釧路戦記(改訂版)

第二部
第一章
「停まれ!」
 前方にジープが停まっている。そのジープに乗っていた男が、ハンドマイクで怒鳴った。太刀川小隊長はブレーキを踏む。バスは停まった。敵兵が四人、ジープから降りると、銃を構えながらバスの周りに駆け寄る。太刀川小隊長は、窓から顔を出して尋ねる。
「何ですか?」
 ハンドマイクを持った曹長はがなり立てた。
「降りろ! 検査する!」
 太刀川小隊長は穏やかに言った。
「そんなに大声出さなくたって聞こえますよ」
 いつもながらおっとりした口調だ。曹長は一層がなり立てる。
「さっさと降りろ! 荷物は車内に残せ!」
 石塚が舌打ちすると、鞄を開けようとした。銃が入っている筈だ。私は石塚の手を押えた。
「待て、石塚。……中隊長、どうします?」
 中隊長は言った。
「おとなしく従うふりをした方がいい」
 太刀川小隊長はのんびりと言った。
「じゃ降りますか。皆さん、お聞きの通りです」
 私は中隊長に耳打ちした。
「私は車内に残ります。敵が入って来たらやっつけます」
「敵は銃を持ってるぞ」
「近接戦なら私の空手の方が勝ちます。皆を降ろしたら、後ろの戸を閉めるよう、太刀川小隊長に言って下さい」
「わかった」
 前後の扉から皆が降りると、太刀川小隊長は後ろの扉を閉め、前から降りた。私は座席の間に身を隠した。
「全員降りたか!?」
 曹長が喚く。太刀川小隊長が答える。
「降りました。三十五人です」
 と、石田が声を上げた。
「班長が……」
(あの馬鹿!)
 私は内心石田を罵った。
「何だと!?」
 曹長が声を荒げる。石田を咎めているらしい。
「あ、いました。あそこに」
 石田はでたらめに誰かを指したのだろう。曹長の声がする。
「鈴木、吉田、気をつけろ。中に隠れてるぞ」
 私は身構えた。兵が二人入ってくる。これは各個撃破だ。前の兵は私に気付かずに通り過ぎた。後の兵も通り過ぎようとする。私は素早く立ち上がり、後の兵の背後から襲いかかった。片手で口を塞ぎ、もう片手で兵の頚筋に痛烈な一撃を叩きつけた。崩折れる兵から、素早く銃を奪い取る。奥の兵が振り返ると同時に、私は引鉄を引いた。車内の銃声を聞きつけて、もう一人の敵兵が駆け込んで来た。これも一発で射倒す。そうしておいてから、最初に倒した敵兵の生死を確認した。確実に死んでいる。
 私は銃を担いでバスを降りた。すぐ近くの人だかりが解けていく。その真中で、曹長が絞め落とされている。私が、止めを刺そうと銃を向けると、吉川小隊長が制して言った。
「銃は無用だ、頚をへし折ってある」
 私は銃を降ろし、中隊長に言った。
「車内の三人は、無事片づきました」
 中隊長も満足そうだ。
「矢板の空手も大した物だな」
 私は仲間と協力して、車内の敵兵三人をバスから運びだし、武装を奪って林の中へ放り込んだ。敵の武装は、可能な限り奪ってゆくこと、これが敵の戦力減殺につながると何度も言われたものだ。敵のジープも捕獲し、河村と片山が乗って、バスに続く。バスは三十四人を載せて走る。
 新緑の広葉樹林を縫って、二車線の立派な道が続く。こんなに立派な道なのに、沿道には人家は稀だ。決して急峻な山岳地帯ではない。内地なら段々畑や棚田が広がっていそうな丘陵地である。無尽蔵の未開発資源を抱いた北海道の大地を象徴するような一帯だ。
 十分ばかり走ると、対向車線を走ってくるジープが見えた。敵だ。河村達のジープが、やにわにバスを追い越した。中隊長が言った。
「吉川、先刻の銃、用意しろ。矢板もだ」
「了解」
 私と吉川小隊長は、バスの前部、左右の窓に陣取った。前のジープでは、片山が銃を構えている。
 敵は、こちらのジープに乗っているのが味方ではないのに気付いたらしい。ハンドマイクを構えた。
「おい! そこのジープ! 停まれ!」
