、烏丸殿への晴子の誘いに応じると決心した時から、脳裏に生じ、明確になってきた目的がある。その目的のためには、晴子と一対一で対決する事が必要なのだ。
 私は邸へ帰ると、清行を呼んだ。
「清行、烏丸殿への文、書いてやったか?」
 私の意気込みに応じるように、清行も声に力を込めて答えた。
「はっ。今夜、烏丸殿の小菊殿との面談に喜んで参上すると、昼のうちに文を遣りました」
 ――これが守実の作戦なのだ。そうである事を、私は綾子からの報告が来た後すぐ、清行に話しておいたのだ。案の定、一昨日、和泉から清行に文が来て、清行が和泉が付き合っても良い人物かどうか、会って判断したいと小菊が言っているので、烏丸殿が人少なになる明後日の夜、烏丸殿へ来てくれないか、と言ってきた。私は勿論、それに応ずるように清行に言い、清行も了承済であった。
 夜になった。今夜は徹夜になるかも知れぬ。私はしっかりと腹拵えしてから、上等の薫衣香を焚き染めた狩衣を着込んだ。懐には帝から預った晴子宛の結び文と、これを使わざるを得ないような事態には立ち至りたくないが一振りの短刀を忍ばせた。清行と連れ立って、騎馬で烏丸殿へ向かった。
 烏丸殿の門は、門番も少なく、明らかに警備は普段より緩んでいる。勝手口を入った所で、私は清行に囁いた。
「後は任せたぞ。小菊を可能な限り、引き止めておくのだ。もし予定外の事態が起こったら、口笛を鳴らすから、その時はすぐ、艮の対屋だ」
「承知仕りました。若殿様の御為なら、何でも」
と言いながら清行は、小太刀の柄に手を掛けた。
「うむ」
 清行は北面の、女房の局が並んでいる辺りへ向かい、私は艮の対屋を目指す。
 沓を脱ぎ、階の陰に隠し、足音を忍ばせて艮の対屋へ侵入してみると、灯はごく暗い。妻戸に耳をつけて、息を殺して室内の物音を窺っても、何の物音もしない。ここに晴子がいる筈なのだが、どうしたのか。私は音もなく、僅かに妻戸を開けて、室内を覗き込んだ。
 燭台がある。その仄かな光の中に、人影はない。室内の空気にも、人の気配はない。私は、そっと妻戸を開けて、室内に辷り込んだ。妻戸を閉じて、部屋の隅にある几帳の陰に身を潜め、静かに室内を窺った。
 やがて廊下に、人の気配がした。と思ううちに、妻戸が開く音がして、部屋に入ってきた人影がある。小柄な背格好は、晴子に間違いない。晴子は妻戸に掛金を掛け、ゆっくりと一息つきながら、――突然、ぎょっとしたように立ち竦み、次いで勢い良く振り返りながら叫んだ。
「誰っ!?」
 だが、丁度私に背を向けている。私は几帳の陰から、そっと忍び出ると、音もなく晴子の背後に迫った。
「だ、誰よ、いるのは、わかってるのよ」
 晴子の声は、すっかり狼狽したのか、かなり上ずって、震えている。
「こんな上品な香を使うのは、うちにはいないわ。誰なのっ!?」
 晴子が口走ったその時には、私はもう晴子の背後に立ち、今すぐにでも晴子に組み付ける態勢を整えていた。私はわざと明るい声で、
「おやおや、晴姫は随分と鼻が宜しいらしい」
「だ、誰っ!?」
 恐慌に陥った晴子が叫んだその時、私は素早く晴子に組み付き、背後から晴子の両腕を制し、左手で口を押えた。声を出されては私も困るのだ。
「騒いではいけませんよ、晴姫。人に気付かれて、気まずい思いをなさるのは、私ではなく、姫ですからね」
 私は落ち着いた静かな声で、晴子に囁いた。
 晴子は身を捩らせ、振り返ろうとしている。しかし、こう見えても私は膂力には自信がある。私は双腕に渾身の力を込めて、晴子の上体を制した。晴姫にいか程の力があろうとも、所詮は貴族の姫、私に敵う筈がない。私に制された両腕は、びくとも動かない。
