私本落窪物語

第十三章 交野少将
 そのうちに律子姫は懐妊した。それと知った道頼君はこの上ない事と喜び、以前にも増して姫を労るのだった。その一方で道頼君は、中納言家に次はどんな辱しめを与えたものかと、心中深く考えをめぐらすのだった。
 その年の四月、忠頼卿は、右大臣兼雅公の末子の、右近権中将兼時君を珠子姫の婿に迎えた。先方が余り乗り気でなかったのを、北の方以下凄まじい執念を持って運動し、とうとう兼時君を承諾させたのだった。今度は露顕の儀も無事に終わって、忠頼卿以下、一月の無様な騒動の恥を雪げたと胸を撫で下ろしたのであった。
 九月の末に、律子姫は無事男の子を出産した。道頼君の子を産んだことによって、律子姫は大納言夫妻やその一族からも、道頼君の正妻として認められたのだった。そして、何事もなく年は改まった。
・ ・ ・
 さて、今上帝の第一皇子敦仁親王は当年一九歳、東宮に立って十年になる。最初に東宮女御として入内したのは、道信卿の長女時子姫であったが、すぐ後に按察大納言源隆国卿の娘、浩子姫が入内し、寵を競っていた。浩子姫は御息所と呼ばれていて、その兄は右少弁兼右近少将隆明君である。――と書けば、もう気付いた読者もおられよう、交野少将と仇名される当代無類の色好みである。
 中納言邸に仕える女房の一人少納言は、以前隆明君に、この邸で継母に疎んぜられて惨めな境遇にある姫君との仲を取り持ってくれるよう頼まれたことがあった。近いうちにと機会を窺っていたが、一昨年の賀茂臨時祭の留守に、中納言邸に賊が入って姫君を攫っていくという椿事が起こり、少納言は途方に暮れてしまった。幸いにというか、この事件は、攫われた姫君――律子姫その人を知る世間の人が全くと言っていいほどいなかったので、ただ中納言邸に賊が入ったという噂だけが、ちらほらと聞かれる程度であった。当時京都の治安は余り良くなく、公卿の邸宅に盗賊が侵入することは珍しくなかったので、この噂もすぐ消えてしまった。
 二月の下旬、連日のようにしとしとと雨が降り続き、桜を散らしてゆくある日のことであった。按察大納言邸では、お産間近となった東宮御息所浩子姫の安産祈願のため、喧しいまでに加持祈祷が営まれていた。父隆国卿は勿論、今日はここ、明日はあそこと女の許を渡り歩いて席の暖まる間もない隆明君も、この時ばかりは按察大納言邸に詰めて、事の成行きを息を殺して見守っている。宮中に詰めている公卿、殿上人達も、そわそわとして落ち着かない。
 夕方になって、殿上の間に第一報がもたらされた。
「東宮御息所様、先程若宮を御安産遊ばされました!」
 期せずしてどよめきの声が上がる。ざわつく殿上の間にあって、深刻な顔で黙り込んでしまった公卿がある。東宮女御の父、道信卿であった。
「兄上、これは由々しき事ですぞ」
 弟の権大納言道経卿が、これも深刻な顔で囁く。
「言われずともわかっておる」
 東宮女御時子姫は、東宮との間に既に子を成していたのだが、その子は姫宮なのであった。今のままでは、現東宮が即位の暁には、東宮御息所が産んだ若宮が東宮に立つことは避けられない。そうなると道信卿自身、天皇の外戚として実権を握れないばかりか、これまで外戚として代々宮中に培ってきた藤原氏の地位が、源氏に流れるという事態になりかねず、藤原氏にとってはまさに存亡の危機なのであった。
「こうなったら、何とかして手を打たねば」
 道経卿は声をひそめる。道信卿は手を上げ、
「しっ、人に聞かれてはまずい。とりあえず今夜、父上の邸へ行こう」
 辺りを憚って道経卿を制する。宮中を退出した二人は、父の関白左大臣道孝公の邸へ向かった。
 道孝公はもう老齢で、関白左大臣の要職にあるとは云え、近頃は足腰も衰えて、宮中へも余り出てこない。脇息に凭れて、辛うじて坐っているような公の前に、道信、道経両卿は坐った。
「は、話はもう、聞いておる……」
 嗄れ声で言う公に、道経卿は、
「父上、では、どうなさるお積りですか。このままでは我等摂関家の地位は、みすみす失われてしまいますぞ」
と大いに急き込んで、勢いづいて言い募る。
「どうする、と言われても……」
 実際仕方がない。道信卿の娘は姫宮しか産んでいないのだし、道経卿には、入内させるに丁度良い娘はいないのだ。
「と、とにかく、余り手荒なことは、せぬようにな、……うっ、うっ」
