沖縄訪問記 |
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6月6日(木)
6日は現地視察と題して、バス5台に分乗して米軍基地と戦跡を巡りました。反米活動をやっている組織の人がバスガイドを務めていましたが、その言うことを聞いていると、どうしても首を横に振りたくなります。反米組織であれ組合であれ、二言目には去年起こったレイプ事件(1)を口に出すのですが、「米軍基地があるから性犯罪が起こる」という極めて短絡的な言い方が、『鬼畜米英』「米軍に降伏して捕らえられたら女はことごとく凌辱される」という戦時中の軍部の宣伝──これこそ戦前の沖縄県民を精神的に蹂躙し尽くし、沖縄戦の時には悪名高い集団自決を強いる原因になったとされる「皇民化教育」の最悪の発露だと、これまた二言目には言うのです──と、どれほど違うというのでしょうか。あまつさえ、バスガイドが言ったのか前日の講演者が言ったのかは忘れましたが、発言者の良識を疑わずにはいられない暴言を聞きました。「米軍兵士はアメリカ社会のいろいろな階層から来ている」というのです。「下っ端の兵士はスラム出身の無教育な連中ばかりで、性欲を抑えられないそういう連中が性犯罪を起こすのだ」と言わんばかりの甚だしい蔑視を感じます。自分の記憶が正しければ例の事件の被告は3人とも黒人だったはずで、それと合わせると上の「」の中の「連中」という言葉は、発言者の頭の中では「ニガー」だったのかもしれません。市長や県知事、国会議員といった責任ある立場の人がこんなことを言ったら、間違いなく外交問題になります。そのような暴言を吐いて恥じるところのないような組織に与することは、自分の潔しとするところではありません。この手の反米的妄言を聞くと、いつもの天邪鬼で、「80年代までの東ヨーロッパでは駐留ソ連軍兵士による性犯罪は絶無だったのか」と言いたくなってしまいます。
成田空港よりずっと広いというこの嘉手納飛行場を、アメリカ政府は日本に駐留軍を置く限り手放すつもりはないようで、日本政府がやっと引き出した普天間飛行場の返還も、嘉手納飛行場をさらに充実させて普天間の基地機能を丸ごと移転するのが交換条件になっていると新聞で読んでいます(2)。その費用も全部日本持ちというのでは、どうも日本政府は米軍に「駐留していただいている」という感じを払拭できないのですが、そのあたりについても例の反米団体はいろいろと言っています。しかし・・・ここから先は読む人の間でも賛否両論があると思いますが、「初めに基地撤去ありき」が本当に現実的であるかどうか、もう少し考えてみる必要があるのではないでしょうか。駐留米軍を削減し、最終的には全面撤収した場合、日本を含む極東の安全保障がどうなるか、という高度に政治的な問題には、ここでは触れないことにします。ここで問題にしたいのは、もっと足元にある問題です。日本の辺境に位置し、第2次・3次産業の立ち後れている沖縄の経済に占める基地の比重は、決して小さくないはずです。現在沖縄には駐留軍人とその家族が、合わせて5万人以上住んでいます。彼らが基地の外に落とす金は、さすがに1ドル360円の時代に比べたら減ったでしょうが、それでも県民所得が全国平均よりはるかに低い沖縄で、アメリカ本国より高い給料を貰っている彼らが地元に落とす金は、決して馬鹿にならないはずです。それと、第2次・3次産業の立ち後れている沖縄では、1ヶ所で何百人、もしかすると何千人もの日本人を雇う米軍基地は、大きな雇用元になっているはずです。彼らの給料はどこから出ているか──いわゆる「思いやり予算」からです。本土では対米「隷属」の象徴のように言われて、共産党に限らずあらゆる野党や市民団体が非難しているこれが、沖縄県における雇用の創出と所得の再分配に大きな役割を果たしているという、反米団体はきっと認めたがらないであろう事実があるのです。5万人を越える住民が沖縄を去り、彼らがいたことによって職にありついていた何千人何万人もの地元住民が失業することになったら、返還以来20年以上経ってなお、本土に追いついたとはとても言えない沖縄の経済は、さらに長期間の低迷を余儀なくされるでしょう。このことが分かっているのかいないのか、反米団体のバスガイドは、嘉手納飛行場にF15が何機配備されているかというようなことはしきりと言っていましたが、嘉手納飛行場に地元の日本人が何人雇われているかについては口をつぐんでいました。ホテルで買った地元の新聞にも、こんな投書が載っていました。 「最近、新聞、テレビなどの報道および解説においては基地問題に対し公平ではないように思われる。(中略)返還後の経済問題、雇用問題の解決策は全く皆無である。沖縄県のアクション・プログラムなどをもって県の経済発展、県民の所得増が得られるとは思われない。(中略)基地の整理縮小が進み、ましてや全面撤去された場合、今までみたいに政府から予算を獲得できるだろうか。