私本落窪物語

第四章 恥
 やがて夜明けを告げる鶏の声がした。道頼君の、情理を尽くした言葉の数々も甲斐なく、律子姫は物も言わずに俯伏している。ほのかな明りの中で見る姫の姿は、単衣も着ず、袴も継ぎの当たった粗末なもので、姫の境遇の惨めさに、君は今更ながら胸を衝かれる思いであった。君は姫を抱き起こし、衣を着せかけてやる。姫は俯向きつつ、微かに震えている。姫の肌は冷たい。
「寒いのですか、姫?」
 君の問いかけに、姫は僅かにかぶりを振った。君は自分の衣を一枚、姫の肩に着せかけてやると、立ち上がって言った。
「姫、姫が私を愛して下さらなくとも、私は姫を愛しております。この事だけはお忘れ下さるな」
 廊下へ登り、今一度姫の姿を、しかと見ようと振り返ると、姫は君の衣の袖で顔を覆いながら、僅かに目を覗かせて、上目遣いに見上げている。その目を見た君は、慌てて何も見なかった素振りをして、扇を鳴らした。
「はっ」
 馳せ参じた惟成に、君は、
「車はあるか」
「既に参っております。こちらへ」
 惟成は姫に対して、限りなく後ろめたく、一刻も早くこの邸から退散したかったのだ。君と同車して大納言邸へ帰る道中も、惟成は姫への悔恨と申し訳なさで、悄然としていた。君の方は、姫の姿、物腰のさまを思い出して、しみじみと物思いに耽っていたが、ふと呟いた。
「いけるな」
 耳ざとい惟成も、この時ばかりは頭を抱え込まんばかりで、君の言葉を耳に止めなかった。
・ ・ ・
 明子は朝になっても、悲嘆の余り姫の部屋へ行く気にもならずに臥せっていたが、そこへ小舎人が来て、少将様の御手紙ですと言って戸を叩く。何とも情ないことになったもの、それでも礼儀というものがある、少将様のお手紙だけは姫様に差し上げなければと、それでも気を奮い立たせて、よろめく足どりで姫の部屋へ来ると、姫は見なれぬ衣を一番上に掛けて、じっと俯向いている。泣いている様子は見えない。いや姫様は昔からこうだった、どんな目にあわれても、大袈裟に泣いたりなさることは滅多になく、辛さも憂さも、悲しみも怒りも、じっと御自分の心の中に隠してしまわれる方だった、と思いをめぐらすほどに、こんな事態を招いた自分自身が限りなく情なくなって、こぼれる涙を拭いもせずに、姫の前へ進み出て、
「少将様から、お手紙が」
と言うのが精一杯、あとは声にならず泣き伏した。
「明子、そんなに泣かないで」
 姫は明子が泣くのが堪らなくいとおしいので、何とか慰めようと言葉をかける。明子はようやく気を取り直して、
「姫様、けしからんのは帯刀にございます。私は決して、姫様の御心をないがしろにして、少将様をお導き申すような事はございません! それだのに、私がお側についておりながら、姫様の御心を踏みにじるような浅ましい事が起きるのをお止めできず、情のうございます! 姫様はきっと、私が帯刀めと謀って、少将様をお導き申したと思し召しでしょう! それは致し方ありません、でも、でも姫様、信じて下さいませ、私は決して、姫様をたばかり申して、姫様の御心をないがしろに致すような事はございません! 姫様がお生まれになってから十九年、私は片時たりとも、姫様の御為をお思い申さなかったことはありません、それなのに、こんなけしからん事で、姫様に厭われ申したら、私、どうして生きていけましょうか! 姫様に合わせる顔がございません!」
と、激しく泣きながら言い募る。姫は明子が、自分の思い込みでこうも煩悶しているのに胸を締めつけられる思いで、
「明子、私は貴女を信じているわ。貴女が私をたばかるような人だと、私がかりそめにも思う筈がないじゃないの。まして私が、貴女を私の心をないがしろにしたと言って厭うなんて、神仏に誓って、決してないわ。それより、貴女が私を、私が貴女を二心ある人だと思って厭うと、そんな風に思っているとしたら、その方が嫌よ。私は貴女を、決して厭ってなんかいないから、明子、貴女も、私が貴女を厭っているなんて思わないで頂戴。ね、お願いだから」