 晴子が何やら唸った。口を押えられては、声にもなっていない。私は忍び笑いを洩らしながら、わざと嘲弄するように言った。
「そうか。物怪憑きの姫などと噂されていても、それは、突飛な事をなさるからなのか。意外に非力ですね、天下の晴姫は」
 私を基準にしたら、日本中の女は皆、非力という事になってしまうだろうが。こう言って、晴子をわざと怒らせてみるのも一興。
 不意に晴子の口が動いたと思うと、左手の薬指の内側に鈍い痛みが走った。噛みついたな。噛みつけば手を離す、とでも思ったか。甘い。私は一層、口を押える手に力を加えた、のみならず親指と人差指で、晴子の鼻を力一杯挟んだ。指の肉を喰い切られるか、息が詰まって気絶するか、どっちが先か。
 晴子の顎の力は、私の指を喰い切るには至らなかった。逆に、私が鼻を挟む二本指に力を加えるにつれて、晴子の顎の力は弱まった。やがて晴子の歯が私の指から離れた時、私は晴子の鼻から指を離した。
「晴姫。手を離してあげますが、大声を上げてはいけませんよ。何度も言いますが、大声を上げて人が集まってきて、困るのは、貴女ですからね。よく、お考えなさい。五つ数える間に、少しは頭も冷えるでしょう」
 私は穏かに、晴子に囁いた。
「一」
 掌に伝わる晴子の頬の熱から、晴子が憤怒に狂っている事が感じられる。
「二」
 左手に感じる晴子の息遣い、そしてまだ空しく抵抗を試みる体の動き。どうやって鎮まらせるか、ここが思案のし所だ。
「三」
 そのうちに、晴子の脳裏には、別の考えが起こってきたらしい。
「四」
 ……私は静かに囁いた。
「晴姫。手を離しますよ。お静かにね。恥をかくのは、姫ばかりではありませんよ。京を留守にしておられる弁少将殿もまた、恥をかかれる事になりますよ」
 私はゆっくりと、両手を離した。晴子の肩の動きは、大声を上げようと息を吸い込む時のそれだ。私は身構えた。もし晴子が、後先考えずに大声を上げようとするなら、頚筋に一撃を浴びせてでも黙らせるしかあるまい。
 だが、それには及ばなかった。晴子はゆっくりと、吸い込んだ息を吐いた。私も肩の力を抜き、構えた手を下ろした。
 やがて晴子は振り返った。と思う間もなく二三歩後ずさりした。喉の奥から、
「ミ、岑男……!?」
 震えた、擦れた声が洩れた。
 ふむ。晴子は私を、帝と見間違えたな。この暗さでは、見間違えるかも知れぬ、私と帝の雰囲気が似ている事からして。私は微笑みながら囁いた。
「岑男、か。私は、そういう者ではありませんよ」
 晴子は、私があの時の「光男」である事を知っているだろうか。驚きの消えない声で、
「じゃ、じゃあ、そ、そ、帥の……」
 私は意を決して、名乗りを上げた。
「岩倉宮正良。しかし、帥宮の方が宜しいでしょう」
「岩倉宮って……」
「大宰帥を頂く前の、名のみの宮名。あの頃は親王宣下も受けていなかった、それを思い出すので、好きではありません」
 実際、大宰帥親王となる迄は、岩倉宮というのは本当は僣称だったのだ。誰もがそう呼んでいるので、黙認されたようなところがあるが。
「帥宮、あんた、いや、貴方……」
 晴子は、私が左手を口元に持ってゆく仕草に見とれている。私はあくまで上品に、薬指の内側を口に含んだ。
「やれやれ、あと一歩で、喰い千切られていましたよ。物怪憑きの姫というのも、強ち噂だけではないようですね。参りました」
 じっと晴子を見つめながら、わざと眉を寄せた。
「痛いな。どうしてくれます?」
