私本落窪物語

第七章 落とした手紙
 その夜は道頼君は、宮中での宿直に当たっていたので、律子姫の許へ来られなかった。翌朝惟成を使いとして、君から手紙がある。昨夜の不参を詫び、そのために帯刀が妻からどれほど責められたかと思うと身の細る思いだ、帯刀の妻の意地悪さは、誰に教わったのかと思うと怖しい、姫の今の居所は、周囲に気兼ねばかり多くて苦労するだろうから、どこか気楽な場所を探して、姫を引き取ろう、と軽口も交じえて書いてある。
「あんたはまた、私の事を少将様に悪く申し上げたんだね。私は、あんた以外に頼りにできる人がいない、と思ってるのに」
と言って明子は惟成を恨む。姫は、
「昨夜は独り寝の寂しさに、貴方様の御心が恨めしくて……。貴方様が私を怖がりなさるのは、何かやましい気持がおありなのでしょう。
 本当に私は、この邸を出にくいのでございます。
かしこ」
 姫の返事を惟成は懐に入れて、いざ大納言邸へ出かけようとした時、将監が惟成を呼び止めて、
「蔵人少将様がお呼びだ。すぐ来てくれ」
 仕方なく惟成は、頼実君の部屋へ参上する。君は惟成に髪を整えさせようとして、呼びつけたのだった。
 惟成が頼実君の部屋へ入っていく時、ふと惟成の懐から廊下に落ちた物がある。それを、偶然通りかかった珠子姫が目にした。姫は素早く手を伸ばし、惟成の気付かないうちに懐に入れてしまった。姫は、これは結び文らしい、帯刀が結び文とは妙な事だと思うと、足音を忍ばせて、綏子姫の部屋へ入り、幼い姫の世話をしている綏子姫に、
「お姉様、面白い物、見せてあげる。帯刀が落としたのよ」
と笑いながら言って、文を開いて見せる。綏子姫は手を止めて、笑いながら珠子姫をたしなめる。
「他人の落とし物を、盗ったりしちゃいけないわ。
 でも、見せて」
 帯刀が持っていたのだから、この邸内の女性だとすれば、落窪の君か阿漕だけだろう、しかし阿漕の字は見慣れている、これはそうではない、とすれば落窪の君だ、と思うと、綏子姫の胸の中に、俄かにどす黒い心が湧き起こってきた。
「これ、落窪の君じゃないの?」
と何気なく言いながら、内心、一刻も早くお母様に注進をと妖しく心躍るのだった。珠子姫も、落窪の君と聞くと、心躍るものがあった。
・ ・ ・
 惟成は、髪を洗う道具などを片付けて、さて手紙はと懐を探ると、何もない。慌てて、立ったり坐ったり紐を解いたりして探すけれど、どこにあろうか。すっかり狼狽して、この部屋のどこかにある筈だと、頼実君の座布団やら脇息やらをどけて探すが、どこにも見当らない。血の気が引く思いで、茫然として立ちつくすうちに、頼実君が顔を出して、惟成の様子を大層不思議に思って、
「どうしたんだ惟成、恋文でも失くしたのか」
と言うので、さては蔵人少将様が、お取り隠しになったに違いないと、烏帽子が床に擦るほど平伏して、
「少将様、どうかお返し頂きとうございます!」
と声を震わせて叫ぶ。頼実君は、
「何の事だ、私は知らんぞ。
 浮気はするなよ」
と嘯いて出て行ってしまった。実際、本当に何も知らないのだ。後に残された惟成、生きた心地もせず、よろめきながら明子の部屋へ行き、
「大変だ……。姫様の御手紙を、蔵人少将様に、取られてしまった!」
と言うなり、ばったり倒れてしまった。明子は、驚きの余り惟成をどやしつける気力も失せて、
「ああ、何てことに! 北の方様がお気付きになったら、どうなるでしょう! 北の方様は、昨日から、姫様の御様子が怪しいと、大層疑っていなさるのに、御手紙を握られたら……! もうおしまいだわ……」
と、いつもの気丈さはどこへやら、身も心もあらず泣き伏した。
・ ・ ・
 綏子姫と珠子姫は、直々に北の方に会って、帯刀が落とした手紙を、こういう次第で手に入れたと秘かに話した。北の方は怒髪天を衝くばかりの勢いで、
「それ見たことか。昨日から思っていた通りだ。男が通っている気配があると、思ってたんだよ。帯刀が通ってるのかね!」
 北の方は、手紙を繰り返し読んで、にやりと笑って、
「そうだよ。帯刀が、自分の家に迎え取ろうと言ってやったんだ。やましい気持、だろ。帯刀は阿漕と結婚してるんだ、蔵人少将様とあたしが、証人になってね、それだってのに落窪に通ってんだから、やましい気にもなるさ!
