近江物語

第十一章 靖子
 年が改まった。帝は十八歳である。正月二日には、中宮と東宮の御所で二宮大饗という宴会があるのだが、帝は践祚から三ヵ月も経つのに誰一人后妃を立てていないので、二宮大饗ができない。東宮の生母たる尚侍の実家で饗宴が営まれることになって、帝は践祚後初めて、二条邸へ行幸した。大半の公卿殿上人も参集する。
 二条邸では行幸とあって、主人たる太政大臣の北の方以下、準備に大騒ぎである。当日はまず、帝と東宮の対面が行われた。
 東宮は尚侍の膝に座っている。もうすぐ七ヵ月になるが、先帝との対面の時より随分大きくなっているようだ。しきりに手足を動かし、何やら声高に喋る様子は、良く言えば元気がいい、悪く言えば落着きがない。この子が自分と尚侍の子であると思うにつけ、実の父と名乗ることができないのをもどかしく思う帝であった。
 帝を招いての公式行事としての饗宴であるので、帝は欠席する訳にいかない。公卿連中の空疎な美辞麗句が並べられた後で、帝は何気なく言った。
「来年の二宮大饗は、ここを中宮御所として行いたいものです」
 太政大臣と左大臣の二人以外は、帝の真意を察し得ず当惑している。左大臣は、日頃から言われている事なので、帝の真意を了解したが、
〈何も今ここで仰言らなくとも〉
と思って落ち着かない。
 還幸後、帝は左大臣を呼んで言った。
「いつになったら尚侍を入内させられるのです。夫の服喪は三月とあるではありませんか。もう三月経ちましたよ」
 かなり語気荒く迫る帝に、左大臣は弱った。父太政大臣にも、いずれ入内させるのなら早くせよと言われたのだった。
 更に決定打が出た。翌日帝は五条院の御所に行幸し、行幸の例に洩れず公卿殿上人が揃って随行した。今年六十歳になる五条院は温厚かつ、院としては気さくな性格で、宴会の前に帝を一室に呼んで、親しく話に花を咲かせた。
「昨日そなたは二条邸で、来年の二宮大饗は二条邸を中宮御所として行いたいと言ったそうだね。左大臣の中の君とはかなり長いのに、一向に女御入内もさせないのはどういう訳かな」
 五条院は親しみを込めて言う。帝は、院と言っても本当は赤の他人だとわかっているから、身構えて迂闊な事は口に出さない。五条院はその様子を見て、かまをかける。
「他に思い人がいるのかね」
 帝の顔色が僅かに変わった。五条院は笑って、
「遠慮する事はないよ。そなたと私の間ではないか」
 帝はおずおずと言った。
「……実は、元服前二条邸にいました時から、今の尚侍に、ずっと思いを寄せていたのです」
 五条院は興味をそそられた様子で、
「ほう、尚侍に?」
「ええ。尚侍は左大臣の外腹の娘というので、二条邸で祖母上に養われていた時分に、私も子供でしたから、時々覗きに行ったりしたのです」
 五条院は頷きながら聞き入っている。
「ところが私は、元服するとすぐ左大臣の中の君の婿にさせられて、二条邸へ来ることもままならぬ身となり、それからもう五年になります。尚侍の方も、私を慕っているとか、たまに二条邸へ行くと、口さがない者が噂してましてね」
「夕霧と雲居雁のような話だね」
 五条院が相槌を打つと、帝は笑った。
「私は六位でなくて二品を頂きましたけど」
 それから帝は、俄に顔を曇らせた。
「しかし尚侍も幸薄い人です。外腹の娘というので有力な公達を婿にする事もなく、尚侍として出仕したのが一昨年の七月でしたか。そのうちに兄上の御子を身籠ったと聞いて、やっと運が向いてきたと、私も陰ながら安心していましたら、その御子が五十日を過ぎたばかりで兄上は突然崩御された。それ以来、ずっと二条邸に退ったままです。後ろ楯に左大臣がついているとは言っても、あの人があんなに幸薄い様子でいるのは、見るに忍びなくて……」
