私本落窪物語

第六章 鏡の箱
 翌朝道頼君が目を覚ますと、律子姫は君の腕の中で、いつになく不安げな面ざしで君を見上げている。君は心配して、
「姫、何か心配事がおありなのですか?」
 姫は微かに首を振って、
「いいえ、何でもないのです」
「いや、私にはわかります。心配事を、一人で悩みなさるのは身体に悪い。貴女と私の仲ではないですか、仰言って下さい」
 君に言われて、姫はか細い声で、
「少将様と私との仲が、他人に漏れ聞こえたら、お義母様がどうお思いなさるか、それが心配で……」
 君は姫をかき抱いて、
「姫、貴女と私は、もう夫婦なのです。世間に、何を憚ることもない。御心配なさるな」
 姫は君の腕の中で、小さく頷いた。
 一方明子は、昨夜遅くまで惟成と睦み合いすぎて、つい寝過ごしてしまった。慌てて起きると、君と姫に手水を差し入れ、大急ぎで朝食の支度をする。
「明子、何をそんなに慌てているの?」
 姫が不審に思って尋ねると、
「これが慌てずにいられますか! お殿様方は、今日お帰りになると仰言ってましたのに」
と早口で答えて、走って部屋を出てゆく。君は起き上がって、惟成を呼ぼうと扇を鳴らす。
「お呼びですか」
 部屋の前の廊下に参じた惟成に、君は、
「邸へ行って、車をよこすように言ってくれ」
「承知致しました」
 惟成も走って出てゆく。
 ところが惟成が、大納言邸へと急いでいくと、向こうから見慣れた車が来る。頼実君の車ではないか!
「おやあれは帯刀だ! 迎えに来たのかあ?」
 頼実君の側近で、惟成と顔見知りの左近将監という者が、惟成を見つけて声をあげる。こうなっては一大事、惟成は今来た道を、泥をはね上げながら走って戻ると、台盤所にいた明子に、庭から、
「大変だ! 中納言殿の御一行が、戻って来られたぞ! もう、すぐ近くだ」
 明子は驚いて火吹き竹を取り落とし、
「まあ大変! こんなに早くお帰りだなんて思わなかった! あんた、急いで少将様をお逃がしして!」
「逃がす!? どうやって!?」
「そんな事、あんたが考えなさいよ!」
と言い残して姫の部屋へ走った。部屋へ飛び込むや否や、
「少将様! 中納言様の御一行が、もうすぐお戻りになられます! お急ぎを!」
と言いながら、部屋の中に干してある道頼君の衣を取り集めて、几帳越しに投げ込む。君もさすがに慌てて、衣を着ようとするが、こういう事を手早くするのに慣れていないから、狭い几帳の中ではなかなか着られない。
「もう間に合わない! 西の門をお入りだ」
 外から惟成の声がする。君は指貫と単衣だけという格好で、几帳越しに伸び上がって部屋を見回すと、隅にある唐櫃を見つけた。君は明子に、
「その唐櫃には何か入っているか!?」
 明子、一瞬当惑したが、
「いいえ、何も」
「そうか、それじゃ」
と言うが早いか君は、狩衣や衵を抱えて、唐櫃の中へ飛び込んだ。
「蓋を少しだけずらして、蓋の上に、火桶でも何でもいい、載っけてくれ、早く」
 君の言うままに、明子は唐櫃の蓋の上に、火桶と鏡の箱を載せた。その間に姫は、単や袿を身に着ける。
 人々の騒ぐ声が聞こえる。その中に北の方の一際野太い声が、
「阿漕――い! 早く来な!」
 明子は一計を案じて、姫に、
「姫様、これに『物忌』とお書き下さい、今すぐ」
 姫は明子に言われるまま、硯箱を開けて筆を取り、明子が差し出した畳紙に、「物忌」と書いた。明子はそれを受け取ると、
「はーい! すぐ参ります!」
と大声で返事し、部屋を出ると、戸の格子の隙間に畳紙を挟み、走って行った。
「あたし達が疲れて帰ってきたというのに、出迎えもしないで、どこにいたんだい! 全くぐずなんだから!」
 明子が行くと、北の方は車から降りたところで、憎々しげに罵る。
「どうせ帯刀と、留守の間中いちゃついてたんだろう! 用事のないのをいいことに!」
 何とも聞き苦しい嫌味ばかり言うので、さすがに綏子姫も見かねて、
「お母様、聞き苦しいですわ。阿漕、早く御手水をお持ちして」
 明子が手水鉢を持って参上すると、北の方は尚も嫌味を言う。
「全くお前ほど落窪にばかり忠実で、あたし達に忠実でない女房はいないよ。お前みたいなのに、嫌々仕えて欲しくないね。やっぱり、落窪付きにしてしまおうか」
 明子は、そうして頂ければもっけの幸いです、と叫び出したいのをこらえるのに苦労した。その時、台盤所頭の老女房の叫び声、
「あれまあ! 鍋が焦げついてるよ!」
 明子は血の気が引く思いで、手水鉢を放り出して走り出した。北の方の声が追ってくる。
「あっ、これ、待ちな!」
 明子は鍋を一つ焦げつかせ、火吹き竹を竈にくべてしまったと言って、台盤所頭に散々油を絞られ、悄然として東の対の綏子姫の部屋へ行こうとすると、途中で出会った少納言が、
「北の方様が、落窪へ行くと仰言ってるわ。阿漕、行きなさいよ、また何かとうるさく仰言るでしょうから」
と囁く。明子は、気が気でなくなって律子姫の部屋へ走った。そこへ、西の対から北の方が、のっしのっしと歩いてくる。律子姫の部屋まで来ると、戸に差し込んである畳紙を見て、明子に、
「何だいこれは!」
 明子は息を整えて、
「姫様は、今日、明日と御物忌でございますから」
 北の方は鼻で笑って、畳紙をむしり取り、
「物忌だって、馬鹿馬鹿しい! 自分の邸でもないところで、何が物忌なもんか!
