私本落窪物語

第十二章 面白の駒
 やがて年が改まった。春の叙位除目で、道頼君は従三位左近中将に抜擢され、二四歳で忠頼卿と並ぶ位階になった。惟成も、正六位上蔵人兼左衛門大尉に昇進した。明子は、今迄は女童として扱われてきて、阿漕と呼ばれていたのだったが、女房頭となったのを機に、衛門と呼ばせることにした。女房頭の明子の下、いろいろなつてを辿って、二十何人もの女房が仕えていて、二条邸は賑やかである。
「道頼は二条邸に妻を迎えたということだ。あれもようやく、身を固める気になったな。これで私も一安心だ」
 道頼君の父、大納言兼左大将道信卿は、北の方と二人、満足気に頷くのだった。道信卿には北の方の間に男三人、女二人の子供があり、長子道頼君を頭に、長女時子姫は二一歳で東宮女御、一八歳の次男道時君は侍従、一六才の次女信子姫、一二才の三郎君は童殿上している。
 さて年が明けると、忠頼卿は珠子姫の婿君に道頼君をという話を一層強く押し出してきた。珠子姫は十五歳になったので、もう婿取りに丁度良い頃だというのもさる事ながら、源氏ということもあって一向に鳴かず飛ばずの忠頼卿にとって、今を時めく権門勢家たる大納言家と縁続きになって(実はその望みは既に実現しているのだが)自身の栄達を図る望みがあったのは否定できない。北の方も、先方は何のかのと言って気乗り薄ではあるが、ここでもっと押しまくれば、先方も官位も上がり年も長けた身、いつまでも独身でもいられまいと思い直してくれるだろうと、大いに力瘤を入れて運動している。道頼君が大納言邸に参上したある日、中納言邸から来た仲人が、
「申し上げたい事がございます。中納言様は、中将様と四の君様の御結婚の事、一日も早くと仰言っております。どうか中将様から、四の君様にお手紙を差し上げて下さいませ」
 道頼君はこの話について、心中深く思うことがあったので、思わせぶりに笑って、
「そう先方が御所望なら、承りましょう。手紙はそのうち差し上げましょう」
 君は二条邸へ帰ると、律子姫に、
「中納言殿の四の君との縁談について、いろいろと言っていました。承りますと言ってやりましたよ」
 姫はさっと顔色を変え、
「貴方、珠子の夫になりなさるのですか!?」
 明子も姫に加勢する。
「中将様、それでは話が違いますわ。姫様御一人だけを、誰よりも深く愛すると、そう承ったからこそ、姫様との仲をお取り持ちしましたのに!」
 君は笑って、
「姫、衛門、本気に取らないで。策略ですよ」
 明子は、策略と聞いて表情を和らげたが、姫は一層表情を曇らせた。
「策略ですって? 貴方、珠子に何をなさる積りなのです。珠子が憎いのですか。珠子が何をしたと仰言るのです? もしかして貴方、お義母様に復讐なさるお積りですか? そうだと仰言るなら、どうか止めて下さい。私は、貴方がお義母様に復讐なさるのは望みません。まして、珠子を辛い目に遭わせなさるような復讐は、どうかなさらないで」
 君は微笑して、
「貴女は本当に気の弱い方ですね。人がどんな仕打をしても、それをいつまでも覚えてはおかないような御心でいらっしゃる。それで私も気が楽です。まあ、復讐のやり口を相談するには物足りないが」
 姫は尚も不安気に、
「貴方、どうしてもお義母様に復讐なさるお積りですか?」
「貴方がその気におなりでなくても、私はやります」
 数日後、道頼君が大納言邸へ行くと、母北の方が君を呼びつけて、言って聞かすことがあるという。君が母の部屋へ行くと、母北の方は、
「道頼、貴方が二条邸に妻を迎えたと聞いて、母は安心しておりました。それなのに何故、源中納言様の四の君との御縁を、承ると申し上げたのです」
と半ば諭すような調子で言う。
「中納言殿が、他に思い人がいても構わないと仰言っていると伺いましたので。何なら中納言殿にお尋ね下さい。中納言殿も、奥方を二人お持ちであられたことだし。男は一人の女だけを後生大事に守るべきものか、どんな良妻でも一人では不足、悪妻二人の方がよいと世間でも言われていますからね」
 これは君の本心ではない。弁解のために、わざと主義に反することを言ってのけただけである。案の定母北の方は、