 公は咳込んだ。また持病の喘息が、と二人は、やり切れない思いで見ている。侍医が駈けつけ、薬湯だ温石だと右往左往するので、二人は退出した。道経卿が呟く。
「父上も、あの御様子では全くあてにならん。大体昔から、父上は事勿れ主義すぎた」
 道信卿はたしなめる。
「道経、口を慎め」
「だがそれなら、兄上はどうなさるお積りか。代々我が摂関家嫡流は、帝の御外戚としてこの国を支えてきた家、それが今、その地位を失おうとしているのに、兄上はそれを手を拱いて見ておられるのか」
 道経卿は、自分が外戚として権勢を手にする機会を既に失っているだけに、より一層権勢に執着する。
「それでは道経、お前ならどうする?」
 道信卿は、穏健な自分に比べ、野心に満ち若干過激なところもある弟が、暴走するのではという心配が抜けきらない。
「決まっているではありませんか。どんな理由ででもよい、按察大納言を失脚させるのです」
 道経卿は、臆面もなく口にする。
「按察大納言を!?」
「いかにも。按察大納言の子息、弁少将は、知らぬ者のない女蕩し。何か女がらみの醜聞を素っ破抜くなり何なりして、弁少将を左遷すれば、父の按察大納言とて、無傷ではいられますまい」
「……しかし弁少将を左遷したところで、それだけではどうにもなるまい。今度生まれた若宮を差し置いて、女一宮を東宮に立てる、そんな先例はないぞ。東宮女御が、若宮を産んでくれない限り、どうにもならん」
 半ば諦め顔の道信卿に、道経卿は声を荒げた。
「それだから兄上は消極的だというのです! ええ、もういい、私に任せて下さい」
「おい、待て、余り無茶な事はするな!」
 呼び止める道信卿を後に、道経卿はさっさと歩き去る。
 翌日道経卿は、道頼君を自邸に呼んだ。
「これは叔父上、私をお呼びになるとは珍しい。何の御用でしょうか」
 寝殿に通された道頼君に、道経卿は人払いして、
「うむ。ちょっとこっちへ」
と辺りを憚るような声で言う。膝を進めた君に、卿は、
「これは絶対に他言しない、と誓えるかね」
 道頼君、何やら怪し気な雰囲気に戸惑いながらも、頷いた。
「按察大納言を失脚させる計画だ」
「失脚!?」
「しっ、声が高い。知っての通り、按察大納言は、この度お生まれになった若宮の外祖父であられる。兄上の御娘の女御は、まだ若宮をお産みではない。ということはだ、今のままでは帝の御外戚の地位は、遠からず按察大納言家に移ってしまう。それだけは、摂関家嫡流として、断じて阻止せねばならぬ」
「し、しかし、私の妹が若宮をお産みしない限り、按察大納言殿を失脚させ申したとしても、父上が帝の御外戚となることは叶いますまい」
 道頼君が言うと、道経卿は舌打ちして、
「兄上と同じ事を言う。いいかね、今のままでは、もし帝が御譲位遊ばされたら、即、按察大納言の御孫の若宮が、東宮に立たれるではないか。按察大納言を失脚させれば、今、帝が御譲位遊ばされたとしても、暫くは東宮を定めず、ということにしておけるであろう。そして、東宮女御に、若宮がお生まれなさるのを待てばよろしい。何なら中将、もう一人の妹御を、入内させてもよかろう」
 いやはや、叔父上の権謀術数には恐れ入る。
「そ、それで、私に何をせよと仰せられる?」
「按察大納言の息子は、弁少将だ。そこでだ、君は、弁少将をよく見張って、何か、どんな事でもよい、弁少将を左遷させられるような醜聞を見つけて、それを大々的に暴き立てるのだ。ただし、余りわざとらしくやると却ってまずい」
「はあ……」
「具体的には、光源氏と朧月夜尚侍、あんな具合だ。わかるかね?」
「わかります。ただ……」
 口を濁す道頼君に、道経卿は、
「ただ?」
「今のところ、入内予定の方というのはどこにもおられませんが」
「それは物の譬えだ。そんな風な、何か女性関係のとんでもない醜聞を、見つけ出す、いや、でっち上げるのだ」
 道頼君は耳を疑った。
「でっち上げる!?」
「そうだ。あの弁少将なら、何をやったと言われても不思議ではない。だから、そうだな、斎院と通じたとでもでっち上げれば、まあ確実に首が飛ぶな」
「……」
 平然と言ってのける卿に、君は言葉もない。
「いいかね、これは私怨なんかではない、兄上の、いや、藤原氏のためだ。やってくれるね」
