私本落窪物語 |
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第九章 奸計
さて北の方は、いよいよ恥ずべき陰謀に着手した。朝食もまだのうちに、綏子姫と一緒に忠頼卿の前へ進み出て、わざと歎く風で、「貴方、大変嘆かわしい事になりましたわ! 何ともはや情ない、中納言家始まって以来の大恥ですわ!」 忠頼卿は面喰らって、 「何事だ、朝から」 「綏子の婿君、蔵人少将様の家来の、帯刀と申す若僧は、阿漕のところへ通っていると聞き、そのつもりでおりましたのに、何と事もあろうに、落窪の君に通っておったのですよ! いえ、それどころか、落窪の君の方が、帯刀を誘惑したのですわ!」 北の方が誠しやかにつく嘘に、卿は驚きあきれて口もきけない。綏子姫が、前以て北の方と示し合わせておいた通りに、たもとから惟成の落とした手紙を取り出し、袖で顔を覆って泣き真似をする。 「お父様、これが、落窪の君が帯刀に書いたという恋文です、よく御覧下さい、落窪の君の字ではございませんか? 帯刀が、愚かにも夫の前で落としたのを、夫が誰の文かと問い質しましたら、臆面もなく落窪の君、夫にとっては義姉上の文だと申したのだそうです。しかも、落窪の君の方から、帯刀をしきりに誘って、断ったら阿漕に暇を出すなどと言った、と申したそうです。夫は、『何ともはや恥かしい、私の監督不行き届きにございます、帯刀めは、即刻私の家来から外します。いやはや、人聞きの悪いことだ、帯刀は今後決して、このお邸に近づけないようにして下さい』と申しておられますわ!」 綏子姫は空泣きしながら言った。 「お父様、夫は、私と別れようと思っておりますわ! 子まで成した仲なのに、召使いの夫を誘惑するような姉を持ったために、夫が私から離れてゆくのは、悲しうございます! あああ……」 しまいに綏子姫は、迫真の演技で泣き伏した。卿は年寄りのこととて激しく立腹し、音をたてて爪弾きして、 「全く、何という事をしでかしたのだ! 帯刀は六位とは云え地下、何の後ろ楯もない下っ端、そんな男のどこが良くて、儂等や頼実殿にまで恥をかかすような真似をしたんだ! 殿上人か、せめてそこそこの受領になら、くれてやってもいいと思っていたのに! 何という恥さらしな!」 とひどく興奮して騒ぐ。北の方はここぞとばかり、 「貴方、世間に漏れ広がらないうちに、早く揉み消してしまいましょう! どこか人目につかないところに押し込めて、決して帯刀が近寄れないように」 「そうだ、雑舎の塗籠にでも、押し込めてしまえ! 帯刀も追い出せ! 二度と邸の門をくぐらすな!」 卿が喚くのを聞き届けて、北の方と綏子姫は、急いで廊下へ出ると、そこに待ち構えていた珠子姫と顔を見合わせて、にやりと笑い合った。 「綏子、蔵人少将様に、帯刀をすぐ、この邸から追い出すように申し上げて。珠子は、阿漕を呼び出して、落窪から離しておきなさい」 北の方は二人に素早く指示すると、自分は足音も荒く律子姫の部屋へ向かった。物凄い音をたてて戸を蹴倒し、 「落窪! お殿様が、ひどく御立腹してお呼びだよ! 早く来な!」 律子姫は、息も止まりそうなほど驚いて、針を持つ手を止めたまま茫然として坐っている。北の方は床へ飛び降り、猛然と姫に掴みかかり、 「本当に、何てことをしてくれたんだろうね! 他の子供達の面汚しだと仰言って、お殿様は、物凄くお怒りだよ! さあ、早く!」 そこへ明子が、息せき切って駈けつけると、北の方の袖に縋りつき、 「姫様が、何をなさったと仰言るのです!? お殿様がお怒りになるような、何を!?」 と半ば泣き出しそうになって叫ぶ。