 姫も涙を流さんばかりに、明子を慰める。明子の心の中から、大きなわだかまりが一つ、姫の言葉によって解けて、流れ去ってゆくのを感じて、ようやく明子は気を取り直した。
「そ、それじゃ姫様、昨夜の事は私のせいではないと、信じて下さるんですね」
 涙を拭いながら問う明子に、姫は微笑んで、
「勿論よ」
 実は姫は、昨夜遅く、明子が惟成を責め、惟成を引っぱたいたり罵ったり、しまいには泣き伏した騒ぎの一部始終を聞きつけて、それで明子が惟成と示し合わせたのではないと確信したのだった。が、今ここで明子にそれを言えば、明子が恥ずかしく思うだろうと、気を遣っているのだ。明子はそこまでは思い至らず、ただひたすら恐懼していたのだった。
 姫は、結び文にしてある道頼君の手紙を開いた。姫に逢ってしまった今、より一層深く姫を愛せずにいられない、どうか私の愛に応えて下されと、短い文の中に切々と訴えてあった。
「どう書いたらいいんだろう……?」
 姫は今まで、道頼君の手紙に、返事を書いてよこしたことはないので、文面が思いつかない。白い紙を見つけ出して、ようやく認めた。この間に明子も筆を取り、惟成からの手紙に、苦々しい文句を連ねて返事を書いていた。
 姫は返事の文を、君の手紙がいつもそうであるような結び文にして、明子に渡した。こういう返事の時、女の方からは使者に何か被け物をするのだが、ここにはそんな物はない。
「恥ずかしいな……」
 小舎人を帰した明子が、姫の部屋へ戻ってきた時、姫は衣の袖に目を落としながら呟いた。
 突然、明子の心に閃くものがあった。
 今まで一度だって、姫様は、御装束がみすぼらしいというような事を、恥ずかしいと仰有ったことはなかった!
 明子も、恋を知る女である。姫が呟いた一言から、姫の心境の変化、つまり姫が、道頼君に心を寄せる徴しが見えてきたことに勘づいたのだった。恋する人に、みすぼらしい装束でいるさまを見られるのが、言いようもなく辛いことだと、明子は素早く思いをめぐらせた。そうとなれば、何とかして差し上げるのが、仕える者の務めではないか。明子は勇み立った。
・ ・ ・
 道頼君が今か今かと待ち佗びるところへ、小舎人が戻ってきた。被け物を何も持っていないのを見て、あの姫の御有様では無理もない、と同情するのは、姫への深い愛情のなせる技か。姫からの返事を開くと、模様のない白い厚紙の、やや黄ばんだのに、
「少将様
 少将様の御言葉の数々、忝うございます。でも私の拙き心は、少将様の愛を受け容れ申し上げるのは恥ずかしう存じます。
かしこ」
 短い文を一読しただけでは、拒否と取れても仕方あるまい。だがこの時代、初夜の後朝の文に喜んで承諾の返事をよこす姫君がいたら、その方がむしろ軽薄というものだ。大体、初夜の後朝の文の返事を、女房の代筆でなく自筆で書いてよこす姫君というのが、世間一般の常識に反している。
 だが、ことこの事に関しては尋常ならず敏感になっている道頼君は、一読して口元に、会心の笑みを浮かべた。
 今朝姫と別れた時、姫が最後に見せたあの御まなざし、あれは正しく、私に心を開いて下さる徴だった。そしてこの御文。惟成が以前話した姫の御心は、私の情を受けるのが心苦しいとか本意でないとは言ったが、恥ずかしいと言ったことは決してなかったのだ。惟成が言うには、姫の御心は世の常の姫と大層変わっておられて、御装束が粗末だといってそれを恥と思われることは絶えてないというのではなかったか。
 一方惟成は、明子の返事を見て、一層落ち込んでいる。手紙を放り出すと頭を抱えて、