「まあ道頼、いつの間にそんな考えを持つようになったのです。母は悲しいですよ。妻を何人も持つというのは、何人もの妻の恨みを一身に背負うだけで、自分も苦しむことですよ。私はお殿様のたった一人の妻として大切にされているけれど、幼い頃私の母は、父が他の妻の許へ通うのをよく嘆いておりましたし、時子も東宮女御として、東宮様の御寵愛を他の方と争うようなことも自然と起こってきて、心を痛めているようです。道頼、母の言うことがわかりますか。二条邸の御方が気に入ったのなら、中納言様の四の君との結婚はお断りしなさい。大体、去年はあれ程気乗りがしないと言っていたのに、何で急に、承る気になったのです」
 懇々と諭す母北の方に、君は、
「思うところがありましてね」
と口を濁すばかりだった。
・ ・ ・
 道頼君の遠い縁続きに、治部卿藤原範経という人がいた。この卿は全く立身出世の途から外れてしまった人で、早くから世を拗ねて世間付き合いもしなくなり、偏屈な変り者という風評が立っているのだった。そもそも治部卿というのが、八省の卿がなべてそうであるようにこの頃ではすっかり実体のない閑職となってしまっていて、この卿も現代で言うなら窓際族の一人なのだった。この卿の長男の、兵部少輔範綱君という君も、若くして窓際に坐ってしまったような人で、ろくに世間付き合いもしていない。
 道頼君は大納言邸を辞すと、すぐ隣にある治部卿邸へ行き、範経卿に、
「御子息の兵部少輔は御在宅でしょうか」
と言うと、卿は、
「倅は自分の部屋におるでしょう。人が笑うと言って、女房にも顔を合わせませなんだ。こんな愚息をも気にかけて下さる方がおられるとは有難いことで。倅が世間に立ち交じれるように、どうか面倒を見てやって下され。手前も経験した事です、人に笑われるのも少しの間、それが過ぎれば世間並の人付き合いもできるものです」
と言って手を合わせる。君は苦笑して、
「承りました。縁続きですもの、悪く思うことはありませんよ」
と、内心の思いとは裏腹な事を言う。
 範綱君の部屋へ来てみると、昼過ぎだというのに、だらしなく寝ている。やれやれと苦笑しながら、
「もしもし、起きなさい、話したい事があって、参りました」
と言うと、範綱君は手足を揃えて伸びをして、のろのろと起き上がり、大欠伸をしている。
「あ、道頼くうん」
 このすっとぼけた物言いには、道頼君、吹き出したくなるのをやっとの思いでこらえて、
「貴方、どうして私の方に一向に来られないのです、親戚なのに」
 範綱君は恥ずかしそうに、
「だって、女房達が僕を見ると、すぐ笑うんだもん」
 ――この君は、どうも少し頭の足りないところがあって、そのせいもあって人付き合いもまともにできないでいるのだった。
 道頼君は笑いを噛み殺しながら、
「そんなに笑ったりしませんよ。ところで、貴方、今年で三十でしょう、どうして結婚しようとしないのです。私も永らく独りでいたけれど、結婚っていいものですよ、独り寝の辛さに比べたら」
「だって誰も、結婚の話なんて持ってこないんだもん。独りで寝るのも、慣れちゃって、ちっとも辛くないよお」
と虚勢を張るのも可笑しい。
「それでは、辛くないと言って、結婚しないでいつまでも独りでいるおつもりか」
 すると範綱君は一層恥ずかしそうに、
「ううん、本当は、話を持ってきてくれる人がいたらいいなあ、と思ってるんだあ」
 やっぱり本音はそうだな、と道頼君は内心ほくそ笑みながら言った。
「それでは私が、話を持って来ましょう。大層すばらしい姫君がおります」
 すると範綱君は、たちまち幼稚っぽく喜びの表情を浮かべた。その顔は、化粧でもしたかのように白く、面も首も長くて、大きな鼻をひくつかせ、今しも馬が嘶いて走り出そうとするような顔である。この男の仇名が「面白の駒」というのも、自分の親類ながら尤もだと道頼君は、こみ上げてくる笑いを押し隠すのに苦労した。
「本当? 嬉しいなあ! どこのお姫様?」
「源中納言殿の四の君です。私にといって縁談が持ち込まれたのですが、私には前から、思い捨てられない女がいるので、貴方にお譲りしようと思いましてね。結婚の日取りは、明後日ということです」
 範綱君は話を聞いて顔を曇らし、
「でも四の君は、僕じゃ嫌だって言わないかなあ。きっと僕を笑うと思うなあ」
 ここまで笑われる笑われると気にするのは、もう強迫観念というものだ。道頼君はそう思うと、気の毒でもあり、可笑しくもあるが、決して笑わずに、
「笑いはしませんよ」
 残念がったり、怒ったりはするだろうがね。
「いいですか、中納言殿には、
