近江物語

第十九章 韜晦
 目を朝廷内部に向けてみると、新院の廃位後一年を経たずして、早くも国政は蹉跌を生じ始めていた。何と言っても、有能な若手貴族は悉く免官され、前摂政派と小野院派が勢力を伸ばしたのだったが、免官されなかった者というと結局、新院が不敵にも言ったように無能な者が多いのだ。頑迷な保守派たる小野院や摂政――七十歳にして再び摂政に就任した――を中心に上層部は保守反動に走り、その下で中堅・下層部は、或いは萎縮し或いは遊惰に流れ或いは目標喪失の無気力感に捕われる。新院の親政時代の活気と緊張に満ちた朝廷は、再び沈滞と怠惰、マンネリズムに逆戻りした。さながら内裏の田畑が、耕す人を失って荒廃して沼や荒蕪地になるように。それと同時に、巻土重来を期す左大臣派が暗躍を始め、また一時は団結した小野院派と摂政派も、現実に権勢が手に入るとなると再び反目し争うようになって、政界上層部の暗闘が激化してきた。新院の治世は、新院が強力なイニシアチブを執っていたので、それ程政争はなかったのだが。
 この中央政界の態たらくは、今迄新院の革新的な、民力を涵養し国を富ませる事に熱意を注いだ施政に馴れ、それを善政と讃えていた心ある国司や地方豪族達を失望させ、憤慨させた。その様子は、うすうす京にも伝わっていたようである。
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 十一月十七日の事である。新院が親子総出で、脱穀した稲を俵に詰めていると、日頃よく御所に出入りしている、皇太后宮大進良岑康人という下級官吏がやって来た。深刻そのものという顔をしている。
「何だ、血相変えて」
 新院が不思議がって訊くと、大進は顔色を変えて新院に歩み寄り、小声で言った。
「播磨の土豪が、新院を奉じて叛乱を起こしたと、早馬で報せがありました」
 新院の顔からも、血の気が引いた。
「そんな馬鹿な! 叛乱を起こせなんて、一言も言った覚えはないぞ! 叛乱なんて、うまく行ったためしがないし、失敗したら今度こそ島流しだ! ……ああ……どこの誰が、早まったんだ……」
 茫然自失の体の新院を、皇太后は叱咤激励する。
「しっかりしなさいよ! 手が回りそうになったら、私達は何もあずかり知らぬ事だと、はっきり弁明すれば何とかなるでしょうし、駄目なら駄目で、さっさと逃げるのよ! それには、とにかく身の回りの物を最低限残して、あとは全部お金に換えるのよ、いい、お金になりそうな物、大急ぎで集めて! 四条の質屋へ持って行くから!」
 何という先見の明であろうか。皇太后は、皇太后宮職を通じて来る給付を、最低限だけ残して、他は全て砂金や、水晶、真珠の装飾品といった物に換えておいたのだ。もし叛乱に担ぎ出されたら、一切の弁明は通じるまいと悟っていたのであろう。十九日の夕方までに、皇太后は身の回りの物を、装束と炊事道具の他は、大部分換金して来た。塗篭に隠した小さ目の唐櫃の蓋を叩きながら、皇太后は新院に言った。
「この中に、お米に換えれば千石分くらいの物が入ってるわ。これを背負って逃げれば、当分食べるに困らないわよ」
 新院は驚嘆の溜息を漏らした。
「……いつの間にそんなに……」
 そこへ大進が忍び込んできて、皇太后と新院に言った。
「私が得ました情報では、明朝叛乱鎮圧に武士団を出動せしめ、同時に、新院を追捕し奉る内容の宣旨を発するということです」
 この男良岑康人は、表向きはどの派閥でもないのだが、皇太后宮に勤めるうち、新院と皇太后に同心するようになってきた者であった。
「とうとう来たか……」
 溜息をつく新院を尻目に、皇太后は、
「では今すぐ逃げましょう! 逢坂は通れるかしら?」