 半ば脅迫めいてきた。道頼君は、首を縦に振らざるを得なかった。二条邸へと車を走らせながら、君の心は重かった。いくら藤原氏のためと言われても、何の怨みもない公卿を失脚させる陰謀に加担するのは、どうも気が進まない。……この前の兵部少輔の一件、あれを陰謀と言わずして何と言うのだ? 兵部少輔に、私は何か恨みでもあったか? それと今度のと、どう違うのだ? 君は道すがら、自問自答していた。
・ ・ ・
 その数日後、参内した道頼君に、父の道信卿が嬉しそうに言った。
「時子が、また懐妊したそうだ」
 君は素直に喜ぶ。
「それは実にめでたいことですね」
 卿も、数日来の憂鬱が幾分か晴れたように、
「うむ。これで若宮が生まれれば……」
「私もそれを期待していますよ」
・ ・ ・
 八月中旬のある日のことであった。少納言が、按察大納言邸に仕えている従妹の少将の病気見舞に、按察大納言邸に行き、帰ろうとする折、隆明君に出会った。
「やあ貴女は、中納言殿のお邸に仕えている少納言だね。久し振りだなあ」
 意図するところがあるような声で話しかけてきた隆明君に、少納言はやや面喰らって、
「いいえ、こちらこそ」
と無難にあしらって離れようとする。ところが、既に少将を思い人の一人にしている隆明君は、隙あらばこの少納言も、と狙っていた節があって、袖を捉えて強引に一室へ連れ込んでしまった。
「ところで少納言、この前の話、どうなってるんだい」
 隆明君は声を落として尋ねる。
「何の事でしょう」
 少納言は、この話題が持ち出されると返答に窮することが分り切っているので、どうも気乗りがしない。
「とぼけないでくれよ。ほら、中納言殿の姫君で、母君が既に亡くて、継母に苛められておられる姫」
 やっぱり来た。少納言は、やれやれという気になった。律子姫が攫われたということは、忠頼卿から箝口令が発せられているので、突然いなくなったことをどう説明したものか、一向に考えつかないのであった。
「姫君に、本当に取り次いでくれたのかい? 二年も前だよ、頼んだのは」
 畳みかける隆明君に、少納言は答えられない。やっとの事で、
「それが、その……姫様は大分前から、何ですか、その、御患いで、寝込んでいらっしゃるので……」
 苦しまぎれに放った嘘は、逆効果になった。
「それはお可哀想に。きっと北の方に、苛められすぎたのだろう。何とか慰めて差し上げたいもの」
 一層乗り気になる隆明君に、少納言、しまったと思ったがもう遅い。
「え、ええ……そ、そうですわね、そう仰言ったと、申し上げます、わ、私はこれで」
 少納言は、挨拶もそこそこにそそくさと出てゆく。後に残った隆明君は、まだ文も見ぬ姫君に思いを馳せるのだった。
 ようし、こうなったら私も男だ。少納言なんかに頼っていては埒が開かない。私が単騎乗り込んで、姫を口説き落としてみせよう。当代一流の口八丁、もとい、色好みと呼ばれた私だ、姫の一人や二人、口説き落とせなくてどうする。
 翌十五日、隆明君は、内に決意を秘めながらも、外見は何気ない風で、夕暮れ時に中納言邸を訪ねた。
「望月を賞でつつ、権中将殿や蔵人少将殿と語らおうと思いましてね」
と表向きは言いながら。これもこの男の常套手段である。忠頼卿はそれには気付かず、
「いや、こう立派な若公達が来て下さると、この邸も賑かになりますわい。弁少将殿といえば東宮御息所の兄君、将来は帝の御外戚として御栄達なさるべき君、そのような君と縁続きでないのが残念でなりませぬ」
 忠頼卿は、自分も源氏、弁少将も源氏という思いがあるので、余り表立って言えないような事を言う。隆明君の方も、半分はお世辞と分っていても、こう言われると悪い気はしない。元々やや軽くて、他人に乗せられやすい性格の君なのであった。やがて、頼実君も帰ってきて、三人で酌み交わし始めた。
「それにしても権中将殿は遅いな。折角弁少将殿がいらして下さったというのに」
 忠頼卿は、昇ってきた月を見ながら言う。
「今日は宿直とは聞いておりませんが」
 と口では言いながら、心は裏腹に、権中将が帰って来なければいい、と思っている隆明君であった。所詮蔵人少将達と語らうなどと言ったのは、この邸へ入り込む口実だ。本当の目的は全然別のところにある。
 忠頼卿は、いかにも気懸りな、といった風で、誰にともなく言う。
