沖縄訪問記

出発前〜6月5日(水)
 6月5日から8日まで、青年部の独自行動で沖縄へ行ってきました。今回の集会は、もしかすると全国持ち回りの集会としては最後のものになるかもしれないというのでしたが、出かける前からいろいろな事がありました。何と言っても旅費その他の費用の捻出です。北陸地方本部に26ある分会から最低1人ずつ、それに執行部を合わせて32人を3泊4日で沖縄へ行かせるためには、月々の給料からの天引き額がわずか200円という青年部の経常予算では足りるはずがなくて、青年部員全員が北陸地本に2000円ずつ拠出し、それとまた別に「バッジを1人1個ずつ買う」という形で600円ずつ、集会を主催する九州地本に拠出するだけでなく、一般の組合員からも1000円ずつカンパを募って旅行資金にすることになったのでした。実は春先、旅費捻出のために分会として何かやることになった時、誰かの発案でリサイクルバザーをやろうということになったのでしたが、どうもろくな物が集まらなくて、ただ同然の値段をつけてばかりいたので、資金の目標額13万円のところ売り上げが2万円しかなかったということでした。春からこんな泰山鳴動鼠一匹をやったり、集会が近づくと「ひめゆりの塔に奉納する千羽鶴を作ることになった」と言って色紙を各部課に配ったりしていたので、行く前から一般の組合員やパートの人達の耳目を集めていました。特に青年部以外の組合員から1000円ずつカンパを募ったというのが、それで手ぶらで帰ってきたら何を言われるかと、強いプレッシャーになっていたのですが、出発直前に青年部長にその事を言ったら、今までの独自行動でも500円くらいのカンパを募っていた、そして全職場からカンパを募ったからといって全職場宛てに土産を買ってくる習慣はない、と言ったので、大いに気が楽になって、土産は自分の部署宛てと実家宛てだけにすることにしたのでした。上司からは、「○○という銘柄の泡盛と、黒糖と、チンスコウでない菓子を買ってきてくれ」といって別口のカンパを貰っていたので。

 北陸地方から沖縄へ行くには、1日1便だけですが小松から那覇へ直行する飛行機が飛んでいるので、これに乗っていくことになります。小松空港までは県別にまとまって行くことになっていて、最寄り駅から小松までの列車は特急の座席指定が手配してありました。時間はかかっても安く行きたい(=支給される交通費との差額をポケットに入れてしまいたい)者にとっては、小松空港集合にしてもらう方が有難いのですが、列車に乗って新潟県外に出るのは高校の修学旅行以来などという者がいるであろうことを考えると、可能な限り団体行動にするのはやむを得ないでしょう。5日の朝、最寄り駅まで青年部長に車で送ってもらって、そこからは特急で小松へ向かいました。
 小松空港からは、週に2便だけですがソウルへ飛行機が飛んでいて、ここも小規模ながら国際空港になっています。それで、入国管理事務所や税関、動植物検疫所がありました。植物検疫所は、ソウルよりもむしろ沖縄からの植物の移入をチェックするのが主たる業務かもしれませんが。空港の一角には、韓国からの旅行者のためにハングルで掲示した案内所がありましたが、5日はソウルからの便が来る日ではなかったので、閑散としていました。
国際空港に必要な機関 沖縄行きの飛行機 鳥取砂丘
国際空港に必要な機関沖縄行きの飛行機鳥取砂丘
 小松から那覇へ行く飛行機は、130人乗りの、新潟からソウルへ飛んでいるのと同じくらいの大きさの飛行機(1)で、物の本によると今飛んでいる数が世界で最も多いジェット旅客機だそうです。ジェット機としては小ぶりなこの飛行機は、羽田からは八丈島や米子、石垣島といった、けっこうローカルな路線に飛んでいるようです。小松から羽田へは、かのジャンボ機をはじめ、小さいものでも沖縄行きの飛行機の2倍は乗せられる大型機(2)が、1日に8便飛んでいるというのですから、今日の日本の社会で、大量かつ超高速輸送手段として飛行機の担っている役割の大きさを感じます。それゆえに空港が「高度の公共性を有する」物であると認められ、空港の周りの住民は騒音を我慢するのはやむを得ないとされているのでしょうか。とは言っても、羽田から新潟への路線が上越新幹線の開通で廃止になったように、北陸新幹線が開通したら北陸地方と東京の間の交通も大きく様変わりするでしょう。新幹線がどれだけ整備されようとも本土と新幹線で結ばれようがない沖縄は、今もそして将来もずっと飛行機の独壇場で、例えば羽田から那覇へはジャンボ機が1日に10便飛んでいるそうです。