 落窪! 聞こえてるのかい! 早く開けな!」
と大声で言いながら戸を強く叩く。
・ ・ ・
 部屋の中では、律子姫がようやく衣を着終えて、燭台や円座や屏風を几帳の陰に隠したところである。道頼君は唐櫃の蓋を、息ができる程度に少しだけずらして、その中で息を殺している。
 北の方は一層激しく戸を叩く。姫は戸口に歩み寄り、錠を外した。北の方は凄い勢いで戸を開けると、姫を見下ろして、
「落窪、あたしが言いつけた縫物は……」
と言いかけたものの、部屋の様子がいつもと違うのに気がついて、言いさしてしまった。部屋の中はいつになく片付いていて、几帳も立っているし、何やら薫わしい匂いもする。
「何だいこの部屋は? お前のその格好も、いつもと全然違うじゃないか。さてはあたしのいない間に、何かやらかしたね?」
 姫は見事に図星を指されたが、平静を装って、
「何もございませんわ」
 北の方は意地悪い声で、
「嘘をつくと身の為にならないよ」
 そう言って眉を寄せ、唇を歪める様子を、唐櫃の隙間から道頼君は覗き見て、いかにも底意地の悪そうな顔だ、と不快に思っている。
「それはそうと、あたしが預けといた縫物は、どこへやったんだい?」
 部屋の中には、一枚の衣も見えない。明子が横から言う。
「私の部屋に置いてあります」
 北の方は明子を横目で睨みつけると、姫に、
「後で取りに来るからね」
と言い置いて帰って行った。
 北の方が去ってゆくと、
「阿漕はいるか」
 唐櫃の中から君の声がする。明子が寄って、火桶やら鏡箱やらを降ろすと、君は蓋を押し開けて出てきて、
「いやはや参った参った。見苦しい格好で失礼」
と言って衣をきちんと着る。そこへ再び、
「落窪、入るよ」
と北の方の声。道頼君は慌てて、唐櫃へ飛び込み、明子が蓋を載せる。明子が戸を開けると、入ってきた北の方は、いやに丁寧な調子で、
「石山で、いい鏡を買ったんだけどね」
 姫が、お義母様もたまには私に親切にして下さる、と嬉しく思って、
「私に下さるのですか」
と言うと、北の方はたちまちいつもの調子に戻って、
「勘違いすんじゃないよ!
