近江物語

第十二章 入内
 二月二五日、帝が待ちに待った、尚侍の入内の日である。あの尚侍、いや、宣旨によって藤壷女御となった人と、もうこれで誰に憚る事もなく一緒にいられるのだと思うと、朝から帝は嬉しさの余り上の空で、朝食を持ってきた女官に、
「なあ、どうして帝は、妃を迎えに行ってはいけないのだろう?」
と、いかにも残念だという声で言った。
「それが慣習でございますから」
 女官としてはそう答えるしかない。
「慣習慣習って、どうして貴族は、慣習ばかりに虜われるのだ? 私が何か新しい事をすると言うと、すぐそう言って反対する。私がする事が古い慣習に合わないなら、私のする事を新しい慣習にすれば良いではないか、私は帝なのだから」
 半ば独白のように呟く帝に、女官ははっきりとは答えない。
 昼間は、強いて心を落ち着かせて、いつものように精力的に政務をこなすが、夕方になるとそわそわとして落ち着かない。
「女御の一行は、何刻に二条を出たのだ?」
 帝が呟くと、蔵人が答える。
「酉の二刻(午後六時半)にございます。まだ御出発ではありません」
 今は申の三刻(午後五時)だ。
 帝は一層苛立つ。
「何で夜にやらなきゃならんのだ? 入内に限った事じゃない、祭だって何だって、何でも夕方か夜にならないと始まらない。日の出と共に起き日の入りと共に眠り、青天白日の下で物事を執り行うことこそ、自然の理法に叶ってると思うがなあ!」
「そう仰せられましても……」
「昼間起きて夜寝る、これが人間の生き方じゃないのか? 夜起きてるのは、梟や蝙蝠くらいなものだぞ、貴族の他には」
 蔵人は何も言わない。
 夜も更けて、戌の二刻(午後八時半)になって、ようやく女御の行列が内裏に到着した。行列が藤壷に来ると、車寄せの前の階段の上に立っている人がいる。前駆の者達が、灯松を掲げて見れば、他でもない、帝その人である。
「やや、主上!」
 前駆の者達が驚きながらも、輦車を車寄せに停め、踏台を置くと、帝は待ちかねたように階を降りてきた。異例ずくめの帝の行動に、警護の武官、帝に随う蔵人も、制止する声もない。
 警護の武官が輦車の簾を掲げると、東宮を抱えた女御が顔を出した。帝は自ら手を差し伸べ、女御が輦車から降りるのを手伝った。帝も女御も、満面に笑みを湛え、再会の喜びを体中から横溢させている。もし女御が東宮を抱いていなかったら、帝と女御は、人目を憚らず抱き合ったであろう。その様子を見ると、慣習に反しているからと強いて制止することのできる者はいないのだった。帝は女御の手を引いて、階段を登る。
 入内の儀式は順調に行われていく。だが帝にとっては、そして女御にとっても、儀式などは早く済ましてしまいたかったのだ。公卿が列席しての祝宴なども、帝にとっては無駄な時間潰しにしか感じられない。
 表向きは賑かな祝宴であるが、列席の公卿は誰もが、東宮も女御の許に一緒に住むという帝の宣旨に、不可解な物を感じている。東宮とは云っても、女御の連れ子であり、帝から見れば所詮他人の子(先帝は今上帝の異母兄ではあるが)にすぎない。その東宮を何故、女御と一緒に藤壷に住まわせるなどと言い出したのか、測りかねるのであった。貴族社会の通例として、東宮の養育は実母である女御よりも、乳母の方が専らに行うものである。まして女御は入内するのだから、幼い東宮は二条邸に残してくるのが当然というものだ。東宮を藤壷に住まわせると言った時、帝はこう言ったのだった。
「私は元服するまで、父院の御顔を拝するのは年に一回か二回でした。母も、月に何日か里退りするだけで、あとはずっと乳母に育てられてきました。しかし乳母と言っても他人です。実の父母でもない者が、どれ程の慈愛を持って、子を育てられるでしょうか。時には優しく、時には厳しく、子を育てることができるのは、実の父母を措いて他にありますまい。特に、物心つく頃から私は、実の父に日頃育てられなかったことを、大層物足りなく思っていました。
 考えてみて下さい。実の父母に、真の愛情を受けて育てられなかった者が、将来子の父となった時、真にその子を、人として真に愛し、時には厳しさも持って育てられるでしょうか。まして東宮は、ゆくゆくは帝となる人です。実の子を愛しみ育てることのできない帝が、天下万民を愛しむことができますか?