「儂が気懸りなのは、どうもこの頃、権中将殿がこの邸に来られない日が多くなってきたことだ。何しろ珠子には、あんな不体裁な事があったものだから、あれで何か、儂等を見くびっておられるとか、そんな事でもありはすまいかと、それが気になってのう」
「そ、それは御尤もな事で……」
 何となく口を濁す隆明君は、実は先年、珠子姫の婿君の露顕の儀に範綱君が顔を出した時、腹が痛くなるほど笑った若公達の一人なのだった。頼実君は義父をとりなすように言う。
「私はそんな事はありませんよ。面白の駒が出て来ようが何が出て来ようが、綏子や子供達には関係ありませんもの」
 兼時君が、珠子姫から夜離れがちになったのは、どうも幾つもの理由が重なってのことらしい。まず第一に、とても気位が高く、どんな些細な事でも身の瑕疵となるような事はしたくないという性格。そのような君にとって、四の君の婿に兵部少輔という、日頃から散々馬鹿にして笑いのめしている男が出てきたこと、しかもその男が、当の四の君に罵倒されて、治部卿によって離縁させられ、三位中将との縁談も破談になって、そこで自分にお鉢が回ってきたということは、甚だ耐え難いことであった。それで、最初からこの結婚には、余り乗り気でなかったのだった。第二に、これも名門家の末息子として、甘やかされて育ったことに由来する性格なのだが、派手好きで装束などはきちんと整っていないと気が済まぬという性分、しかも直截に、物事を良い悪いとはっきり言う性分である。律子姫という、中納言邸随一の腕の立つ縫子がいなくなったので、ここ一年余りの衣更えの際には、不慣れな女房が装束を縫わざるを得なくなり、君の装束も、右大臣家の部屋住みだった時分より大分縫製が雑になった。君はこれを不快に思って、もっとましな装束は作れないのかと、あからさまに言うことも度々であった。そういう性格なので、これまた気の強い珠子姫とは、些細な事でぶつかり合うことも少なくなかったのだ。そして第三に、忠頼卿夫妻にとっては何とも皮肉なことながら、珠子姫が七月に出産したことである。珠子姫が、初めての子を限りなく可愛がる余り、片時も側を離れず、夜は必ず添臥しているので、姫の臥所へ入って行っても、赤ん坊が泣く度に姫は、やれ乳だおむつだと、君そっちのけで騒ぐので、すっかり「やる気」をそがれてしまうのだった。君は末子だったので、小さい弟妹を可愛がるということがなかったのも無縁ではない。
「どうも儂が見るに、権中将殿は、子供が生まれてから、めっきり足が遠のきなさったようだ。子供が嫌いなのかな。少納言殿や蔵人少将殿にはそんな様子はないし、儂もそういうことはなかったと思うが……」
 溜息をつく卿に、頼実君は相槌を打つ。
「子供が嫌いだなんて、そんなのがもしいたら人間失格ですよ」
 自分が先日、二児の父となった頼実君は、つい言葉に力が入るが、隆明君には少々耳が痛い。
 実際のところ、隆明君には何人くらい子供がいるか、これはもう君自身も知らない。この時代、子供の養育は母方の家が全責任を負い、父方には扶養義務はない。だからこそ隆明君のように、あちこちの女性に種を蒔いて回るような事もできた訳だが。
 月はすっかり中天に昇った。忠頼卿は、
「ああ、もうすっかり夜も更けてしまった。どうも年を取ると、早く睡くなってかなわん。夜も遅いし、弁少将殿、泊まって行きなさらんか」
と言って立ち上がる。これを待っていた隆明君、
「それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」
 やがて邸内は、すっかり寝静まった。それを見すまして隆明君は、音もなく衾を抜け出した。寝殿から、まず北の対へ行ってみると、北の対のさらに北側に、建て増されたような小さな部屋があるのに気付いた。興味津々の隆明君は、そっとその小部屋に近づき、格子の間から覗き込んだ。中は薄暗いが、よく目を凝らしてみると、ただただ雑然と、色々な道具が、足の踏み場もないほど置いてある。
 この部屋には、誰もいないのか。北の対のどこかだと聞いていたのに……。
 だが、これで諦めて引き退るような隆明君ではない。そうだ、中納言殿の四の君は、この邸の東の対におられるはずだが、中納言殿の仰言るところでは、権中将殿は相当夜離れしているようだ。と思い至ると同時に、持前の好き心がむくむくと頭をもたげてきた。よし、方針変更! 四の君を口説き落とそう!
