私本落窪物語

第三章 惟成の勘違い
 さて、綏子姫は九月の末に、忠頼卿には初孫にあたる女の子を無事出産した。忠頼卿と北の方の喜びようは筆舌に尽くし難いほどで、卿は先日まで「儂ももう長くはあるまい」などと言っていたのに、掌を返したように「孫の婿君を見届けるまでは」とはしゃぎ回る。北の方も、珠子姫と道頼君の縁談が進まない事への焦立ちなど、どこかへ吹っ飛んでしまったかのようだ。
 孫の姫の五十日の儀を済ませると、忠頼卿は、綏子姫の懐妊中に石山寺にかけた御願をほどくといって、石山寺へ参籠することになった。卿は上機嫌で、
「綾子、紀子、お前達も子が授かるように、御願をかけたらどうだ」
 などと言っている。それで結局、十一月十七日、卿と北の方以下、少納言藤原憲通君と綾子姫、仲基君と紀子姫、頼実君と綏子姫と孫の姫、珠子姫、三郎君、さらに邸中の女房下人に至るまで、大挙して出かけることになった。
「お母様、落窪の君はお連れなさらないのですか? 一人で残されては可哀想です」
 紀子姫が北の方に言うのに、北の方は、
「あの子は旅慣れていないから、連れて行かない方がいいんだよ。縫い物も一杯預けてあるから、二日三日留守番しても、退屈はしないよ」
 何とも意地悪く笑って言うのだった。綾子姫も、珠子姫がいないのを確かめた上で、
「まだお独りなのでしょう。子宝祈願についてきて、何をするというんです」
 などと北の方に加勢する。
 明子は、綏子姫付きの女房の一人として、同道することになったのだが、律子姫が一人残されると聞くと矢も楯もたまらず、何とかして姫様も一緒にお連れするか、でなければ自分も残るかと考えた末、北の方に、
「今朝から急に、月のものが来まして」
と申し出ると、北の方俄に怒って、
「それはあたしに対する嫌味かい!? どうせ、落窪が一人で残るってんで、一緒に残ろうと嘘をついてんだよ。ああ腹が立つ!」
 そこで明子は、突然の不浄でいかにも残念だ、どうしてもと仰有るなら石山の町までなら、などと懸命に演技する。大夫の君や少納言も、明子の演技に瞞されて、北の方に取りなそうとする。しまいに北の方は、
「まあいいさ。食費も浮く。せいぜい帯刀と楽しむがいい」
と言って、明子を残らせることにした。この世ならぬ陰険さ、と噂した女房があったとか。
・ ・ ・
 さて一行が出かけてしまうと、明子は律子姫の部屋へ来た。姫は、北の方が出発前に預けて行った縫物に没頭しているところである。
「姫様は、石山へおいでになった事は一度もありませんわね。折角のいい機会なのに、残念ですわ」
 ついつい愚痴っぽくなる明子だった。
「私みたいな者が一緒に行っても、場違いなだけよ。早いとこ縫物を済ませて、箏を弾こうかな。紀子お姉様が貸して下さった、源氏物語の絵巻を見ようかな」
 姫は、寂しいなどということには慣れ切ってしまったかのように、明るく振舞うのだった。
 そこへ、
「阿漕様はこちらですか」
と言って戸を叩いたのは、惟成の部下の小舎人であった。小舎人は、
「中納言様の御一行に、阿漕様がお供なさらないのなら、帯刀様がこちらへお越しになるとの事にございます」
 明子は小舎人に手紙を持たせた。
「姫様の御気分がお悪くて、お邸にお残りになっているので、私もご一緒しております。来る折には、先日少将様がお持ちと伺いました絵を、持ってきて下さい」
 明子の手紙を読んだ惟成、好機到来とばかり、道頼君に報告した。惟成の思うところは、少将様が姫様のもとへお通いの折は、絵をお持ちになると伺ったことを明子にも話したから、明子が「絵を持ってきて」というのは、言外に「少将様のお越しを」と言っているのだ、やっと姫様も、その気になられたか、というのである。ところが本当は、明子の方は、ただ単に姫様が絵に御関心をお持ちだ――紀子姫が時々、絵巻を貸して下さるのを、いつも楽しそうに御覧になっている――し、むしろ自分が、絵巻を見たいと思っていたのだった。