「ど、どうしてくれるって、あんたが、口を塞ぐから……!」
 晴子の声が上ずる。私は低い声で、
「口を塞がないと、大声を出しそうだったからですよ。それに、落ち着いて。晴姫は、興奮すると、声が大きくなりますね。人が来ますよ」
 私が冷静になればなる程、晴子の怒りが増すのがよくわかるので、私は一層図に乗って、優しく諭すような口振りになるのだった。
 不意に晴子は咳払いし、胸元を押えて、つんと顎を上げた。
「わ、わ、私は、晴姫ではありませんのよ。お部屋を、お間違えね。私は、桜井の綾姫ですの。晴姫は、東の対屋よ。お間違えを咎めませんわ。さっさと、出て行って……」
 余りにも苦しすぎる、しどろもどろの言い逃れは、私がにやりと笑った途端に途切れた。私は悪戯っぽく笑いながら言った。
「晴姫。御自分が、宮家の姫君だと言って、それで通じるとお思いですか? 賊かも知れない男の手を喰い切る程、雄々しく噛みつく姫は、都広しと言えども、そうはいませんよ」
 綾姫には会った事があるんだ、というような事は言わない方が得策だ。
「だ、だ、だって、あたしが、綾姫だもんね、い、いえ、ですのよ」
 晴子の言い逃れが、一層無理の度合を強めるのが可笑しくなって、私は肩を聳やかして、侮蔑の笑いを投げつけてやった。晴子が怒り半分、当惑半分でいるところへ、私はさっと手を伸ばし、腕を掴んで、ぐいと引っ張った。
「な、なっ……!?」
 驚き慌てる晴子に、私は囁いた。
「しっ、騒がないで。立ち話も風情がないですから、取り敢えず、座りませんか。夜は長いのですから、そう急がずに」
「な、長いって、貴方……!」
「静かになさいって」
 私は眉をひそめて、苦笑いしながら舌打ちした。微かな侮蔑と嘲弄の色合いを浸ませて、私は言った。
「少将殿は、どういう御教育をなさっているのかな。落ち着きのない方ですね、晴姫は。それとも少将殿は、そこもまた、可愛らしく思われているのかな、御自分より年上の方なのに」
「ん、んん、まあ……!」
 晴子は屈辱と怒りの余り、顔を引きつらせ、ぶるぶると震えている。そう、そうだ。怒れば怒る程、冷静さが失われる。冷静さを失った人間は扱いやすい。
 私は晴子を引き立てて、部屋の中央、綾子の座へと導いた。
「そちらにお座りなさい、晴姫」
 晴子は思考停止に陥ったのか、崩れ落ちるように、綾子の座に坐り込んだ。
「坐ったわよ」
 晴子の声がした。私は晴子の正面、手を伸ばせば届く程の所に坐った。
 やがて晴子は、毅然とした声で言った。
「で、何だって言うのよ。私に、何の用があるの」
 漸く、私と差しで対決する覚悟ができたような声音であった。そうせざるを得ない状況を作り出したのは、他でもない晴子なのに。私は余裕綽々の笑いを浮かべて、
「随分と、怖い物言いであられますね」
 私を見据える晴子の眼からは、射通すような鋭い光が消えて、惚れ惚れと見とれるといった感じになった。私の笑い方が、それ程帝に似ているのだろうか。だとすれば、それで心を乱されているのなら、一層こっちの物だ。
「風情のない方ですね、晴姫は。そんな風に睨まれると、身も蓋もないな。折角、音に聞くばかりで、御姿を拝見した事のなかった姫に、お目にかかる事ができたというのに」
 本当に晴子は、この私が「光男」である事に気付いていないのだろうか。試してみようという気が頭を抬げてきて、私は言った。
「晴姫に、一目、お会いしたかったのですよ。お慕いしているという噂だけでも、お耳には届きませんでしたか。万難を排して、お会いするために、盗賊のような真似をしたのです。私の気持を、お察し下さい」