 隆明君は月の光で方向を見定めると、東の対へ向かった。五十を過ぎた治部卿を、面と向かって罵倒なさるような、それほど鼻っ柱のお強い姫には、いい加減な口説き文句は自分も罵倒されるだけだ、だがそういう姫なればこそ、口説き落とすのにも甲斐があるというもの、などと好き者の面目躍如たる空想に遊びながら、東の対へ入ってゆくと、奥の方に微かに人の気配のする部屋がある。隆明君は、錠の下りていない妻戸をそっと開け、音もなく忍び込んだ。
 几帳の向こうに、女のいる気配がする。周りには、他に誰もいない様子だ。少し待ってみたが、蔵人少将が戻ってくるような様子はない。こうなればしめたもの、隆明君はそっと几帳をくぐり、女の背側に身を横たえた。
・ ・ ・
 ここ三日ほど、兼時君の訪れがなく、恋しさに鬱々として日を送っていた珠子姫は、背後に寄り添う男の気配に、ふと目を覚ました。
「貴方……?」
と、寝返りを打ちながら呟いた声に、隆明君は激しい胸の高鳴りを覚えた。
 やはり四の君だ。三の君の声は、蔵人少将も言ってたが、年の割に低くて落ち着いた声だそうだ。この、幼さの残る声は、四の君に間違いない。
 いざ几帳の中へ入ると、いよいよ隆明君は大胆になった。几帳の中に入ってしまった以上、実事に至ろうが至るまいが、不倫の恋の既遂にあたることに差はない、となれば、毒を喰わば皿まで、やってしまえ、そうだ、ここでやらなきゃ男がすたる。
 隆明君は、以前にもこうして人妻を口説いた時と同じように、情熱的な恋の文句を囁いた。練達した女蕩しが皆そうであるように、半ば自分の文句に陶酔しながら、切々と口説き文句を囁きかける。
「い、いけないわ、貴方……」
 珠子姫は抗う。しかし、それは断固たる拒絶ではないと、隆明君は高をくくっている。今まで私が口説いてきた人妻、皆そうだった。そして珠子姫も、そうであった。夫の訪れが間遠になるうちに、ふと、もし今ここに、若公達が現れて熱心に口説いてくれたら……という思いが、胸の奥深くにきざしていたのであろうか。もし珠子姫が、自分が大声を上げるという方法によらずに、入ってきたこの男を撃退しようと決心すれば、その手段はあるのだった。――隣に寝かせている赤ん坊を抓りでもすれば、たちまち乳母と女房の数人は飛んで来よう。その手段に訴えもせず、ただ口だけで、抗う言葉を男に囁き続けても、男はこれを、恋の駈引の一演技としか見ない。
・ ・ ・
 一盗二婢と言って、他人の妻を寝盗るのが好色漢にとっては一番やり甲斐があるのだとか。翌朝早く、何喰わぬ顔で寝殿に戻った隆明君は、中納言殿の姫君のうち、既婚の四人の中の一人をモノにしたという不埒な満足感と、そのうちに外腹の君をも頂こうという不敵な欲望を心のうちに秘めていた。手水と朝食を済ませて、東門へ向かう途中で、頼実君と会った。
「やあ、お早う」
 頼実君は、悪戯っぽく声をかけてくる。
「君のことだから、大方昨夜は、女房の部屋に忍び込んだんだろう? もしかして、最初からその気だったのか?」
 隆明君は平然と、
「まあね。君こそ、奥方がうるさくて女房に手が出せなくて、欲求不満なんじゃない?」
などと軽口を叩いている隆明君だが、朝になって理性が戻ってくると、昨夜の振舞が心の中で、少しずつわだかまりとなってくるのを感じた。いくら好色者といっても、妻を寝盗られた相手の男が、日頃顔を付き合わせている上司というのでは、さすがに気づまりなものがある。別に、関係がばれたら針の莚だと、そういう事を気にしている訳ではないし、むしろそのスリルを娯しむような節もあって、それこそが「一盗」の醍醐味といって憚らない輩もいるのだが。