『私は以前から、人知れず四の君様のもとへ通っておりますのに、最近三位中将を四の君の御婿にお取りになると聞きまして、中将は私の親類ですから、「私は以前から四の君に通っているのに、どうして四の君を妻にしようとするのか」と言いましたら、中将は「それは尤もなことです。それなら私は辞退致しましょう。しかし貴方の事を中納言殿は御存知でないから、今更他の人を御婿に取りなさるのも変なことです。この際、貴方と四の君の関係を公けにしてしまいなさいよ」と言いましたから中納言殿に申し上げるのです』
と仰言いなさい。そうすれば」
 いきなり範綱君は、道頼君の言葉を遮って、
「ちょっと待って、そんなに長いの、覚えらんないよ。何かに書いてよ」
 道頼君はとうとう笑いをこらえ切れなくなって、思わず苦笑した。
「あっ、笑った!」
「はいはい、わかりましたよ。硯箱は」
 道頼君は畳紙に、今述べた口上を、楷書で、わざと日頃の筆跡と違えて書きつけた。それを範綱君に渡し、
「これが口上です。この通りに言えば、誰も文句も言えないし、笑いもしないでしょう。それから引き続いて四の君の許へ通えば、四の君もだんだん愛情が湧いてきて、貴方をきっと恋しく思うようになるでしょう。それでは、明後日、夜が更けたらおいでなさい」
と言い含めてやると、範綱君はすっかり嬉しくなって、小鼻をひくつかせながら、
「嬉しいなあ! えっと、私は以前から……」
と、口上を覚えようと読み始めた。道頼君は治部卿邸を後にした。
 あんなぼんくらをあてがわれる四の君も、可哀想だなあ。まあいいか、私がうまくやれば、面白の駒とはすぐ別れられるさ。そうなったら、私が何とかしてやるさ。これもあの北の方に恥をかかすためだ。だとしても、面白の駒もちょっと可哀想だな。
・ ・ ・
 中納言邸では、道頼君からの手紙も何回かは来ているので、すっかりその気になって、当日は朝から準備に大忙しである。その様子を見て綏子姫の婿の頼実君は、
「四の君の婿は三位中将殿でしたね」
と綏子姫に言う。
「ええ、お母様はそう仰言っています」
「それは実に立派な婿君ですよ。以前は同僚(左近少将)でしたが、人格はとても立派な人だ。少将六人の中で、真っ先に中将に昇進したのも尤もですよ。いや、すばらしい婿君だ」
 そう言いながら頼実君は、以前彼はこの邸の女房の誰かに通っていたのを見たし、最近二条邸に妻を迎えたとも聞いた、そこへ持ってきてこの縁談だ、彼は三股もかけるような好色漢じゃあないと思っていたがな、不思議なことだ、と一人訝っていた。
「それにしても、落窪はどこへ行ったんだろうね、本当に! あれがいたら、縫物を全部やらせようと思ってたのに! 一番いい縫子がいなくなって、大損失だよ全く!」
 婿の装束の準備が一向に捗らないので、北の方はすっかり苛立っている。
 夕方になったので道頼君は範綱君に、いよいよ今夜だから、夜になってからおいでなさい、と言ってやった。範綱君の話を聞いて、父範経卿は、息子が全く利用されているだけだとは思い至る由もなく、
「やっとお前にも運が向いてきたな。よもや悪いことはあるまい。早く出かけなさい」
と言って、大いに喜んで装束を支度してやるので、範綱君は着飾って意気揚々と中納言邸へやって来た。もう夜になっていたので、中納言邸の誰も、偽物が来たとは思いも寄らず、珠子姫の部屋へ婿君を導き入れる。顔はよく見えず、体つきは道頼君とよく似ていたので、すっかり道頼君だと思い込んで誉めそやすのを、北の方は聞いて、
「いい婿殿を取ったものだね。あたしは幸せだよ。三位中将様とくれば、末は大臣、いや摂政関白も夢じゃあないね」
とすっかり有頂天になっている。満足気に頷く忠頼卿に、
「三位中将様を口説き落としたのは、あたしの功績だからね」
などと言ってのけるあたり、北の方の面目躍如である。
 ところが珠子姫といえば、婿君の顔はよく見えないものの、ぼんやり坐っている様子といい受け答えといい、とても将来を嘱望された貴公子のそれとは思えないので、これは何かおかしいと勘ぐり始めた様子である。
 その頃本物の道頼君は、二条邸で律子姫と、仲睦まじく語らっていたのだった。
「中納言殿の四の君に、婿殿を迎えるという話があるんですよ」
「それではやはり、貴方が婿入りなさるんではないんですね。御婿はどなたですの?」
 律子姫はやはりまだ不安である。
「私の遠い縁続きで、治部卿であられる人の秘蔵っ子の、兵部少輔という人です。大層美男子で、特に鼻が立派なんですよ」
 道頼君は冗談をいう。
「鼻ですって? 可笑しな話ですこと」
 姫が思わず笑うと、君は、