北の方は、力任せに明子を振り払うと、 「黙らっしゃい! お前が知らぬ間に、落窪はね、とんでもない事をしでかしてくれたんだよ! 全くお前は、事の善悪もわからん主人にばかり仕えて、あたし等が大恥かかされてるのに、主人の肩持つんだからね! もう、馘だ! とっとと出て行きな!」 明子を追って廊下に来ていた珠子姫が、金切り声を上げる。 「阿漕! 何してるの! 早く来なさいよ!」 北の方は向き直り、 「さあ、早く! 珠子、手を貸しな!」 と荒々しく叫ぶと、律子姫の両肩を鷲掴みにし、力任せに引き立たせ、廊下へ引きずり上げようとする。珠子姫が加勢して、律子姫を引き上げる。北の方の袖に縋りつこうとする明子を、北の方は力一杯蹴倒して、 「寄るな! さっさと、荷物をまとめて、出て行きな!」 と罵倒する。ようやく廊下へ這い上がり、北の方の後を追おうとする明子の前に、珠子姫が立ちはだかる。 「姫様、姫様あああ……!」 明子は血を吐かんばかりに泣き叫んだ。 ・ ・ ・
何も事情がわからないまま、忠頼卿の前へばたりと引き据えられた律子姫に、卿は半ば泣き顔で、「律子! お前という子は、何という恥さらしな事をしでかしたんだ! 幾らいい縁がないからと云って、使用人の夫、義弟の従者を誘惑するとは何事だ! 何て恥知らずな! 恥を知れ、恥を! こんな無様な事が、世間に知れ渡ったら、儂がどんなに恥をかくか、わかっとるのか! 父にこんな恥をかかすような子は、儂の子じゃない! 勘当だ!」 と居丈高に、憤怒に声を震わせて喚く。姫は、帯刀を誘惑するなど、全く身に覚えがないので、初めは驚きあきれて声も出なかった。やっと、震える声で、 「お父様! 私が誰かを誘惑したなんて、そんな事ございませんわ!」 卿は激昂の余り何も聞き入れず、 「黙れ! 何も言うな! 何も聞かん!」 姫は、こらえ切れず、大声をあげて泣き伏した。 「お父様……あんまりですわ……」 卿は一層怒って、 「うるさい! さっさと儂の前から……!」 と怒鳴った途端、激しい眩と頭痛に襲われて卒倒した。北の方は卿には目もくれず、姫を引き立てて雑舎へ行くと、酢や酒などの物置に使っている塗籠の中へ、姫の尻を蹴って倒し込み、激しく音を立てて戸を閉め、がっちりと錠を鎖して行った。 「ああ……お父様……どうして、どうして私を……ああ……」 姫は激しく泣きながら、突っ伏していた。 ・ ・ ・
西の対では紀子姫が、大夫の君に手水を持たせていたところだった。寝殿の方から只ならぬ騒ぎ声が聞こえてくるのを聞きつけて、「何かしら、あの声は。侍従、見ておいで」 紀子姫付きの、侍従の君という上臈女房が、立って出て行く。 侍従の君が廊下を、寝殿に向かって歩いてゆくと、向こうから少納言が、髪を振り乱して走ってくる。 「中の君様、中の君様!」 と叫びながら駈け抜けようとするのを、侍従の君は袖を掴まえて、 「少納言、ちょっと待ちなさい! 中の君様に申し上げる事があるなら、私を通すのが筋ってもんでしょうが」 と年長の女房らしく、少納言を咎める。袖を掴まれてすっ転んだ少納言は、尻をさすりながら起き上がると、侍従の君に正対して、 「も、申訳ございません。中の君様に、こうお申し上げ下さいませ。お殿様が、落窪の君に大層ご立腹なさって、勘当なさると仰言っておられます、と」 侍従の君が引き返して、紀子姫に申し上げると、紀子姫は顔色を変えて扇を取り落とし、 「お父様が!? 律子姫を……?」 降って湧いたような騒ぎに、しばし茫然として、言葉も出なかった。 「義父上は、律子姫様に良い婿君をと、御心を砕いておられたのに、何でいきなり、勘当とは?」 仲基君は、どうしても解せないという面持ちで呟き、 「よし、紀子、私が行って、義父上に伺って参ります」 と言い置いて、寝殿へ出かけた。 ・ ・ ・
