私本落窪物語

第二章 帯刀
 その年の十月、蔵人少将頼実君と綏子姫の結婚式が盛大に執り行われ、頼実君は東の対に、綏子姫と一緒に住まうことになった。
 頼実君の家来に、東宮坊の帯刀、橘惟成という男がいた。この男、頼実君に従って邸に出入りするうちに、綏子姫に頻々呼びつけられている明子といい仲になった。当節こんな事は珍しくないようだが、この惟成、一時の遊び心ではなく一生を明子と共にすると決心し、頼実君や同僚にも触れて回ったらしい。明子の方も、自分が一人前になって、それで律子姫に少しでも良くしてあげられるならと乗り気になっている。北の方はそれを見て、夫婦になるからには曹司(私室)をやらねばなるまいと、東の対の西北隅の、物置のような部屋を空けて、明子の曹司として与えたのだった。
 明日は曹司へ移るという九月の夜、明子は律子姫と、しみじみと語り明かした。
「明日から貴女、東の対に住むのね」
 さすがに姫も寂しく思っているのか、思いなしか声が沈んでいる。
「帯刀を夫としても、私の御主人は姫様一人、他の誰でもありませんわ。東の対に住んでいても、毎日必ず、ここへ参りますわ」
 明子の方は感情が高ぶって、声は上ずっている。
「その志は、有難く頂戴するわ」
「姫様……。私、十九歳の今年まで、姫様の幸せだけをひたすらに思って、お仕えして参りました。それなのに、姫様の婿君もお決まりでないうちに、姫様をさしおいて私が帯刀を夫とするのが、申し訳なくて…」
 姫はふと、寂しげな微笑を浮かべた。
「申し訳ない事ないじゃないの。帯刀はいい人なんでしょ? 貴女、帯刀が好きなんでしょ? 私みたいな、しがない姫に付き合って年を取るより、好きな人と一緒になって、貴女自身の幸せを創った方がどれほどいいか。貴女だけの人生なんだもの、貴女だけの幸せを見つけて、精一杯生きなさいよ。ね?」
 明子は姫の言葉を黙って聞いていたが、見る間にその目に涙が溢れ、姫の膝に突っ伏すと、肩を震わせて泣き始めた。姫の頬にも、知らぬ間に涙が伝っていた。
「明子、幸せになってね……」
 姫は明子の髪を撫でた。明子の髪は、長くて繊細、しっとりした艶があり、女房にしておくには惜しい髪の美しさなのだった。
 そこへ例の荒々しい足音がして、音をたてて戸が開き、
「やっぱりここにいた!」
 北の方のだみ声が響き渡る。姫と明子は、驚いて顔を上げた。
「いいかい阿漕、帯刀を婿に取ったって言ってもね、お前は所詮、うちの女房なんだよ! わかってるのかい! わかったら、こんな汚いところで油売ってないで、さっさと働きな! 朝飯の支度!」
 北の方は明子を指差し、唾を飛ばしてまくし立てる。これが公卿の北の方のする事か。
「あんたもだよ落窪! いっぱしの姫様気取りで、女房をかしずかせて! あんたなんか、一生針仕事してりゃいいんだ! 昨日預けた袍は、もう縫えたんだろうね!?」
 昨夜からずっと、明子と話し込んでいたので、まだ全然縫い上がってない。
「もう少し、待って下さい、お義母様」
 北の方は姫の言葉尻を捕まえて、一層居丈高になった。
「お母様、だって!? あたしゃ、あんたなんか、産んだ覚えはないよ! 勝手に他人を、人の親にしないでおくれ!」
 これは姫の心を、いたく傷付けた。姫は顔を袖で覆うと、声をあげて泣き出した。
「ああもう、朝っぱらからうるさいったらありゃしない。阿漕、落窪なんか放っといて、さっさと来な! 来ないと、朝飯抜くよ!」
 北の方は捨て台詞を吐くと、叩きつけるように戸を閉めて、床板を踏み鳴らしながら去って行った。明子は激怒して言い募った。
「姫様! 私、もう我慢できません! 今すぐ姫様と一緒に、この邸を出ます! ええ、叔母様のお邸へ行けば、姫様、こんなひどい暮らしは終わります!」