 片山の銃が火を噴く。私も遅れじと引鉄を引いた。タイヤに命中した。ジープは回転しながら道路を飛び出し、築堤を転げ落ちると、仰向けになって川辺の湿地に落ちた。敵兵の一人は、ジープから投げ出されて倒れている。
 河村はジープを停めた。片山は敵のジープに駆け寄り、車の下敷きになっている敵兵に止めを刺す。河村も築堤を降り、敵兵の生死を確認する。太刀川小隊長はバスを停め、二人が登って来るのを待つ。
 バスは発車した。ジープが続く。先般から敵と接触しているところからすると、もう戦場に足を踏み入れていることになる。中隊長は地図を広げ、現在位置を確認している。
「雷別川の谷を出たところが、中チャンベツの集落だ。厚岸と標茶を結ぶ道もここを通るんだな。重要地点だ」
「ここが戦場になったとしても、この町の人は巻き込みたくないですね」
 吉川小隊長は言った。
「その通りだ。もし民間人を巻き込んだりしたら、我々は第二の革命軍になってしまう。民間人を巻き込まないことは軍人の義務だ」
 中隊長は力強く断言する。中隊長は先の戦争中は、中国各地を転戦したと聞いたことがある。それだけに、戦争が民間人に及ぼす惨禍を十分に知っているから、このような言葉が出てくるのだろう。私も全く同感だ。そもそも私達の仲間には、革命軍の抗争に巻き込まれた者が少なくないのだ。
 中チャンベツを過ぎると、道は再び林の中をゆく。この道は新しい開拓道路らしく、丘陵を横切り沢を渡り、かなり地形を無視して遮二無二通じている。
 やがて、一車線の狭い道との交差点に差しかかった。バスは右折し、未舗装の道を走る。景観が変わり、草の繁る荒蕪地の中に潅木が点在するようになった。このような土地は行軍は楽だが、遮蔽物が少ない。時折、高さ一メートル余りの土堤が見えるが、これは何なのだろうか。ごくなだらかな稜線上を道は続く。
 浅い切り取りを抜けた途端、太刀川小隊長は左へハンドルを切った。バスは道路を外れ、道とは言えないような轍の上を走る。ひどい悪路で、バスは激しく揺れる。私は慌てた。
「どこへ連れてくんです!?」
 太刀川小隊長は落ち着いて、
「風蓮川の川原へ降りるにはこの道しかないんだ」
 バスは浅い沢を下っている。風蓮川の川原と言うところが、我々の目的地なのだろう。沢は丘陵と違って木が多く、その木を少し伐採して細い道を開いてある。やがて林が開けて、湿地になった。車輪の幅に合わせて、板が敷いてある。湿地を抜けたところで、
「おや?」
 太刀川小隊長は不意にバスを停めた。中隊長が訊く。
「何だ?」
「ジープが追いて来てません」
 吉川小隊長が振り返って声を上げる。
「後ろの方、ジープが見えるか?」
「見えません」
 私は吉川小隊長に言った。
「私が様子を見て来ます」
「わかった。もう一人、谷口、行け」
 吉川小隊長は、すぐ後ろにいた谷口に言った。私と谷口は、銃を持ってバスから降り、今走ってきた道を戻った。
 ジープは湿地の中に停まっていた。車幅が狭いため、湿地に敷いた二列の板の間に車輪を落としたのだ。河村は照れ臭そうに、
「俺とした事が」
 敵襲を受けたのではない。それなら安心。私と谷口はバスに戻り、状況を報告した。
「わかった。バスで引っ張ろう。後ろのトランクに鎖が入ってる」
「私が誘導します」
 私の誘導で、バスは湿地へ戻った。数人の仲間がバスから降り、後部のトランクから出した頑丈な鎖で、バスとジープを繋ぐ。それから皆でジープに取り付き、押し上げる態勢に入る。
「準備完了! バス、発進して下さい」
 私の声と同時に、河村はジープのアクセルを踏む。バスの排気煙が一際濃くなったと思うと、ジープはするすると動き出した。たちまちジープは湿地から、二列の板の上へ戻った。尚も徐行して、湿地を抜けたところで車を停め、鎖を外した。
「ジープは車幅が狭いからな。もう一列板を敷くように上申してみよう」
 太刀川小隊長は言った。
