2003年4月前半の日記
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4月10日(木)〜15日(火)
仕事に差し支えない範囲で毎晩ゲーム三昧、そのせいで日記の更新が相変わらず遅れていますが、時々は世間の動向にも目を向けてみます。
イラク戦争は9日に首都バグダッドが米軍に占領され、14日にフセイン大統領の出身地ティクリートが制圧されて、イラク軍の組織的抵抗がほぼ終わったようです。イラク軍の敗走は湾岸戦争の時よりももっと早かったようで、首都バグダッドで市民を巻き込んだ血みどろの市街戦が繰り広げられるという事態は避けられたようですが、報道を見ていてあまり手放しで喜べないのは、政府が倒壊してしまったバグダッドの治安が急激に悪化し、略奪が横行していて、病院や博物館まで略奪されているということです。
古代から19世紀くらいまで、いや内戦の続く発展途上国ではもしかしたら今でも、戦争には略奪が付き物です。もちろん今バグダッドで略奪をやっているのはバグダッドを占領した米軍ではなくて、フセイン政権に不満を抱いていた民衆の貧困層ですが、イラク軍をクウェートから放逐するのが目的だった湾岸戦争と違って、フセイン政権そのものを打倒するのが目的となった今度の戦争では、一時的にせよ政権の空白状態が生じることを避けきれず、その結果首都で略奪が横行する事態を招いたのではないでしょうか。
外国の軍隊によって、それまで存在していた政府が打倒されるという事態は、つい最近、それもイラクからいくらも離れていないアフガニスタンでも起こりましたが、あの時カブールの状況はどうだったのでしょうか。略奪が横行していたのか、それほどでもなかったのか。
それもそうですが、政府機関が機能しないような状態になって略奪が横行するという報道を見るたびに、阪神大震災直後の神戸で略奪やパニックが発生しなかったことが、特筆すべきこととして「国史大辞典」に記述されていたのを思い出します。救援物資の配給や人心の安定が奇跡的にうまくいったのか、日本人は世界に冠たる大人しい民族なのか、略奪やパニックを起こす元気もないほど打ち拉がれていたのか、古い住宅地では変なことをしたら復興後の町に住めなくなるという心理的抑制が働くほど近所同士の相互監視が機能していたのか、いろいろな要素があるのかと思います。
(4月15日アップ)

4月9日(水)
丑 丞 乃 之 也 亘 亥 亦 亨 亮 伊 伍 伎 伶 伽 佑 侃 侑 倖 倭 偲 允 冴 冶 凌 凜 凪 凱 勁 匡 卯 叡 只 叶 吾 呂 哉 唄 啄 喬 嘉 圭 尭 奈 奎 媛 嬉 孟 宏 宥 寅 峻 崚 嵐 嵩 嵯 嶺 巌 巳 巴 巽 庄 弘 弥 彗 彦 彪 彬 怜 恕 悌 惇 惟 惣 慧 憧 拳 捷 捺 敦 斐 於 旦 旭 旺 昂 昌 昴 晃 晋 晏 晟 晨 智 暉 暢 曙 朋 朔 李 杏 杜 柊 柚 柾 栗 栞 桂 桐 梓 梢 梧 梨 椋 椎 椰 椿 楊 楓 楠 榛 槙 槻 樺 橘 檀 欣 欽 毅 毬 汀 汐 汰 沙 洲 洵 洸 浩 淳 渚 渥 湧 滉 漱 澪 熙 熊 燎 燦 燿 爽 爾 猪 玖 玲 琢 琉 琳 瑚 瑛 瑞 瑠 瑶 瑳 璃 甫 皐 皓 眉 眸 睦 瞭 瞳 矩 碧 碩 磯 祐 禄 禎 秦 稀 稔 稜 穣 竣 笙 笹 紗 紘 紬 絃 絢 綜 綸 綺 綾 緋 翔 翠 耀 耶 聡 肇 胡 胤 脩 舜 艶 芙 芹 苑 茉 茄 茅 茜 莉 莞 菖 菫 萌 萩 葵 蒔 蒼 蓉 蓮 蔦 蕉 蕗 藍 藤 蘭 虎 虹 蝶 衿 袈 裟 詢 誼 諄 諒 赳 輔 辰 迪 遥 遼 邑 那 郁 酉 醇 采 錦 鎌 阿 隼 雛 霞 靖 鞠 須 頌 颯 馨 駒 駿 魁 鮎 鯉 鯛 鳩 鳳 鴻 鵬 鶴 鷹 鹿 麟 麿 黎 黛 亀