「そりゃいい機会だ。今夜にでも早速、姫君のお許へ参ろう。惟成、手引は任せたぞ」
 身を乗り出す道頼君に、惟成も自信満々で、
「では、例の絵巻を」
「だからそれは、上首尾だったらと言ったろう」
「今日を逸して、上首尾になりそうな日はございますまい」
「わかったわかった」
 君は惟成に、東宮女御の許から借りた源氏物語絵巻を持たせ、手紙を事づけた。
 惟成が中納言邸へ来る頃、晴れていた空は俄に曇ってきた。惟成は早速明子に会って、絵巻と手紙を渡し、
「少将様のお手紙だ。姫様に」
 明子は、また厄介な代物を、と思ったが、とりあえず受け取って、姫に届けた。
「左近少将様の絵巻ですって? 私が絵巻が好きだって、誰が申し上げたの?」
 姫が縫い物をする手を止めて絵巻の包みを開くと、また例の結び文が一緒に入っている。姫は溜息交じりに、
「少将様も、よくよく御執心ね。そうまで仰有っても、私は……」
 丁度惟成はこの時、樋殿へ行っていて、姫の言葉は聞き逃した。戻ってきて、姫の部屋の前を通りかかると、明子の声、
「あらまあ、同じ絵巻ですわ。惟成も気の利かないこと」
 そんな事言われたって仕方なかろうが!
 やがて夕刻となった。姫は部屋で、相変わらず縫い物に精出している。明子も手伝って、早いとこ終わらせてしまおうと、殆ど口もきかずに針仕事に没頭している。惟成は、姫の部屋には一歩たりとも入れぬと明子が言うので、その前の廊下で、やきもきしながら坐っている。早く明子を姫様から遠ざけないと、少将様を姫様の部屋へお導きできないではないか、姫様の許へ少将様をお導きすることは、明子も了解済の筈だし、姫様御自身も、少将様と御結婚なさる気であられるんじゃないのか、なのにどうしたんだ、夜も更けてしまう、だがこの雨だ、今夜は少将様はおいでにならないかも知れぬ、なら明日だ、明日になれば何とかするさ。
 そこへ道頼君の家来の、将曹という者がきて、惟成を見つけると言った。
「帯刀様、こちらでしたか」
 惟成は、少将様がおいでになったな、この雨なのに大した御方だ、と察して、立ち上がった。
「誰が客人が来たらしい。ちょっと行ってくる」
 将曹は、今までこの邸には来たことのない者なので、明子には誰が来たのかはわからない。
 惟成が出てみると、予想に違わず道頼君の車が、渡殿に着いている。
「この雨の中、よくおいでになられました」
 惟成が感じ入って言うのに、君は、
「この雨の中を来たんだからな、無駄足は踏ませるなよ」
と言って惟成の肩を叩く。惟成は困惑して、
「それが、その……姫様は北の方様に言いつけられなさった針仕事で、まだずっと起きていらっしゃって……」
 君は笑って、
「初夜の人を、針仕事をしながら待つとはね」
 将曹に足を拭かせると、早速姫の部屋へ案内せよと迫るので、惟成はいよいよ困って、ままよ、とばかり、君を姫の部屋の前へ連れてきた。格子の隙間から、
「ここから御覧に。妻からは見えますまい」
と君に囁いて、そっと覗かせる。
 一見して女房のような女性が二人、灯火の下で、縫い物に精出している。手前の方は、後ろ姿しか見えないが、やや大柄で、普通の女房装束を着ている。奥の方は、やや小柄で、面立ちは清楚で整い、どことなく典雅な雰囲気が漂う。よく見ると、裳をつけていない。この時代、公私とも女房といわれる女性は、主人の前に出る時は裳を着用するしきたりである。とすれば、この方が姫君か。そう思ってみると、皇族出らしい典雅さに満ちておいでだ。だが衣は、阿漕よりもみすぼらしい、古い綿入れをお召しだ。