 あんな重宝な縫子に、この邸を出られてたまるものか、一生縫子で使ってやる気でいたのに。こうなったら何が何でも、帯刀と落窪の間を裂かなきゃ! 珠子、よくやったよくやった!」
 珠子姫の肩に手をやって、卑しい笑いに顔を歪ませる。綏子姫と珠子姫も、そっと微笑み返す。
「いきなり騒ぎ立てると、帯刀が気付いて、落窪を隠すかもしれないからね。気付かなかったふりをして、油断したところを、一気に、ね」
 北の方は限りなく陰険に、二人に囁く。二人としては、帯刀を陥れようなどという気は毛頭なく、ただひたすら、落窪の君を陥れることができさえすればそれでよい、と思うのだった。
・ ・ ・
 明子はようやく気を取り直し、這うようにして律子姫の部屋へ行き、
「大層申訳ない事になりましたわ! 帯刀が、姫様の御手紙を、蔵人少将様に、取られてしまったんです!」
と泣きながら言うと、姫は驚愕の余り、頭の中が真白になる思いで、しばし茫然として言葉もなく、涙すらも流れず、身動き一つせず坐り込んだままだった。
「……恐れていたことが、本当になってしまったわ……。お義母様は、お気付きなさったら、どうなさるかしら……」
 やがて姫は、震える声で呟いた。その姫の前で、明子は身も心もなく、とめどなく泣き伏すばかりだった。
「阿漕――い!……」
 どこかで典侍の君が呼んでいる。
・ ・ ・
 夕方になって、道頼君が忍び入ってきた。君は姫に、
「どうして今朝、御返事を下さらなかったのです。一晩参らなかったくらいで、そうお恨みになられてはかなわない。男の勝手な言い草と思われるでしょうが」
と、幾分拗ねたような口調で言う。姫は努めて平静を装って、
「お義母様が、あれこれと縫物の御指図をなさっておりましたので。それに、帯刀が急に物忌になりましたそうで」
 実際惟成は、病人のようになって、明子の部屋で一日中倒れていたのだった。明子の方も、理性も気力も消し飛んでどうにもならなくなり、月の不浄が一向に収まらないという口実を設けて、部屋に籠りっ切りで衾を被っていた。そんな訳で姫は、道頼君に、私達の仲が蔵人少将様に知られた、お義母様が耳になさるのも時間の問題、早く私を連れて逃げて、と言う決心がなかなかつかず、今夜一晩くらいは様子を見ようと思って、取り繕って言うのだった。
 そこへ北の方の足音がした。
「少将様、早くその唐櫃に、お入りになって!」
 姫は慌てて囁く。君は一昨日のように、部屋の隅にある唐櫃に身を潜めた。姫が唐櫃に蓋を載せると同時に、戸が荒々しく叩かれた。
「すぐ開けますわ!」
 姫が錠を外すと、北の方は音をたてて戸を開け、脇に抱えた布地を突き出して言った。
「蔵人少将様がね、今度の賀茂の臨時祭の舞人に、急に御指名されなさったんだよ。だから、今からすぐ、御衣裳を縫って差し上げなさい。これが縫腋袍、これが下襲、これが表袴。この前頼んどいたのは後でいいから、早くやりなさいよ、あんたはのろまなんだから。間に合わなかったら、あたし等の恥になるんだからね!」
 北の方が出ていくと、道頼君は唐櫃の中から出てきて、
「何て言い草だろう。姫、北の方の言いなりになんかおなりなさるな。あたし等の恥? 一つくらい大恥をかかせた方が、北の方にはいい薬になるでしょう!」
と、まるで明子が憤慨した時のような口調で言う。姫は困って、
「いけませんわ少将様。お父様にまで恥をおかかせなさるのは、私は辛うございます」
 だが君は、姫に有無を言わさず、几帳の中へ抱えて入る。姫も、半ばはそれを期待していたのか、さして抗うこともしない。