 さて小松を離陸した飛行機は、空が混雑している大阪上空を避けるとでもいうのか、最短経路ではなくて、松江の辺りまで行ってから中国地方を横断して広島上空を通り、大分・鹿児島・トカラ列島上空を経て沖縄へ行きます。小松を離陸してからしばらくは晴れていたので、天の橋立や鳥取砂丘が窓の下遠くに見えました。去年の秋に砂丘に行ってその上を歩いてきたことを思うと、また別の感慨があります。飛行機が普及してきて、こうして地上の大きな景色を一望に眺め渡しながら旅行できるようになったことで、長距離の旅行の楽しみが増えたのは喜ばしいことです。今世紀の初めくらいまではどんな王侯貴族も大富豪も、空から海陸を眺めながら旅行することはできなかったのですから。もっとも、晴れてくれないことには始まりませんが。この日も、九州上空にさしかかるとちょうど梅雨前線が停滞していて、乱気流を避けるために上昇した飛行機からは一面の雲海しか見えず、沖縄本島に近づくまで下界は全く見えませんでした。小松から那覇までは2時間30分のフライトで、機内誌によると距離は1577キロ。これくらいの時間だと、もし昼間で晴れていれば、窓から下界を見続けていても決して飽きることはなく、存分に飛行を楽しめるものです。
 那覇に着いてみると、離陸直後の機内放送では「那覇空港は晴れ」と言っていたのに、梅雨前線が居残っていて曇り空でした。地域によってはもっと天気が悪かったところもあったようで、南大東島から来る飛行機は、天候不良のため2時間近くも遅れていました。小松から飛んでいる飛行機はローカル線を飛んでいる小ぶりの飛行機と書きましたが、沖縄県内ではこの飛行機も大型機の方で、南大東島から来る飛行機は19人乗り、慶良間列島から来るのは9人乗りという、遊覧飛行機のような小さなプロペラ機です(3)。そのくらい小さな飛行機で事足りてしまう程度の需要しかない人口の少ない離島であっても飛行場が整備されているのは、もしかすると返還前の政策だったのかもしれません。もちろん沖縄県内の、およそ人が住んでいる限りの島は、海の港もあって船も通じているのですが、時刻表を見ると、どうも沖縄県内の人の移動も飛行機が主体になっているようで、船はやはりある程度まとまった量を載せないと採算が合わないからでしょうか、与那国島のような小さい島への船は便数が少なくて非常に不便です。それで、本土に限らずどこへ行くにも飛行機に乗る機会の多い沖縄なのに、県内には格安航空券を手に入れられる場所が少ないという投書が、この旅行中にホテルで見た新聞に載っていました。
離島路線の小型機 植物防疫の案内板 ホテルで売っている新聞
離島路線の小型機植物防疫の案内板ホテルで売っている新聞
 ホテルのロビーで売っていた新聞というのが、はるばると来つるものかなと思わせてくれる物でした。地元で出している新聞だけでなくて全国紙も5紙全部あるのですが、全国紙は朝刊だけなのに1部200円もします。しかも朝の9時にロビーに降りて行っても地元紙しか売っていません。全国紙のこの値段と、朝のうちは売っていないことからすると、全国紙は本土で印刷されて飛行機に積まれて沖縄へ運ばれてくるのでしょうか。地元紙にはどんな記事が載っているものか、物は試しと買ってみると、さすがは沖縄と思わせる項目がありました。まず、本土と沖縄を結ぶ船の発着時刻表と問い合わせ先が載っています。しかも客船だけではなくて、本土で売っている時刻表には載っていない、貨物船の時刻も載っています。実はこの事は、大学にいた頃に本で読んで知っていたのですが、沖縄県がいかに本土からの移入物資に依存しているかを伺わせてくれます。それは、沖縄県内で生産される米が、人口から推定して県内で消費される米の3%しかないということが、最も如実に物語っていると思います。薩摩藩に征服される前の琉球王国の時代、沖縄は貿易で栄えた国でしたが、今の沖縄は貿易というよりはもっと消極的な形の物資の移入によって成り立っていると言えます。次にテレビ・ラジオ欄を見ると、ラジオ欄の有線放送の隣に、在沖米軍向けのテレビとおぼしき項目が載っていました。ホテルで夕飯を済ませた後、同室者が夜の街へ繰り出して行って一人残ったので、沖縄のテレビはどんなものかと見てみると、「米軍放送」というチャンネルがあって、そのチャンネルの内容が新聞に載っていたとわかりました。もちろん全て英語でしたから、画面に出てくる文字を読むのが精一杯でしたが。日米共同演習の最中に海上自衛隊の護衛艦が米軍機を誤って撃墜した事件は、アメリカ本国でも大ニュースになっていたようでしたが、もし逆の事件が起こっていたら、ただでさえ反米の気運がわき返っている沖縄のこと、昔で言えば戒厳令が出ていたかもしれません。
