私本落窪物語

第五章 霙の夜の恋
 道頼君の言葉は、その方面に長じた者と違っていかにも不器用なのだが、それ故に尚更、律子姫を思い、姫に寄せる心の誠実さ、情の深さがその端々に感じられて、律子姫は君に徐々に心を寄せていくのだった。語らう二人には、冬の長い夜もたちどころに明けて、まだ宵かと君が思ううちに鶏が鳴いた。君はもう帰らねばならないのが残念でたまらず、雨が降っているのを口実に、姫に添い臥したまま起とうともしない。
 明子は、少将様に御手水と御飯を差し上げようと思った。忠頼卿の一行が出発する時、姫と明子の食事分として置いていったのは糒ばかりで、こんなのを少将様に差し上げる訳にはいかない。そこで明子は台盤所へ行って、飯を炊き、菜を茹で、魚と鳥を焼き、酒を温めと大奮闘して朝食を整え、その合間には律子姫の部屋へ行って手水鉢に水を汲み、手水を差し上げる。さらに食膳を整えて几帳の内へ差し入れ、踏台に登って格子を上げる。 君は明子の甲斐々々しい働きぶりにすっかり感心して、姫に、
「貴女に仕えている阿漕は、実によく働いてくれるね」
と言って褒めるので、姫は、
「心苦しいですわ。明子にばかり働かせて」
と控え目に答える。君は、
「明子というのですか。あんなに貴女によく尽くす人が、帯刀にあんな手紙をね」
「何ですの、帯刀への手紙って?」
 そこで君は、昨日明子が惟成に書いてよこした、文面から火を吹くような手紙のことを笑いながら話した。姫は、
「明子ったら、何てことを。帯刀は少将様のために尽くしてあげたのに。それに貴女、私がひどく悩んでいたなんて、嘘はいけないわ」
と穏かにたしなめる。
 明子は几帳の外に控えていたが、
「帯刀にはいい薬ですわ。ちょっと懲らしめてやらないと」
と言い放った。姫は君に、
「帯刀には、私が許すと言ったと仰言って下さい。私はもう何も悩んでおりませんし」
 君は姫の心遣いに感銘を受けた。
「承知しました。さ、早く頂かないと、折角の御膳が冷めてしまう」
 君と姫はすっかり打ち解けて、向かい合って一緒に仲睦まじく朝食をとる。君に勧められて、姫も少し杯をとる。雨が止んで君が帰っていった後、姫は少し妙な気分だと言って、頬を赤くして休んでいた。
「それはお酒に、酔ってらっしゃるんですわ」
 明子が食膳を片付けながら言うと、姫は、
「そうなの……初めてだわ……」
と一人、納得しているのだった。
 程なく君から後朝の文が来る。姫の返事は、昨日と同じく、黄ばんだ無地の厚い紙に書いて贈った。
・ ・ ・
 今日は三日目である。男が通い始めて三日目の夜には、女方の両親はじめ一家揃って、男を迎えて結婚を祝う、露顕の儀が行われるのだが、――先年綏子姫が、頼実君を迎えた時の露顕の儀の盛況を、明子はよく憶えている――、秘密の逢瀬ではそうもいくまいし、律子姫の両親は不在である。それでもせめて、三日夜の餅だけは整えて、少将様と姫様の御結婚をお祝いしたいと明子は思案して、また叔母の家へ出かけた。
「昨日は有難うございました。客人も、頂戴致しました品の事、喜んでおります」
 例を述べる明子に、叔母は陽気に笑って、
「いいって事よ。それで、今日は何の用で?」
 明子はさすがに、姫様が御両親のお許しを得ずに御結婚なさるので、とは言いにくくて、
「突然で恐縮なのですが、今晩どうしても、餅が入用になりまして。何も仰言らずに作って下さいませ。餅に取合わせるのに良いような菓子なども、ありましたら少し」
 叔母は好奇心に満ちた顔をして、
「餅が要るの? もしかして明子、婿殿を迎えたっていうんじゃないの? それならそうと言ってくれりゃあ、あたし等が親代りになって、盛大に祝ってあげるのに。何てまあ水臭いんだろねえ!」
 図星をさされて明子は口籠った。