 表向きは痛切な様子を作りながら、内心では、あと一歩で院を落とせると意気込んでいる帝である。五条院はそれには気付かず、帝に同情して、
「それなら、尚侍をこの際正式に、女御として入内させたら良いではないか」
と、帝を励まそうと明るい声で言う。
「しかし、兄上の愛を受け、御子まで成された人ですから……」
 帝が沈んだ声を作って言うと、五条院は一層意気込んで、
「気にする事はない。そなたは帝だ、この国内の事は何でも思いのままになる身だ。真に恋する人との仲を成就させるのに、何も気兼ねはなかろう。私が源尚侍を愛した時もそうだった、あの人は父もなく、しかも前の夫と死別した身だったから、故院(院の兄、洞院)も女院(院の妃)も大反対だったが、私の一念で押し切ったのだ。そなたの父も そうだ、一条前尚侍を人目も憚らずに愛して、遂には皇子まで儲けたではないか。そなたもそうするがよい」
「はあ……」
「何なら私が、左大臣に働きかけてあげよう」
「恐れ入ります」
 その後、五条院は左大臣を呼んで、尚侍を女御として入内させるよう、それとなく持ちかけた。太上法皇の意向とあっては、左大臣もすっかり追いつめられた体である。還幸した帝の許に参上するなり、
「尚侍の件は、一切御意にお任せ申します」
とだけ言って退出した。帝は勇気百倍、早速蔵人を呼び、女御入内の手続きや、尚侍を女御とする先例を調べさせる。二日後の五日は、叙位の会議であったが、冒頭いきなり帝は議題を持ち出した。議題の内容は言う迄もない。左大臣は観念したように黙り込んでいるし、前摂政派の公卿達は、突然の話に驚き騒ぐ。
 結局この議題には表立った反対は出されず、佳日を選んで九日、尚侍を女御として入内させること、先帝の遺子である東宮を、帝の猶子とすること、この二点の宣旨が発せられた。入内の日は、二月二五日と決定された。帝はすっかり上機嫌で、政務にも一層励む。
 苦り切ったのは右大臣である。帝は靖子を入内どころか離縁をと言い出し、どういう事かと思っていれば、左大臣の娘を入内させるとくる。右大臣邸では当の靖子は、
「思った通りだったわ! 主上は初めから尚侍にぞっこんだったから、私なんかと結婚したくなかったのよ!」
と騒ぎ立て、父右大臣に泣いて詰め寄る。
「どうして私を、主上に差し上げようなどとなさったの!? 私は前から好きな人がいたのに!」
 靖子の気の強さを持て余し気味の右大臣だが、靖子の言葉の後半は聞き咎めた。
「好きな人? 誰です、それは?」
 右大臣が問い質すと靖子は、失言に気付いて我に返った。
「……それは言えません!」
「何故。父に言えないのですか」
 靖子は再び感情が昂ぶってきて、声を震わせた。
「……もし言ったら、主上のお耳に入ったら、主上はあの人を罰しなさるでしょう! 主上の御勘気を蒙ったら、この世にいられませんわ、あの人も、私も!」
 相手の男が、右大臣の娘の婿として不相応なほど卑官であるとか、そういう理由ではなさそうだと察した右大臣は、安心して言った。
「安心なさい。主上は決して、その人を罰したりはなさらないでしょう」
 靖子は父の言葉が信じられない。
「どうして? 主上は誰でも思いのままに罰できなさる方なのに?」
 右大臣は諭す口調になった。
「靖子、よく聞きなさい。実は主上は、決して貴女が嫌いだなどと仰言るのではない。先頃、主上直々に仰せられた事なのだが、主上は貴女を名ばかりの妃として朽ち果てさせるより、真に貴女を愛してくれる公達と結ばせる方が、貴女のためになるだろうと仰言ったのです。だから、貴女が誰と好き合っているとしても、決して主上はその人を罰したりなどなさらない、むしろ祝福して下さるでしょう」