「この辺りは湿地が多いからな。別寒辺牛川の方なんか一面の湿原だ。車は使えないし徒歩でも進軍速度がガタ落ちだ。やりにくいぞ」
 歩行の困難な湿原が一面に広がっている状況というのは、想像の域を超えるものがある。
 やがて川原の左右には、高い土の崖が見え始めた。と思う間に、バスは鉄条網の前で停まった。傍らの小屋から兵が二人、銃を持って出てきた。
「東京第一中隊の太刀川だ」
 太刀川小隊長は、胸のポケットから畳んだ紙を取り出し、一人の兵に渡した。
「了解。門を開けろ」
 その兵は太刀川小隊長に紙を返しながら、もう一人の兵に言った。二人の兵が門を開けると、太刀川小隊長はバスを発進させた。
 少し走ると、二十メートルくらいの崖の下でバスは停まった。太刀川小隊長は振り返って言った。
「ここが東京第一中隊の兵舎です」
 崖の下には鉄の扉があり、「東京第一中隊」と書いた札が下がっている。扉が開いて、兵士達が何人も出て来た。私達も、荷物を持ってバスから降りた。いよいよ戦場の真只中に来たのだ。私服でいるのが雰囲気にそぐわない。
「入り口を入ると左右に階段がある。右の階段を登った所が吉川小隊の部屋だ。もっと奥にも部屋があるが、そこは上村小隊の部屋だから入らないように」
 太刀川小隊長が指示する。
「それから、炊事場はこの林の向こうの川縁にある。各小隊の中で、一班ずつ交代で炊事する。川向こうの崖下に烹炊部があるから、そこで一個小隊分の食料と石炭を受け取ること。
 風呂はあそこの板囲いの中だ。今日は吉川小隊の日だ。前の日に風呂に入った小隊から、風呂当番を出す。風呂の石炭は烹炊部から運ぶ。水は川から引いてある。
 便所はそこだ。その他の注意はその都度与える。以上」
 私達は兵舎に入った。入るとすぐ右の壁に扉があるが、ここは私達の部屋ではない。右側の階段を登ると扉があり、扉を開けるとやや広い部屋である。
「沖縄や硫黄島にあった洞窟兵舎は、こんな感じだったろうな」
 一人当りの面積は一畳くらいか。三十六人で生活するには少々狭いようだ。私達は思い思いの場所に荷物を置いた。床は古毛布が敷いてあり、荷物は汚れないし快適だ。壁と天井には漆喰が塗ってある。
「さて着替えるか。こんな格好じゃ気分が出ない。戦場へ来たんだ、いつまでも民間人気分じゃ駄目だ」
 私は鞄を置き、戦闘服を取り出した。他の仲間達も、誰言うとなく戦闘服に着替え始める。銃の手入れを始める者、銃剣を磨き始める者、皆目の色が変わってきた。
「銃剣が刃こぼれしてる。研ぎに行こう」
 私の他、数人の仲間達が連れ立って、銃剣と砥石を持って川へ行こうとすると、兵舎を出た途端に太刀川小隊長に呼び止められた。
「どこへ行くんだ!?」
 私は振り返って答えた。
「川へ、銃剣を研ぎに行きます」
 太刀川小隊長は厳しい口調で言う。
「どこへ行くにも、丸腰は厳禁だ。銃を持て」
 私は負けじと言い返した。
「銃はあっても、弾丸がありません。弾丸がなければ、便所にも行けないのですか」
 吉川小隊長が、私の声を聞きつけて顔を出し、宥めるような口調で言った。
「矢板、そうカッカするな。すぐ本部中隊を通じて、弾丸を届けさせるから、それまで部屋で待ってろ」
 程なく、数人の兵が川下の方から来ると、小隊全員に一個ずつ弾倉を配給して行った。私は弾倉を装着した銃を担いで兵舎を出る時、太刀川小隊長に言った。
「私の認識不足でした。ここは本当の戦場なんですね」
 太刀川小隊長は、先刻と打って変わって穏かに言った。
「俺も少し、居丈高になりすぎたよ」
 銃剣を研ぎ終わって、川から帰ってくると、河村が言った。
「矢板、無線の調子を確かめておこう。出撃してみて故障してたら困る」
「そうだ、忘れてた。今のうちにやっておこう。小隊長にはここにいて貰って、俺達は一キロぐらい離れた所へ行こう」