 しみじみと、余韻嫋々に言ってやったが、晴子は鸚鵡返しに呟いた。
「一目、ね。恋しくて恋しくて、恋心募る余り、一目だけでも会ってみたいと、忍んできた訳ね」
「その通りですよ」
 晴子の声は、棘を含んだ。
「恋しくて忍んできた人が、よくもまあ、あんなに乱暴に、羽交い絞めにできたわね」
 私は終始落ち着いて答えた。
「それは、貴女が声を出すかも知れなかったからですよ。人を呼ばれたら、折角忍んで来たのが、無になってしまう」
 不意に晴子は、鼻を鳴らしてせせら笑った。
「何です、晴姫」
 私は眉を上げた。内心、晴子がどんなハッタリに出るか、身構えながら。
「よくも、まあ、そこ迄、シレっとした顔と口振りで、嘘がつけるなと感心してたのよ」
 さあ来たぞ。私は俯きがちに呟いた。
「嘘……」
 それから、ふっと笑いを洩らした。
「これはしたり。晴姫は、嘘だと思われるのですか? 私の気持を」
 実際、嘘なのだが。
「当り前じゃないの。貴方ね。私の事で、どういう噂を聞いてるか知らないけど、誤解してる所があるわ」
「誤解……?」
 意外そうに言ってやると、晴子は頷いた。
「そう。貴方は私の事、物怪憑きの、ばたばたした、元気な姫とだけ思ってるんじゃない? 世間の評判も、精々がそんなとこだものね」
「よく、御自分の噂を、ご存じのようですね」
「そうよ。嫌な噂に限って、本人の耳に届くもんよ。でもね。こう見えても私は、只のお騒ぎ好きの、色気も何もない姫ではないの。それどころか、邸に閉じ籠ってばかりのそこらの姫より、余程、恋愛経験積んでるのよ。意外でしょうけどね」
「……ほう」
 まあ、そうかも知れんな。帝に、性覚に、もしかすると守実に、その他にもあるのか?
「信孝以外の殿方に、文を貰った事もあるし(帝の事だな、と私は察した)、命賭けで愛された事だってあるの(性覚の事だな)。だから、自分が本当に好かれてるかどうか位、経験でわかるのよ」
「……経験でね」
 私は身構えた。これは案外、手強そうだ。晴子は、私が動揺したと思ったのか、ぐいと胸を張って、私を真向から見据えた。
「こうして、貴方を目の前にして、ひどく、はっきりしたわ。貴方はね。私の事、ぜーんぜん、好きじゃないわ。多分、興味は持ってるんでしょう。何だか、私の事、世間の評判以上に詳しく知ってるみたいだし。でも、それだけよ。全然、恋心なんか、これっぱかしもないわ」
 勝ち誇ったように断言する晴子は、まるで私の心中を完全に見透かしたかのようだ。だがここで、動揺してなるものか。この私が、女に言い負かされてたまるか。
「だからね、帥宮様、気取ってないで、はっきり言って欲しいわ。何の為に、烏丸殿に来たのよ」
「成程。気取る、か」
 いよいよ核心に来たな。私は余裕を見せるべく、うっすらと笑みを浮かべた。
「そうですね。気取ったところで、どうにもならない事がありますね」
 私に逆襲の契機を与えた事に、晴子は気付いているだろうか。私は含みのある口調で切り出した。
「例えば内大臣御夫妻初め、烏丸殿の皆様が、古寺詣りに行かれたなど、どう取り繕ったところで、外に洩れる事。都中で、専らの噂ですよ。御懐妊祈願に、参られたとか。派手な御支度だったようですね。上下問わず、人の口の端に上る程」
 不意に晴子は怯んだ。
「そ、それがどうかしたの」
 声音に、幾分かのたじろぎが現れている。
「御結婚の次は、いよいよ御懐妊かと、宮中でも何かと噂になっておりますよ」
「どうせ、私はいつだって、下らない噂の的なのよ」
 私はゆったりと袖で口元を覆い、くすくすと笑みを洩らしながら言った。