「まあいいわ、お安い御用、すぐ作ってあげる。後で家の者に、届けさせるよ」
「それと、あの、手水鉢と水差しを、暫く貸して頂きたくて。実は客人は、ほんの短い間だけだと思っていましたら、四十五日の方違えだと申しまして」
 明子が言うと、叔母は不思議がって、
「手水鉢と水差し、ねえ。あんた一応女房なんでしょ? そういう物、持ってなかったの? まあいいわ、婿殿を迎えるんなら、そういう物はいずれ要るんだからね、あげるよ。あんたの親代りになれるのは、あたし等だけなんだから、遠慮しなさんな」
 田舎暮らしの長い叔母は、言葉遣いなど粗野なところもあるが、気さくな人である。台膳と手水鉢と水差しを貰って、明子は邸へ戻った。
 明子が帰ってきて、事の次第を報告しようと几帳を上げると、もぬけの殻である。
「あら? 姫様!?」
 明子は仰天、慌てふためいて部屋を飛び出し、自分の部屋を見ると、姫はそこにいた。
「まあ姫様、こんな所で、何をしていらっしゃるんです?」
 明子が歩み寄ってみると、姫は、昨日明子の部屋へ運び込まれた縫物を膝の上に広げ、一心不乱に針仕事をしている。明子の声を聞きつけて、振り返って答えた。
「お義母様が私に、預けておいでになった縫物をしているのよ」
 明子は姫の心が測りかねるといった様子で、
「私はもう何も申しません。ただ、夕方になったら、お部屋へお戻りなさいませ」
・ ・ ・
 さて夕方になると、霙混じりの雨が激しく降り始めた。道頼君は自室で、空模様を眺めつつ歎息している。
「弱ったなあ。この天気じゃ、出かけられそうにもない。残念だなあ」
 傍に控える惟成も、困惑の体である。姫の言葉を君から聞いて、少しは心が安らいだものの、まだ三日目の今夜に、少将様が姫様の許へお越しになれないのでは、姫様に申し訳が立たない。惟成は気を奮い立たせ、
「この雨では致し方ありません。せめて、お手紙だけでもお書きなさいませ。某が参って、確かにお届け致します」
「そうしてくれるか」
 君は筆を取り、今夜参上できないのは残念至極だが、姫を思う気持は些かでもおろそかではない、と懇ろに認めた。惟成は君の手紙を預ると、篠突く雨の中を、中納言邸へ行った。明子は惟成を見るなり、
「どういう了見で、たった一人で来たの!」
と頭ごなしに罵るので、姫は心苦しく思って、
「明子、そんなに帯刀を悪く言わないでったら。御免なさい帯刀、明子はこの前の事で、まだ貴方を恨んでいるのよ。悪く思わないで」
ととりなすので、惟成は恐縮するし、明子は極まり悪くて黙ってしまった。
・ ・ ・
 惟成が姫の返事を持って帰ってゆくと、入れ違いに明子の叔母の許から、餅を入れた朴の櫃が届けられた。草餅が二種、白い餅が大小、沢山入っている。明子は喜んで、届けに来た使いの者に、
「この雨の中、御苦労様。何もありませんが」
と言って、酒を温めて出した。
 夜は次第に更けてくる。明子は居ても立ってもいられず、苛々した様子で部屋の中を歩き回り、几帳に突き当たって倒したり、火桶に蹴つまずいて転んだりしている。
「ああもう、何だっていまいましい! こんな日に限って大雨が降ってからに!」
と、さながら北の方のように怒鳴り、罵りながら歩き回っているので、姫の方が居たたまれない。
「明子、貴女、帯刀と結婚してから大分変わったわね」
 明子は、姫が落ち着き払っているようなのまで癪に触って、大声で、
「ええ、そうですとも! 姫様だってじきに、少将様を待ち焦がれて、物狂おしくお思いになるようになりましょう!」
と極めつけるように叫ぶ。これを聞いて姫は、はっと思い当たって、頬を赤らめた。昨日から、いつになく胸をかき乱すこの思い、少将様のおいでを待ち遠しく思うこの思い、私は少将様に、恋をしているのに違いない。私が、少将様に、恋を……。