「どうして笑うんです。婿君の、特に立派なところですよ」
 あのうすのろのどこをどう探したって、他に立派なところなんかないな。
・ ・ ・
 さて朝になると道頼君は、範綱君の許へ出かけて、
「昨夜の首尾はいかがでしたか」
「うん、誰も笑わなかったよ」
 道頼君、つくづくこの男、強迫観念の塊だと思うと可哀想にさえなった。
「それでは、結婚した後の朝、男の方から書いてやる、後朝の文はもう遣りましたか」
と言うと、範綱君は硯を前に頭を抱えて、
「ううん、まだだよ。どう書いたらいいのか、全然わかんないよう」
と例の間の抜けた声で言う。道頼君は、
「それじゃ、私が代りに書きましょう」
と恩着せがましく言って、筆をとると、何やら怪しげな古歌をもじった歌を書いて、結び文にして中納言邸へ贈った。
 中納言邸では、後朝の文をまだかまだかと待ち焦がれているところへ文が来たので、急いで取って、珠子姫に渡す。姫が開いてみると、さっと顔色が変わった。
「世の人の今日の今朝には恋すとか聞きしに違う心地こそすれ」
 驚くまいことか。何しろこの歌、初夜の翌朝なのに貴女が恋しくない、と言っているのだ。
「どれどれ見せてごらん」
 北の方が、茫然とする珠子姫の手から文を取ってみると、確かに変な歌である。字は確かに三位中将様の手だが? 卿がやって来て、いそいそと覗き込むのだが、幸か不幸か目が悪くて、手紙の文面が見えない。北の方は適当に言い繕ってごまかす。
「妙な歌ねえ? そうだわ。三位中将様はきっと、『今朝は貴女が恋しい』なんてありふれた文句じゃ面白くないと思いなさったのかも知れないわ。でも変ねえ?」
 綾子姫が首をかしげながら言うと北の方は、何とかこの妙な歌を正当化しようと躍起になっていたので、すかさずそれに飛びついて、
「そうだよ、そうに違いない。風流な男と言うのはさ、そういう事をしたがるものよ」
と強いて納得しようとしている。珠子姫は昨夜といい今朝といい、動揺して納得できない事ばかりなので、当惑して返事も書けないでいるので、北の方が代筆する。
「老の世に恋もし知らぬ人はさぞ今日の今朝をも思いわかれじ
 娘は、貴方の仕打を情ないと思っております」
 年老いて恋も知らぬ人なら恋しく思わないこともあろう、だが貴方は若いのだから、そんな事はある筈はないだろう、というかなり苦しい反駁である。受け取った道頼君は、手紙の写しをこしらえて、写しの方を範綱君の許へ持って行った。範綱君は手紙を見て、
「老の世に、だって! ひどいじゃないか、そりゃ僕、三十だよ、だけど」
と立腹する。道頼君は、自分が書いてやった歌を知っているので、北の方の当惑と、せめてもの抗議が感じられて可笑しかった。
・ ・ ・
 二日目の夜は、婿君は日暮れてすぐに来た。北の方はようやく納得した思いで、
「やっぱりそうだよ。本当に恋しく思わないんだったら、来なくなる筈だよ。今朝の文は、成程風流な男が、粋に構えて書いたんだよ」
と綾子姫に、誇らし気に言うのだった。それを漏れ聞いた頼実君は、はて三位中将は、そんな奇を衒うような風流人ではなかった筈だが、と一層不可解に思っている。
 珠子姫の方は、婿君が相変わらずすっとぼけた様子で、綏子姫から聞いた、頼実君が語る道頼君の風体と余りにも違いすぎるうえに、しかも臥所の姫を前にして、するべき事もせずにぼんやりと坐っているだけなので、一層不審に思って、というより腹立たしくなって、私こそ「聞きしに違う」だわ、と苦々しく思っている。この翌朝も、道頼君が後朝の文を代筆し、珠子姫からの返事は、原本を手許に残し、明らかに違うとわかるような写しを範綱君にくれてやった。
・ ・ ・
 三日目は露顕の儀なので、中納言邸ではその用意に大忙しである。酒肴を沢山用意して、盛大に歓待しようと待ち構えている。何人もの若公達や殿上人が、お祝を述べようと参列する中に、人付き合いの悪い筈の範経卿も、息子の晴れの席にと思って参列していた。
 夕方になって、範経君が治部卿邸を出たと知った道頼君は、自らも車を出して、大納言邸へ走った。内心、これから自分が巻き起こす騒動の大きさに武者震いしつつ、治部卿父子には申訳ないな、という後ろめたさを感じながら。
 さて宵になり、寝殿の南面の大部屋に酒肴の膳を並べ、忠頼卿、範経卿、憲通君、仲基君、頼実君と勢揃いして、今か今かと待っているところへ、
「婿殿のお成りにございます」
と女房の先導で、入ってきた婿殿を見て、列席する人々の驚き呆れるさま!