 明子の叔母は前の和泉守の北の方であった。この時代、国守というのは裕福の代名詞となっていたものである。
「だ、駄目よ、明子……貴女が出たら、帯刀はどうなるの? 帯刀が蔵人少将様の御機嫌を損ねたら、貴女も帯刀も、京にいられないわ」
 姫は泣きながらも、明子を諭す。こんな時になっても、私の事を心配して下さるなんて! 明子の心から、感激が憤怒を追い払い始めた。
「さ、早く、行きなさい。貴女が叱られるのを、私は聞きたくないわ」
 姫はいつもこう言って、明子を部屋から送り出すのだった。明子は、これが姫様との今生の別れになるかもしれない、などという思いが、ふと頭の片隅をよぎった。
・ ・ ・
 その晩明子は、惟成と寝物語に、律子姫の境遇を語った。
「ひどい話だなあ……仮にも中納言殿の姫君じゃないか。そんな御方を、土間に押し込めて、毎晩針仕事だなんて」
 惟成は若い男だが、身分の高い若公達にあるような浮わついたところがなく、生真面目でかつ情に篤い性分なので、妻の仕える姫君の境遇を聞くと、心底から同情するのだった。
「そう思うでしょう? 今朝も、北の方様は姫様を散々罵った挙句に、『あんたを産んだ覚えはない』よ! 私はもう腹が立つやら情ないやら、今すぐこの邸を出ましょう、と姫様に申し上げたのよ。そうしたら姫様、私がこの邸を出たら、帯刀、あんたはどうなるの? と、ご自分の事より先に、あんたの事を心配して下さったのよ」
 惟成は息を呑んだ。俺はここへ出入りするようになって大分立つが、姫様にお目にかかった事は一度もない。そんな俺の事を、ご自身より先に心配して下さったのか! 惟成は、胸の奥底から揺さぶられるような気がした。
「明子、俺は決心したぞ。姫様の良い御縁のためなら、この身はどうなろうとも構わない。俺をそこまで思って下さる姫様に、俺のできる限りの事はして差し上げる」
 惟成の固い決意を込めた言葉に、明子は、
「そう来なくっちゃ! 私も、頑張る!」
 と言って、惟成が苦しがるほど抱擁したのだった。
・ ・ ・
 惟成の母は、大納言兼左大将藤原道信卿の長男、左近少将道頼君の乳母であった。この縁で惟成は、左大将家と懇意で、特に同い年の道頼君とは親しい関係であった。
 道頼君は当年二三歳、家柄も良く、人柄も誠実で、将来を嘱望されている君であるが、どういう訳かこの年まで、正式に結婚した姫君は勿論、思い人の一人もいないのであった。この君なら、落窪の姫君の御夫として、これ以上望むべくもない良縁だと、惟成が思い込んだのも無理はない。早速惟成は、人の少ない折を見計らって、道頼君に申し上げる。
「少将様、某如きが申し上げるのも恐れ多うございますが、耳よりな話がございます」
 道頼君は惟成とは以心伝心の仲なので、すぐに察して、
「婿入りの話か? そう言えば惟成、お前、源中納言殿の邸の女房に婿入りしたんだろ。中納言殿に婿入りの話は、どうも気乗りがしないんだ。幾ら何でも十四歳じゃあ」
 まだ話は始まったばかりだというのに。惟成は力を込めた。
「四の君様ではなくてですね。もうお一方、式部卿宮の御娘のお産みになられた姫君がいらっしゃるのです」
 道頼君は興味を示す。
「式部卿宮の御娘? そりゃ初耳だ。詳しく聞かせてくれ」
 ここぞとばかり惟成、明子から聞いた話を次々に話す。君は相槌を打ちながら耳を傾ける。
「おいたわしい。まるっきり昔物語じゃないか。洞院の帝の三代の御裔が、継母に苛まれつつ、公達の救いを待ち佗びておいでになるのか」
 道頼君の慨嘆に、惟成は熱弁を振るう。
「そうですとも。そして救いの公達は、少将様、貴方様なのです」
「お前の身の上を、第一に心配なさるというのだから、さぞかし心優しい姫君であろうな。一度、そっと逢わせてくれ」