 御列席の方々、貴方達は既に人の親となっている方も多いでしょう。自分の子を、自分で愛しみ育みたいというのは、人として当然の願いではないですか?」
 帝自身、二歳で父を、五歳で母を喪って、父母の愛に飢えて幼年時代を送ったのだったが、それを言う訳にはいかない。帝がこうも切々と語るのを聞くと、列席の公卿の中には、さては東宮は帝の実子かと勘ぐる者も出てきそうなものだ。
「勿論、東宮は私の実の子ではありません。しかし、私は東宮の叔父であり、同時に継父でもあります。いや、東宮を私の猶子とした以上、実父と同じであると言っても支障ないでしょう。それに東宮には実父はいない。恐らく東宮は実父の顔を覚えてさえいないでしょう。そんな東宮の、父となれるのは私だけです。私にはわかります。東宮が男として、将来父を必要とするのが。それを実現するためにも、私は東宮を内裏に住まわせて、日々父親として接したいのです」
 列席の公卿は揃って感服し、誰も異議を述べる者はなかった。子を持つ者は皆、子の父として、帝の思いに心を揺り動かされたのだった。
 宴がようやく終わって、帝は清涼殿に帰ることになった。ところが帝は言った。
「今夜から、ここを夜御殿とする」
 蔵人や女官達、驚くまいことか。あれこれと言い立てては説得に努める。
「東宮のお世話は、乳母や女房達にお任せなされば結構でしょう」
 これには尚侍が反論する。
「乳母はいません。私の他に誰が、東宮に乳を哺ませられるのです。それとも、清涼殿に東宮を抱いて参りますか?」
 帝も言う。
「私は身一つだが、女御は東宮と身二つなのだ。私が出向いた方が楽だろう」
 蔵人や女官が諦めて引き退り、帝は藤壷の一室で、女御、東宮と三人きりになった。
「とうとう私達、天下晴れて夫婦となれたんだね。あの日の約束を、遂に果たしたんだ」
 帝は小声で、しみじみと言った。女御は笑って、
「私達、もっと前から夫婦だったわ。この子は、私達の子ですもの」
と東宮を抱き上げて言う。
「表向き、だよ。実際、夫婦になったのは、一昨年の七月だけど。……あれからもう、一年半も経つんだな。あの後生まれた子が、もうこんなに大きくなったんだものね」
 帝は、過ぎし日を振り返りながら言った。
「色々な事があった。貴女が懐妊して、どうすればこの子を、先帝の子だと装えるか、随分苦しい決心をした事もあった……。あれは貴女には辛かったろうね」
 帝にとって、今迄で一番辛い出来事であった。女御も思い出して涙ぐんだ。
「貴女が里退りする前、お腹に触った時のこと、まだよく覚えてるよ。あの時、本当に、生命っていうものを感じたんだ」
 女御も頷く。
「そうね。私も、初めてこの子が、お腹の中で動いたのを感じた時は、感激したわ。愛する男の子供を、お腹に宿すってこと、こんなに素晴らしいとは思わなかった。成仏できなくたって、この方がずっと素敵な事だわ。……成仏した男達って、自分の子供を産ませる女がいなくて、さぞ味気ない暮しをしてるんじゃないかしら? 主上、貴方、来世も私と夫婦になりましょうね。一人で成仏しちゃ嫌よ」
 女御が冗談めかして言うと、帝も笑った。
「勿論だよ。妻子への愛を捨てて、何がいいんだ。『しろがねも』だよ。妻を愛し愛され、子を愛するのは、人間として自然の事じゃないか。そういう心を捨てて、私に言わせりゃ人間でなくなって、それで仏になんかなってどうするんだ。心の闇結構、愛別離苦結構、それが人間の証じゃないか。私だって貴女だって、この子だって、帝であり女御であり東宮である前に、人間じゃないか。人間の皮を被っていながら人間の心を持ってない奴なんて、この世の者じゃない」
 仏教関係者が聞いたら目を回すような事を、二人は平気で言い合う。
「……こんな事言い合うために来たんじゃなかったんだ」
 帝は女御にすり寄る。女御は含み笑いして、
「何の為に?」
 帝は笑いながら囁く。
