6月7日(金)
7日の午前中、総括集会が開かれ、昨日提出させられた感想文の一部が発表されました。万一この時に自分の感想文が当たっても将来に禍根を残さないように、と考えて感想文を書いたわけですが、自分のは当たりませんでした。こんな場で感想文を発表するのは、模範解答を読み上げて士気を高揚するのが目的(達成されるかどうかは別として)なのですから、その目的に合ったものを選ぶのは当然のことです。北陸だけで32人、全国では250人を越える参加者の中には、自分のような天邪鬼でない純朴な若者はいくらでもいるのですから、組合の意に沿うような感想文を選ぶのに何ら苦労はなかったことでしょう。それから各地本ごとの決意表明というのがあったのですが、これこそ「北陸地本、以下同文。終わり」とやったらきっと大受けをとったであろうと思うほどの紋切り型の決まり文句の羅列で、耳に入れる気にもなりませんでした。
青年部全体でする独自行動というのは7日の総括集会で終わりなのですが、北陸地本は、那覇から小松へ飛ぶ飛行機が1日1便しかないために7日に本土へ帰ってくることができないので、もう1日沖縄に滞在することになりました。那覇市内の名だたる繁華街、国際通りにあるホテルへバスで移動して、正午頃にチェックインしましたが、当初の予定では総括集会が昼頃までかかるものとして、それから移動してチェックインすると2時頃になるであろうからとて、2時に次の見学地へ出発することになっていました。それが予定より早くチェックインできたのに、次の見学地への出発は予定通り2時にするというので、2時間弱の空き時間ができました。この空き時間にはさっそく国際通りへ土産の買い出しに出かけましたが、見学地への移動と言ってもバスをチャーターしてあるわけでなくてタクシーに分乗していったのですから、予定時間より早く行動ができた場合にはもう少し柔軟に対処してほしいものです。2時にホテルを出て、那覇市に近い豊見城村にある旧海軍司令部壕へ行き、見学を終えてホテルに戻ってきたのが4時半で、夕飯をホテルの外の中華料理屋へ食べに出るのが6時半(これは料理屋のバスで移動)なのでまた2時間の空き時間になりました。こんなこま切れの空き時間では、自由行動していいと言われても行く場所に事欠きます。土産は買ってあるので、駆け足で首里城へ行ってきましたが、まとめて4時間の自由時間だったなら首里城ももっとじっくり見てこられただろうと思います。
旧海軍司令部壕は、那覇市を見渡す丘の頂上近くに掘られた狭い洞窟で、壕の内部は当時のままに保存されています。ここが陥落したのは沖縄戦終盤の昭和20年6月13日のことでしたが、海軍沖縄方面根拠地隊の玉砕が目前に迫った6月6日に司令官が本土の軍上層部に宛てて発信した長文の電報が展示されていました。「沖縄県民斯く戦へり 県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」で結ばれるこの電文が、民間人が日本軍に全面的な協力を惜しまず、その結果として多大な犠牲者を出すことになったのだ、という考えを自分に持たせた物です。電文はこのように綴られています。
「沖縄島に敵攻略を開始以来 陸海軍方面 防衛戦闘に専念し県民に関しては殆ど顧るに暇なかりき 然れども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ(中略)而も若き婦人は率先軍に身を捧げ 看護炊事婦はもとより 砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり(中略)看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し 身寄無き重傷者を助けて・・真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず(中略)之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来 終始一貫 勤労奉仕、物資節約を強要せられて御奉公の・・を胸に抱きつつ(下略)」
(原文は片仮名。・・は原文の文字不明の部分)
軍司令官が本土の軍上層部に宛てた電報に「抵抗する住民を銃剣で脅して従わせた」などと書くはずがない、と言う人がいそうなのは百も承知ですが、父祖墳墓の地が戦場になろうとするまさにその時、多くの沖縄県民は日本軍の勝利を信じて疑わず、命をも惜しまずに軍に全面的に協力したのだと思います。生存者の中には後になって、日本軍に騙されたと感じて、それが募って明治初年の琉球処分や江戸時代初期の薩摩藩による征服まで遡っては、まるで韓国や北朝鮮の人々がするように日本への憎悪の念をぶちまけている人もいますが、当時の大多数の沖縄県民は何の疑いもなく日本軍とその勝利を信じていたのでしょう。そうして日本軍の勝利を疑わずに自ら軍に全面的に協力し、その末に父祖墳墓の地に倒れていったあまたの県民を、平時の今に生きる自分達が、「皇民化教育で頭を狂わされていたのだ」などと言ってしまうことは、死者への追悼どころか侮辱にあたると思います。
自由時間に一人で行った首里城は、沖縄戦で跡形もなくなったのが最近になって復元されたものです。石造りの城壁は日本の城と違って白く塗られておらず、下から見上げると何かシルクロードあたりにこんな城があるのではないかと思わせます。正殿を中心に、石畳の中庭を朱塗りの建物がほぼ正方形に取り巻いている建築様式は、中国の影響を強く受けているのを感じさせます。その一方で、琉球の名目上の宗主国である中国(明)に対して実質的な支配国である日本(薩摩藩)に対しては、薩摩の役人を接待するための建物が正殿の隣にあって、これだけは日本風の白木作りです。正殿あたりで観光客に説明している男性職員は、「琉球の風
(*)」で見たような当時の官吏の正装をしていて、ここ首里城で大河ドラマの撮影が行われたに違いない時の情景を、ふと思わせました。