 大進は口籠る。
「さあ……そこまでは……」
「とにかく、行ける所まで行きましょう! 車はあるの?」
「はっ、裏木戸に用意してございます」
 大進が用意した車というのは、地味な牛車であった。だがそれを見て、皇太后は首を振った。
「これじゃ、私達の他にも大勢人が要るし、関所を越えるのも目立つわ。大八車みたいなのはない? 私達は皆、庶民に身をやつして車を押して行くから」
 大進は、どこからか大八車を見つけて来た。皇太后と新院は、例の唐櫃と、一石ばかりの米を詰めた俵、それに炊事道具や衾などを車に積み込んだ。こんな事もあろうと思ったのか、子供達を昼のうちから寝かしつけておいたのも皇太后の先見の明であった。戌の刻(午後八時)、新院と皇太后、子供達八人、大進の総勢十一人は、庶民に身をやつしてそっと五条御所を後にし、夜陰に乗じて近江へと落ちのびた。
 深夜に逢坂の関を突破した。ここで皇太后は、騎馬で先導してきた大進に言った。
「貴方は京へお帰りなさい。ここからは私達だけで行きます。貴方は、私達が逃げた事は一切知らなかったと装いなさい。貴方に累を及ぼすのは、私も新院も不本意です」
 大進は躊躇する。
「いや、私は……」
 皇太后は制した。
「貴方にも妻子があるでしょう。貴方一人が職を捨てて京から姿を消したら、妻子に累が及ぶかも知れません。私達にかかずらったために、貴方の妻子にまで累が及ぶのは、私には辛いのです。わかりますか。ならば早く、お帰りなさい」
 皇太后は、並の男より剛毅な心の持主であった。後を振り返りつつ去ってゆく大進の姿が闇に見えなくなると、皇太后は、夜間行軍に疲れている子供達を叱咤激励しつつ、車を押して山を下った。
 竹生島行幸の時とは比べ物にならぬ厳しい旅であった。先を急ぐため炊事もよくせず、糒に水をかけ梅干で流し込むだけで、夜を日に継いで車を押し、引いて進んだ。歩き慣れぬ女宮達の足の皮は剥け、血が滲む。女三宮は真っ先に歩けなくなって、皇太后が背負ってゆく。三ヶ月の五の宮を片手に抱き、片手で女二宮の手を引いて雪道を進むのは、屈強な皇太后にもさすがに応える。それでも小休止の度に、休む暇もなく食事の用意をしたり、子供達の世話をしたり、甲斐甲斐しく働く皇太后であった。新院は永年の農作業で鍛えた躯で、力強く車を牽いてゆく。一の宮と二の宮は、父に負けじと車を押す。女一宮は四の宮を背負い、三の宮の手を引きながら、上り坂では兄達と一緒に車を押す。女一宮は皇太后に似て、心身共に不屈の勁さを持っている。
 勿論皇太后とて、当てもなく京を逐電した訳ではない。近江高島の実家に庇護を求める積りであった。
・ ・ ・
 朝廷が、叛徒の鎮圧並びに新院の身柄拘束の宣旨を発したのは二十日の朝であった。挙兵の報は十六日に届いていたのに、かくも日を空費したのは、何事にも日取りの善悪を気にする迷信のせいであった。二十日の昼近くなって、五条御所に検非違使数十騎を差し向けてみたが、勿論五条御所はもぬけの殻である。留守番をしていた管理人を連行して、新院達の行方を訊問しても、何も知らぬと言うばかり。皇太后は近江の出だから、もしかしたらと言い出した者があって、逢坂の関を封鎖したのは夕方であった。この頃新院の一行は、既に高島郡に足を踏み入れていた。皇太后の果断が、朝廷を完全に出し抜いたのであった。
 夜の帳が下りる頃、一行は高島郡司の館に着いた。見すぼらしい庶民の一行を見て、門番は邪慳に、
「郡司殿に何の用だ」
 皇太后は疲れ切っていたが、悠然と進み出て市女笠を脱いだ。
「私は郡司の姪で、長年京におりました者です。訳あって京を出て、昔住んでおりましたここへ参りました。郡司に御目通りをお許し願えますか」