以上285文字。これは人名用漢字として常用漢字1945字の他に定められた、子供の名前に使うことのできる漢字です。
私の名前に使われている漢字は常用漢字だけですが、これを眺めてみると、実在の名前で人名用漢字を含んでいる名前、逆に言うともし人名用漢字が制定されていなかったら命名できなかった名前は、相当たくさんあるのではないかと思います。
人名用漢字というのは、義務教育で教える漢字として当用漢字(常用漢字の前身)1850字が昭和21年に制定された後、昭和26年に92字が制定され、その後順次追加されて今の285字になった漢字です。手元にある広辞苑第4版には284字(平成2年現在)載っていますが、その後でまた1字追加されていて、その文字は「琉」です。
そうすると、どの漢字が何年に追加されたかがわかっていれば、名前にその漢字が含まれている人は何年に生まれたか(何年以前の生まれではあり得ないか)がわかることになります。
なんて事を考えたのは、先日コンプリートした「愛しの言霊」の登場人物の名前について何となく考えていた時、このゲームは女性の名前の付け方にさりげない気配りがされていると、以前には感心していたのですが、改めてよく見ると 佐々木蓉子の「蓉」の字は人名用漢字であることに気づいたことからです。ゲーム中の設定からすると蓉子が生まれたのは昭和20年前後、つまり名前に使える漢字が当用漢字に制限されて「蓉」の字が一時的にせよ使えなくなったのとほぼ同じ頃です。かなり微妙です。
ゲームキャラの名前は戸籍とは関係ありませんから、人名用漢字に限らずどんな漢字を使ってもかまわないので、極端に言えば第2水準外の、Shift-JISコードで表記できない漢字を使ったってかまいません。実際、古代中国に実在した人物が登場する歴史シミュレーションゲームだったら、第2水準外の人名がぞろぞろ出てくる可能性があります。
まあ現代の日本を舞台にしたゲームで第2水準外の漢字を名前に使ったら、制作元がマニュアルを作るにも苦労するでしょうし、ゲーム雑誌がレビューを書くにも苦労しますから、そこまで奇を衒ったことはしないと思いますが、でもワープロの普及で第1水準の漢字は当たり前のように使えるようになった私たちにとっては、意外な漢字が人名に使えない漢字とされているようです。
先日、久しぶりに巡回した先で読んだのですが、なんでも「憐」という字は人名に使えない漢字なのだとか。私が管見する限り、現代の日本を舞台にしたゲームに、少なくとも2人、「可憐」という名前の女性キャラがいるんですが……。
(4月13日アップ)

4月8日(火)
思い立ったが吉日という感じで、今日はさっそく「恋姫」の攻略法を探し出して、プリントアウトしてからゲームを起動します。
プリントアウトして、というのはelfのゲームの大半がそうであるようにフルスクリーンモード固定になっていて、しかもAlt+Tabキーを使ってもウィンドウを切り換えることができず、要するに攻略サイトとゲーム画面を同時に見ながら進めることができないからです。ゲーム攻略法と一緒にレビューを載せているサイトは少なくありませんが、elfゲームのシステム面での欠点としてこの、Windowsのメリットを投げ捨てたようなフルスクリーンモード固定であることを挙げているサイトが見受けられます。自分で攻略チャートを作りながらプレイする、あるいは他の人が作った攻略チャートを見ながらプレイするには、フルスクリーンモード固定という仕様はかなり不便を感じます。
私が今までに一番不便を感じたのは、「同級生2」SS「優しさ」を打鍵する参考にするために、同級生2をプレイしながら登場人物の台詞を抜き書きしようとした時でした。その時は結局、キーボードの横にメモ用紙を広げて、書いた翌日には自分でも読めなくなりそうなほどの悪筆で、シャーペンで走り書きするという、究極のアナログ手段を取ったものです。
まあこうやって順次ゲームをプレイしているわけですが、そのうちレビューのような形でまとめてみたいとは思っています。攻略法というのは、ノベルタイプのゲームであればどの選択肢が本当にエンディングを決定する選択肢であるか、シミュレーションタイプのゲームであればどの選択肢が隠しパラメータにどの程度の影響を与えるか、といったところを詳細に解明できるほど体系的なプレイをしていませんし、その程度の攻略法しか公開できないのなら、私が今さら蛇足に6本目の指を描き加えるようなことをするまでもないと思いますから、まとめてみようとは考えていません。