沖縄県は基地あるがゆえの、おんぶにだっこであることを忘れてはいないか。基地返還は県民所得が本土並みになってからでも遅くはないように思うが、どうであろうか」 嘉手納からさらに北へ行くと、最近にわかに観光名所と化した楚辺通信所があります。ロシア・中国・北朝鮮を初めとする極東一円の軍事通信を傍受するための巨大な円形アンテナで、その形から「象のオリ」と呼ばれているものですが、敷地の一部を持っている一人の地主が、防衛施設庁との間の土地貸借契約の更新に応じないため、4月1日で契約の期限が切れてしまって国の不法占拠状態になっているところです。全方位の電波を傍受することに意味のあるアンテナの一部だけを撤去して土地を返すというのは、山手線を一駅間だけ廃止して土地を地主に返すというようなもので、非現実的極まる話ですから、国としてはあらゆる手段を使って、この土地を全部正当に使用できるようにしようと苦心していることは、周知の通りです。「自分の後ろには県知事(3)がついている」と言わんばかりに、国を相手に立ち上がっているこの地主は、昭和62年の沖縄国体の時には物議を醸す行為があった人で、それ以来本土の反日団体あたりからは英雄視されている人です。一人の沖縄県民として、日章旗にどのような思い入れがあったか、それを部外者が知ることはできませんが、政治的意図があったかどうかは別として、それを表現するに器物損壊罪という手段をとったことは、現代の法治国家にあっては是認されるものではないはずです。しかしその事件が裁判沙汰になっていた頃、大学のキャンパスには、このような正論を唱えることのできる空気はありませんでした。法曹界を担う者達が学ぶ最高学府であったはずの場所に、政治的目的のためならいかなる不法行為もまかり通るなどという空気が瀰漫していたのは、何ともやり切れないことです。 本題に戻って、楚辺の米軍施設用地の契約更新を何とかしないとと政府が躍起になっているのは、来年以降契約更新を迎える他の施設に波及して更新拒否が続出することを恐れているからですが、そのきっかけとなった楚辺通信所で問題になっている土地が施設全体のごく一部だと聞くと、「声なき声」、すなわち契約の更新に応じた他の大勢の地主は、一連の経緯をどんな思いで見ているのか、と考えさせられます。楚辺通信所の土地の契約更新が問題化してから、労働組合や学生のような不逞の輩が通信所周辺をうろつくようになったのか、通信所の周りには真新しい柵が巡らされていて、防衛施設庁に雇われているという警備員がいました。同じ沖縄県民を日本政府の手先のように見ながら、本土から来た若造どもを扇動している反米団体の人間を、警備員はどんな思いで見ていたのでしょうか。柵が巡らされて警備員が配置されるようになったことは、反米団体も沖縄における雇用の創出にわずかながら貢献したと言えるのかもしれませんが。 |
楚辺通信所 | チビチリガマ | 摩文仁の平和祈念資料館 |
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楚辺通信所のある読谷村には、チビチリガマという中北部随一の戦跡があります。ガマというのは洞窟のことで、島全体が石灰岩質の沖縄本島には、大小無数の洞窟があり、戦時中には防空壕や日本軍の陣地として使われていたということです。昭和20年4月1日に米軍が読谷村の西の海岸に上陸し、一日か二日間でこの辺りを席巻した時、このチビチリガマで百人を越す民間人が集団自決したといいます。島の南半分が焦土となり、軍民合わせて18万人以上が死んだ沖縄で、集団自決がここ1ヶ所だったわけではなくて、それこそ至るところでこのような事件が起こったのですが、ここは生存者やその子孫が中心になって記念碑を建てたり、右翼がその記念碑を壊したりしたので、特に有名になっている場所です。集団自決という、古今東西の戦史の中でも最も異様な事件が、この沖縄で現実に起こったという厳粛な事実は、戦争を経験しない人間の生半可な言葉を拒むものがあり、ありきたりな文句をここに書くことをためらわずにはいられません。 読谷村からは南へ下って、沖縄戦跡の中心地、摩文仁へ来ました。ここへ来るまでの道中は、那覇市辺りより北は緑豊かな森林が続き、南へ行くにつれてサトウキビ畑の広がる丘になります。緑豊かな山々は、そこが半世紀前には一木一草も残らない焦土と化したことが信じられないほどですが、そうと知っていて見ると、感じさせられるのは植物の生命力の強さです。そうすると、日本国内でもう1ヶ所、山容を変え草木を焼き尽くす地上戦が繰り広げられた、小笠原の硫黄島も、今では緑に覆われているのでしょうか(4)。焦土となった土地で、人間が焼け残った物を使って生活を再建していくかたわら、焼け残った草木は水と光を得て芽を吹き、焦土を再び緑に装っていきます。焦土からの復興は、人間も自然も軌を一にして進みますが、そこに一つの大きな違いがあるとすれば、自然は決して過去を振り返らないのに対し、人間はいつまでも過去を振り返り続けることでしょう。