 靖子はこれを聞いてやや安心したが、安心すると今度は、帝に対する憤りがこみ上げてきた。低く抑えた声で、
「わかりました。でもその人の名は、私自身の口から、主上のお耳に入れたいのです。ですから近いうちに、主上にここへお出で頂くよう、主上に申し上げて下さい」
 右大臣は慌てた。
「や、靖子、滅多な事をお言いでない。主上の行幸とは、おいそれと出来ることではないのだ」
 靖子は強い口調で言う。
「では私が、宮中へ参ります。ええ、その方が、主上が惚れ込んでる尚侍とやらにも会えて好都合ですわ!」
 靖子と尚侍が対決したら、この鼻っ柱の強い靖子と戸を踏み破る尚侍のことだ、流血の事態になるかも知れぬ。右大臣は弱り切って、翌日早々に参内すると帝に拝謁した。昨日の次第を話し、
「かような次第で、恐れながら主上に、御来駕を仰ぎたく存じます」
 帝は笑って言った。
「わかりました。でも、私が正式に内裏を出るとなると、行幸という事になって何かと厄介なもので、私としても靖子さんに会いたいのは山々なのですが。さりとて靖子さんに参内して貰うというのも、色々厄介だし。
 よろしい、微行しましょう」
 その夜、政務が片付くと帝は、右大臣と示し合わせて内裏を抜け出し、右大臣邸へ行った。右大臣に導かれて靖子の部屋へ入ると、右大臣は女房連中を退らせ、靖子と帝、右大臣の三人だけで部屋に残った。
 靖子は帳台の中で身を起こすと、帝に向かって鋭い口調で言った。
「主上、大した偽善ですわね」
 蒼白になる右大臣。靖子を制しようにも、舌がもつれて言葉が出ない。帝は落ち着き払って答えた。
「そう仰言るのも尤もです。全て私のせいなのですから」
 靖子は尚も皮肉に満ちた口調で、
「主上が尚侍を愛しなさるのと同じように、私にも恋した人がおります。お知りになりたいですか?」
 帝は頷いた。靖子は一層声を高めた。
「でもあの人が、主上に罰されるのは私には堪えられませんわ」
 今にも泡を吹きそうな右大臣を尻目に、帝は膝を進めて言った。
「私にも一言、言わせて下さい。貴女が私を恨みなさるのは全く尤もです、しかし何故私を疑いなさる。私は貴女が誰と好き合っていようとも、その男を罰しようなどという積りは毛頭ない。天地神明に誓って、貴女の好きな人を罰したり疎んじたりする事はない。約束します」
「本当に? 本当に約束して下さいますか?」
 帝はさらに進み出て、力強く言った。
「約束します」
 靖子は表情を和げた。
「私の好きなあの方……源三位中将様」
 先刻までの棘のある口調とは打って変って、恥じらいを含んだ口調で小声で言う様子は、全く十六歳の娘そのものだ。頬にも赤味が差しているのを見て、帝も表情を和げた。
 実は帝にも、思い当たる節があるのだった。三位中将源頼時という男は、若手殿上人の中でも見所のある男だと思って、帝も以前から目をかけていたのだが、昨年秋あたりから、妙に帝を避けているような様子があったのだ。
〈こんな事情があったのに、何故気が付かなかったのだろう? 反省しないと〉
 帝は傍らに坐っている右大臣に言った。
「聞きましたか。源三位中将だそうです」
 右大臣はようやく我に返った。
「源三位中将ですか」
 帝は、胸の塞えが取れた気分で、快活に言った。
「あの男なら人物もいいし、右大臣家の婿君としてふさわしい。いい男を好きになったものです。靖子、お幸せに」
 帝の口調が余りにもさっぱりして、嫌味の片鱗も感じられないので、靖子の気持も少しはほぐれた。
「もう帰らないと、宮中で騒いでるかも知れませんから」
 帝は右大臣邸を出て、ひっそりと内裏へ帰った。いつになくすっきりした気分で、安らかに眠った。