一方東の対では、朝早くから綏子姫と珠子姫が、北の方に呼ばれて出て行った後、頼実君は一人、昨夜の事を思い出していた。「しかし、意外な事もあるものだ。左近少将も、あの年まで浮いた話が何一つないものだから、どういう道心の持ち主なのかと思ってたら、私の目と鼻の先で逢引していたとは。全然、そんな様子も見えなかったがな。待てよ、女の針仕事を手伝っていたな。針仕事をさせられてるような、女房風情の女に通うのは、その邸の御主人の姫君に正式に婿入りした私の手前、何か恥ずかしくて口にしなかったんじゃないのか?」 などと考えているところへ、寝殿の方から只ならぬ騒ぎ声が聞こえてきたので、 「誰か、寝殿へ行って、何の騒ぎか見てきてくれ」 と声をかけると、近江という女房が、立って出てゆく。やがて戻ってきた近江は、これこれと顛末を述べるので、 「落窪の君? そりゃ誰だ? 義父上が、勘当なさると仰言るからには、義父上の姫君なのか?」 と訝るのも道理、綏子姫は今迄、律子姫の存在をすら、頼実君に語ったことはなかったのだ。 そこへ綏子姫が戻ってくると、君の前に崩折れて顔を覆い、 「貴方、帯刀を、今すぐ御家来からお外しになって!」 と涙顔で言う。君は驚いて、 「帯刀を!? 帯刀が、何をしたと言うのです」 勿論、綏子姫が忠頼卿に訴えた言葉は、北の方と共謀して作文したでっち上げなので、君は何も知らない。 姫は、ここでうまく言い繕わないと、夫が落窪の君の存在を知って、私を詰るかもしれないと思って、懸命に練り上げた嘘を、 「昨日、帯刀が恋文を落としたんですわ! 帯刀は、阿漕を妻としていながら、身分も弁えずに私の妹に言い寄っていたというので、お父様が凄く御立腹なさって、帯刀を追い出す、そればかりか、帯刀の主人、貴方様も、監督不行届きだ、よくよく言い聞かせないと、と仰言って……」 君は、従者の不行跡で責任を取らされてはかなわない、と俄に逃げ腰になって、 「わかりました。帯刀如きのために、私まで義父上の御不興を買っては、心外至極です」 と、空泣きしている姫を慰めるように言う。姫は俯伏しながら、内心ほくそ笑んでいた。帯刀には何の恨みもない、でも帯刀をこの邸から遠ざけておかないと、いつ何時、帯刀の口から、私達の嘘がお父様にばれるかわからない、そうなったら落窪の君どころか、私が勘当される、何とか隠しおおせないと。 ・ ・ ・
昨日から一日、心身喪失の態で明子の部屋で倒れていた惟成は、将監に支えられて頼実君の前へ連れて来られた。君は惟成に、「帯刀、私は詳しい事はよく知らんのだが、中納言殿がお前に、ひどく御立腹なさっているそうだ。今すぐ、この邸から追い出すお積りらしい。お前のせいで、私まで監督不行届きだと、お咎めを受けている。私の立場を悪くしたくないと思うなら、早くこの邸を出てくれ。当分、私にも近づかないでくれ。お前が憎いのではない、わかるな?」 と、やや居丈高に言った。惟成は平伏して、 「一体、某が何をしたと仰言るのでしょう」 と、か細い声で言う。君は冷淡に、 「それは知らん、私に言われても困る。中納言殿がそう仰言るのだ、申し上げることがあ るなら、中納言殿に申し上げるがよい」 と言い残すと、宮中へ出勤するため席を立った。 ・ ・ ・