 門番は渋々、一行を館に入れた。応対に出た郡司の、驚くまいことか。昨年竹生島行幸の途次、ここに宿を求めた帝と中宮、その子供達の一行ではないか。行幸中に政変があって突如廃されたとは聞き及んでいたが、こんな庶民に身をやつして転げ込んで来るとは夢にも思わなかったのだ。
 皇太后は、ここ一年間の情勢や、この四日間の出来事を郡司に話して、
「そういう訳ですので、当分ここに匿まって頂けるならば、他に何も望みません。小作人に交って、田畑の仕事も致しますし、お館の仕事も致します。とにかく、私達がここにいると、京に知られなければ良いのです」
 皇太后が頭を下げると、郡司は恐縮して、
「これは何と畏れ多い事を。太上天皇、皇太后ともあろう御方々を、小作人になどと。この郡司の力の及ぶ限り傳き奉り申そう」
 新院は手を上げて言った。
「いやいや、そうやって特別に扱って頂いては却って困るのです。世間の噂は、郡司の館に誰か高貴な人が傳かれていると、瞬く間に京へ伝わってしまいます。それでは私達が、ここへ落ちのびてきた意味がない。私達がここにいる事は、誰にも知られてはならないのです」
 取り敢えず郡司は、疲れ果てて腹を空かせた一行に膳を整えて出した。やっと人心地ついたところで、湯を使わせ、足を傷めた子供達には使用人に命じて傷の手当をさせた。新院も皇太后も、一昼夜の強行軍に疲れ果てて、郡司の用意した衾にくるまると泥のように眠った。
 翌日皇太后は、体の節々が痛むのに苦しみながらも、まず入道の墓に参った。雪の積もった土饅頭に跪きながら、皇太后はぽつりと呟いた。
「こんなに落魄した私達を見ずに亡くなって、お祖父様はむしろ幸せだったかも知れない」
 新院は黙って頷いた。
・ ・ ・
 播磨と、続いて和泉で起こった土豪の叛乱は、たちまち鎮圧された。叛乱の首魁は遠流になった。逐電した新院と皇太后に対しては、その尊号を廃し、その子供達も、親王・内親王の号を廃し全員除籍した。雅仁も律子も、貴族社会で得た全てを失ったのだった。今や一家は、高島郡司三尾氏の縁続きであるというだけで、一片の土地も持たぬ一介の庶民になり果てたのだった。
 無為徒食で郡司の館に居候しているのは退屈だし世間に不審に見られよう。せめて自分達の食べる米は、自分達に作らせて欲しいと雅仁は郡司に申し出て、郡司の所有する水田のうち、七段ばかりを耕すことになった。律子の方はその近くに二百歩(一段は三百六十歩、一歩は今の一坪)の畑を借りた。春の雪解けと共に、夫婦は息子達を連れて田畑に出、農民と全く同化して、額に汗して大地を耕すのだった。五条御所から逐電した新院や皇太后達が、こんな暮しをしているなどと、京洛の誰が想像し得ただろうか。新院追捕の宣旨の下、全国に追捕使は出たが、近江の追捕使も、高島郡司の田を耕す雅仁を見つけ出す事はできなかった。ある時追捕使の一行が郡司の館に来て、
「貴方は前の皇太后の伯父に当る方だ、皇太后と元の新院の居所について、何か知っていたら、隠さず言いなさい」
と詰問した時、郡司は泰然として、
「皇太后からは、先年の行幸以来何の御消息もござらぬ。まして新院の御居所を、私如きが何を存じましょう、私の方が伺いたい程で」
と嘯いた。追捕使は郡司の館を捜索したが、その間雅仁と律子は、子供達と一緒に田に出ていたのだった。追捕使の一行が諦めて去って行く時、一家が田を耕しているのを遠くから見たが、周りの他の田で働く百姓と、全く見分けがつかなかった。去っていく追捕使の一行を見て、雅仁は律子に言った。
「きっとあの連中は、私が須磨の源氏みたいな暮しをしているとでも思ってるんだ。そんな先入観で捜してりゃ、見つからないのも当然だよ」