誤解のないように書いておきますが、過去を振り返ることを否定するつもりはありません。むしろ、経験と記憶を言葉やいろいろな物によって残し、伝え、広めていくことは、人間だけができることであり、人間にはそれをする責任が──単に後世の人間に対してだけでなく、生きとし生ける自然界のあらゆる生き物に対して──あると思います。海岸に面した摩文仁の丘は、昭和20年6月20日過ぎ、沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終了した場所ですが、ここにある平和祈念資料館には、次のような言葉が記されています。 「戦争をおこすのは たしかに 人間です
この言葉は、戦争を経験した人間から後世の人間に向かって発せられた言葉であるのはもちろんですが、受け止める自分には、発した人間の向こうに、物言わぬ「自然」の姿が感じられました。しかし それ以上に 戦争を許さない努力のできるのも 私たち 人間 ではないでしょうか」 平和祈念資料館の展示を見てから、少し離れた「ひめゆりの塔」へ行きました。塔の前に、竪穴のように口を開けた壕があって、ここが沖縄女子師範学校・第一高等女学校学徒隊、いわゆる「ひめゆり部隊」終焉の地です。映画などでは沖縄戦最後の時に、ここで集団自決して全滅したように描かれていますが、実はこの壕が陥落する前に学徒隊には解散命令が出されていて、少なからぬ数の生徒が生き残っているのでした。はるばる本土から持って行った千羽鶴を塔に奉納してから、「ひめゆり平和祈念資料館」へ行き、そこで今回の沖縄旅行のハイライトとも言うべき、ひめゆり部隊生存者の講演を聞きました。このことを以前の手紙で、「お涙頂戴の昔話」なんぞと書いた気がしますが、実際の講演は、扇情的なところの全くない、実に淡々とした語りでした。しかしその淡々とした語りこそが、講演した人をして「泣けるうちはまだ余裕がある」とまで言わしめた沖縄戦の実態を言外に語っていたのだと思います。 沖縄の戦跡を見て回る間もその後も、どうしても頭から離れない思いが二つほどあります。一つは、沖縄に限らず東京でも横浜でも長岡でも、およそ戦災を受けたところでは、再び戦争を起こさないようにしようという運動が脈々と続いていて、事ある毎に手を変え品を変えてアピールしているし、第二次世界大戦後世界中が戦争の廃絶に向けて努力していると思うのに、それにもかかわらず戦争が絶えないのは何故なのか、ということです。人間として認めたくはありませんが、先に書いた摩文仁の平和祈念資料館の言葉、「戦争を許さない努力のできる」のが人間であるというのは誤りなのでしょうか。物を食べ排泄をするのが人間の生理であるのと同じように、戦争を起こすのが国家という有機体の生理なのでしょうか。 もう一つは、沖縄での沖縄戦の表現のされ方についてです。それはまるで沖縄が、太平洋戦争の最中に日本軍によって武力占領され、そこで日本軍と米軍が沖縄の民間人を標的にして実弾演習をやった、とでも言い出しかねないものです。沖縄戦の犠牲者の数は、日米合わせて20万人余りにのぼりますが、「その12万余は沖縄住民」とある文書があるかと思うと、「軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10万余」とある文書もあります。公式資料ではこうなっています。 |
日本側 188,136人 | ||
本土出身軍人軍属 | 65,908人 | |
沖縄出身軍人軍属 | 28,228人 | |
沖縄出身戦闘参加者 | 55,724人 | |
一般沖縄県民 | 38,276人 | |
米軍側 12,520人 |
脚注 | ||
(1) | 詳細はよく覚えていませんが、米軍兵士3人がレンタカーを使って女子小学生を拉致してレイプしたという事件でした。これをきっかけに日米地位協定の改定を求める世論が盛り上がり、米軍人が日本国内で刑事事件を起こした場合、起訴前でも日本の警察に身柄を引き渡されるように改められたはずです。この事件の後で「レンタカーを借りる金で女が買えただろうに」と発言した在日米軍幹部が更迭されたことの方を覚えているなぞというのは、あまり感心できません。[戻る] | |
(2) | 普天間飛行場の基地機能移転については、その後海上基地を作るとかどうするとか議論が続いているようですが、この文章を書いてから5年を経ても、なかなか結論が出ないようです。[戻る] | |
(3) | 稲嶺恵一 現知事ではなく、大田昌秀 前知事です。[戻る] | |
(4) | 硫黄島の戦史と現況については、このサイトが詳しいです。 「硫黄島探訪」http://www.iwojima.jp/ [戻る] | |
(2001.11.4) |
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