「この惟成、少将様の御ためなら何でも致しましょう」
 大いに脈ありと知って、喜び勇んで惟成は帰ってきた。早速明子に、左近少将様が大いに脈ありだと話すと、明子は、
「ちょっと待ってよ。昨日の今日で、いきなり話を持ち込まれても。姫様は、御結婚の事などまだ何も思っていらっしゃらないし、それに聞くところでは、左近少将様は大変な女蕩しだと評判の御方」
 惟成は遮って、
「おいおい、亭主の仕えてる御主人を勘違いするなよ。大変な女蕩して、そりゃ東宮御息所の御兄、弁少将様の事じゃないか。俺の御主人の左近少将様は、誓って言うが女蕩しなんかじゃあられないぞ」
 案外、人の噂というのは混乱するものだ。
 明子は続けて、
「やはり当の姫様御自身が、御結婚などお考えになったこともないんですもの。私としては、やはり、姫様御自身の御意志を……」
 惟成はもう、すっかりその気になっているので、ここでこの話が潰れたらと思うと気が気でなくなって、明子の言葉を遮った。
「姫様御自身の、と言って、姫様がその気になられるのを待ってたらどうなる? 少将様は二三歳、そういつまでもお独りではいられまい。あと二、三年もしたら、四の君様がお年頃になられる。そうなったら、少将様は四の君様の御夫となられるかも知れんじゃないか。そうしたら、姫様はお独り、そして北の方様が、素晴らしい御婿を取ったと大喜び、お前、それでもいいのか?」
「北の方」――この一語は、明子には炎のような憎悪をかき立てる。明子は、目をぎらぎらと輝かせて言った。
「わかったわ。姫様によくよくお話しして、その気にさせて差し上げるわ」
 惟成は大喜びで、明子を抱きしめて、
「頼むぞ明子、お前に全てがかかってるんだ」
・ ・ ・
 明子は早速、律子姫の部屋へ出かけた。姫は相変わらず、縫い物に忙しい。綏子姫のお産が近いというので、何十枚というおむつを縫っているのだった。
「あら明子、いいところに来た。揚団子食べる? 紀子お姉様が先刻、下さったの」
 他人の産む赤児の、おむつを縫わされているのに、この屈託のなさは何なのだろう。明子は揚団子をつまみながら、話を切り出した。
「姫様、帯刀が、姫様が御夫君をお迎えなさることについて、私にいろいろと申しているのですが」
 明子は惟成が、左近少将様は姫様の御夫としてこの上ない御方だ、少将様も大いに乗り気でいらっしゃる、と言っていたと、姫に熱心に話した。しまいには、ぐずぐずしていると少将様は四の君様の御夫に収まってしまう、そうしたら北の方様は大喜びだ、と弁じ立てた。
「貴女、どうしてそうお義母様を悪く言うの?」
 姫はあくまで穏かに、明子をたしなめる。
「……」
「貴女の言うことを聞いてると、少将様はそれは立派な御方だと私も思うけど、でも、余り御立派すぎて、却って私みたいな継子にはふさわしくない御方だと思うのよ」
 明子は心外だとばかり、
「どうしてそう卑下なさるんですか!? 姫様の御父上は中納言、御祖父上は式部卿宮、雲井(内裏、即ち後宮)にだってふさわしくないなんてことはございますまいに!」
 興奮する明子に、姫は苦笑いして、
「雲井とは大きく出たわね。それはそうとして、少将様は、本当に私を、御心の底から好いて下さって、それで私を妻となさろうというのかしら? 貴女が前よく言ってたじゃないの、若い公達によくあるほんのお遊び心で、私にお声をかけてみようと。そういうのは、私は嫌だわ」
 女性というもの、誰しも男の、かりそめの手なぐさみにされたくはないのだ。明子は力説する。
「左近少将様に限って、そんな事はございませんわ! 御年二三歳になられるまで、一人の思い人もいらっしゃらない御方ですもの。姫様の御有様に深く御同情なさって、それで乗り気になられたと、帯刀も申してます」