これでもう落窪の君は破滅だ、と内心ほくそ笑む綏子姫の耳に、明子の泣き声が聞こえてきた。典侍の君が、腹立たしげな声で言うのが聞こえる。「阿漕、そんな格好で、何しに来たんだい!」 珠子姫の甲高い声も聞こえる。 「阿漕! 私の部屋にいなさいって、言ってるのがわかんないの!?」 「三の君様に、どうか今一度、お目通りを」 元々綏子姫は、明子を陥れようという気は毛頭なく、むしろ日頃から目をかけていたくらいなので、明子の泣き声を聞くと、俄に心が乱れて、 「阿漕、こちらへおいで。どうしたの」 明子は、髪を振り乱し着物を着崩した、あられもない姿で、泣きながら参上すると、 「三の君様、どうか私が、姫様のお傍にいられますよう、北の方様にお取りなし下さいまし!」 と叫んだ。 ――律子姫が北の方に連行された後、明子は、こんな目に遭わされて、どうしてこんな邸に留まっていられようか、今すぐ出て行ってしまおうか、とも思ったが、私が出て行ってしまったら、一体誰が、お殿様にまで勘当されなさった姫様をお助けするというのか、ここは、下仕えに落とされてでも、姫様のためにこの邸にとどまることが、私にできる限りのことだ、そのためには、志を曲げてでも三の君様にお縋りしよう、と思い直して、参上したのだった。 「全く身に覚えのない事で、北の方様に暇を出されて、姫様にお仕えするのを途中でお止めしなければならないのが、大層悲しうございます! 何とかして、今一度姫様にお仕えできますよう、どうか姫様、北の方様によしなにお取りなし下さい! この通りです!」 明子は綏子姫の前に平伏する。こうまでされると、根は素直で優しい綏子姫、たちまち明子に同情し、自分も涙を滲ませて、 「わかったわ。阿漕、心配しなくていいわ。どうしてお母様は、お前に暇を出したりなさったんでしょう。いいわ、すぐ、お母様に取りなしてあげる」 と言うと、自ら立って、北の方の部屋へ向かった。 珠子姫が追いすがる。 「お姉様、駄目よ、阿漕を落窪の君から離しておきなさいって、お母様が」 綏子姫は聞き入れない。 「お母様、どうして阿漕にまで、暇をお出しになったのですか。今まで使い慣れておりましたのに、いなくなっては大変困りますわ。どうか今まで通り、この邸で使ってやって下さい」 綏子姫が真剣に頼み込むと、北の方は、今しがたまであたしと組んでたのに、何で今になってこんな事を言い出すんだ、と不快に思って、苛立った口調で、 「綏子、貴女、阿漕に丸め込まれちゃいけないよ。それとも、あいつの肩を持つ気かい」 「ではお母様、阿漕が何をしたといって、阿漕に暇をお出しなさったのですか。聞かせて下さいまし」 綏子姫は、いつになく強い口調で喰い下がる。北の方は面倒臭くなって、 「いいかい、落窪が帯刀を通わせたって言ってもね、あいつ一人でできる事じゃないよ。だからあたしは、阿漕がね、あいつは日頃から、何とかして落窪を縁づけようとしていたに違いない、そいつが手引きしたと思ってるんだ」 綏子姫は急に北の方に迫ると、北の方が驚くほど強い口調で、執拗に喰い下がった。 「そんな筈はありませんわ! お母様、帯刀は、阿漕の夫じゃありませんか! 幾ら仕えている主人に良い縁がないからと言って、自分の夫を主人に手引きするような、そんな事、決してありませんわ! 私だって夫を持つ身、夫を主人に手引きする女が、この世にいる筈がないことくらい、よくわかってますわ! 阿漕に、帯刀を思う心、落窪の君を思う心が少しでもあるのなら、そんな事、決してする筈がありません!」 北の方は痛い所を衝かれて、反論できない。それで、やにわに手を振って、 「ああもう、うるさいね、わかったよ! 阿漕は貴女に任せた、どうにでもなさい! ただし、いいかい、落窪に近づけるんじゃないよ!」 最後に一本釘を刺しておくことを忘れないのが北の方らしい。嘘で固めた陰謀というもの、どこかで綻びてくるものである。 朝食を済ませた後で、北の方は律子姫の部屋へ来た。部屋には、縫いかけの衣が散乱している。北の方は衣を拾い集め、針箱と燭台とを持って、律子姫を閉じ込めてある塗籠へ来た。