 律子も頷いた。
「もし須磨の源氏が貴方みたいな暮しをしていたら、頭中将だって見つけられなかったでしょうね」
「源氏がか。浦の苫屋に寝起きして、舟を漕ぎ出して魚を漁り、干物を作ったり塩を焼いたりしてか。そりゃそうだね、はは、でもそうしたら、明石の入道も源氏を見つけられなかったんじゃない?」
 雅仁と律子が笑い興ずるのを、子供達は不思議そうに見ている。
 七段の田を耕すのは、それ以外に仕事がない雅仁にとっても、なかなかの大仕事である。藤壷前の七十歩、五条御所内の二段の田に比べて、ただ単に面積が増した、というだけでもない。広ければ広い程、平らにならすのも水を均等に循環させるのも難しくなるのだ。春は雪解け水のぬるむのを待って苗を育て、夏は炎暑の中ひたすら草取りをし、水を湛えっ放しではなくて時々水を落とす。土質の違い、気候の違い、水利の違い等、新しく耕作を始めた田に慣れるには、数年間試行錯誤を繰り返さなければならない。五条御所の庭での耕作では、前年に比べて天候は大差なかったのに、面積当りの収穫は三割減った程だ。
「なかなか農業とは奥の深いものですね。前に耕していた田んぼで慣れたやり方は、ここでは全然とは言わないが半分しか役に立ちませんよ」
 夏のある日、雅仁は隣の田を耕す小作農に言った。
「あんた、前はどこにいなすったんで?」
 その老小作農は、汗を拭きながら尋ねる。
「山城の、桂川の辺です」
「へえ、山城とここで、そんなに違うかいな。儂はもう五十年は耕しとるが、どこもここと同じだとばかり思っとったわ」
 農民というものは、一生涯同じ土地を耕し続けるのが普通である。他国の事など、全く知らないのが当然なのだ。
 試行錯誤の連続で、毎日が新しい発見と工夫の連続である雅仁の頭の中は、新しく自分の目の前に広がった七段余の田畑で占められていた。毎日克明な耕作記録をつける雅仁は、夜になって記録帳を開いて初めて、今日宮中では何が行われる日だと思い出すくらいで、落魄した自分の境遇をかこつ心など、頭の片隅にさえ浮かんでこなくなった。日々の肉体労働の快い疲労は、夜衾を被る雅仁を、昔日の栄耀を思い出して懐旧に耽る暇も与えずに眠りに引き込むのだった。律子も同じであった。二百歩の畑の手入れと八人の子供の世話に追いまくられて、内裏暮らしを思い出して沈淪の身を顧みる暇もなかった。元々二人とも歌才は乏しい方だったから、近江高島に韜晦する間、一首の歌も残していない。
「源氏が須磨でしていたような、あんな暮しと、今私達がしているような暮しと、どちらがいいか、なんてのは愚問だね」
 ある夏の午後、田仕事の合間に一息入れながら雅仁は言った。律子は五男のおむつを替えながら答える。
「京の貴族達は、ああいう暮しを風流だと思ってるんだろうけど、私に言わせればあんなの、退廃でしかないわ。自分の食べ物を自分で作りも獲りもしないで、する事と言えば経を読んで歌を作って、都の奥方に手紙を書くだけ、そんなの、全うな人間の暮しじゃないわよ。雁の列がどうしたって言うの、毎日朝から晩まで田んぼや畑や海で働いていたら、そんなたわ言を言ってる暇はないし、言って紛らかすような、そんなしみったれた心、跡形もなく吹っ飛ぶ筈よ」
 やはり雅仁も律子も、その体に流れる血は農民の血である。大地に足を踏んばり、流れる汗を大地に注ぎ、大地と共に生きてゆく、不屈不撓の、荒削りな、土の匂いに満ちた農民の精神が、二人の脊髄となっている。それは決して、大地に足の付いていない、大地を忘れた柔弱な貴族の精神ではない。
(2000.9.24)

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