 私は階下へ行って、小隊長に、無線の試験をやる旨を申し出た。小隊長は快く引き受けてくれた。
「無線の試験か。なかなかいい心がけだな。俺はここにいればいいのか、わかった」
 私と河村、石塚、三木の四人は、ハンディトーキーと銃を持って兵舎を出た。私は一キロほど川下へ行き、ハンディトーキーのスイッチを送信に入れた。
「TYH、TYH、こちらTYY、応答願います、どうぞ」
 スイッチを受信にすると、小隊長の声が聞こえた。
〈こちらTYH。TYY、どうぞ〉
 私はスイッチを送信にして応答した。
「こちらTYY。感度良好です。以上」
〈了解。以上〉
 河村、石塚とも同じように交信し、最後に三木を呼んだ。
「TYM、TYM、こちらTYY。応答願う。どうぞ」
 応答なし。
「TYM、TYM、こちらTYY。応答願う。どうぞ」
 応答なし。
「TYM、TYM、こちらTYY。応答願う。どうぞ」
 やっと来た応答は、
〈こちら……TY、M……〉
 それっきり、何も聞こえない。これはどうした事だ。
「TYM、どうした!? どうぞ!」
 応答なし。不吉な予感がしたその時、
〈TYY、こちらTYK、応答願う!〉
〈TYY、こちらTYI、応答願う!〉
 河村と石塚から、同時に送信があった。
「こちらTYY。混信してる、TYKから喋ってくれ」
 河村の声が聞こえてきた。
〈TYMとの交信ができない。TYYには、応答はあったか? どうぞ〉
 河村とも交信していないのか。
「あったにはあったが、途絶えた。何かあったに違いない。TYHにも連絡して、救援に行こう。どうぞ」
〈了解。以上〉
 続いて私は石塚と交信した。
〈こちらTYI。TYY、どうぞ〉
「こちらTYY。TYMに何かあったようだ。俺とTYKは、TYMを救援に行く。TYIも行ってくれ。どうぞ」
〈了解〉
 最後に私は小隊長を呼んだ。
〈こちらTYH。TYMの事か? どうぞ〉
 機先を制されて、私は口篭った。
「は、はい、そうです、どうぞ」
〈今先刻、TYKから報告があった。衛生兵を救援に向かわせてある。どうぞ〉
「了解。以上」
 三木は川上へ向かった筈だ。私は逸る心を抑えながら、川上へと走った。小さい橋の辺りで、兵舎の方から走ってくる二人と会った。衛生兵の小林と吉野だ。担架を持っている。
「三木は川上へ行った筈だ。川沿いに捜してみよう。そんなに遠くへは行ってない筈だ」
 私は二人を連れて、川上へ向かった。幾らも行かないうちに、向こうから歩いてくる三人の兵が見えた。
「おうい矢板、三木はいたぞ」
 河村の声だ。よく見ると、河村と石塚が、三木を両脇から支えて歩かせている。私は三人に駆け寄った。
「三木! 心配したぞ!」
 三木は左腕に負傷している。小林と吉野が、三木の傷に応急手当を施す。私の見る限り、大した傷ではない。単純貫通銃創だ。石塚が冷やかす。
「この位の傷で気絶するなよな、三木班長殿」
 三木は些かバツの悪そうな顔をする。私は笑って言った。
「弾丸に当たったのが生まれて初めてだったんだろう。よくある事だ。一発当っちまえば、次からはそんなに痛くなくなるさ」
 一応野戦病院で手当を受けさせる事にした。河村が付き添って行き、私と石塚は小隊長に事の次第を報告した。
「基地の中で狙撃されるとは、ゆゆしき事だな。本部中隊にはよく言っておかんと」
 私達の報告を横で聞いていた中隊長が、考え込む様子を見せた。その時、
「要らん事で外出するから、痛い目に会うのさ」
 宮本参謀が、せせら笑うように言った。中隊長から通信兵まで、部屋中の者が、宮本参謀に冷たい目を向けた。部屋を出るなり、石塚が私をつついて囁いた。
「弾丸は前からだけ飛んで来るとは限らないぞ、って言ってやりたくなったぜ」
 私は肩を竦めた。
「それはちょっと危ないな」