「ところで、北の方の産みなさった、貴女の義妹の四の君と仰有る方は、幾つになられましたか」
 君はわざと空とぼけて、珠子姫のことを口に出す。律子姫は、道頼君と珠子姫との縁談の話はまだ耳にしていなかったので、かまをかけられているとは気が付かず、
「確か十四ですわ。昨年、御裳着を済ませなさったそうです」
 君は、さらに空とぼけて、
「まだ十四なのですか。いや、実は春頃から、中納言殿が私に、四の君への婿入りを熱心に勧めて来られるのだが。噂では、北の方が特に力瘤を入れておられるというのだ。しかし、余り齢が離れて、子供々々しておられる姫では、私みたいな老け男には似つかわしくないと思ってね、三の君が去年十七で蔵人少将殿を御婿に取られた、その妹君ではと、どうも少し気乗りがしなかったんだ」
 姫は笑って、
「そんな話がありましたの。でも、貴方様が老け男だなんて、可笑しいですわ」
 君は真剣な顔になって、
「どうです。貴方と私は、もう正式に夫婦となった仲だ。それに私は、浮舟を捨てて常陸介の実の娘を択ったような、そんな男では決してない。私からはっきりと、貴女と既に結婚していることを、中納言殿にも、父上にも申し上げよう。そうすればもう、何を憚ることもない」
 姫は君の顔を見上げ、少し不安気に、
「お志はとても嬉しいですわ。でもそうなさると、私は却って辛い目に遭うのが心配でございます」
 君はいよいよ決然と、
「北の方が怖いのですか? そんな事は御心配なさるな。私は、自慢するのでは決してないが大納言兼左大将の子息、東宮女御の長兄です。その妻である貴女に、北の方に勝手な真似はさせません。もし北の方が、貴女と私の仲を無理にでも裂くようなことがあったら、それを許した私はもはや男ではない、髻を切りましょう」
 これはつまり、官位も両親も妻も捨てて、出家するということなのだ。
「どうですか。それでもまだ、私に一切を任せ、この邸をお出になる御決心がつきませんか」
 道頼君の気迫に圧されて、姫は、今となってはお義母様が知るのも時間の問題、と思っていたこともあって、はっきりと、
「私、決心がつきました。貴方様のお心に従いますわ」
「そのお言葉を、待っていたのです」
 君は姫を抱きしめた。
 その時、戸を叩く音がした。北の方ではないが、誰にせよ道頼君を見られてはまずい。姫は屏風の陰に君を隠れさせ、戸口に出た。
 北の方付きの、撫子という女童が、また別の布地を持ってきて、
「北の方様が、これは半臂に縫わせるように言いなさい、と仰言って」
 姫が布地を受け取ると、この女童は妙にませていて、やたらと好奇心を持ちたがる性質なので、部屋の中をきょろきょろと見回している。床に放り出されたままの布地を見て、
「その衣は、まだ縫っていらっしゃらないの?」
 もし明子がいたら、余計な事を言うんじゃない、といって追い出したろう。姫は落ち着いて、
「ええ、ちょっと気分が悪かったのよ」
 撫子はまた部屋の中を見回し、几帳の陰から直衣の裾が出ているのに気がついた。
「あら、あの直衣は何!?」
 姫は、総毛立つ気がしたが、平静を装って振り返りもせず、
「阿漕の親類の人がね、阿漕に、繕ってくれるように頼んだのよ、ただそれだけ」
 この時、道頼君が慌てて裾を引っ張ったりしなかったのも幸いだった。撫子はそれ以上詮索せず、帰って行った。
「撫子、どうだった、落窪はちゃんと仕事しているかい?」
 北の方が訊くのに、撫子は、