 忠頼卿、
「だっ、誰だ!?」
 範経卿、
「おお、範綱……」
 憲通君、頼実君、他の若公達数人、
「面白の駒!」
 当の婿殿は、何故皆が驚くのか見当もつかず、いつものように白い馬面に、大きな鼻をひくつかせて、さっさと上座に坐ってしまった。
 若公達の間から、次第に笑いが湧き起こり、哄笑となって寝殿を包む。
「あっはっはっは、お、面白の駒が、厩から逃げてきたよ、あっはっはっはっは……」
 忠頼卿は、恥ずかしさと、誰かに謀られたとの思いで真っ赤になりながらも、努めて平静を装って、
「こ、これは兵部少輔殿、どうして貴方が、ここへおいでになったのか、甚だ合点がゆかぬが」
 範綱君は、例の間抜けた声で、
「え、私は以前から、四の君の……」
と、必死で覚えた口上を述べ始める。見る間に忠頼卿の顔色が変わった。
 そこへ、どたどたと廊下を踏み鳴らして、息せき切って駈け込んできた者がある。居並ぶ人々が見ると、誰あろう、道頼君である! 道頼君は興奮した声で、
「四の君様の婿だと言ってるのは、どこのどいつだ!? 本当の婿はこの私、三位中将道頼だ!」
 爆笑していた若公達は、驚いて黙った。そして道頼君は、忠頼卿の前に膝をつき、上座に坐っている範綱君を扇で指して、
「中納言殿、ここにいるこの男、何者です!? 私、三位中将道頼をこそ、四の君様の婿にお迎えなさるのではありませんでしたか!?」
 道頼君の後から、悠然と入ってきた道頼君の父、道信卿が、忠頼卿の前に進み出ると、忠頼卿を見下ろして、
「これはどういう事ですか、中納言殿! 四の君様の御婿にと御所望なされたのは、私の息子ではありませんでしたかな?」
 負けじと範経卿も進み出てきて、
「いやいや、お待ち下され、大納言殿! 手前の倅は、四の君様を三位中将殿から譲られ申したと、手前にはっきりと申しましたぞ」
 道信卿は振り返り、
「そんな話、私は聞いていないぞ!」
 忠頼卿も、
「私も初耳ですぞ、治部卿殿」
 道頼君はさも驚いたという顔で、
「私が四の君様を? 兵部少輔殿に? 何をたわけた事を仰せられる!」
 範綱君は、道頼君の言葉に驚き、
「え? え? 道頼くうん、君、僕に、四の君を譲るって……」
 道頼君、内心、すまん面白の駒! と手を合わせつつも、居丈高に、
「黙らっしゃい! 誰もお前の言う事なんか聞いてないぞ!」
と言いながら、珠子姫からの後朝の文の返事の原本二通を取り出し、
「これが証拠の文です! これが昨日の朝、これが今朝、四の君様から頂いた後朝の文にございます!」
 あっと思ったのは忠頼卿だけではない。範綱君も、まさか道頼君がくれた後朝の文が、偽物だとは思ってもみなかったのだ。
「私は一昨日の夜も、昨日の夜も、四の君様の御許へ参ったのですぞ、それなのに、この男が婿とは、奇怪千万! そうだ中納言殿、私が差し上げた後朝の文、四の君様はお持ちでございましょう。それを今すぐ、ここへお取り寄せ下さい」
 弁舌爽やかに迫る道頼君に、忠頼卿は気圧されながらも、女房を呼んで、初夜と二日目の、後朝の文を持って来させた。広げられた文を見て道頼君は、
「いかがですか中納言殿、父上、これは私の字ではございませんか? 治部卿殿、御子息はこんな字を書きますか?」
 範経卿は、よもや道頼君が息子の後朝の文を代筆した、とは夢にも思っていない。
 道信卿が、きっぱりと言った。
「いやはや、我が息子の代りに、こんな者が姫君の婿になっていたとは! 中納言殿、この話、なかった事にさせて頂きたい」
 すっかり面目を失ったのは忠頼卿である。蒼ざめて平伏するばかりであった。
「道頼、父は帰るぞ」
 と言い捨てて道信卿は出て行った。道頼君も、後について出て行く。出て行きざま、範綱君を見ると、哀れ範綱君は、思考能力の限界を越える事態に頭が混乱して、泡を吹いて失神してしまっていた。
「えい、何ということだ! 儂は寝る!」
 忠頼卿は荒々しく立ち上がると、失神している範綱君を怒りのまなざしで一瞥し、音を立てて爪弾きをしながら、足音荒く部屋を出て行った。憲通君、仲基君、頼実君、その他の若公達も、ぞろぞろと出てゆく。後に残ったのは、範経卿、範綱君父子だけである。
「範綱、範綱、しっかりしろ! 何か中納言殿に、申し上げたい事はあるか?」