 姫は、きっと明子を見つめて言った。
「それよ、私の有様に同情なさって、というところよ。いい、私はね、身分も高く権勢も盛ん、財産も豊か、そんな御方に、恩着せがましい同情はされたくないのよ。私の今置かれている有様が、どんなものか、明子、貴女ならわかるわね。本当のお母様がいないこの気持も、わかるわね」
 明子は頷いた。明子の母は、五年ほど前に亡くなっていたのだ。
「左近少将様には、お母様がいらっしゃるわね。一日たりとも、義理のお母様に育てられなさったことはないわね。そういう御方に、私の心の全てをわかって頂けると思う? 権勢だって財産だって同じこと、私とはお育ちになった周りの世界が、余りにも違いすぎる御方よ、左近少将様は。何事にも恵まれた、いえ、恵まれすぎた御方に、私の有様に安易に同情して頂きたくないのよ。私のこの有様を、本当によくわかり合える人、貴女みたいな人とこそ、結婚したいのよ、私は」
 こうまではっきりと言われてしまっては、明子も取りつく島がない。いつの間に、こんなにしっかりしたお考えを身につけていられたのか。深く溜息をついて、
「勿体ないお話ですのに」
 そこへ典侍の君が顔を出し、
「阿漕、蔵人少将様の御帰りだよ! 御手水を差し上げなさい」
 明子は立ち上がった。
「すぐ参ります」
 明子が行った後、姫は一人、明子の話を繰り返し思い出しては、考えあぐねていた。
 明子の言うことも尤もだわ。でも私は、私の心の本当のところをわからない人に、安易に同情されたくない。口先だけで「お可哀そうに」だったら、誰だって言えるもの。
・ ・ ・
 惟成は大納言邸へ行くと、律子姫の言ったことを明子から聞いた通りに君に話した。君は惟成同様、深く歎息して、
「そう仰有るのか。と言って私は、今更忠社になる訳にもいかない」
 惟成、「ただこそ」の意味がわからず、
「は?」
「宇津保物語の、忠社だよ。色々な訳があって、継母に苛まれた挙句失踪したという」
「左様ですか。某は、物語というものには疎くて」
 道頼君は苦笑いしたが、すぐ顔を引き締め、
「だが、それほどしっかりした御考えをお持ちの姫とは、昨今珍しい。十九歳とか、お年の割にしっかりした御方だな。一層、気に入った」
 惟成は何としても話をまとめようと躍起だ。
「左様、そのような姫様には、少将様のように堅実な御方こそふさわしいと存じます」
 少将は笑って、
「おだてても何も出ないぞ。……しかし、先方はどうも気乗り薄であられるようだな。父中納言殿の御意向はどうなのかね?」
 惟成も、ここまでは聞いてこなかった。
「さあ……某にはわかりませぬ」
「中納言殿さえ御賛成なら、何も支障はあるまい。父上は、早く身を固めよと焦っておられるから、中納言殿の御娘とあれば、反対なさるまい」
「少将様は、当節随一の婿がねにあられますからな。お殿様も、御反対はなさらないでしょう」
「お前は口が達者だな。ただ……そんなに卑しめられておられる姫君のもとへ、表立って婿入りとなると、世間体がな……。だから一度、逢わせてくれんか。その上で、うちへ迎え取るなり何なり、考えを決めよう。とにかく、うまく取り計らってくれ。せいぜい……」
「せいぜい、とは頼りないお言葉」
「精一杯、と言おうとしたんだ。そう突っ込むな」
 最後は笑いに紛らかしてしまった。
・ ・ ・
 数日後、内裏を退出して邸へ帰る車に、偶然忠頼卿と、紀子姫の婿の仲基君が同車した。
「ときに義父上、四の君様の御婿に、左近少将様をとお考えになられたのは、その後いかがなられました?」
 仲基君が切り出した。婿殿、何を言い出すのかと訝った忠頼卿、些か不快の面持ちで、
「先方はどうも余り乗り気ではあられないらしい。少将殿は二三、姫は一四、齢が離れすぎているとな」