 午後三時頃、夕飯の支度を始めるよう指示があった。多少早すぎないか。ともかく夕飯当番になった私達は、川縁の炊事場へ行った。川向こうの崖というのは、実は三百メートルほども先にある。私は既に川縁へ来ていたから知っているが、知らない部下達は、崖が近くに見えないのを訝り、遠くにあるのに気付いて驚いたり、
「何であんな遠くにあるんだろ?」
と不平を言ったりしている。ともかく烹炊部へ行って、鍋釜や食器、石炭や食料を受け取って炊事にかかる。
「軍隊に入って飯炊きやるとは思いませんでしたよ」
 石田が幾分不満気に言う。
「軍隊っていうのはな、その中で全てをこなさなきゃならん物なのだ。だから軍隊を構成する個々の兵も、全てをこなさなきゃならん。特に男所帯だからな、炊事洗濯繕い物、そういう事も自分等でやらなきゃならんのだ」
 私は石田を諭した。
 出来た夕飯は兵舎へ運び、各人に盛り分ける。食器は昔軍隊で使っていたようなアルマイトで、部下達によると今の学校給食でも同じような物を使っているらしい。このような集団生活では、何でも実用一点張りになるものである。
 食器は各自で保管し、鍋釜は各小隊で保管するように通達があった。しかし私達としては、兵舎をこれ以上狭くするような物、しかも武器弾薬でないような物は部屋に置きたくない。
「鍋釜や石炭袋は、毎回炊事の度にそれを持ってここまで食料や石炭を取りに来るんですから、ここへ置いておいてもいいと思います。部屋は狭いんです。鍋釜なんかを置いて、これ以上狭くしたくないんです」
 私は烹炊部に上申に行ったが、
「他の小隊は君の所と同じ広さの部屋に三十六人生活しているのだ。君の所は三十人なのだろう、だからその分広い筈だ、贅沢を言うな。ここだって一個大隊千人分の食料と石炭で、この通り余裕は全くない」
 即座に却下された。そこで私は施設部へ行き、烹炊部でのやりとりを説明した後、
「部屋を拡張しようと思います。鶴嘴を貸して下さい」
と喰い下がってみたが、
「それは駄目だ。この辺は地盤が弱い。しかも東京第一中隊の兵舎は、その上の土層が厚いから、広げると落盤の惧れがある。部屋にある支柱は、天井を支えているのだ。鉄骨の入っている壁を崩すなど以ての他だ」
 ここでも却下であった。これ以上喰い下がっても無理と判断して、私は兵舎へ戻った。
「どうでした?」
「駄目だと。烹炊部はここより、もっと狭いらしい。それで、『部屋を拡げさせろ』と施設部に上申したら却下された。地盤が弱いんだと。
 それにしても烹炊部の言い草は何だ。『人数少なくて広い筈だから贅沢言うな』と来たもんだ。誰がすき好んで人数を少なくしてるんだと言いたいよ、そうだろ?」
 些か頭に来ているので口調が激しくなる。石塚と三木が同じた。
「そうだとも」
 河村は穏かな口調で言う。
「仕方ないよ。上の方には従うしかないだろ。所詮ここにいるのは二本線と一本線だ。
 考えて見ろよ、討伐隊はうちの中隊だけじゃないんだろ。他にも何個中隊もいるんだ。その大勢いるのが皆、狭いの何だのと言い出したらどうなる? 要求は幾らでもあるさ、確かに狭い。
 だが資材にも場所にも限りがあるんだ。際限なく広げる事は出来っこない。結局、最低限の所で妥協して、あとは工夫と慣れだ。狭くたって慣れれば何とかなる。太刀川小隊はうちより六人多いけど、同じ広さの部屋で……」
 黙って聞いていた三木が突然、荒々しく河村の言葉を遮った。
「ちょっと待った! 河村、今、『同じ広さ』って言ったな?」
「言った。それがどうかしたか?」
 三木は私の前へ進み出た。
「矢板、烹炊部も施設部も、うちの部屋と他の部屋と、同じ広さだと言ったのか?」
「烹炊部は言ったな。同じ広さの部屋に、他は三十六人、うちは三十人、と」
 やにわに三木は立ち上がり、声を張り上げた。