 ところが範綱君は、失神するほど頭が混乱した挙句には、折角覚えた口上をすっかり忘れてしまった。範経卿は爪弾きしながら、
「ううむ三位中将、何というやり方で、儂等を馬鹿にするのだ!」
 範綱君は、必死で、
「お父ちゃん、本当だよう、道頼君は僕に、四の君を譲るって言ったんだよう」
 だが卿は苦り切った顔で、
「範綱、儂はお前を信じるぞ。だが、三位中将殿がそう仰言ったという、証拠はあるのか? 向こうは、後朝の文という立派な証拠を握っておられる」
「後朝の文? そんなのおかしいよ。道頼君は僕に、昨日も一昨日も、四の君からだと言って、手紙をくれたんだよう」
「その手紙というのは、どこにあるのだ?」
「家」
 卿は苛立ちを抑え切れず、
「ああもう、こうしていても埒が開かぬわ! 儂は帰る。お前は、こうなったら乗りかかった船だ、既成事実を作ってしまえ」
「え? どうするの?」
「一昨日も昨日も来たのだろう、だったら今夜も、だ」
「うん」
 そこで範綱君は、珠子姫の部屋へ向かった。ところが今度は、もう道頼君は帰ってしまったと誰もが知っているので、誰も案内しようとしないどころか、追い返そうとさえする。それを無理に押し切って、珠子姫の部屋へ押し入る。
 実は珠子姫は、女房連中を説き伏せて自らそっと寝殿へ出かけ、物陰から先程の騒ぎの一部始終を見ていたのだった。そして道頼君と範綱君の両人をしかと見て、道頼君に惚れ込む一方、範綱君には虫酸が走るほどの不快感を感じていたが、さて自室へ戻ってくると、すっかり頭が混乱していた。三位中将様が仰言るには、一昨日来たのも昨日来たのも三位中将様自身だという、でも二夜一緒に過ごした私の目から見て、一昨日の男も昨日の男も、三位中将様じゃない、寝殿であれほど激しくお父様を詰問なさった方が、私に向かってはあんなに間抜けな受け答えをなさる筈がない、とすれば、一昨日、昨日来たのは、別の男に違いない! 別の男!? でもそれなら、何故三位中将様は、お父様に嘘を仰言ったのだろう?
 そこへ範綱君が、間の抜けた声で、
「ねえ、四の君」
と言ったので、珠子姫は、この男だ、間違いない、この間の抜けた物言いは、一昨日、昨日来た男と同じだ、と悟り、素早く、ここは三位中将様の仰言ることに話を合わせて、この男を追っ払ってしまおうと打算し、姉妹の誰よりも勝気な性格そのままに、勢いよく振り返りざま男を睨みつけ、
「貴方は誰よ! 貴方が三位中将様でないのは、とっくにわかってるのよ! さあ、答えなさい!」
と男を指差して厳しく問いつめる。範綱君は面喰らって、
「ぼ、僕だよ、昨日も来たじゃないかあ」
 姫は一層声を荒らげて、
「嘘仰言い! そんなに言うなら、今すぐ私の目の前で、今朝私が貰った歌を、書いてみなさいよ! ほら、硯はここよ!」
 今朝の文も道頼君の代筆なので、範綱君は何も書けない。姫は居丈高に、
「書けないの? ならいいわ、イロハでも書きなさい! 今朝の文と、字を比べてみるから」
 範綱君が震える手でようやく書いたイロハは、目を外けたくなるような悪筆で、今朝の文の流暢な達筆とは比べようもない。姫は範綱君が書いたイロハと、以前に道頼君から貰った恋文とを持って、範綱君を引っ張って北の対へ行き、その間に女房を遣って寝殿から取って来させた今朝の文と一緒に、北の方に見せて言った。
「昨日来た人は、この変な顔した男じゃないってわかりましたわ。お母様、早くこの男を、追い出して頂戴!」
 範綱君は汗みどろになりながら弁解する。
「今朝の手紙は、道頼君が、書いてくれたんだよう」
 姫は甲高い声で一喝する。
「嘘仰言い! 後朝の文を代筆させる男が、どこの世界にいますか!」
「だ、だって、本当に…」
「お黙り! その間抜けな顔を見てると吐き気がするわ! とっとと帰んなさい!」
 範綱君は、すごすごと出て行った。
・ ・ ・
 寝室に引っ込んだ珠子姫は、一層思い悩んだ。私の目、私の耳を信じる限り、三位中将様は一度も私の許へはいらしてない。でも、それでは私の許へ来ていたのは、あの間抜けな顔の兵部少輔とかいう男だと、お父様に申し上げるのは、絶対厭だ。そりゃ本当は、あの間抜け、臥所で「なに」をするかも知らないみたいで、私の体はまだ未婚のままだけど、でも他人は、そうは思わないよね。お父様やお母様に、私があんな変な男と一緒に寝たように思われるのは、余りにも恥ずかしい。やっぱり決めた。一昨日昨日来た人は、三位中将様だったことにしてしまおう。私が黙ってさえいれば、誰にもわかりはしないわ。――
