釧路戦記

第三十章
 二十八日、私達の小隊に冬用戦闘服が支給された。厚い裏張り付きの詰襟の上衣、毛皮の内張りの長靴など、氷点下二十度の中で戦うための充分な防寒がなされている。色も灰色がかった茶色になった。
「もう二度と夏服を着ないで済むように努力しよう」
 誰かが言った。その通りだ。二度と夏服を着ないで済むようにするということは即ち、「夏までに戦争を終わらせる」、もっと端的に言えば「夏までに敵を滅ぼす」ことなのである。
 さてその敵の活動は、司令部を完全に喪失した事による打撃は少なくなく、かなり鎮静化している。だからと言って町の警備に手を抜いている訳では決して無く、常に獲物を求めて歩き回る私達の姿が町にはある。かつて敵司令部があった辺りの道路は穴だらけになり、周囲の店舗などもかなり破損しているので、私達は復旧のためには労力提供を惜しまなかった。地元民との融和こそは、戦争遂行のために大切な事である。いざという時の地元民の協力は、普段からの融和なしには有りえないからである。地元民の協力は、脅迫や威圧によっては決して得られない。この点で我が軍は、敵軍に対し決定的に有利な位置にあった。
 十月は終わり、十一月になった。冬は日毎に近づいてくる。根釧原野の方では、川に鮭が遡ってきているらしい。私達の警戒はいささかも緩むことは無いが、この頃は敵の活動は全く鎮まってしまった。街に銃声を聞かなくなってから何日経ったろうか。一体敵はどうしてしまったのか。実際、平穏過ぎるのは手持ち無沙汰である。
 十一月五日の会報によると、十月二十三日の、都市部での敵の蜂起は釧路の他、旭川、帯広、北見、根室、網走、岩見沢の各市で起こったが、いずれも六−三○時間で鎮圧され、敵兵は生存者は全くないという。また富良野では、旭川から鉄道で移動してきた敵部隊を列車ごと留置線に突っ込ませ、警察が全員逮捕したという。他の市では全て、我が軍が敵を粉砕したのである。これより後では、十月三十一日まで、戦闘は僅か十数件、殺傷人員も三十余人に過ぎない。十一月一日から十五日までにも、戦闘は三十余件、殺傷人員は百人足らずである。
 市民の間には、大きな変化が起こっていた。夏からあったという自警団――総数百余、非武装――が、先月二十三−二十四日の敵の蜂起を契機として、武装闘争の機運が全市に起こってきたために急速に拡大された。十一月一日には、総数千二百という民兵軍が結成され、討伐隊の傘下に加わった。民兵軍には、討伐隊から武器が貸与されたが、我々正規軍に比べると貧弱であることは否めない。私達の小隊が寄食している、自警団本部改め民兵軍末広町部隊司令部には、一日現在一二二人が所属しているが、武器は
 ・重機(一二・七ミリ)○
 ・軽機(七・七ミリ)十二挺
 ・同右弾 弾倉四八個(一四四○発)
 ・自動小銃 七挺
 ・非自動小銃 四六挺
 ・小銃弾 三五四○発
 ・手榴弾 二四四発
 ・銃剣 一二二本
 私の小隊(実働三一人)は一日現在
 ・迫撃砲 二門
 ・同右弾 五七発
 ・バズーカ砲 三挺
 ・同右弾 七八発
 ・重機 四挺
 ・同右弾 弾帯八五本(約八五○○発)
 ・自動小銃 三一挺
 ・同右弾 弾倉二七○個(約五四○○発)
 ・手榴弾 一五六発
 ・銃剣 三一本
 自動小銃は軽機とほぼ同等であるから、火力としては民兵一個部隊は私の小隊より遥かに劣っていると言わざるを得ない。まして私達の隊の三一人のうち一九人は、二年近い訓練を経た生え抜きの戦闘員であるが、民兵一二二人の内には、銃を持った事も無いというのが百人以上いるのである。
「言っちゃ悪いんだが……本当にこれで戦えるんだろうか?」
 私が溜息と共に言った言葉である。
 冬は日毎に近づき、十一月十九日には雪が降った。このところ朝方の気温は連日氷点下である。二重窓には霜が降り、朝の街を行き交う人々の息が白い。夜から朝の警戒から戻ってくると、飯も喰わずに布団にもぐり込んでしまう部下もいる。そんな日々を送る私にとって非常に気がかりな事が一つある。一ヵ月以上も表立った動きを見せない敵である。会報を見ても、根釧原野の方でも敵は表立った行動には出ていない様子である。楽観的な屋代は、敵は講和の裏交渉に入ったものと思っているようだが、私はそうは見ていない。これは、次の大作戦への準備期間に違いないのである。その大作戦を察知し、先手を打って阻止するのが我々の役割ではあるのだが、どうも作戦部情報課も、この行われるであろう大作戦を察知していないように思われる。
 二十一日の事であった。午前六時からの警戒に出た私は、幣舞橋の方へ歩いて行った。冷たい西風が吹いている。橋のたもとに立って何気無く空を見上げた私の目は、北の方から横滑りするように飛んでくる黒いグライダーを捉えた。
 あれは敵か味方か?