「それはご尤も」
 君は二一歳、紀子姫は二十歳である。
「して、今一方の姫君は、確か十九歳にあられましたな」
 やっと婿殿の意図がわかった。
「その姫君には、誰を御婿に迎えられるお積りで?」
 卿は突然、沈痛とも思える面持で歎息した。
「あの姫も、もう十九であったか。仲基殿、あの姫の境遇を知っておいでか。母は早くに亡く、儂だけが実の親だ」
 律子姫のことは、仲基君は妻の紀子姫から、うすうすは聞かされていたのだった。
「存じております。妻から聞きました」
 忠頼卿は一層沈痛に、
「ならばあの姫が、今どんな目に遭うているかも知っておられよう! 儂としてはせめて、故式部卿宮の御名を辱しめぬような、立派な婿君をお迎えして、姫の境遇を償ってやりたいと思っておる」
 君は身を乗り出した。
「それなら、左近少将様こそ、最も立派な婿がねではございませんか! 人柄も良く、家柄も申し分なし、これ以上の婿がねは望めますまい」
「いや……珠子の婿に左近少将殿をお迎えする話はの、勝子が大いに乗り気になっていたのだ。何しろあれは珠子を溺愛しておって、当代一の婿君をお迎えせねばと張り切っておったのだ。ここだけの話だが、先方が色よい返事を下さらんもので、あれはもう焦るというより怒り狂っておるわ」
「お察し申し上げます」
「そこへ、あの姫……律子に、少将殿を婿にお迎えするなどと言ったら、どうなる? 下手をすると逆上の余り、取り返しのつかぬ挙に走るかもしれぬ。それが怖くての」
 仲基君は半ばあきれながらも、忠頼卿を激励するかのように、
「義父上! 義父上は、律子姫様の、誠の父君ではございませぬか! 姫様の一生の御大事に、義父上が何もなされぬというのでは、義兄として口惜しうございます! 私も、及ばずながら姫様の御幸のためなら力を尽くします!」
 しかし卿は呟くばかりだった。
「仲基殿が、律子のことをそこまで思って下さることには、忠頼、感謝せねばなるまい」
・ ・ ・
 帰邸した忠頼卿は、北の対の隅にある樋殿(便所)へ行くついでに、律子姫の部屋に足を止めた。少し開いた戸から覗いてみると、律子姫は髪を綿埃で真白にして、綿入れを縫っている最中であった。傍で明子が、これも綿埃だらけになりながら、綿をほぐしている。
「お殿様!」
 明子がまず卿に気付いて声を上げ、姫も気付いて向き直った。
「いやはや惨めな有様だ。折角の髪が埃だらけで、儂の髪より白くなってしまって」
 卿は廊下にどっかと坐り込んだ。
「律子、お前もそろそろ、婿取りを真剣に考えてもよい歳だ。儂が考えなければならん事なのだが、他の子供等の事で忙しすぎて、すっかり遅くなってしまった。お前は小さい頃から利発だったから、もう自分なりの考えもあろう。何か良い縁があったら、自分の考えで取り計らいなさい」
 父と言葉を交わすことなど、年に一度あるかどうかというところだ。姫は、小声で答えた。
「はい」
「儂も、もう長くはあるまい。儂の生きているうちに、お前の婿取りの事を決めて、お前の亡き母の魂を安心させてやりたい」
 こんな心細い言葉を聞くと、姫はいたたまれない。姫は声を上げた。
「お父様、そんな心細いことを仰有らないで。珠子姫も、三郎君もおられます。まだまだお父様には長生きして頂かないと」
 卿は涙ぐんだ。
「律子、お前は昔から、誰よりも弟妹思いだった。あの子等には、勝子がついている。お前には儂しかいない、だからこそ、お前の行く末が案じられるのだ……」
 卿は明子に目を向けた。
「阿漕、姫の婿取りには、お前も存分に働くがよい。お前は、姫と一番気心が知れた仲だし、女房の中でもしっかりしている。姫の行く末を頼んだぞ」
 明子はすっかり恐縮し、
「かしこまりました、お殿様」