4月6日(日)〜7日(月)
昨夜で「愛しの言霊」はコンプリートしたので(厳密に言うと、全キャラのエンディングは見ましたしグラフィックも網羅したのですが、一連のイベントシーンを回想できるモードでは1つだけ見ていないシーンが残っていて、「HIDEMAN's World」とは別の攻略サイトに公開されていた攻略法の通りにプレイしてみても埋めることができませんでしたが)、積みゲー解消作戦の次の標的は「恋姫」あたりかな、と思うのですが、その前に6日にはいろいろな雑用を片づけ、ウェブ日記の更新もあまり滞らせると精神的負担になる物なので、思い出すままに少しずつ進めていきます。
(4月8日アップ)

4月4日(金)〜5日(土)
つい先日、新しくリンクさせていただいた「キズナノツバサ」のリンクページを見ていたら、elf・シルキーズゲームのMIDIサイトとして有名らしい「HIDEMAN's World」へのリンクがありました。MIDIだけでなくelf・シルキーズゲームの攻略法も重要なコンテンツになっているというので、ものは試しと見に行ってみたところ、攻略法を載せている攻略本が見つからなかったために一昨年に手を着けたままずっと棚上げにしていた「愛しの言霊」の攻略法が公開されていました。
このゲームに限らず、今はインターネットをちょっと検索すれば攻略法を公開しているサイトならいくらでも見つけられるので、わざわざ本屋で金を出して攻略本、それもビジュアルファンブックのように攻略法以外にもいろいろな情報が載っている本ならともかく、ゲーム1タイトルにつき数ページの攻略法が載っているだけの攻略本を買うことはないはずなのですが、それでも「冊子体の物」を手に入れることに妙にこだわってしまうのは、私が自分自身で思っているよりもアナログな人間だということなのでしょうか。
ともあれ攻略法が見つかったので、ずっと積んだままにしてあった 愛しの言霊 をずいぶん久しぶりに手にとって、プレイを再開しました。

このゲームは決して、プレイしていて脱力するようなゲームではないのですが(それでもここのところelf・シルキーズのゲームから離れてKeyのゲームに偏っていた私には、何と言いましょうか、かつて「同級生」シリーズにのめり込んでいた頃にはあまり気にならなかったはずの、「elf・シルキーズテイスト」とでも呼べそうな一種特有な癖が妙に気になるようになってきましたが)、4日の夜には、今までの私だったら「夜はこれから」というくらい早い時間から急に眠くなってきて、サイトの更新も何もせず夜半前に寝てしまいました。
すると5日の朝には、休日だというのに出勤日の起床時刻よりも早く目が覚めます。寝直したい気分ではなかったので、すぐに起きてプレイを再開したのはいいのですが、夜になるまでぶっ続けでプレイして一気にコンプリートすると、早起きしすぎたせいかいよいよ眠くなってきて、前夜よりもさらに早い時間に、土曜夜恒例のチャットにも行かずに寝てしまいました。潜在意識あるいは身体の領域で、ネット遊びの優先順位が急に下がったのでしょうか。
(4月8日アップ)