「明子、貴女そろそろ寝たら? あとは私一人でできるから」
と、阿漕を労りなさる声も、いかにも御心の優しさを偲ばせる。使用人をも優しく労りなさる姫の御心の優しさ、暖かさ、広さ……君はすっかり姫に惹かれてしまった。
「惟成、決めたぞ」
 君の囁きに、惟成は満足げな微笑を浮かべた。
 ふと灯が暗くなった。手前にいる阿漕が、
「あら、油がなくなりましたわ。代りの燭台を持って参ります」
と言って立った。
「さ、妻が出ましたら、すぐ」
 惟成が囁く。
 廊下に登ってきた明子に惟成は、油が切れたのを口実にするとは我が妻ながら大した知恵だ、と感心しながら、さっと歩み寄った。
「明子、さ、早く、こっちへ」
 いきなり捕まえて、油のある物置と全然逆の方向へ引っ張っていくので、明子は驚いて、
「何よ、急に。姫様に、燭台をお持ちしなきゃいけないのに!」
声をひそめつつ抗うが、惟成は、今更何を、とばかり、有無を言わさずに明子の部屋まで引っ張ってきた。辺りは沛然たる雨、明子の声はかき消され、姫には聞こえない。
・ ・ ・
 律子姫は、薄暗い灯の下で、針仕事の手を止めて、明子が戻ってくるのを待った。灯がないと、細かい仕事はできないのだ。
 音もなく戸が開いた。顔を上げた姫の目に、見知らぬ若い男が映った。驚くまいことか! 姫はしばし、息も止まる思いで、呆然として坐っていた。
「だっ、誰っ!? 貴方は!?」
 やっとの思いで、絞り出すような声を出した。が、外の雨音にかき消されて、誰にも聞こえない。男、道頼君は、後ろ手に戸を静かに閉め、一応の用心のために、素早く閂を差した。それから君は、さっと寄って姫の袖を捉えた。姫は後ずさりする。
「何故、私をお厭いになる。私は貴女の御有様を良く存ずればこそ、貴女をその御有様からお救いしようと、ここに参ったのです」
 君は、惟成の言うことと少し様子が違うな、とうすうす勘づいてきた。
「貴方は、左近少将様ですね? 少将様のお志は、よく存じております。でも、私は、少将様のような御方の御情を受けますのは、心苦しうございます。私の、思いますところは、帯刀を通じて、既にお耳に達しておりますでしょう?」
 姫は自分の結婚観を、手紙に書いてやった訳ではないのだが、明子に話したのが惟成を通じて君の耳に達したらしいことは、君から日夜来る手紙を読んでいるうちに察したのだった。
「それなのに、私の心を汲んで頂けず、そればかりか、こんな無体な御振舞をなさるとは、口惜しうございます! どうか少将様、私の心をお察し下さるなら、無体な御振舞はなさらないで!」
 こんなにはっきりと、御自身のお心を仰有る姫君が、他におられようか? だがその御考えでは、自分は何もできない。
「姫、私を、恵まれた者が恵まれぬ者に、恩着せがましく情をかける、そんな者だとお思いなのですか? 私は誓って、そんな賎しい心の者ではありません。貴方は、私には貴女の御心がお察しできる筈がないとお思いでしょうが、私には貴女の御心がわかります。阿漕に、貴女の御心がおわかりであるのと同じ、いや、それ以上に。
 姫、人は、人と、例えどれほど境遇が異なっていようとも、必ずその心の全てを、互いにわかり合うことができます。それが、人の人たる所以ではありませんか。心の全てを互いに分かり合うこと、それが、人を愛することです。姫、私は貴女を、世の誰が貴女を愛するよりも、愛しています。どうか、私の愛に答えて下さい! 人を愛し人に愛され、愛し合って生きることこそ、人として生きることではありませんか!」