 忠頼卿は大儀そうに腰を上げ、去って行った。見送る明子の心には、いつにない自信が湧き起こってきた。姫様の婿取りには、私に存分に働くがよい、とお殿様は仰有った。ということは、左近少将様を御夫として差し上げても、お殿様は反対なさるまい。少将様も大いに乗り気でいらっしゃる。こうなれば、あとは姫様を説得申し上げるだけ。……でもやはり、姫様の仰有ることはご尤も、それは私も実の母を持たない身だからよくわかる。そこまで考えると、何となく決心がぐらついてくるのだった。
 卿は寝殿へ戻ると北の方に、
「律子の部屋を覗いてみたんだが、大分みすぼらしい衣を着ているじゃないか。夜は寒かろう、綿入れでも出してやりなさい」
 珠子姫の婿取りが進展しないで機嫌の悪い北の方は、律子姫の話を持ち出されると俄に立腹して、
「この邸内の事は、私が取り仕切っております! 余り些細な事で、差し出口を仰有いますな!」
 卿は弱り切った。この調子では、珠子の婿にと望んでいた道頼君を、律子の婿になどと言い出したら、何をされるかわからない。仲基君が味方してくれるとしても、到底言い出せる雰囲気ではない。
 夜、明子は惟成に、夕方忠頼卿が話した事を伝えた。
「それじゃお殿様は、姫様の婿取りには御賛成、と」
「そうでしょうね。お殿様御自身は、誰を御婿に迎えなさる積りとは仰有りませんでしたけど」
「少将様が御婿なら、お殿様も何も仰有ることはあるまいさ」
 惟成は有頂天である。翌日、朝早くから惟成は大納言邸へ出かけて行き、道頼君に忠頼卿の意向を伝えた。君は躍り上がって、
「それじゃあもう、姫君を妻とするのに何の支障もないということか!?」
 惟成も嬉々として、
「あとは某の妻が、姫様を説得申し上げるだけです」
 だがしかし道頼君は、そこでいきなり忠頼卿に申し入れようということはしない。
「やはり一度は、逢ってみたい。御顔がどうのと言うつもりはないが、御気性や物の考え方、そういうことも知ってから、どうするかを考えよう」
 と慎重に構えながらも、いそいそと恋文を書いて結び文にし、惟成に持たせる。惟成は帰って、明子に少将様の御手紙だと言って渡した。
「まあ驚いた、もう御手紙ですか!?」
 明子は驚きあきれて、手紙を返そうとする。
「まだ姫様のお気持ちは、私も確かに掴めてはおりませんのに」
 それを惟成は、お見せするだけでもと言い張るので、明子は手紙を持って行く。
「姫様、左近少将様からのお手紙です」
 縫い物をしていた姫は手を止めて、
「左近少将様から? まだ私、結婚のことは何も……。それに、お義母様はお許し下さるかしら?」
 明子は気乗りしない取り次ぎだったので、思わず癇癪を起こし、
「姫様は、北の方様がお許しにならなければ何もなさらないお積りですか!? 今まで、姫様の御ためになるような事を、北の方様がお許しになった事がありましたか!? 北の方様の思惑など無視なさって結構です!」
 姫も気乗りしないながら手紙を取り、広げてみる。実直な道頼君らしく、文も歌もぎごちないが、姫も明子も初めて見る恋文である。――明子と惟成の間では、恋文のやりとりといった煩瑣な事はなかったのだ。
「お気持ちはどうあれ、お返事はお書きになるのが礼儀ですわ」
 明子は言うが、姫は、
「お返事の書き方がわからないの」
 と、いつもの聡明さにも似ず言うと、手紙の事を忘れたかのように、縫い物に専念するのだった。
 さて例によって北の方が、頼実君の装束を縫わせるために持って来たが、その時ついでに、
「あんまりみっともない格好されると、見てるあたしの方が不愉快だからね」
 と言って、着古した綾織りの綿入れを投げてよこした。これから寒さが厳しくなる折とて、律子姫は喜んで礼を言う。