戸を開けると姫は、北の方が来たのも気付かず、床に突っ伏して泣いている。北の方は一際声を荒らげた。 「いつまでも赤ん坊みたいに泣いてないで、ほら、これ、さっさと縫いな!」 罵りながら姫の前に衣を放り出す。姫が顔を上げようともしないのを見ると、怒りの赴くままに姫の後ろ髪を掴んで引き起こし、涙に濡れた頬に往復びんたを入れた。 「今日中にちゃんと縫わなかったら、生きてここから出られると思うんじゃないよ!」 継娘に対してここまで兇暴になれる人間がいるものだろうか。姫の胸の中に、絶望や悲しみに続いて、恐怖心が起こってきた。北の方が燭台に灯を入れ、塗籠を出てゆくと、姫はのろのろと起き上がり、止めどなく流れる涙を押し拭いながら、縫物に取りかかった。 ・ ・ ・
綏子姫が北の方を口説き落としたので、明子は中納言邸にいられることになった。明子は綏子姫に、額を床に擦りつけて礼を述べる。ようやく自分の身が安泰となった今、思いをめぐらすのは律子姫の事だけである。もう昼近いというのに、誰も姫様の許へお食事を持って行った様子がない、姫様はどんなにお腹を空かしていらっしゃるだろう、と思うと悲しくてたまらない。もし私の身分が、北の方よりも高かったら、姫様のお受けなさった苦しみを、何倍にもして復讐してやるのに、と激しく胸を轟かす。とにかく今できることは、少将様にお縋りすること、これだけだ、と思うと、明子は見つけた紙に、このような次第で姫様が苛まれていると道頼君と惟成に宛てて書いた。さてこれを、誰に託して少将様と帯刀に渡そうか。「三の君様、帯刀は」 明子が言いかけると、綏子姫は俄に厳しい表情になって、 「帯刀は追い出されたわ! お殿様の御指図よ!」 明子は蒼ざめた。 「ど、どうして、どうしてですか!?」 姫は、迂滑な事を言うと、お母様と自分の陰謀が露見すると考えて、一層素っ気なく、 「知らないわ!」 明子は、目の前が暗くなる気がした。足どりも重く寝殿へ行き、お殿様にお目通り願いたいと言うと、 「お殿様は、朝からずっと倒れていらっしゃいます。何もお取り次ぎできません」 という返事。齢が齢なので、激昂の余り上がりすぎた血圧が、一向に下がらないのだ。 どうしよう! 少将様にお知らせできなかったら、私だけでは何ができるだろう! 明子は、深い絶望に打ちひしがれて、自分の部屋へよろめきつつ辛うじてたどり着くと、ばったり倒れ込んで失神した。 ・ ・ ・
昼頃になって将曹が、道頼君の手紙を持ってやって来ると、「帯刀の手紙です。帯刀の妻に渡して下さい」 と言って手紙を出す。道頼君は律子姫への手紙をいつも、惟成から明子への手紙ということにして託していたのだ。 「とりあえず阿漕に渡しなさいよ」 綏子姫に言われて、近江が明子の部屋へ、手紙を持って来る。 「帯刀の手紙だよ。それから阿漕、帯刀と別れさせられたのが辛いからってね、部屋で寝てばかりいないで、姫様の御部屋へ来なさいよ。姫様、御機嫌斜めだよ」 詳しい事情を知る由もない近江は、表面的な推測しかしないのも仕方ない。明子は、 「使いの者に、もう少し待っていて貰って下さい。すぐ返事を書きますから」 と言うと、近江が行った後で、手紙を開いた。今夜は宿直で、姫の許へ参ることはできないと書いてある。明子はいよいよ目の前が暗くなる思いで、悲痛な返事を認めて、それを将曹に託した。 ・ ・ ・
将曹が届けた手紙を見るなり、道頼君は、驚愕の余り腰砕けになってへたり込み、手紙を取り落とし、かすれる声で呟いた。「……何て事だ……姫は私のために、こんなひどい目に遭われている……」 今すぐにでも中納言邸へ押し入って、姫を救い出し、北の方を叩っ斬ってしまおう、とまで思ったものの、今夜は宿直、宮中から退出できない。君は断腸の思いで筆を取り、 「近いうちに必ずお救い申そう。決して希望をお捨てなさるな」 と一行だけ書いて、再び将曹に託す。 ・ ・ ・