「いやはや、子宝祈願とは考えましたね。つい今日も、弁少将殿は、宮廷で何かと当てこすりを言われて、顔を赧らめて困惑しておられたな」
「それがどうしたのよ」
「あの方は、男から見ても初心くてあられるから、お気の毒ですね。年長の皆さんに、からかわれやすいお立場で」
「信孝は、根が素直で、真面目なのよ」
 それは私も認める。
「まして北の方が、これ迄何かと御評判の姫だから、皆さんもからかう種が尽きないようですよ」
「どうせ、私は何かと御評判の姫で、信孝に迷惑かけてるわよ。だから、何だって言うのよ」
 晴子が、強気にどんどん言い返すのも、今となっては焦りを隠そうとする虚勢にしか見えない。
「そうそう、帝におかせられても……」
「ミネ、いや、帝がどうかなさったの?」
 帝の名が出ると、晴子も動揺したのか、私の言葉を遮って身を乗り出してきた。私は薄笑いを浮かべて、意味深長に言ってやった。
「本日の夕刻、お召しがあって御前に伺候したのですが、何かひどく、御心が騒いでおられた御様子でしたね」
「御心が騒いでって……」
 晴子も、俄に心が乱れた様子で、
「何よ、どういう事よ。勿体ぶってないで、言いなさいよ」
 急かす晴子に構わず、私はゆったりと、
「帝は、苦々しげに、仰せられておりましたよ。……」
 帝が初めに言っていた事を、帝の口振りまで真似て言った。
「帝が、貴方に、そんな事言ったの?」
 晴子は一層熱心に、身を乗り出して私に見入ってきた。私は楽しそうに言った。
「私は、帝の再従弟に当たりますのでね。臣下には仰せられない内々の話題等も、我々皇族内の語らいには、気楽に仰せになります」
 帝の異母兄、とは言わない。これは帝と私だけの秘密なのだ。
「晴姫は、帝が、お気に懸りますか?」
 私は晴子に挑戦し、かつ揶揄するような口調で言いながら、ちらりと流し目をよこした。晴子はそれを敏感に察知してか、鋭く私を見返した。冷徹な声で、
「――岩倉宮正良様、と仰言ったわね」
 ここで動揺してなるものか。
「おやおや。晴姫は仲々、物覚えが宜しい。どさくさに紛れた名乗りを、ちゃんと覚えておられましたか」
 余裕綽々の笑みを湛えながら言うと、
「ええ」
「お耳が宜しいのですね、晴姫は」
「ええ、耳がいいのね、きっと。その上に、私は割に勘もいいの」
 晴子は真剣な顔で言うと、はったと私を睨んだ。それから一層毅然とした声で、
「岩倉宮様。貴方、何か含みがありそうね。どうやら、帝に関わる事みたいだけど」
 私は一層余裕たっぷりに笑いを浮かべてみせると、朗かに言った。
「成程。確かに、勘がお宜しい。帝も、そう仰せられておりましたよ。晴姫は、良くも悪しくも、並の姫ではないのだと。しかし、私は内心疑っておりました。帝はお優しい上に、とりわけ女君には甘くていらっしゃる。だから、只の跳ねっ返りの姫如きを、そのように仰せられるのだと」
「そうね。貴方は帝とは違うわ。私を、はっきりと見下してるわね」
 挑戦的な晴子の言葉を、私はさらりと受け流した。
「ええ。その通りです」
 それから、楽しそうに笑って言った。
「物怪憑きの姫君を、『並の姫ではない』とお褒めになる帝のお優しさには、感銘を受けておりますよ。私には、とても真似できない。私ならただ一言、身の程知らずの暴れ馬、とでも申しましょうに」
 これは満更、私の本音でなくもないだけに、一層感情が籠った。
「しかし、こうしてお会いして、気持が変わった。確かに、並の姫ではないようです。歯もお丈夫だし」
 あくまで、からかってやる事を忘れない。