「もし明日も惟成が一人で来たら、只じゃおかないから!」
 明子は姫の様子には気がつかず、散々に八つ当たりしている。
・ ・ ・
 道頼君は律子姫の返事を読むと、暫く黙って脇息に頬杖を突いていたが、やがて決然と立ち上がって言った。
「惟成、今からでも遅くない、私は行くぞ!」
 惟成は我に返り、平伏して答えた。
「これは御殊勝なお心! 某も参ります!」
 君は満足気に、
「うむ、それは有難い。この雨では車は出せないだろう、徒歩で行こう。傘を持て」
 君と惟成はたった二人、目立たない格好で、大傘を差して邸を出た。氷雨は冷たく、路はぬかり、暗く、閉口しながら歩いていくうちに、狭い小路に差しかかったところで、大勢の前駆を立て、松明を沢山つけた行列が向かってくるのに行き会ってしまった。
「こらこらそこの者、衛門督殿のお通りなるぞ、退れ退れ」
 雑色が数人、威丈高に声をあげる。一本道で、脇道へよけることもできない。仕方なく立ち止まり、端へ寄ってよけようとすると、雑色は一層声を荒げて、
「何故そんな所に立っておる、大体何だ、この雨の中、夜中にたった二人でうろつくとは、只者ではあるまい、捕まえろ」
などと言い合って騒ぐので、ここで夜盗と間違えられては元も子もない、とは思うものの衛門督の行列では如何ともし難い。一人の雑色が松明を近づけて、
「この者共は足が白い、盗人ではなさそうだ」
などと言っているうちに、衛門督の車が近づいてきた。
 とうとう道頼君と惟成は、雑色に押されて道端の溝にはまってしまった。傘も引き倒されて、君は正体もなく伏しているうちに、行列は通り過ぎていく。
「指貫を穿いておったぞ」
「下衆の者が、女の許へ夜這いに行くんだろ」
 雑色共が、何やら言い合う声が遠ざかる。惟成はようやくの事で起き上がって傘を広げ、
「少将様、お怪我はありませんか! 全く、何という連中でしょう!」
 道頼君を助け起こす。君は溝から這い上がると、
「そう怒るな。下々の者のする事に、一々目くじらを立てるとは大人気ない」
と落ち着いたところを見せてから、一転して、
「しかし弱ったな。こんなひどい有様で、姫の許へ参ったら、却ってお嫌いになるやも知れぬ。臭くてかなわない」
 惟成、ここまで来て道頼君に帰られては、自分の立つ瀬がないので、腹に力を入れて、
「いいえ姫様は、そういう事で人を好いたり嫌ったりなさる方とは存じておりませぬ。この霙の夜に、こんなにも苦労しておいでになったなら、一層姫様は、少将様のお心に感じ入りなさるに違いありますまい。もうすぐ近くです。参りましょう」
と懸命に説得する。君も気を取り直して、
「そうだ。人が見苦しいなりで参ったくらいで人を嫌われる程度の姫ならば、こちらから願い下げというもの」
と言って、泥まみれのまま中納言邸へやって来たのだった。
・ ・ ・
 まず惟成が、姫の部屋の近くの庭へ来ると、中で明子が苛立っている声が聞こえる。惟成は蔀戸を叩いて、
「明子、明子」
 明子は声を聞きつけると、
「あんた誰よ! 何しに来たの!」
と北の方顔負けの声で喚く。
「惟成だ。少将様を、お連れ申したぞ」
 惟成の声を聞くと、明子は一瞬にして喜びに溢れた声で、
「少将様が!? まあ嬉しい!」
と叫びながら、戸口に駈け寄り、戸を開けて廊下へ登る。
「少将様はどちらに!?」
「西の出居だ。ひどく濡れていらっしゃる。足を洗う水をお持ちしてくれ」
 惟成が庭から言うのを聞いて、明子は湯殿へ行き、桶に水を汲んで西の出居へ走る。道頼君が、腰から下を泥まみれにして立っているのを見て、明子は異臭に思わず鼻を押え、
「まあ少将様、よくおいで下さいました! でも、どうなさったのです?」