 一方珠子姫の方は、一夜明けて朝になってしまうと、さすがに夫ある身で他の男に身を委ねた事実が、重苦しく心にのしかかってきて、いつになく思い屈した様で臥していた。何故私は、昨夜あの男が入ってきた時、きっぱりと拒まなかったのだろう? 魔がさしたとしか思えない。私には夫との間に、この子がいるというのに。……深窓の令嬢、それもまだ十六才の姫には、恋愛沙汰にかけては百戦錬磨の古強者である隆明君と違って、一夜の恋の戯れと割り切ることは到底できず、ひたすら思い屈じてゆくのだった。
・ ・ ・
 九月初めのある夜、道頼君の秘密命令を受けて、惟成は隆明君を尾行していた。実は明子が産み月近くなって、惟成としてもするに事欠くので、以前にも増して道頼君に忠勤を励み、尾行などという役も買って出たのだった。
 尾行されているとも知らず隆明君は、そっとある邸へ入ってゆく。惟成もその後を尾けてゆくと、この邸は、惟成にとっては懐しい、中納言忠頼卿の邸であった。
 いやはや、奇遇というか何というか。惟成は、この邸については勝手を知っているので、隆明君に気付かれぬよう、そっと、そっと追けていく。
 隆明君は、今夜兼時君は宿直で帰ってこないと知っているので、やや大胆に、東の対へ侵入していく。惟成も、その後を追けて東の対に登り、足音を忍ばせて君を追跡する。君が妻戸を開けて、そっと部屋へ入ってゆくと、惟成は妻戸の外に身を潜め、全神経を耳に集中して室内の様子を探る。
 勿論惟成は、律子姫以外の姫達の、言葉を聞いたことがある訳ではない。ただ、建物の配置と、そこに誰がいるかは、大体知っている。
 部屋の中では、男女の囁き合う声がする。惟成も若い男である。男女の睦み合うさまを戸一枚隔てて聞きながら、心穏かでいられるものではない。が、中将様の御命令とあらば、従わぬ訳にはいかない。
 その時、不意に、赤ん坊の泣き声が起こった。部屋の中では、激しい動揺が起こっている様子だ。惟成も、音もなく庭へ飛び降り、前栽の陰に身を潜めながらも、部屋からは目を離さない。と見る間に、妻戸が開いて隆明君が、乱れた装束のまま逃げ出してくると、前庭を横切ってゆく。その時、ぱらりと微かな音をたてて、惟成の目の前に落ちた物がある。扇だ。惟成はそれを素早く拾って、懐にしまい込んだ。君は慌てる余り、扇を落としたことにも気付かない。
 乳母や女房が集まってきて、部屋は騒がしくなった。隆明君が逃げ去ったのを見極めて、惟成も前栽から抜け出し、土塀の崩れから、脱兎の如く逃げ出した。
・ ・ ・
「もし、中将様! 惟成です」
 二条邸の一室。惟成の囁き声に、道頼君は目を覚ました。
「おう、惟成か。何か見つかったか?」
 惟成は、息せき切って囁く。
「見つけました! 二重の特ダネです!」
「二重の? どういう事だ?」
 もうすっかり目を覚まし、興味津々の君に、惟成は、今しがた自分の見聞したことを、細大漏らさず話した。
「これが、弁少将様の落とした扇です」
 灯火の下で、君は惟成の差し出した扇を広げた。扇の片面には隆明君の字、もう片面には別の筆蹟で、相聞の歌が書いてある。
「でかしたぞ惟成!」
 道頼君は、そう言って惟成の肩を叩いた。
「この筆蹟は見覚えがあるぞ。そうだ思い出した、四の君だ。そうか……」
 君は会心の笑みを浮かべた。これを暴露すれば、弁少将を左遷させるだけでなく、中納言殿に赤っ恥をかかせることもできる。
 翌日道頼君は、秘かに道経卿の邸を訪ねた。卿は君を寝殿に通すなり、人払いして、
「どうだ、弁少将の尻尾を掴んだか?」
と低い声で囁く。君も小声で、
「掴みました。物証もあります」
 隆明君が、忠頼卿の四の君と密通しているということを、惟成から聞いた通り、細々と話す。聞き終わると道経卿は、
「源中納言か。ちょっと弱いな。それだけで、按察大納言まで左遷させるには」
と、些か不満気である。道頼君の方がむしろ乗り気で、
「いや、私には、何としてもこれを暴き立ててやりたい所存がありまして」
 卿は興味をそそられた様子で訊く。