4月3日(木)
3月の末のことですが、イラク戦争に際してイラク国民への人道支援物資の輸送拠点となっているペルシャ湾のウンムカスル港に、イラク軍が機雷を敷設している可能性があるため、アメリカ海軍の施設で訓練を受けたバンドウイルカが機雷の探知に投入される、という新聞記事を見ました。特殊なセンサーをつけたイルカが港の周りの海を泳ぎ、機雷を発見すると人間に知らせるそうです。発見された機雷を除去するのは人間の仕事で、イルカ自身が機雷に体当たりして爆破するのではないようです。(3月28日付読売新聞)
水中の物体を探知する能力に関しては現在人間が持っている機械を遙かに上回るとされているイルカですから、こういう方面に利用する研究が行われていると聞いても「ま、そうだろうな」と思うのですが、その記事を見て思い出したのは、数年前に読んだロベール・メルルのSF「イルカの日」でした。
ある海洋動物学者が研究を重ねて、イルカと会話をし意志の疎通をすることが可能になりますが、やがてその人語を解するイルカが他国の軍艦を攻撃する兵器として使われる──そういうストーリーです。イルカを軍事利用するといっても、生きた誘導魚雷として利用するという小説に比べたら、ペルシャ湾で行われる現実は、すこぶる平和的な利用法です。それでもイルカが誤って触雷することを心配する人はいるようですが。
この小説は1973年に映画化されたそうで、この文章を打鍵するためにGoogleで検索したら数百件ヒットしたほどで、映画としてはかなり有名になったと思います。
私もその映画は、原作の小説を読んだ後で観たことがあるのですが、残念ながら原作ほどの印象はありません。というのも原作でいちばん印象に残ったのが、映画ではカットされていた、こんなエピソードだったからです。
「イルカが人間と同レベルの知性と感情を持つなら、イルカに神を信じさせることができるか?」
「もしイルカが神を信じたなら、イルカを『キリスト教徒』と見なすべきか?」
私たち日本人の古い動物観では、人間と動物の間に明確な差別はないような気がします。それは仏教が輪廻転生を説いていて、現世で人間である私たちも前世では動物だったかもしれないし、来世には別の動物になるかもしれないという考え方ですから、人間と動物との間に絶対に越えられない懸隔を設けるという発想ではないからだと思います。といっても人間と動物が完全に対等ではないのは、動物として生きる「畜生道」を地獄道・餓鬼道と並ぶ三悪道として、人間道の下位に置いていることから伺われます。
それに対してキリスト教の考え方では、神が有象無象の動物を作った後、自らの姿に似せて人間を創造し、全ての動植物を支配する者として地上に置いたとしていますから、人間と動物との間には絶対に越えられない断絶が存在しています。だからヨーロッパのファンタジーには純然たる動物が人間の対等なパートナーになるという話はない(日本だと「桃太郎」では、桃太郎は犬・猿・雉との間に、労務の提供に対してキビ団子を報酬とする、対等な双務的契約を締結しています。この意味はわかりますか?)と、何かの本で読んだことがありますし、人間の側からその秩序を乱す行為として、獣姦は近代以前のヨーロッパでは、死刑に相当する重罪とされていたのでした。
そういう風にずっと、人間より下位の存在とされてきたイルカが、もし人間と同等の、神を信じ神を崇め神に帰依することができるだけの知性と感情を持っているということになったら、これを人間と対等の存在、イエス・キリストによって贖われ神の恩寵を受ける資格のある存在であると認めなければならなくなるのではないか。というようなことを、何ページも割いて大真面目に議論していたと読めたのです、原作の小説では。
人間と、人間ならざる者とが置かれた立場(キリスト教的な意味での)の違い、つまり私の浅薄な知識にもとづく思い込みかもしれませんが、アダムとイブの子孫として神の御心に基づいて生まれ、イエス・キリストによって贖われ、死後は復活して神の恩寵に与る資格のある存在と、そうでない存在の違い、これは私がずいぶん前から、折に触れて考えることです。動物に限らず、昔の錬金術師が作り出そうとした人工生命体であるホムンクルス、フランケンシュタイン博士の人造生命体、そしてアンドロイドあるいはヒューマノイドと呼ばれるロボット。今年は日本に於けるロボットものの古典「鉄腕アトム」で、アトムがその原作中で生まれる年にあたっているそうですが、ヨーロッパのロボットものSFが、その開祖と呼ばれるべきカレル・チャペックの「ロボット」以来ずっと帯び続けているペシミズムの根底にあるのは、キリスト教を文化の根幹にしていない私たちにはいささか理解しがたいかもしれない何かではないだろうか、と思います。
(4月7日アップ)

4月2日(水)
平成15年度、つまりこの4月1日から変わる社会制度の中で、身近なところと言えば、被保険者の医療費の自己負担率が2割から3割に上がることと、郵政事業庁が郵政公社になることでしょうか。
一昨年の暮れから昨年2月にかけて歯医者に通って、30年分の虫歯や歯石を全部治療した後も、半年毎に定期検診を受けるようにと言われて、昨年10月に数回通院したのですが、それからまた半年経ったこの4月に定期検診を受けることになりました。そうすると、受ける治療が全く変わらなくても、窓口での支払は5割増になる計算です。前は1回歯石を取ると千数百円でしたから今度は2千円くらいになるはずで、行く前から気が重くなりますが、考え方を変えればこれでも7割は保険制度に肩代わりしてもらっているわけです。
もし何らかの理由で(真っ当に生活している日本国民なら、そういうことはあり得ないはずですが)全く保険が使えない状態だったとすれば、自己負担率10割ですから、1回歯医者に行くと6〜7千円払わなければなりません。何か持病があって定期的に通院することになったら、毎月の医療費はすぐ万単位の金額になるでしょう。健康に暮らしている分には、給与明細の保険料の欄を見るたびにげんなりしますが、医者にかかる身になると保険制度の有難味を実感します。