「俺がどんなに申訳なく思ってるか知ってて、そのうえ手紙でまで、こんなに責めなくたっていいじゃないか……」
 君はそれを聞きつけて、
「何だ惟成、どうしたんだ?」
 惟成は君の前に平伏し、
「申訳ございません! 昨夜少将様をお導き申し上げたのは、某の思い違いにござりました! きっと少将様にも、昨夜は、御不快に思し召されておられましょう! 某、お詫の言葉もございません!」
 君は、惟成が放り出した明子の手紙を拾って読んだ。姫様は昨夜の事でひどくお悩みになっている、こうなったのは惟成のせいだ、きっと少将様も御不快に思し召されよう、うんと叱られるがよい、当分邸へは来るなと、文面から罵声が聞こえてきそうな調子で書き連ねてある。君は笑って、
「惟成の妻は、よくよく勝気な女のようだな。そういう妻を持つと苦労するだろう」
と同時に君は、惟成の妻はまだ、姫の御心に気づいていないのだろうと察した。
・ ・ ・
 さて明子は、今夜も少将様がおいでの筈、その支度をしなければと、大わらわになっている。部屋中に取り散らかした衣や端切は、一枚残らず裁縫道具と一緒に自分の部屋へ運び、天井から床まで、蜘蛛の巣を払い、埃を落とし、磨きあげ、その合間には姫と自分の食事を作り、といった具合に、髪を巻き上げて頭巾を被り、襷をかけて尻端折りし、甲斐甲斐しく走り回る。姫も部屋の掃除を手伝おうとするのを、明子は止めて、一人で忙しく飛び回るのだった。
 部屋の掃除は済ませたものの、ここには姫君の寝室にふさわしいような几帳も屏風もない。衣を片付けてしまうと、厨子さえもなく、一層殺風景になってしまった。こんな部屋に少将様をお通しするのは余りにも心苦しい、と言って一介の女房にすぎない自分には、几帳や屏風はない、留守中とは言え三の姫様の部屋から持ち出すのは不都合だ、と考えた挙句、
「姫様、ちょっと出かけて参ります。一刻か二刻したら、戻りますので」
と言い残すと、市女笠を被って、足早に出て行った。
 中納言邸から幾らも離れていないところに、明子の叔母が前の和泉守と住む邸があった。明子はそこへ出向き、叔母に会った。
「おや明子、よく来てくれたね。遠くに住んでる訳でもないのに、滅多に顔も見せてくれないなんて、水臭いじゃないかね」
 受領の北の方らしく恰幅のいい叔母は、明子を見ると陽気に声をたてて笑う。
「折り入ってお頼みしたい事があるのです。実は、私の主人の縁続きの、立派な御身分の方が、今宵私の部屋へ方違えにおいでになると仰言いまして。几帳か屏風をお貸し頂けませんか。お衾も、この頃は寒くなりましたし」
 明子の頼みに、叔母は胸を叩いて、
「お安い御用さ。几帳や屏風くらい、幾らでもあげるよ。他に何か?」
「え? 頂いてよろしいんですか?」
「当り前よ。国の守の実入りを、何だと思ってるの。何でも持って行きなさいよ」
と言って笑うのだが、余り何のかのと貰って帰るのも気が引けるし、北の方の目から隠しおおせることも考えなければいけないので、結局几帳を二つ、屏風を一つ、紫苑色の綿入れ一枚、円座と燭台を一つずつ貰って、荷車に載せて中納言邸へ運ばせた。
 律子姫の部屋に、屏風やら几帳やらを持ち込んで、部屋の飾りつけをする。本当はここに、帳台の一つもあればよいのだが、こればかりはそう簡単に運び込める代物ではないし、北の方の目から隠しおおせるのもまず無理というものだ。
 一息ついた明子は、姫に、
「さて、少将様のおいでになる前に、姫様、お湯をお使い下さい。その間に、お召し物に香をお薫きしますわ」
 姫は、滅多に湯を使うこともなかったので、
「え……? 今日は、十八日でしょ? 十八日にお湯を使うと、盗人が、って」
 明子は俗信など気にしていられぬとばかり、
「構うもんですか、少将様にお逢いなさるのに、お体を綺麗になさる方が余程大切ですわ。ええ、盗人なら大いに結構、少将様が姫様を、このお邸からお盗みなさるのなら大歓迎ですわ!」