「ようし、上申だ! いいか矢板、河村、俺は先刻、上村小隊と大原小隊の部屋へ入ってみた。明らかにここより広いんだ。測ってみたんだから間違いない、隣の方が三坪は広いぞ。こりゃどういう訳だ? 太刀川小隊の部屋は測ってないが、大原小隊との戸口の距離から言って、ここよりは広い。同じ広さだと思えばまだ我慢できるがな、他所より狭い部屋に入れられた事がはっきりしたんだ、上申だ!」
 息巻く三木を、河村は宥めようとする。
「うちは他所より少ないんだから」
 三木は一層勢いづく。
「いつ少なくなったんだ? 三日前じゃないか! どう見てもこの部屋は、それ以前に掘られてるぞ! その時からもう、うちの小隊が本部の守備で六人も減るとわかってたのか、大した先見の明だよ! 大体何だ、それじゃその六人は戦列復帰して来ないことにでもなってるってか!?」
 河村は三木を宥めようと躍起だ。
「俺を責めるなよ。上の方がここの兵舎を設計したときに、どういう事情かは知らないが一つだけ狭い部屋が出来たんだろう。うちの小隊が六人減るとわかってたなんて、言いがかりは止せよ。どういう事情にしろ、俺達素人が下手に手出しする問題じゃないと思うがな。下手に掘って落盤したら、戦わずしてお陀仏だぜ、それこそ犬死にの最たる物だよ」
 そこへ小隊長が入って来た。
「三木の声が、階下まで聞こえたぞ。何を言い争ってるんだ?」
 河村が答える。
「矢板が先刻、烹炊部へ上申に行ったのです」
「ほう、何の事でだ? 飯の量か質か?」
 そこで私は小隊長に、事の次第を説明した。
「そうか。確かに、ここへもう六人となると、かなり窮屈だろうな。
 だがな矢板、上申するのは大いに結構だが、一応すぐの上官である俺にも言えよ。俺の知らん所で、中隊長や本部中隊に上申がなされているとなると、俺の責任上良くないからな。別に俺の体面がどうこうって言うんじゃないが、小隊長を通さんであちこち上申してるとなると、お前達の印象を悪くするかも知れん。只でさえ三本線や四本線ってのは、下の者から上申されるのを嫌がるのが多いから。
 もし上申したい事があったら、遠慮なく俺に言ってくれ。俺からって事にして、本部中隊に言ってやろう。お前達の意見を、握り潰すような事はしない積りだから」
「わかりました」
 小隊長が出ていくと、三木は声を落とした。
「もっと減るような事があれば、一人当たりの面積は増えるな」
 私は言った。
「そのもっと減るのがお前でないって保証はない事だけは確かだな」
 苛烈な戦線を生き抜いてきた人間だけが実感できるだろう。私は何気なく言ったのだが、部屋中、水を打ったように静まり返った。
「矢板の言う通りだろうな」
 河村が、ぼそりと呟いた。
 小隊長が入ってきた。
「風呂が沸いたぞ。……何かいやに静かだな」
 私は努めて明るく、声を上げた。
「もう風呂ですか? 気が早いですね」
 皆もざわざわと腰を上げ始めた。まだ何となく、重苦しい雰囲気が残っている。
「銃は持ったか?」
「風呂に入ってる時に敵襲、ってのだけは嫌だな」
と言いながら兵舎を出ると、丁度そこへ大型トラックが来た。運転しているのは高木だ。
「おう、高木。負傷者を乗せて来たのか?」
 私が声をかけると高木は、
「負傷者は釧路の衛戍だよ。こんな所へ連れて来る訳がないだろ」
 風呂から戻ってくると、続々とトラックが到着しているところだった。荷台から降りてくるのは、上村小隊、大原小隊の仲間達だ。いよいよ、東京第一中隊の勢揃いである。
「明日は早いから、早く寝ろ」
 私達が部屋へ戻りしなに、小隊長は言った。私はすぐにピンと来た。明朝、早速出撃があるのに違いない。今度は、こちらが攻める番だ。私は、逸る心を抑えながら寝床に就いた。寝具は厚手の寝袋で、蓑虫のようだと部下達は言っている。
(2001.1.30)

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