沖縄訪問記

6月8日〜その後
 最終日の8日は、11時半に空港集合、それまでは自由時間になったので、那覇市内の歩いて行ける場所を歩いて回りました。観光スポットだけでなく、そこへ行くまでの街中も、気をつけて見ているとそれなりにいろいろな物が見つかります。折しも沖縄は、県議会議員選挙の投票日を翌日に控えていましたが、候補者のポスターは名前を片仮名で書いたのが目立ちます。沖縄の人の名字は、本土の人にはすぐには読めないのが少なくないのですが、そこで平仮名でなくて片仮名で書くのは、本土では見ないでしょう。沖縄の民家の門前や屋根にある、シーサーという石造りの獅子は、那覇市内ではあまり見かけませんでした。これは那覇市内の建物は全部、戦後に建てられたと言っていいことを考えればもっともなことです。街中でもよく見かけるのは、「石敢当」と彫った石が地面近くの壁に埋め込んであるもので、これもシーサーと同じ魔除けの一種で、本土で言えばこれらは道祖神(これはよほどの田舎へ行かないと見つかりませんが)のような物でしょう。
県議会選挙のポスター シーサー 石敢当
県議会選挙のポスターシーサー石敢当
 那覇港の近くの外人墓地の片隅に、ペリー上陸記念碑があります。1853年にペリー提督の艦隊が浦賀に来た後、沖縄に来たのを記念して、昭和39年に建てられた碑です。おわかりのようにこの時はまだ沖縄はアメリカの占領下にありましたから(1)、この碑の建立もアメリカ高等弁務官府が中心になり、在沖米軍の協力で行われました。米海軍の軍人にとってはペリー提督は、日本と沖縄をアメリカに開いた、彼らの大先輩にあたるわけですから、その記念碑の建立にはことのほか思い入れがあったことでしょう。もちろん、地元那覇市もかかわっていますが。首里城でペリー提督が琉球王に述べた言葉が和英両方で彫ってありましたが、「琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む」と述べてから100年を待たずに、あの激烈な戦闘が沖縄で繰り広げられたことは、運命の皮肉というのでしょうか。
ペリー上陸記念碑 英語の碑文 護国寺の仁王像 明治天皇像の台座
ペリー上陸記念碑英語の碑文護国寺の仁王像明治天皇像の台座
 ペリー上陸記念碑からさらに街中を歩いて、港を見下ろす丘の上に並んでいる護国寺と波上宮に行きました。ここのすぐ近くには孔子廟もあって、中国と日本の文化の入り交じる沖縄らしさを感じます。さらに護国寺の境内に、明治初年に布教に来たイギリス人宣教師の記念碑まであるに至っては、沖縄というより日本の特徴である「何でも一緒」の表れを感じさせられます。護国寺には石造りの仁王像がありました。沖縄には木がないのではなくて、本土よりも身近に石があるので、仏像のような物も石で作ってしまうのだろうと思いますが、石造りの上に紅白のよだれ掛けまで着けてあるので、仁王像よりも地蔵に見えてしまいました。波上宮には明治天皇の銅像があり、銘文を読むと昭和45年の建立とあります。「戦前の日本」に対する反感が沖縄には拭いがたく残っているであろうとの思い込みを持って見ると、なぜ戦後になってからこんな物が、と思わずにはいられないのですが、逆に「戦後の沖縄」にあってこの上なく高揚していたに違いない「日本」への帰属意識が、昭和45年──まさに日本復帰直前──という時代からすると本土の人間には時代錯誤にすら見える、このような形をとって表れたのかもしれません。波上宮の下の海岸は海水浴場になっていて、早くも海水浴客が来ていました。ホテルで目にしたところでは、波上宮下の海水浴場は5月1日に海開きをしたのだそうです。その頃新潟県内ではまだスキー場が営業していたのですから、沖縄と新潟の季節の差を感じます。海水浴客が繰り出していたこの日は朝から、沖縄へ来て初めて本格的な晴天になって、土産物の袋を下げて街中を歩くと汗だくになりました。
 帰りの飛行機は、土曜日だったせいか満席でした。沖縄は梅雨が明けたかと思わせるような天気だったのに、西日本一帯から南西諸島北部には梅雨前線が居座っていて、那覇空港を離陸した飛行機はすぐに雲海の上に出、時折乱気流に揺られながら雲海の上を飛んで行きました。最後に見た陸地が奄美大島で、それからの飛行時間からするとそろそろ島根県か鳥取県の上空に来たかと思う頃、機内放送が入って「ただ今名古屋の南南西100キロを飛んでいます」と言いました。九州から中国地方にかけては相当の悪天候だったようで、迂回飛行の結果5分ほど遅れて着きましたが、飛行機ではこのくらいは珍しくないのかもしれません。

 帰ってきてから、仕事が忙しくなったり週末に上京したりしたので手紙を書く時間がなかなかとれず、半月以上も経ってしまいました。そうしているうちに今日(26日(2))、青年部で独自行動の報告会がありました。今回の独自行動はカンパの額も大きいし、行ったのが職場内でなぜか有名になっている自分だったので、何かと職場内の耳目を集めていることとて、「青年部に限らず誰でも聴きに来て下さい」と全職場に広報したのでしたが、参加者は思ったほど多くありませんでした。現地で撮った100枚以上の写真のうち33枚を選んでスライドにしたのを見せながら話して、質疑応答をしました。質問は少なかったのですが、「ペリー上陸記念碑は、その事が沖縄にとって良かったという意味での記念碑なのか、あるいはその逆なのか」というのが、数少ない深い質問でした。「アメリカ施政時代に在沖米軍が協力して建てた」と説明したので、納得していたようでした。そのスライドに続けて明治天皇像のスライドを見せて、前に書いたような事を説明し、「日本復帰後の沖縄の人が、本当に日本に復帰して良かったと思っているかどうか、本土に住む私たちは考えてみなければならない」と言ったのが、参加者の深い共感を呼んでいたようでした。見せたスライドは、「ひめゆりの塔」のようなハイライトよりも「全国紙が1部200円」というようなのが多かったので、青年部長は「××は目の着けどころが違う」と言っていました。

 今回の手紙は沖縄の旅行記という体裁で書きましたが、場所が場所だけに、通り一遍の旅行通信とは似ても似つかない内容の手紙になりました。特に13ページ(3)あたりの文章については、戦争を経験してきた人には、きっと違った感じ方・意見があると思います。そうであったら、どんな内容の返事でも待っていますし、帰省した折には真摯な議論も望むところです(4)

後日談〜これは手紙の本文ではありません〜
この後少し経って、組合役員の改選があり、青年部長を決めるのにくじ引きをして、引き当てた私はそれから1年間、山のような雑用を背負い込む羽目になりました。組合の名のもとに他人の金で物見遊山などしていると、それ相応の報いを受ける仕組みになっているようです。

脚注
(1)言うまでもありませんが、沖縄の日本復帰は昭和47年(1972年)です。[戻る]
(2)実家に宛てて手紙を出したのは6月26日でした。[戻る]
(3)「13ページ」とは7日の分の終わり近く、「軍司令官が本土の軍上層部に宛てた電報に〜死者への追悼どころか侮辱にあたると思います」という段落を指します。[戻る]
(4)この手紙を出した時には、祖母が健在でした。祖母は明治45年生まれで、昭和6年から37年まで小学校の教師、つまり「教え子を戦場に送った人」です。そしてまた長岡市で空襲に遭って罹災しています。それでこのように、議論を提起する書き方をしました。[戻る]
(2001.11. 4)

←6月7日へ ↑目次へ戻る