「ほう、何だ? 源中納言に、何か恨みでもあるのか?」
 図星である。君は言い紛らかした。
「まあ、そういうところですね。それでは叔父上、按察大納言殿の方はお任せしました」
「任せておけ。こいつがうまくいけば、按察大納言など、左遷どころか、落飾だ」
 卿は、老獪な笑みを浮かべた。その笑いの凄味に、君は震え上がった。
「な、何を企んでおられるのです!?」
 卿は重苦しく笑っただけだった。
・ ・ ・
 九月の下旬、それまで至って壮健であった帝は、俄に病を発し、床に臥してしまった。帝御不例の報に、都中、重苦しいざわめきに溢れた。南都北嶺の名だたる高僧が、内裏に呼び集められ、読経の声は止む暇がなく、折から時雨の降る日が続いて、都中、陰鬱な空気に包まれていた。
 道信卿の邸でも、一層不安な空気が漂っていた。東宮女御時子姫は、出産のために夏から里退りしていたのだが、出産間近だというのに体調が悪く、一向に良くならないのであった。
 道頼君は、二条邸と父の邸と内裏とを足繁く往来していた。律子姫もまた懐妊し、もう産み月なのであった。妻と妹の出産、さらに帝の御不例とあっては、本当に身を三つに分けて置くことができたら、どれほど安心できることかと思うばかりであった。
 すっかり焦燥した道頼君は、九月二十七日大納言邸で、道経卿に出会った。卿は、例によって周りを憚るような声で、
「いいかね中将、女御が出産なされたら、すぐ、あの噂を殿上の間で流すのだ、わかったね」
 異様に目を輝かす卿に、君は気圧され、声もなく頷くだけだった。
・ ・ ・
 翌日、九月二十八日の事であった。霙の降る朝、道信卿の邸の一角から、産声が上がった。廂の間で、すわと色めき立つ公達の前に、古参女房が出てきて叫ぶ。
「若宮にございます!」
 異様に張りつめた空気は、公達の歓声によって破られた。だがそれに続いて、一人の僧が告げた言葉に、辺りには不穏な空気が流れた。
「女御様にお憑き申しておった物怪は、按察大納言殿の生霊にござった」
 按察大納言、源隆国卿の魂が、女御の出産を妨げんとして生霊と化し、女御に取り憑いて苦しめていたというのであった。
 この報は、素早く内裏へも伝わった。殿上の間に詰めていた公達の間に、喜びと動揺が混じって走った。殿上の間に詰めていた兼時君を、道頼君が呼ぶ。
「権中将殿、ちょっとこちらへ来て下さい」
 殿上の間を出た兼時君に、道頼君は、懐から扇を取り出して広げながら、
「この扇、見覚えはありませんか」
 兼時君は訝し気に、
「さあ? 私の扇ではありませんが……?」
と言いつつ裏返した途端、顔色が変わった。
「こ、これは!?」
 蒼ざめて絶句する兼時君に、道頼君は、わざと扇を覗き込むようにして、
「誰の筆蹟ですかね」
 兼時君は唇を震わせながら呟く。
「……珠子……」
 扇を裏返し、喰い入るように見つめていたが、やがてその顔に、怒りの色が差してきた。
「弁少将の字じゃないか!」
 激しい憤りを露わに呟くと、顔を上げ、努めて平静を装って言った。
「さ、三位中将殿、この扇、暫く預らせて頂きたい。よろしいですか」
 道頼君は内心快哉を叫びながら、事もなげに答えた。
「結構ですとも」
「では、失礼!」
 足音荒く右近衛の陣へ向かってゆく兼時君を見送る道頼君の心に、律子姫を救出しおおせた時のような満足感が、徐々に広がっていった。
・ ・ ・
 その日の昼間、中納言邸は大騒ぎであった。隆明君が、誰かある姫君に宛てて書いた熱烈な恋文――君自身としては、落窪の君即ち律子姫に宛てて書いたつもりだったのだが――を、珠子姫付きの女房の少納言が落とし、それを珠子姫付きの古参女房越前が拾って、さては少納言が、弁少将を珠子姫に手引きしたかと、邸中不穏な空気が漲っていた折も折であった。真っ昼間というのに、車を乗りつけてきた者があり、女房が応対に出てみると、憤怒に燃えた兼時君である。