 あんた、いい鏡箱持ってたよね。大きさが丁度いいと思うから、暫く鏡箱を貸して欲しいんだよ」
と、いつになく下手に出る。姫は微笑んで、
「結構ですわ。そこに置いてあります」
「いい心がけだこと。ちょっと見せておくれ」
 北の方は、部屋の隅にある唐櫃に歩み寄り、蓋の上に置いてある鏡箱を手に取った。姫も明子もいつ少将様が見つかるかと気が気でない。姫の鏡を出して唐櫃の上に置き、自分で持ってきた鏡を鏡箱に入れると、大きさは丁度良い。
「丁度いいね。いい箱だ。昨今の蒔絵はこんな風にはできないよ」
と言って北の方は鏡箱を撫で回している。と俄に、
「この唐櫃は何が入ってるんだい。唐櫃の蓋は、きちんと閉めなきゃ駄目じゃないか」
と言いながら、蓋に手をかけてきっちり閉めてしまった。明子も姫も、顔から血が引き、胸が早鐘を打ち、背中が冷汗でびしょ濡れになる思いで見ている。明子はやっとの思いで、
「姫様の御鏡の箱も、なくては困りませんか」
と恐る恐る口に出す。北の方は、
「そりゃそうだね。今すぐ別なのを、代りに探して来させるよ」
と言って出ていく。出て行きざま、
「この几帳はどこのだい、いい物置いてるじゃないか。やっぱり何か変だよ?」
と言って几帳の垂布をかき上げたりする。明子ははらはらしながら、
「几帳がないと余りにもみすぼらしいですから、私の身内に頼んで取りに遣らせました」
と努めて平静を装って言いつくろう。
 北の方が出ていくと、明子は急いで唐櫃に駈け寄り、火桶と鏡とを降ろして、蓋を開ける。
「ああ、どうなるかと思ったよ。蓋を閉められるとは思わなかった!」
 道頼君は肩で息をしながら、胸を押えて起き上がった。姫は極度の緊張と安堵の余り、床に倒れ込んでしまった。
 明子は憤慨して、
「全くひどいなさりようですこと! いつもああ言って、姫様が御母君の形見としてお持ちになっていた御品々を、次々に取り上げておしまいになるんですわ! 屏風も几帳も、大君様の御婿取りの時に、修理してすぐ返すからと仰言って、それっきり御自分の物になさってしまったんです。火桶も手水鉢も、しまいには御食器までもです! 姫様も姫様ですわ! どうして何もかもお取られになっても、何も仰言らずにいるんですの? 余りにも御気前が良すぎます!」
と半ば姫を責める口調になる。姫は、ようやく正気に返り、
「取られるなんて人聞きの悪い。皆いつかは返して下さるわよ。もし返して頂けなくても、差し上げたと思えばいいじゃないの」
と明子をたしなめる。君は感歎して、
「いやはや何と見上げた御心だろう!
 ところで、北の方の姫君達も、あんな風なのかな」
 姫は君の尋ねる意味を察して、
「いいえ違いますわ。お義母様を、そんなに悪く仰言らないで下さい」
「そうかね。三の君は貴女に意地悪すると、帯刀が言っていたが」
 姫は明子を振り返って、
「明子ったら! 何て事を言うの」
 姫にこう言われると、さすがに極まり悪く感じる明子だった。
「阿漕様はこちらですか」
 戸を叩く音がする。明子は素早く、
「少将様、どこか、見つからない所へ!
 私はここよ!」
と言いながら戸口へ行く。露という女童が、黒い大きな鏡箱を捧げ持って現れた。
「これを落窪の君様に。この箱は古いけれど、漆が枯れていて大層立派な物です、と仰言って」
と言って手渡した箱は、一尺四方以上もある黒塗りの古ぼけた箱で、漆が剥げて何とも見すぼらしい代物である。
「何てまあ変な箱でしょう。大きさがまるっきり合いませんわ。こんな箱なら、ない方がましですわ」
 明子が愚痴を言うのを、姫は制して、
「そんな事を言わないで。確かに頂戴致しました。大層結構な箱を、有難うございます、と申し上げて」
 露は走り去っていく。
 例の唐櫃にうずくまっていた道頼君は、その鏡箱を見て、
「これはまた古風な箱だね。中納言家に代々伝わる宝物なのかもしれないよ」
などと冗談半分で言っている。
「もうそろそろお帰りなさいませ。すっかり昼になってしまいました。お義母様に見られなさったら、大変ですわ」
 姫は言う。君は、
「三日の夜を過ごした私は、もう貴女の婿なのでしょう。見られても、堂々と中納言殿に申し上げればよいのです」
と言って平然としている。
「いいえ、やはり、お義母様が少将様をお見つけになって、私を責めなさるのは辛うございます。私を辛い目に遭わせたく思召されないのなら、お帰りなさいませ」
 姫が尚も言うのに、明子は低い声で呟く。
「もし北の方様が姫様を勘当なさるなどと仰言ったら、その時には私にも、覚悟がございますわ!」
 姫は、明子が初めて聞くような調子で、
「明子! 何て事を言うの! お義母様を傷付けたりなんかしたら、縁を切るわよ!」
 姫に、こうまで言われたことはない。
「帯刀を呼んでくれ」
 明子は、道頼君の言葉に救われた思いで、急いで部屋を出て行った。自室へ行くと、惟成は狩衣も着ずに、火桶に被さっている。
「あんた、何してんの! 少将様がお呼びだよ! 大体その格好は何よ!」
 明子は、姫に叱られた恨みを惟成にぶつけるような声で言う。惟成は振り返って、
「すまん、先刻戻ってくる時、また転んじまったんだ。それ」
と言って、泥だらけの指貫を指す。
「仕様がないね、もう! 出してやるから、早く着て行きなさいよ」
 明子は唐櫃を開けて、狩衣と指貫を出した。それを着て惟成は、道頼君と土塀の崩れた所から、そっと外へ出て、一緒に歩いて左大将邸へ帰った。
(2000.7.12)

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