 新聞から米に至るまで、生活必需品もその大部分を本土からの移入に頼っている沖縄では、新聞の値段からして、さぞかし物価が高いだろうと思ったのですが、これが案に相違して、沖縄本島内の重要な交通手段であるところのタクシーは本土より安く、小型の初乗りが440円でした。鉄道がないとはいえ、路線バスは決して本数も少なくなく、路線網も密なのですが、沖縄ではとにかくタクシーがやたらと走っています。タクシーの燃料も天然ガスであれガソリンであれ全て本土からの移入、しかもガソリンの場合、原油の形で中東から沖縄近海をタンカーで通り過ぎて本土へ行ってから、ガソリンになってタンカーにまた積まれて沖縄へと逆戻りしてくるのですから、さぞかし割高になっているだろうと思ったのにこうですから、もしかするとタクシー会社なり石油会社なりに政府から補助金が出ているのかもしれません(沖縄県内のガソリンの値段が本土に比べてどうだったか、それは調べてくるのを忘れました。全国紙を読んでみることをしなかったのにも、今になって気がついています。本土沖縄比較論を手紙で展開しようと思ったら、明確な目的意識を持った系統的な取材活動が必要になってきます)。
 ホテルにチェックインしてから、結集集会がありました。組合の上層部がこんな時に組合員を扇動せんとして言うようなことに対しては、およそ徹頭徹尾批判的な考えを持っているものですから、青年部幹部の挨拶やら組合中央の幹部の演説を聞きながら思ったことを全部そのまま書いていると、また筆が暴走して罵詈雑言の連続になるのは間違いなく、それでは読む方も不愉快になると思うので、できる限り抑えます。組合中央の幹部の演説というのは、「最近の青年部は云々、自分が若い頃は云々」という典型的な年寄りの愚痴に終始したのですが、一つだけ耳に入れるに値すると思ったのは、会議や集会の開始時間をきちんと守ることにかけては私たちの組合は連合随一だと言ったことで、これは組合が末代まで引き継ぐに値する美風と言ってよいでしょう。とは言うものの、当の幹部がそう言った口で長広舌を振るいまくった結果、集会の散会が予定よりも30分遅れたのですから何をか言わんやですが。沖縄で反米活動に取り組んでいる組織から来た人の講演は、沖縄の歴史や地理に触れた最初の部分を残して記憶から消去してきましたが、沖縄が古くから交易で栄えたことが今日に残っている例として、沖縄料理には古くから昆布(北海道産)が使われていることや、沖縄名産泡盛の原料はインディカ米でなければならず、戦前は台湾米、戦後は食管法の特例としてタイ米が輸入されていることを言っていました。集会の後の夕飯は、ホテルの中のレストランで食べましたが、沖縄には割と知られた地ビール(4)があるにもかかわらず本土銘柄のビールで乾杯したのに始まり、料理は全て本土で食べるのと同じでした。

脚注
(1)実家の両親が航空機に詳しくないので具体的な機種名は書きませんでしたが、この当時日本トランスオーシャン航空の小松−沖縄線に就航していたのはボーイング737です。[戻る]
(2)小松−羽田線に就航しているのは、ボーイング747SR(定員536名)、777-300(470名)、777-200(358〜382名)、767-300(288名)、767(266名)、エアバス300-600R(292名)の6機種で、1日11便飛んでいます。(2001年11月ダイヤ)[戻る]
(3)この当時、琉球エアコミューターの那覇−南大東線に就航していたのはDHC-6ツインオッター(定員19名)、那覇−慶良間線はBN-2Bアイランダー(定員9名)でした。今は需要が増えたのか、那覇−南大東線にはもう少し大型のDHC-8(定員39名)が就航しています。[戻る]
(4)もう全国区になっているかもしれません。オリオンビールです。
(2001.11.4)

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