「義父上はおられるか!?」
 車を着けるなり兼時君は怒鳴る。
 忠頼卿は、神経痛で歩けないと言って参内せず休んでいたのだが、これを聞いて兼時君を寝殿に通した。兼時君は、戸惑う隆明君の腕を掴んで車から降りると、隆明君を連行して寝殿に来た。
「おお権中将殿、それに弁少将殿」
 兼時君は忠頼卿の前につかつかと進み出ると、例の扇を懐から出し、広げて床に置いた。
「義父上、こういう次第にございます。この男、弁少将殿が、妻を寝盗ったのです!」
 卿は驚いて言葉も出ない。やっと、扇を取って、表裏を返しながら見る。片面の筆蹟は、間違いなく珠子姫の筆蹟である。
「弁少将殿……こういう事をなさるとはのう」
 卿は、低い声で呟いた。兼時君は声高に、
「義父上、弁少将殿だけではありますまい! 珠子姫も、こういう事をなさるとは、この兼時、心外至極にございます!」
 兼時君を、一番大切な婿と思いかしずいてきた卿にとって、兼時君が珠子姫を疎んずることは一番避けたいのであった。
「とにかく、珠子姫に会って、事の仔細を問い質します。義父上も、御同席下さい」
 兼時君は立ち上がる。神経痛で歩くのが辛い卿に片腕を貸し、もう片手では隆明君の腕を掴んで、東の対へ行った。
 兼時君が、隆明君を連れて帰ってきたと聞いて、珠子姫は日頃の気丈さはどこへやら、正気も失せる思いで、几帳の内に衾を被って臥してしまった。そこへ三人がやって来た。
「珠子、正直に答えなさい」
 卿の声は厳しい。姫は返事もできない。
「お前が弁少将殿を通わせていたと、権中将殿が儂に訴え出てきた。証拠もある。本当なのか?」
 姫は衾を引き被ったまま震えている。
「正直に答えなさい!」
 尚も問い詰められて、姫は堪らず、啜り泣きを始めた。卿は一層怒りに捕われた。その後ろで兼時君は、珠子姫が扇に書いた歌を、それとなく嘯いている。実にさりげなく、何の感情も含まれていないのだが、姫にとっては、父卿が怒り罵る言葉の数々よりも、もっと鋭く胸を抉るのだった。
 尋常ならぬ雰囲気を感じ取ってか、赤ん坊が泣く。普段なら素早く駆けつける乳母や女房も、この時ばかりは部屋の外で、遠巻きにして息をひそめているばかりだった。
・ ・ ・
 夕方、ようやく解放された隆明君が按察大納言邸へ帰る頃には、もはやこの父子の運命は完全に暗転していた。どこからともなく、按察大納言が、帝と東宮女御を呪詛したという噂が発生し、都中を席捲していたのだ。それと時を同じくして、弁少将が権中将の妻と密通したという噂――この出所は明らかで、三位中将道頼君が、殿上の間で暴露したのだ――が広まった。翌朝、按察大納言と弁少将の参内を差し止める宣旨が発せられ、進退極まった按察大納言隆国卿は、その日のうちに剃髪した。
 一方兼時君は、珠子姫と絶縁すると忠頼卿に告げてよこした。またしても大いに面目を失ったのは忠頼卿である。一番期待していた婿君に逃げられて、北の方共々意気銷沈すること限りない。卿は失意と落胆の余り、激しい怒りを燃え立たせ、珠子姫を勘当し、少納言を放逐した。
 そんな騒ぎをよそに、二条邸へ帰ってきた道頼君を、朗報が待っていた。律子姫と明子が、揃って女の子を安産したのだった。律子姫の娘の姫君の乳母には、明子本人のたっての願いで、明子がつくことになった。
「親子二代の乳母とは、何と深い縁があったのだろう」
 満足気に言う道頼君に、惟成も頷くのだった。三日、五日、七日、九日の産養は、道信卿や道経卿が主催して盛大に営まれた。病床の帝からも下賜の品々があり、明子や惟成は道頼君の栄耀を今更ながら身にしみて知ると同時に、中納言夫妻がこれを知ったらどんな顔をするかと思うのだった。
(2000.7.29)

←第十二章へ ↑目次へ戻る 第十四章へ→