 十五歳の娘にしては、信じ難いほど確固とした物の考え方ではある。だが律子姫と違って、珠子姫の方は大分打算的だが。
・ ・ ・
 ところが翌朝になると、忠頼卿は珠子姫から見ると、とんでもない事を言う。
「三位中将殿とお前との縁談は取り止めにすると、父君の大納言殿から正式に仰言ってきた。珠子、こうなったら仕方がない、昨夜ああやって、兵部少輔を婿として披露してしまった事だし、兵部少輔と結婚しないか」
 姫は父の言葉に驚愕した。しばしの後、
「厭よ! 誰があんな馬なんかと!」
 姫が泣きながら叫ぶと、北の方も、
「そうですわ! 貴方、これほど大切に思いかしずいてきた珠子を、あんな身分も低い、間違えても出世なんかしないような男にくれてやるなんて、私は絶対反対ですわ!」
 反対の理由がえらく打算的なのは、北の方と姫の大きな違いだ。
「そう言ったってお前、今更どうしようもないじゃないか。大納言殿は、はっきりと断って来られたんだし」
 卿が半ば諦めたように言うのに、北の方は、
「珠子はまだ十五ですよ! 三位中将様との御縁がなくなっても、まだまだ先が長いじゃありませんか! 私だって、初めての結婚が十七の時で、すぐ別れて、二一の時に、貴方が、再婚でもいいと仰言って下さったから、貴方と結婚したのですわ! 珠子にだって、あんな兵部少輔なんかよりは、ずっといい縁がきっとありますわ!」
と、自分の過去まで暴露しながら言い募る。
「でもなあ……そりゃ兵部少輔は儂から見ても、立派な婿とは口が裂けても言えんが、そんな者にまで捨てられたというんじゃ、一層世間体が……」
 卿が口を濁すと、姫は泣きながら、
「お父様! お父様は、私の幸せと世間体と、どっちが大切なの! もし世間体を大切にして、あの馬男と私を結婚させると仰言るんなら、私、尼になるわ!」
「馬鹿な事をお言いでない!」
 卿と北の方が同時に叫ぶ。
 そこへ女房が来て言った。
「治部卿様と兵部少輔様がお見えです」
 忠頼卿は、
「治部卿? ……通しなさい。お前達は退っていなさい」
 北の方と珠子姫が几帳の陰に退くと、入れ替りに範経卿と範綱君が入ってきた。
「これは治部卿殿、何の用かな」
 忠頼卿は、殊更に素っ気なく言った。
「昨日も倅が申しました通り、倅は御息女に、以前からお通い申しておりました」
 範経卿の言葉を聞いて、北の方が珠子姫に囁く。
「珠子、本当かい?」
「嘘よ! あんな馬男、昨日初めて見たわ!」
 躍起になって否定するこの言葉も、実は嘘が交っている。
「え、私は、以前から人知れず四の君様の……」
 間抜けな声で言う範綱君。ところが実は、道頼君に教わった口上はすっかり忘れてしまっていたので、笏の裏に口上を書いた紙を貼って、それを見ながら棒読みしているのだった。忠頼卿は早速見咎めて、鋭い皮肉を放つ。
「おや兵部少輔殿、直衣に笏を持たれるとは、面白い御趣味ですな」
 笏というのは、正装して参内する時に持つもので、私服である直衣に持つものではない。思わず赤面して口を閉ざした範綱君が、笏を懐に入れようとした時、几帳の隙間から覗いていた姫に、笏の裏に貼った紙が見えた。姫は我を忘れて、北の方が止める暇もあらばこそ、ぱっと几帳をはね上げて躍り出し、範綱君を睨み据え、
「その紙は何よ! 嘘八百並べ立てて、お父様を瞞そうなんて大した度胸ね!」
「こ、これ、はしたない」
 忠頼卿が慌てて腰を浮かす。姫は範綱君に躍りかかり、懐から笏を奪い取ると、笏の裏に貼った紙を剥がし、忠頼卿に突きつけて卿の前に手をつき、
「お父様、この紙に書いてあるような事、全部嘘です! 私は昨日の夜まで一度も、こんな変な顔、見た事ありません!」
「へ、変な顔!?」
 君が頓狂な声を上げる。姫は尚も忠頼卿に、
「お父様、私と、こんな自分でこしらえた嘘も、紙に書かなきゃ言えないような男と、どちらの言うことを信じなさるの?」
 範綱君は、これは道頼君に教わった口上だとは口が腐っても言えないので、茫然として黙っている。
「と、とにかく、退りなさい」
 忠頼卿は、娘のこんなはしたない様を治部卿父子に見られたので汗みずくになって、姫をなだめようとする。しかし姫は喰い下がる。