 目を凝らして良く見ると、胴体の側には討伐隊の印の、黄色い横線を両側につけた黄の星形が描いてある。味方だ。
 グライダーの高度は次第に下ってきた。このまま行くと釧路川の南の崖に激突してしまう。と見る間にグライダーは機首を転じ、釧路川と平行になった。釧路港に不時着水するのか。高度が急に下がった。失速したのか。どうにか機を立て直した。久寿里橋の上を通過した。しかし幣舞橋を越えられるか。橋に近づいてきた。この高度では着水するまでに橋脚に衝突してしまう。また機首が上がった。もう目の前だ。私は思わず地に伏せた。上を見ると今まさにグライダーが通過していく。欄干に登れば手が届くような高さだ。何とか尾翼を欄干にぶつけずに橋を越えた。しかしもう着水しかない。中央埠頭までは飛んでゆけない。とうとう着水した。水しぶきを立てて一回水面で弾み、また着水した。尾翼の方はもう沈みかかっている。操縦士が胴体から這い出してきた。と見る間に彼は川に飛び込み、岸壁の方へ泳いで行く。しかし岸壁は高い。登れないかもしれぬ。私は、彼が泳いで行く岸壁へ走った。倉庫の裏を走る。
 岸壁に着いた。彼はもう泳ぎ着いているがやはり登れない。私は上衣を脱いだ。片方の袖を手首に巻きつけ、岸壁から垂らした。
「そら、これに掴まれ!」
 しかし届かない。私は立ち上がり、今度は片方の袖を銃の台尻に結びつけ、もう一方の袖を持って垂らした。しかしこれでも届かない。彼は叫んだ。
「早くしてくれ! 凍えちまう」
 とその時、二人の兵が駆けつけてきた。私は二人に命じた。
「俺の左手を二人で掴め。絶対離すな」
 私は二人に左手首を掴ませると、上衣を口に銜え、右手を岸壁にかけて岸壁からぶら下がった。そうしてから右手を離し、右手で上衣の、銃を結び付けてない方の袖を握り、上衣を垂らした。
「これでどうだ!?」
 操縦士は、やっとの思いで銃身を掴んだ。
「引っ……張れ!」
 左手から脇腹にかけて、筋肉が千切れそうに痛む。しかし今はそんな事を気にしてはいられない。
 ようやく肩が岸壁の高さまで引き上げられた。私は左足を岸壁にかけ、岸壁に這い上がった。岸壁に腹這いになったまま私は二人に言った。
「体を押えろ」
 私は左手を伸ばし、右手に巻き付けてある上衣の袖を掴んだ。引っ張った途端、
「もう駄目だ……」
 水音。
 何たることか! 彼の手は銃身から離れ、彼は再び水の中に落ちてしまった。私は叫んだ。
「早くしないと死んじまうぞ!」
 辺りを見回すと、百メートルほど離れた岸壁に、鉄梯子がついているのが見えた。
「こうなったらやるしか無い」
 私は上衣を着ると、手榴弾も銃剣もそこに置き、岸壁から川の中へ飛び込んだ。十一月の川の水は身を切るように冷たい。私は操縦士の背後から接近し、救命胴衣の後ろを片手で掴み、鉄梯子を目指して泳いだ。私は泳ぎは苦手では無いが、水温十度くらいの水となると話は別だ。それでも何とか、鉄梯子に泳ぎ着いた。操縦士の脇の下から手を回して抱え、もう一方の手で梯子を掴んで登った。鉄梯子も冷えている。手の感覚が殆ど無くなった。
 何人もの兵が集まってきた。私は操縦士を岸壁に運び上げると、荒い息をしながら言った。
「大至急、温めろ」
 そう言い終わったと同時に、気が遠くなっていった。
 ふと気が付くと、私は衛戍病院の寝台に臥ていた。暖房が効いている。隣の寝台を見ると、朝方のグライダーの操縦士が臥ている。彼は私と向き合うと話し始めた。
「先刻は本当に助かりました。何と御礼したら良いのか」