昼過ぎ、明子は何とかして姫様に食事だけでも差し上げようと思って、台盤所へ忍び込んで屯食(握飯)を盗み出してきた。だがしかし、どうやって姫に差し上げるか。戸は頑丈に錠が差してあり、開けようがない。そうだ、三郎君様にお頼みしよう。三郎君様なら、子供だと思って北の方様もお気を緩めなさるかも知れない。そう思い当たった折も折、東の対の前の庭に、三郎君が駈け込んできた。 「三郎君様、こちらへおいで下さいな」 明子に呼ばれて、三郎君は小弓を持って走ってくる。明子は声をひそめて、 「落窪の君様が、今朝から雑舎に閉じ込められていらっしゃるのを、お気の毒とお思いになりませんか」 三郎君は童顔に憂いを浮かべて、 「思うよ、お母ちゃんも、ひどい事をするね」 明子は一層声をひそめて、 「それならこの屯食と手紙を、北の方様に気付かれないように、落窪の君様にお渡しして下さいな。頼みますよ」 「うん、いいよ」 三郎君はすぐ、律子姫が押し込められている雑舎の塗籠へ行き、 「ここを開けたい、開けたいよ。ねえ、開けてったら!」 と戸を叩いて騒ぐ。北の方が聞きつけて、 「駄目だよ! 開けられないよ!」 と、三郎君を厳しく叱りつける。そこへ、ようやく正気に返った忠頼卿が来て、 「三郎、どうしたんだ」 三郎君は、一層激しく戸を鳴らしながら、 「沓をここにしまっておいたんだ。蹴鞠をやりたいんだよ」 卿は、末子の三郎君を可愛がっているので、ここに律子姫が閉じ込めてあることも忘れて、 「それじゃ沓を履かないとな。開けてやりなさい」 北の方は一層厳しく、 「いいえ駄目です!」 三郎君は本気で興奮して、 「ようし、こんな錠、壊しちゃえ! えい! えい!」 と錠を壊そうとする。勿論、三郎君の力で壊せる錠ではない。卿は三郎君に、 「よしよし、開けるから、止めなさい」 と言って、自分で錠を外す。戸を少し開けた隙間から、さっと入り込んだ三郎君は、律子姫が縫っている衣の下に、屯食と手紙を懐から出して隠すと、沓を持って出てきた。北の方は、三郎君の懐を広げた跡があるのに気付くと、俄に激昂して、走り寄って三郎君を俯伏せに膝に載せ、 「落窪に何か差し入れたな! 誰に似たんだろうね、この小賢しさは!」 と罵りながら、三郎君の尻を思いきり叩く。北の方の罵声と三郎君の泣き声が、しばし雑舎に響き渡った。 律子姫は、明子がよこした手紙を、燭台の光で読んだ。先刻道頼君がよこした二通の手紙と、さらに明子が、姫を励まそうと書いた手紙であった。少将様も私のために、ひどくお悲しみでいらっしゃるに違いない、何とも申訳ない、と身も細る思いであった。心痛の余り何も喉を通らない気分だったが、明子の好意は無にすまいと、無理やり屯食を口に押し込んだ。 ・ ・ ・
夕方になって、道頼君は再び手紙を、惟成から明子への手紙と一緒にしてよこした。惟成は、自分の過失で姫を辛い目に遭わせたうえに、自分の身に覚えのない事で、明子との仲まで裂かれたので、今ではすっかり肚を決めて、中納言邸に殴り込みをかけてでも、姫をお救い申し、明子と一緒に逃げようと思いつめている。道頼君は君で、自分と縁を持ったばかりに悲惨な目に遭っている姫が不憫で、何が何でも姫を救い出し、そのうえ北の方に、死ぬほどの辱しめを加えずにはいるまいと、二人して激しい憤怒に身を焦がしている。明子は道頼君の手紙を受け取って、これをどうやって姫様にお渡ししたものかと考えあぐねている。