「ええ、それも自慢の一つよ。喰い千切れなかったのが、私の人の良さよね」
 人の良さ、私に言わせれば、甘さ、だ。
「晴姫は、気丈でいらっしゃる」
 私は腰を浮かし、ずいと晴子に近寄った。
「私もまた、気丈な方が好きですよ。尤も、弁少将殿のように、一人の姫を帝と相争うだけの勇気は、持ち合わせていないのが、残念な事ですね」
 自分でも呆れ返る程、心にもない台詞が口をついて出て来るのは、どうした事だろう。
「ざ、ざ、残念て……」
 晴子はぎょっとしたように立ち上がり、胸元を押えた。私はすっと立ち上がった。
「あ、あ、貴方、私に、何する気?」
 どうやら晴子は、私に手籠にされる事を恐れているらしい。ならその恐怖を、一層煽ってやるのが、人を追い詰めるコツである。
「折角、私をおびき出して下さったのでしょう? 邸をがら空きにさせて、私に仕える清行さえも、呼び寄せて。晴姫付きの、一の女房の小菊とやらが、わざわざ、清行と会いたいと言う。腹心の女房がお側を離れて、晴姫はお一人になってしまう」
 私は含み笑いをしながら言った。
「全てが、出来過ぎていますね。まるで、さあ、いらして下さい、と言っているような物ですよ。私をおびき寄せるには、ちと、あからさま過ぎましたね」
 晴子の顔色が変わるのが、夜目にもはっきりと見えた気がした。守実の策の致命的欠陥、それは内通者がいなくても、出来過ぎている事に私が気付き得る事であった。
「ななな、な、何する気よ、私に!?」
 晴子はすっかり色を失い、動転している。
「晴姫。さる御方より、御文を預ってきております。お受け取り下さいますね」
 帝からだ、と匂わせ、晴子が気を取られたところを、である。案の定、
「さ、さる御方って……」
 晴子の注意が外れた一瞬、私は両手で、晴子の双手首を、がっしりと掴んだ。晴子の顔に、さっと緊張の色が走った。
「晴姫は、我慢強くていられる。痛いとは、申されませんね」
 余裕たっぷりに笑いながら、両手には一層力を入れた。夏物の衣を通して、晴子の腕の血管が脈打つのが感じられる。そこに当てた親指に、一層力を込めた。
「まだ、痛いとは申されませんか、晴姫」
 晴子は、必死で痛みを怺えているのが見え見えの声を出した。
「い、い、言うもんかっ」
「お強い姫だ。やはり、お目にかかっておいて良かった。弁少将殿は、良き伴侶をお持ちのようだ。烏丸家、そして弁少将殿の将来も、安泰という所でしょう。お羨ましい限りです」
と私は言って、ほんの少し腕の力を緩めた。これも晴子を油断させる術の一つだ。
「御無礼しますよ、晴姫」
 私は低く呟くが早いか、素早く晴子を引き寄せ、一気に唇を捉えた。
 さすがに晴子は、桐壷よりは気丈であった。この最終攻撃に遭っても、女の意地とばかり固く唇を引き結んで、それ以上の侵入を許さない。だが、いつ迄口を塞がれていられるか。しまいには私の方が息苦しくなって、口を離した。
「本当に、我慢強くていられるなあ、晴姫は」
 私は不敵な笑みを浮かべた。
「でも、これで、私が忍んできたのを、口外できなくなりましたね。婿君の少将殿には、御内密になさっておきなさいね。でないと、姫もお困りでしょう?」
 晴子は肩で息をしながら、上ずった声で叫んだ。
「こっ、困るもんかっ、ぺらぺら、喋ってやる! 信孝にも岑男の帝にも、皆に、あんたの事、言ってやるっ!」
 叫びながら晴子の頬に、悔し涙であろう、涙が伝っているのに気付いた。晴子は目を固く閉じて、涙を流すまいとするが、涙は止まらない。