 翌朝帝は、三位中将を呼んだ。ところが三位中将は、とうとう靖子との密通が露見したかと恐れをなして、気分が悪くなったと言って大急ぎで帰邸してしまった。已むなく帝は、三位中将の父、按察大納言を召して言った。
「御子息の三位中将に、直に本人に言わなければならない事があるから、明日は必ず参内し、すぐ参上するよう、伝えて下さい」
 按察大納言は恐縮して、顔色を変えた。
「頼時が、逆鱗にお触れ申すような事を致しましたか」
 帝は思わず笑った。
「そんな事をしたのなら、何も言わずに左遷してますよ。祝ってやりたい事だから、恐がらずに参上しなさい、と仰言って下さい。そうそう、大納言、貴方も御一緒に」
 やや納得のゆかぬ様子ながら退出した按察大納言は、翌朝三位中将を連れて参上すると、尻込みする中将を押し立てて、殿上の間へ来た。帝は早速二人を東廂に呼ぶ。
 何を言われるかと怯えて、冷汗をかき震えながら坐っている三位中将に、帝はにこやかに言った。
「三位中将、そう怯えなさるな。私は決して、貴方を叱るとか、そういう積りはないから」
「……」
「ところで、右大臣の中の君の事だけれど、……あれ? 中将!?」
 三位中将は、がっくりと頚を垂れ、手にした笏を取り落している。按察大納言が揺すってみると、顔面蒼白になって失神している。
「誰かある!」
 帝の声に、蔵人が三人ばかり駈けつけた。
「三位中将を介抱してやりなさい。ひどく怯えているようだから」
 帝の指図を受けて、蔵人達は三位中将を抱えて退出する。
〈もう少し肝っ玉の太い男だと思ってたがな〉
 帝は仕方なく、按察大納言に向かって話し始めた。
「話を続けます。御子息は、右大臣の中の君と思い交わす仲だったと、一昨日わかりました。実は私の方は、あの女とは気が合わなくて、やはり意に沿わぬ政略結婚だったからでしょうか、殆ど夫婦とは言えないような仲だったのです。ですから、私が帝位に就いたのを機会に、この際腐れ縁みたいな仲を清算して、あの女にはもっと互いに愛し合える公達が、きっと現れるだろうから、その公達と添い遂げさせた方が、あの人の為にもいいだろうと、前から右大臣にも打ち開けていたのです。はっきり言いますが、御子息と右大臣の中の君が恋仲だからと言って、御子息を疎んずる積りは、誓ってもいいが決してありません。いやむしろ、あの女が私との腐れ縁を断ち切って、御子息のような立派な公達と結ばれるのを、祝福してやりたいのです。御子息も二一で独身とか、もう身を固めてもよい頃でしょう」
 按察大納言は平伏した。
「あ、有難きお言葉にございます!」
 帝は微笑んで言った。
「どうか御子息に、私の言葉をお伝え下さい。御子息のような有能な公達を、柏木にしたくありませんからね。私は光源氏よりは了見が広い積りですから」
〈了見が広いっていうのとは、ちょっと違うんだがな〉
 翌日参内した三位中将は、昨日よりは元気になっている。帝は三位中将を近く召して、懇々と話して聞かせた。
「靖子さんを、幸せにしてやりなさいよ」
 帝が温かい微笑みを浮かべて言い終わると、三位中将は深々と平伏したが、その顔には屈託した様子は微塵もなかった。
 二月中旬に、三位中将と靖子の結婚式が挙行された。帝が祝いの品々を贈ったのを、事情を知らない公卿連中はあれこれと臆測したが、表立って三位中将を貶す者はなく、右大臣も三位中将を大切に傳いている。三位中将と靖子も、相思相愛だけあって仲睦まじいと聞いて、帝も安心した。帝が、
「有能な公達を柏木にしてしまったら、私の治世の汚点となるだろう」
と言ったのが噂になって、
「主上は光源氏の君以上の人物だ」
と褒めそやす者が少なくない。
(2000.8.30)

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