そのうちに、北の方が姫に、蔵人少将の笛の袋を縫わせることになったと聞きつけた。装束は、もう縫い上がったらしい。ここはまた、三郎君様に頼もう。 明子は東の対へ行き、物陰で三郎君に手紙を渡し、 「坊っちゃんを見込んでお願いするんですよ。この手紙を、落窪の君様に、北の方様に気付かれないようにお渡しして下さいな。今度こそ、決して気取られなさらないようにね」 三郎君は先刻、散々尻を叩かれたので、 「うん、今度こそ、うまくやるよ」 と言いながら、手紙を袖の中に隠して行った。 塗籠の中では、北の方が、何やら様々な物が混じった臭いに閉口しながら、律子姫が袋を縫うのを見張っている。三郎君を見ると、 「また何かしに来たね!」 といきなり怒鳴りつける。君は平静を装って、 「ううん、何でもないよ。沓を返しに来たの」 「そうかい、じゃ沓を置いたら、さっさと行きな、早く!」 君は沓を置きながら、素早く姫の衣の下に、手紙を滑り込ませた。姫も気付いて、何とかして手紙を読んで、返事を書こうと思っている。 そこへ少納言が来て、 「北の方様、お急ぎの用事で、北の方様にお会い申したいと仰言る方がおいでです」 北の方はいまいましげに舌打ちして、 「仕様がないね! あんた、見張ってな!」 と少納言に言いつけて出てゆく。姫は少納言に見つからぬように、そっと手紙を取り出して読む。今となっては、少納言も信用ならないと思っているのだった。 「私のために心配なさらないで」 と一行だけ、君からの手紙の裏に、硯も筆もないので、針で小さな孔を開けて記し、胸元に差し込んで隠し、笛の袋を縫い続ける。 袋は縫い上がった。姫は、先程北の方が、袋が縫い上がったら蔵人少将様にお見せすると言っていたのを思い出し、一計を案じた。姫は近くに坐っている少納言に、 「この袋を、蔵人少将様にお渡しするように、阿漕に言って渡して頂戴」 と言って袋を渡した。そこへ北の方が戻って来て、袋を見ると、 「できたかい。蔵人少将様にお見せしよう」 と言って袋を少納言から取ろうとする。少納言は、 「私が持って行きますわ」 と早口に言うと、足早に出て行った。北の方は、さしたる疑いも抱かず、 「また何か用事があったら、開けるからね、それ迄は開けて出ようなんて思うんじゃないよ」 と言い残して、戸を閉め、錠を差してゆく。 「落窪の君様がこの袋を、蔵人少将様にお渡しして下さいと仰言って」 少納言から袋を渡された明子は、何故私を間に入れて、と一瞬思ったが、すぐ姫の真意に気付き、何喰わぬ顔で、 「わかりました。蔵人少将様にお渡しします」 と言って袋を受け取り、誰にも見えないように袋の中を探ると、一枚の紙が入っている。姫様、ここまで謀りなさるとは御立派です、と思いながら、紙は懐に入れ、袋だけを頼実君に渡す。 「上手に縫えてるなあ」 素直に感心する頼実君を尻目に、明子は人目を避けて灯火に近づき、姫がよこした紙、これは道頼君の手紙そのままだが、これに姫が記した返事を何とか解読しようと、目を凝らしていた。ようやく針で、裏から小さな孔を開けて記してあることに気付くと、それを筆で、間違いなく書き写した。あとは何とかこれを、少将様にお渡しするだけ……。 そこへ、惟成から明子への手紙を持って、小舎人がひそかにやって来た。明子は小舎人に、 「これを帯刀に、左近少将様にお渡しするように言って渡して」 と言って姫の返事を預ける。姫の返事は、惟成を経て道頼君に無事届き、道頼君は手紙を見て、姫の置かれた状況の悲惨さ、そんな中での姫の機転に、深く心を揺り動かされるのだった。 (2000.7.19) |
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