「気分が悪かったと仰言って、休んでおいででした」
 北の方はその言葉尻を捕まえて、
「仰言る? 休んでおいでだ? お前、言葉に気をつけな。あれはね、お前達と同じ程度の子なんだよ、あたし等に使うような敬語を、あんな子に使うこたないんだよ!」
と言ってせせら笑っている。
「それから、あの、阿漕の親類の人が、阿漕に、繕ってくれるように頼んだと、仰言…言って、直衣が置いてありましたわ」
 撫子が、姫から聞いたままを言うと、北の方はすっかり立腹して、
「何だって! あたしが頼んだ縫物もやらないで、阿漕の親類の直衣をだって? よくまあそこまで、あたしを馬鹿にできるもんだ! あたしが急いで頼んだ仕事をやらないで、それ程あたし等に恥かかせたいのかね! だいたい阿漕も阿漕だよ、自分の親類の雑事を、うちの縫子にやらせるとはね! ああもう、あたしが何言っても聞く耳持ちゃしないね、あの子は! あたしが継母だと思って、頭から馬鹿にしてるんだ! お殿様に言って、よっく叱って頂かないと!」
 北の方は、廊下を踏み鳴らして寝殿へ行き、忠頼卿に、
「貴方、落窪を叱ってやって下さいな。あの子、あたしを母とも何とも思わないで、あたしの頼んだ縫物を全然やらないでさぼってるんですわ! 蔵人少将様の御衣裳を縫いもしないで、賀茂祭に間に合わなくさせて、あたしばかりか貴方にまで、ひどく恥をかかせる気なんですわ!」
と語気荒く迫る。卿は辟易して、
「頼むから、そう興奮しないでくれないか。家の中の事で、あまり儂を煩わさないでくれ」
 北の方は尚も言い募る。
「いいえ、あの子にはいつも、私からよく言い聞かせてました! それで今迄は、ちゃんと仕事をしていたんです! それなのに、ここ何日か急に、私の頼みを聞かなくなったんですよ! 石山へ行く前に頼んだのは何も縫えてない、それより、蔵人少将様の御衣裳、あれこそ大急ぎでやらなきゃいけないのに、手をつけた様子もない、これはもう、あたしを馬鹿にするどころか、蔵人少将様、いえ、貴方にまで恥をかかせる気なんですわ! 私が頼んでも、全然聞こうともしないで! そのくせ、阿漕が親類に頼まれたとかいう、何だかわからない直衣なんか縫って! 貴方、何とか仰言って下さいな!」
「わかった。あの子には、儂からよく言っておこう。だからそう唾を飛ばすな」
 卿は不本意ながら腰を上げ、姫の部屋へ向かった。部屋の戸を開けると、そこへ坐って、
「律子、ちょっとここへ来なさい」
 姫は、父の口調がいつもと少し違うのを感じながら、戸口へ来て坐った。
「律子、お前は、母が頼んだ縫物を、全然していないというではないか。今迄は、母に頼まれた縫物は、夜も寝ずに仕上げていたというのに。今度母がお前に頼んだ、蔵人少将殿の御衣裳はだな、賀茂祭に間に合わないと、儂にまで恥をかかすことになるのだぞ。それだのに、阿漕が親類に頼まれたとかいう縫物をしているとは何事だ?」
 姫が先刻言い繕ったのは、殆ど逆効果だったようだ。姫は悲しくなった。
「わかったか。なら、早く始めなさい」
 忠頼卿が行ってしまうと、姫は床にうずくまり、顔を覆って泣き始めた。君はその様子を屏風の陰から盗み見て思った。
 中納言殿は姫の、実の父君ではないか。それなのに、何ということを仰言るのだろう。よし、いつか、中納言一家を、揃って見返してやる。……
(2000.7.12)

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