「勘違いするんじゃないよ。水汲女にだってもっとましな衣をやってるんだからね」
 さすがに北の方にも、咎めるほどの良心があったのだろうか。こんな嫌な物言いをされても、素直に感謝している姫の姿に、明子はいじらしさの余り涙が出てきた。
「どうか姫様、お志だけは高くお持ちなさいませ、決して卑屈におなりなさいますな」
 哀訴に近い口調の明子に、姫は笑って、
「私は卑屈になってはいないわよ。そりゃあお義母様は時々、聞きにくいことも仰有るけど、でも折に触れて、私にこう親切にして下さる方ですもの」
 と言うと、縫い物に精を出すのだった。
 数日して縫い上がった装束が、頼実君のもとへ届けられると、君は物事の良し悪しをはっきり言う性分なので、
「実によく縫えているな。腕の立つ女房がいるんだね。誰に縫わせたんだい」
 と満足気である。綏子姫は、かねてから律子姫に好意を持っていなかったので、女房に箝口令を出して、律子姫のことを頼実君に知らせまいとし、
「名前を申し上げるほどでもない下臈ですわ」
 と素っ気なく答えただけだった。北の方は後でそれを聞いて、
「そうそう、それでいいんだよ。落窪に聞かせたら、増長させるだけだから。縫い子なんてのは、卑屈にさせておくのがいい」
 と得意然と言うので、明子はそれを聞いて悲憤慷慨、他の女房の中にも、珠子姫付きの少納言などは、
「あんまりな仰有りようですこと」
 と陰で言っている。
・ ・ ・
 道頼君からは頻々と恋文が寄せられるが、律子姫からはなしのつぶてである。君は惟成をせっついて、
「惟成、お前本当に、姫君に取り次いでくれてるんだろうな?」
 惟成は慌てず、
「これは心外なお言葉。某、少将様に嘘偽りを申した事がございましたか。妻が申すには、姫様は本当に初心でいらっしゃって、恋文の御返事の書き方も御存知ないというのです。それに、北の方様の思召をとても御憚りになっていらっしゃる御様子と」
 君は腕組みした。
「北の方様を憚って、か。先に惟成が申したことを、そのまま姫君に申し上げよう。貴女だけの御生涯だから、貴女だけの幸せをお探しなされ、と。姫君も、なかなかいい事を仰有るではないか。こうなったら手紙では埒があかない。惟成、何とか私を手引して、姫君に逢わせてくれ」
 君は惟成の両肩を掴んで揺さぶる。
「そうは仰有っても、やはり姫様は、かの邸にお住まいの身、そこへ少将様を手引き致しましたことが、もし他人に知られれば、北の方様の御気性からして、姫様にはおいたわしい事態が起こるのでは、と妻も申しておりますし」
 惟成も、ここに至って俄に弱気になった。
「何とか、機会を狙ってくれよ。頼む、いや、これはもう命令だ」
 君はやや居丈高になった。こう言われては、惟成も承服せざるを得ぬ。
「かしこまりました」
 君はやや肩の力を抜いた様子で、
「ところで、姫君は絵はお好きかな?」
 惟成は、急に話題が変わったので安心した。
「絵、ですか? それは……某の存じ上げるところではございませんが」
 君は惟成の返事を聞いていない様子で、
「妹の東宮女御の入内の折に、父上が絵合でもさせなさる積りでか、大層絵巻を拵えさせ、お持たせになったのだ。私が姫君のもとへお通いするようになったら、持って参ろうかと思う」
 惟成は相槌を打つだけだ。
「妻に申し伝えましょう。……恐れながら、絵巻よりはむしろ、箏の譜の方が、姫様はよりお喜びかと……」
 恐る恐る申し出た惟成に、君は腕組みして、
「箏の譜、ねえ。どうも私は音楽には疎いから、そういうものは生憎だが」
 君と惟成、はっと顔を見合わせて笑った。
(2000.6.16)

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