 道頼君は、明子が鼻を押えたのを見て、照れ隠しに苦笑いして、
「帯刀が、私を連れて来ないと貴女に責められると言って嘆いているのが気の毒でね、歩いて来たが途中で転んでしまったのだ」
と言い紛らかす。明子は君の足を洗って拭くと、
「こちらへいらっしゃいまし。お召し物を乾かしますわ。指貫はお洗いします」
 そこへ惟成が現れて、
「俺の袴も頼むわ」
「あんたのは後! 少将様が先よ」
 君は明子の部屋で、狩衣と指貫を脱ぐと、姫の部屋へやってきた。部屋は暖かく、霙降る屋外から入ってきた君は、やっと人心地のついた思いで、几帳をくぐった。姫はまだ起きていて、驚きと喜びの混じったまなざしで、君を見た。
「こんな見苦しい姿で参上した私を、いかが思し召されようか」
 君が言うと、姫は今迄になく力強い声で、
「いいえ少将様、こんなにお濡れになってまで私の許へいらっしゃる、それほどまでにこの私を思って下さるお志には、申す言葉もございませんわ!」
と叫ぶのだった。
・ ・ ・
 明子は、道頼君と惟成の衣を洗濯し、律子姫の部屋に張った綱に懸け終わると、叔母が作ってくれた餅を箱の蓋に体裁よく盛りつけて、姫の部屋へ持って来た。もう夜はかなり更けていたので、明子が几帳の前まで来てみると、姫は静かな寝息をたてている。
「少将様、姫様、お目覚め下さいませ」
 明子の声に、君が身を起こす影が几帳に映った。物憂げな声で君は応える。
「何だ、もう朝か?」
「いいえ、これをお召し上がり下さい」
と言って明子は、几帳を少しかき上げて、餅を盛った箱の蓋を差し入れた。これは話には聞く三日夜の餅ではないか、よくまあ用意したものだ、ここまで用意して私を待っていたのだ、と今更のように感嘆して、
「これは三日夜の餅だね。何か食べる作法があるとか聞くが、どうするのだね」
と言うので、明子は、
「まだ御存じでないのですか?」
 君は、
「私は今迄誰とも結婚していないんだよ。知っている訳がないじゃないか。帯刀から聞かなかったのか」
 そこで明子は、先年綏子姫と頼実君の結婚の時に聞いた作法を思い出して答えた。
「婿君は三つ、食い切らずにおあがりになると聞いております」
「それは食べにくそうだな。女の方は幾つ食べるのかな」
「それは、幾つとは決まっておりませんわ。お好きなだけどうぞ」
 道頼君が餅を食べる気配がする。律子姫も目を覚まして、餅を食べているようだ。その間明子は、几帳の外に坐って控えている。
「貴女と帯刀が結婚した時も、こんな風に食べたのかね」
 不意に君が、真面目な声で尋ねる。明子は、
「え、ええ、まあ、そのように……」
と思わず顔を赤らめながら口籠った。
 明子は心得て席を外し、自分の部屋へ退ると、惟成が火桶を抱え込むようにして震えている。惟成は一つ嚔をして、
「うう寒い、こう寒くちゃ、独りじゃ寝られないな」
と言いつつ、明子を意味あり気に見上げる。明子はにやりと笑って、
「わかったわよ。少将様をお連れ下さったんだもの、許してあげる」
 惟成は明子と臥しながら、ここへ来るまでの顛末を語る。
「これほどの深い御志は、昔物語なんかにも書いてないだろう。本当に、比べるものもないと思わないか」
「まあね。でもやはり充分じゃないわよ」
「やれやれ、これで充分でないだなんて、つくづく女の欲というものはきりがない。例え十日や一月、少将様がおいでにならなかったとしても、今夜の事で帳消しにしてもいいくらいなのに」
 惟成はわざと溜息をついてみせる。
「女って、そういうものなのよ」
 明子は惟成に囁く。
「女は、じゃなくて、お前は、だろ」
「まっ、意地悪!」
(2000.7.12)

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