「岑男の帝に言いつけてやるっ! 頼み込んで、あんたなんか左遷させてやる。岑男の帝は、私の言う事なら、聞いてくれるんだから。絶対、そうしてやる!」
 晴子は、ぽろぽろと涙を流しながら叫ぶ。私は強い侮蔑と嘲笑を剥き出しにして、
「おやおや。恋人の権力に縋る訳ですか。成程、貴女なら、お出来になるかも知れませんね。帝が御心を寄せられている晴姫なら。こう申しては何ですが、色仕掛で(この一言に、殊更力を込めた)お願いする訳ですね。弁少将も、お気の毒に」
 ここ迄来たからには、晴子を徹底的に逆上させるに限る。
「もう一度だけ、言いますよ、晴姫。私の事は、御内密になさってお置きなさい。弁少将殿は、貴女の事になると、少し感情が乱れておしまいのようだ。あの方は、見た目とは違って腕も立つ。弁少将殿と、刃傷沙汰になるのは困りますからね」
「勝手に困ってろ、馬鹿っ!」
 晴子は一層取り乱してくる。
「まして帝に申し上げる積りでいるなら、考え直して頂かなければならないな。私は、帝の御信任だけは失いたくないのですよ……」
と言いながら私は再び、晴子の唇に狙いを定めた。晴子は急に顔を外け、
「やだ! あっち行け! 言わないから、あっち行っちゃってよ!」
 半分泣き声で、恐らく無我夢中で叫んだ。
「そうそう。お利巧だ、晴姫は。お約束しましたよ」
 私が笑いながら言ってやると、晴子は精一杯声を振り絞って、
「誰が、お前と約束なんかっ!」
 そうだ、そう言うのを待っていたぞ! 私は少し腰を右へ捻ると、その反動をつけて渾身の力を込め、晴子の下腹部に膝蹴りを放った。
「うう――……」
 晴子は激しい呻き声を上げた。涙に濡れた顔は苦悶に歪み、見る間に土気色になっていく。と思う間もなく、がっくりとへたり込んだ。私は右手を放し、懐から文を取り出し、屈み込みながら、晴子の胸元に押し込んだ。
「二度と、お会いしない方がいいですね、晴姫。お互いにね」
 私は左手をも放しながら、冷たい嗤いを含んだ声で言った。晴子は両手で腹を押え込み、ばったりと前のめりに倒れ込んだ。それを見届けると、私は素早く立ち上がり、妻戸から簀子へ出、庭へ降りた。初秋の夜の冷気が快い。私は清々しい夜気を深く吸い込み、ゆっくりと吐いた。
 私の胸には、一大事をやり遂げた深い満足感が、しみじみと広がってきた。一大事、とは何か。幼稚な帝の脳天気な恋文を、晴子に届けた事などでは決してない。
 私が邸に帰り着いたのは深夜、子の刻(午前零時)過ぎであった。明日は何喰わぬ顔で参内して、帝に首尾を報告するだけだ。
 翌朝起きた時には、清行はもう帰ってきていた。参内前に清行を呼んで、私は尋ねた。
「昨夜の首尾は、どうだった」
 清行は、睡たげな目をこすりながら言った。
「丑の刻(午前二時)頃、小菊殿の局の戸を叩く音がしまして、小菊殿を呼びに来られた方がいたのですが、あの声は確かに、綾姫様の御声でした。で、小菊殿が出てゆくとすぐ、綾姫様の御声が遠くから聞こえて来て、何やらひどく騒いでおられて、小菊殿も一向に戻らなかったので、半刻程して失礼して、帰って参ったのです」
 それから私を見上げて、
「若殿様には、何かお変りになられたような事はなかったのでございますか」
 私は殊更何気ない風を装って嘯いた。
「さあ、何もなかったな。艮の対屋へ行ったら、誰もいなかったんだ。艮の対屋は綾姫のお部屋の筈だったんだが」
「何もなかったのでございますか」
 清行は素直に納得している。
(2000.12.4)

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