「この子の、弟か妹を作るために!」
 女御は、ぽっと頬を赤らめた(暗くて帝には見えなかったが)。女御が東宮を、少し離れた褥に寝かせて布団を掛けると、帝は女御を引き寄せ、衣に手をかけた。
 久し振りの逢瀬に、もう人目を忍ばなくてもよいという解放感もあってか、二人の肉体は一層激しく燃え上がった。帝としては全く意識しなかったのだが、帝が女御の胸を開き、乳首を哺んで吸った途端、帝の口腔を乳が満たした。この甘い、温かい液体は、帝の胸の奥底に眠っていた、遠い記憶を喚び覚ましたのだろう。帝は我を忘れて、貪るように女御の乳房を吸い、喉を鳴らして乳を飲んだ。
「……ああ……」
 女御は微かな溜息を漏らした。
「……母さん……」
 帝の脳裏には、おぼろげながら母の記憶が残っている。郡司の館に、下働きとして仕えながら、幼い大黒丸を、誰にも勝って愛してくれた唯一人の人、その母の乳を、ずっと昔自分は飲んで、そして育ったのだ。これは他人から教わって頭で考えた理屈ではない、人間の本能によって、誰に教わるでもなく察知した事実なのだ。知らず知らず、帝の目から熱い涙がこぼれた。
 女御も、毎日毎晩東宮に乳を哺ませている。その時感ずるのは、自分の血肉を以てこの子を養っているという、母性の本能に根ざした深い満足感である。勿論出産前、当時の東宮と夜毎睦み合った時のような、体の芯がじいんと痺れるような感触もないではなかったが、それよりも何よりも、精神の満足感、それであった。今帝が頬を濡らしながら、さながら赤児のように乳を貪るのを感じて、女御は、帝も自分の愛児であるかのような錯覚に捕われて、微笑みながら呟いた。
「ふふ……可愛い坊や……」
・ ・ ・
 朝になった。毎朝この時刻になると、女官が湯の支度をして、帝を起こす習慣になっているが、今朝の帝は、藤壷で眠りを貪っている。女官は、さてどうしたものかと困惑している。そのうちに、女御付の女房が、女御に手水を持って来た。帝もようやく起きると、女御と一緒に手水を使おうとする。
「ううん、もう朝か……帰りたくないな」
 未練がましく呟く帝に、女御は言った。
「私も主上と、離れたくないのは山々ですわ。でも早くお帰りにならないと、朝政に遅れますよ。早くお帰りなさいませ」
 帝は不承不承立ち上がると、恨めしそうな声で言った。
「貴女にそう言われるとは思わなかった。ああ、政務に忙しい身というのは辛いものだ。公卿達が、何で朝早くからの参内を渋るか、今朝初めてわかった」
 女御はしっかりした声で、
「なら一層、朝早くから御政務にお励みなさいませ。早く済ませれば、早くここへもお出でになれますわ。主上が私に溺れて、御政務を蔑ろになさるとあっては、主上の為に宜しくありませんもの」
 帝は不服そうな顔をしながらも、内心では
〈そうだ、それでこそ桜さんだよ。その冷静な判断力、理知的な物の考え方〉
 こう思って、安心したのだった。清涼殿へ戻ると、早速朝食やら着替やらを済ませ、定刻前に紫宸殿へ行った。
「おお、女御入内の翌朝でも、政は朝からなさるのですな。漢皇よりも立派な主上、これなら国は乱れますまい」
 長恨歌を引いてお世辞を言う公卿に、帝は笑って、
「私はもっと女御といたかったんだけどね、女御が、朝政を蔑ろにすることは私の為に宜しくないと言って私を帰したんだよ」
「これはしたり!」
「その代り、早く終わらせて早く藤壷に来てくれとも言っていた。そういう訳だ、手際良く済ませてしまいましょう」
 女御の方は、東宮のおむつを替えたり、特別に作らせた離乳食を食べさせたり、せっせと世話をしている。本当に今の女御には、東宮を立派に育てることしか頭になかったのだ。藤壷の前の庭に綱を張って、洗濯したおむつが干してある光景は、前代未聞の光景として殿上人達の話題になった。
(2000.8.30)

←第十一章へ ↑目次へ戻る 第十三章へ→