 私は遮った。
「そんなに固苦しくなるなよ」
「……」
「しかし……我が軍に航空部隊があることは知ってたがグライダーがあるとは知らなかった。何に使っているんだ?」
「あれは専ら夜間爆撃です」
「夜間爆撃か……」
「三十キロが四発。ただ、四発積むと戦場まで飛べないんで昨日は三発積みました」
「どこから飛び立つんだ?」
「旭川からです。北西季節風が大雪山に当たって上昇気流を作る、それを利用して、小さいセスナで高度三○○○メートルまで牽引します。そこからは飛行機と別れて、季節風に乗って一路釧路へ向かう訳です。大体飛行機と別れてから一時間四−五十分で根釧原野まで飛びます。空気に対する速度は時速四十キロが限界なので、時速六−七十キロに達する北西季節風の助けを借りないとこれだけの距離は飛べないのです。あのグライダーは、空気に対して二十五キロ飛ぶと大体一○○○メートル降下するのです」
「つまり冬しかできないのだな。だから今まで見なかったのか」
「季節風が無くても出来ることは出来ますよ。帯広か女満別から飛び立って、阿寒湖あたりで二−三○○○メートルに達すれば、風が無くても六−七十キロは飛べますから。要するに最近までは訓練中だったんです」
 私は、自分のしている事に気付いて、寝台から飛び起きた。
「こんな所で油売っていられん」
 とその瞬間、私は自分が裸であることに気付いた。やむなく私は寝台から毛布を取ってそれを腰に巻いた。病室を出て、廊下の突き当たりの階段を下りた所に洗濯室がある。私は洗濯室に入った。
「東京第一中隊の矢板だ。俺の服はまだ乾かないか」
 衛生兵はアイロンをかける手を止めずに答えた。
「今乾かしてるところです」
「あとどれくらいかかる?」
「一時間」
「そんなに!? 今何にアイロンをかけてる」
「見ての通りシーツです」
「俺の下着とワイシャツは乾いたのか?」
「まだです」
「下着とワイシャツならアイロンで乾かせるだろうが。それを先にやってくれ」
 と衛生兵を急かして下着とワイシャツを乾かさせ、乾いたはしから着ていった。
「上着とズボンはどの程度乾いた?」
「まだ湿ってます」
「ならそれで充分だ。……と靴はどうした?」
「まだ乾いてません」
「まあいい。足が濡れて死んだ人間はいない」
 まだ湿っている上着とズボンを身に着け、靴を履いて私は病室に戻った。枕元の机の上に置いてある鉄兜を被り、小銃の弾倉ケースを肩から提げ、手榴弾をポケットに入れ、銃剣を腰に差し、ハンディトーキーと小銃を持ち、
「病院の者が来たら、『矢板は戦列に復帰した』と言ってくれ」
と言って病室を後にした。玄関を出ようとすると、案の定呼び止められた。
「どこへ行く?」
「戦列へ。病院で油売ってる暇は無い」
「軍医の許可を得たか」
「これだから後方は困る。本人がもう何とも無いと思ってるんだからそれでいいだろうが」
「診察も受けてないだろう」
「どこをどう診察するんだ? 川に飛び込んだら水が冷たくて気絶した、それだけだ。かすり傷一つ無いのに何を診察する。早く行かせてくれ」
 玄関で騒いでいると、奥から軍医が出てきた。私を見るなり言った。
「矢板小隊長か? 何を騒いでる」
「どこも何ともないから退院させろと言ってるのに」
「そうか。よし、退院だ。それだけ元気なら大丈夫」
 その声を聞くや否や私は病院から駆け出していた。
(2001.2.8)

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