「いいえ、お父様が、こんな嘘つきの変な顔したうすのろ間抜けの馬男と、私を結婚させないと仰言るまで、退りません!」
 範経卿は、やはりわが子は可愛いいので、やにわに立腹して、皮肉な口調で、
「貴殿の御息女は、どういう御躾を受けられたのかな。いやはや昨今の姫君は、何とも手前等古い者には想像もつかぬような振舞をなさるものよのう!」
 忠頼卿は赤面して黙っている。
「お父様、何とか仰言って頂戴!」
 範経卿、一転して苦り切った口調で、
「手前の倅を、御息女にここまで虚仮にされて黙っていては、手前の分が立ち申さぬ! 中納言殿、倅を御息女の婿とする話、手前から辞退致し申す」
 姫は振り返って範経卿を見上げ、鋭い口調で言った。
「よろしゅうございます! 兵部少輔様を婿に迎えるのは、私も不本意にございます。早く、お引き取り下さいませ」
 範経卿、小娘に面と向かってこう言われて一層立腹し、
「範綱、帰るぞ!」
 範綱君は、今にも泣きそうな顔で坐っている。それを父範経卿は強いて引っ立てて、寝殿を出ていった。
「全く、何というはしたない振舞をするのだ」
 忠頼卿は汗を拭いながら溜息をつく。
「でも、あんな男と結婚するのは嫌よ!」
 姫は口を尖らす。
「ああ、恥ずかしい! こんな事が世間の噂になったら、どうなる事やら。律子を勘当した時は、何とか世間の噂にはせずに済んだが、大納言家との縁談が露顕の日になって流れたというのでは……」
 慨嘆する卿を残して、北の方と姫は退出した。
 卿の懸念は現実になり、卿が参内してみると、中納言の四の君が面白の駒を婿に取った、いや本当の婿は三位中将だったのに露顕の儀に偽物が出た、いや四の君が面白の駒を断固拒否したので治部卿が別れさせた、と三つの噂が乱れ飛び、喧しいこと限りない。どれを取っても、忠頼卿にとっては面目を失うことばかりである。中でも、四の君が治部卿父子を面罵したという噂は貴賎を問わず語り草になって、憲通君や仲基君、頼実君の三人の婿も、寄ると触ると、
「君も奥方に、頭ごなしに怒鳴られてるんじゃないの?」
「早く帰らないと、奥方に罵られるよ、面白の駒みたいに」
「君の妹御をどうかと思ってたんだけどねえ……。面白の駒みたいに罵られたくないな」
と冷やかされるので、すっかり弱ってしまった。
 さてこの飛び交う噂を聞いて、溜飲を下げたのは他ならぬ道頼君である。珠子姫と治部卿父子、特に全く虚仮にされたに等しい範綱君にはさすがに気の毒だと思ったが、何と言っても中納言夫妻に大恥をかかせることには成功したのだ。
「貴方、変な噂を耳にしましたわ。珠子が、兵部少輔様をあからさまに罵ったので、父の治部卿様が、離縁させなさったというのですわ。聞き苦しい噂ですこと」
 ある夜、律子姫が道頼君に言った。勿論道頼君、その噂は既に承知である。
「どういう事なんでしょうね。私がお譲りした婿君が余程お気に召さなかったのかな」
 君は空とぼけて言う。実際この事は、君の予想外であった。二日続けて通わせた範綱君を、珠子姫は諦めて夫にするだろうと思っていたのに、意外であった。やはり私が、後朝の文を中納言殿に突きつけて、初日と二日目に通ったのは私だと、父上の手前偽ったのが効いたのかな? まあこれで、第二段階をやらずに済んで、珠子姫にとっては良かったということになるか。私にとっても、第二段階は余りにも寝覚が悪いから……。
 道頼君の考える第二段階というのは、もし珠子姫が不本意ながら範綱君を夫にしてしまった場合、余り日を置かずに、珠子姫が余りにも魅力のない夫に愛想を尽かし、他の男と密通した、という噂を、状況証拠付きで捏造しようというのである。そうすれば、偏屈で妙に気位ばかり高い範経卿は、きっと忠頼卿に離縁を申し入れるであろう、そうすれば中納言家にとっては、一層ひどい恥曝しとなること請け合いである。ただ、これをやるためには、範綱君の他にもう一人、犠牲になる若公達が要る。しかもこの方は、世間に笑われるどころか、指弾されることになるのだから、何の恨みもない男を犠牲にするのは余りにも寝覚めが悪すぎる。これを実行せずに済んで、道頼君が内心ほっとしたのも尤もであった。
(2000.7.29)

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