 物は言いよう、とはよく言ったものだ。明子は姫を湯殿へ導き、釜に火をおこして湯を沸かすと、取って返して自室から伏籠と火取を姫の部屋へ運んだ。そして姫の着物は、垢じみて汚れているのを思い出し、自分の着物の中から、綏子姫の部屋に宿直する時に着る一番上等な装束を見つくろって、袴から五衣まで一式、伏籠に掛けて香を薫きしめる。この香は、綏子姫の裳着の時、特別に頂いた物で、自分が惟成を迎えた初夜にも使わず、大切にしまってあった物だった。姫の部屋中に、そこはかとなく上品な香りが漂う。姫の部屋には火桶もないので、綏子姫の部屋から火桶を担ぎ出し、律子姫の部屋へ入れて、炭火をおこして部屋を暖める。何しろ北側の日当りの悪い部屋で、冬の寒さはひどいものだ。
 そうしておいてから、明子は湯殿へ行った。
「姫様、御髪を洗いましょう」
 明子が声を掛けると、湯舟に坐り込んだまま何事か物思いに耽っていた律子姫は、はっと我に返ったように振り返った。その刹那、手拭で胸を隠し頬を僅かに赤らめた仕草に、明子は、姫の胸の内に自分と同じ心が芽生えたのを知ったのだった。
・ ・ ・
「え? この衣は?」
 明子が持ってきた衣、姫が先刻まで着ていた衣よりも上等な衣を見て姫は訝った。
「少将様にお逢いなさるのに、昨夜のような御召物では余りにもみっともないですわ。ですから、勝手なことで失礼ですけど、私の装束の中から、一番上等なのを見つくろって、姫様に差し上げます」
 姫は明子の心遣いが言いようもなく嬉しく、
「やはり明子、本当に私の心をわかってくれるのは、貴女だけよ」
と感激して言葉を漏らすのだった。
 香を薫きしめた着物に身を包み、洗った髪に櫛を入れ、几帳の陰に坐った姫に、明子は自分で支度した夕食を運ぶ。夕食を済ますと、明子は燭台に油を足し、灯を明るく灯すと、姫の母君の形見の鏡を鏡箱から出し、丁寧に拭う。
「明子、鏡をどうするの?」
 この齢まで化粧をしたことのない姫は、鏡はあってもそれを使うことを知らなかった。明子は自室から、白粉やら紅やらの化粧道具を持ってくると言った。
「決まってるじゃありませんか。お化粧ですわ」
 とは言っても、姫自身は化粧のし方を何も知らないし、余り派手な化粧をして、道頼君に変に思われても困るので、明子が綏子姫の化粧のし方を思い出しながら、控え目に律子姫の化粧をする。
「さ、出来ましたわ。鏡を御覧なさいまし」
と言って明子が差し出す鏡には、以前会ったことのある紀子姫のような姫の顔が写っている。
「これが……私……?」
 到底信じられないという面持で、目をぱちくりする姫に、明子は言った。
「そうですとも、それでこそ、姫君ですわ! あ、姫様、御顔をこすらないで」
・ ・ ・
 明子自身も、装いを凝らして待つうちに、昨夜も来た将曹がやってきて、道頼君の来訪を告げた。明子は早速起って行って、君を姫の部屋へ案内する。
 君が姫の部屋へ降りると、これが昨日の、雑然とした汚い部屋か、と思うほどで、綺麗に掃除され整頓され、几帳や屏風が置かれ、暖かく、微かに空薫物の香がする。几帳の中に、人影が浮かび上がっている。
「姫様は、こちらでお待ちです。どうぞ」
 明子に勧められて几帳をくぐった君は、目の前に坐っている姫の姿に目を見張った。盛装し、化粧した姫君は、昨夜のみすぼらしい衣を着て針仕事をしていた姫君と、まるで別人のようだったが、よく見れば間違いなく、昨夜の姫君その人だ。初めて見た時の清楚な美しさと典雅さに、化粧した華やかさが加わって、一層美しい。道頼君はすっかり惚れ込んでしまった。君は嘆息を漏らした。
「何と美しい……」
(2000.6.26)

←第三章へ ↑目次へ戻る 第五章へ→