 道頼君、生まれてこの方、これ程の熱弁を振るった事はない。あんなにしっかりした考え方を持っている姫には、いい加減な口説き文句は通じまい。
「誰しも、その境遇は違うのです。少しでも違う境遇の人とは、愛し合うことも、一生を共にすることもできないと仰有るなら、誰も人と愛し合うことなど、できないではありませんか。人として、こんなに悲しいことはありますまい。姫、私と貴女は、愛し合うことが、きっとできます。私を、信じて下さい!」
 姫は、君の真摯な訴えに屈しそうになる心を奮い立たせ、別の手に打って出た。
「でも少将様、なら何故に、こんな無体な御振舞をなさるのです。私は、少将様が、そのような御方とは、存じておりません! 私の心を、わかって下さるのなら、何故、こんな、私の心をないがしろになさるような振舞をなさるのです?」
 君はもう一刻の猶予もならぬとばかり、姫ににじり寄り、姫の両肩を捕まえて、
「姫、貴女を愛すればこそ、幾多の危険を冒しても、ここまで参ったのです。どうか私を信じて、私に応えて下さい。無体な振舞、などと思し召さるな」
 姫はすっかり動転して、もう言葉もなく、さめざめと泣くのみであった。
・ ・ ・
 惟成に半ば力ずくで自室へ連れ込まれた明子は、ふと目を覚ました。雨は止んだのか、辺りは静かだ。と、その静けさの中に、姫の啜り泣く声が聞こえる。明子は激しい胸騒ぎを感じた。袿も着ずに起き上がろうとすると、寝たふりをしていた惟成は、
「どうしたんだ?」
と、何も知らぬように言う。
「あんた、姫様のあの声が、聞こえないの!?」
 明子が言うと惟成はとぼけて、
「灯が消えたんじゃないかな」
 明子はたちまち事態を察し、背を向けて寝ている惟成の肩を掴んで引き起こし、
「姫様がそんな事でお泣きになる御方じゃないことは百も承知のくせに! さてはあんた、誰か男を呼び込んだね! 誰です! 白状しなさい!」
 憤激して惟成を、肩の骨が外れそうなほど強く揺さぶる。惟成は当惑して、
「わかった、言うよ、左近少将様だよ」
 明子は納得すると思いきや、逆上して惟成を、烏帽子が落ちるほど引っぱたいた。
「何てことをしたんです!」
 明子に大喝された惟成は、頬をさすりながら起き上がると一層当惑して、
「何てことをとはこっちの台詞だよ。今夜少将様をお導きすることは、お前、納得……」
 明子は惟成の言葉に一層憤激した。
「誰がそんな事を!? そりゃ私は、少将様が姫様の御夫君にふさわしいお方とは申しましたよ、でも姫様は、まだ少しも、少将様を受け入れなさる御気持にはなっていらっしゃらないのに! 姫様御自身、その気におなりにならないうちに、少将様をお導きするなんて、あんまりです! 姫様、おいたわしい……」
 明子は興奮しやすい性分なので、憤怒の余り泣きながら、惟成の胸を叩く。ここに至って惟成、自分の思い違いに気付いて愕然とした。明子が絵をと言ってきたのを、俺は勘違いしていたのか。
「こんな事で、姫様はきっと、少将様をお厭いになられましょう、いいえ、そればかりか、あんたと示し合わせて少将様をお導き入れしたと、私をもお厭いになるに違いありません! 今まで十幾年、二心なく姫様にお仕え申してきたのに、こんな事になって、姫様に厭われ申したら、どうして生きていけましょう! 私には、姫様しかいらっしゃらないのに……あああ……」
 髪を振り乱し、身を捩って泣く明子を前に、今や悄然とした惟成は言葉もない。半ばやけ気味に、明子を抱き臥すのだった。
(2000.6.26)

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