郵政事業庁が郵政公社になって、利用者の一人として何か変わったように見えるのは、郵便局のマークが少し変わったようなのと簡保のマスコットのポスターが張り出されたくらいです。こうなるまでの経緯はあまり詳しくは知らないのですが、例えば全国一律 離島や山奥まで封書を80円 葉書を50円で配達する郵便事業に民間企業が参入できるようにしたのに、宅配便業界最大手の会社も後込みして参入しようとせず、つまり民営で今の郵便サービスを提供することは不可能だと当の民間会社が表明したにもかかわらず、あくまでも郵便事業民営化が、そうすることが人類の使命、自然の摂理ででもあるかのように推し進められてきた、そんなように見えるのは見間違いでしょうか。
どういうわけか「民営化」というとほぼ例外なくその前に「分割」という言葉がくっつく、と私は思っているのですが、郵政公社は今のところ地域ごとに分割される様子はないようです。でもちょっと考えてみると、民営化に際して何でも分割したがる人たちは、二言目には「競争原理」を錦の御旗にしていますが、全国展開するサービス業なら分割すれば強力な競争原理が働きますが(実現しませんでしたが、専売公社が複数のタバコ会社になっていた場合を想像してみてください)、地域ごとに見れば1社独占の形になるのなら、そこに競争原理は働きません。例えば新潟から東京へ荷物を送るとしたら、ゆうパックで送るか宅配便で送るかを選ぶことができる、つまり郵政公社と宅配便会社の競争が実現しますが、新潟から東京へJRで行くとしたら、JR東日本で行くかJRグループの他の会社で行くかを選ぶことはできませんし、新潟から東京へ電話をかけるとしても、NTTコムでかけるかNTT東日本でかけるかを選ぶことはできないのですから、国鉄と電電公社を民営化する際に分割したことは、それぞれのグループ内で競争原理を働かせる役には全く立っていないことになります。
もちろん上の喩えはJRとNTTグループ内での話で、ゆうパックと宅配便の喩えになぞらえれば、新潟から東京へ行くならJRと高速バスを選ぶことができますからそこに競争原理は働きますし、新潟から東京へ電話をかけるのにNTTコムでかけるか新電電でかけるかは、それをめぐって利用者を囲い込むために(マイラインプラス)熾烈な競争が繰り広げられていたのは記憶に新しいところです。
話が少しずれますが、地域ごとに見れば独占の形になっているから競争原理が働かない、というのは電気・ガス・水道もそうです。もしそういう公共インフラも利用者が自由に選んで使うことが可能だったならば、「○○電力は××原発のトラブルを隠していたりして誠意が見られないから他の電力会社と契約する」ということが可能になるはずで、そうなったら電力会社は利用者の信頼を落とさないために必死になるでしょう。現実にはそうはなっていなくて、例えば新潟県の大半の地域に住んでいる人は好むと好まざるとにかかわらず東北電力と契約しなければ電気を利用できませんから、そういう形で独占にあぐらをかいていることが、最近何かとニュースになることどもと無関係とは言い切れないのではないか、と思うことがあります。
(4月6日アップ)

4月1日(火)
本日、当サイトは前身「800Tours」として開設してから満3年を迎えました。
こうして1年間サイトの運営を続けてくることができたのも、サイトを訪れては折に触れてサイトや公開作品に感想を下さった皆さんの、温かいお励ましのおかげと、深くお礼申し上げます。
今後も当サイトをよろしくお願いいたします。
夕凪さんから送っていただいた「Kanon」SSについては、当サイトでの公開を快諾してくださる旨のメールが、昨夜のうちに届いていました。それで今夜の更新は、このSS「4月1日の出来事」の公開をまず第一にします。
それと、「flutter of birds」のサイトを運営しているキズナさんという方からリンク依頼のメールを頂いていたので、サイトを見せてもらって、当サイトからもリンクさせてもらうことにしました。
(4月4日アップ)

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