私本落窪物語 |
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第八章 垣間見
北の方は、律子姫の針仕事を手伝うようにと言って、内心では姫を監視させるつもりで、少納言を姫の部屋へ遣った。少納言は、若いが手先が器用で、裁縫が上手なのだった。「落窪の君様、起きておいでですか」 と言って少納言が戸を叩くと、姫は手に持った針を置いて、立って戸を開けた。 「あら、少納言。何しに来たの」 「北の方様が、姫様の御仕事をお手伝いするようにと仰言いましたので」 と言って少納言は、床の低い部屋へ降りようと苦労しているので、姫が手を貸して床へ降りさせる。少納言は、 「北の方様は、大層急いでおいでですよ。姫様、何を縫ってらっしゃるの?」 「これは半臂よ」 「それじゃ私は、表袴を縫いますわ」 と言って、表袴にと言って北の方がよこした布地を取って、姫と差し向かいに坐って縫い始める。 黙って縫っていると退屈する。少納言は、姫の目のあたりが泣き腫らしたようになっているのを見て、 「私がこんな事を申しますとお世辞のようですけれど、そうかと言って申し上げないと、このお邸に姫様に心を寄せ申す者が、阿漕の他にもおりますのを御存知ないままになってしまうのも残念ですので。阿漕に聞きますに、姫様のお気だては、私のような者でもお仕えしたく思われますけれども、とかく口うるさい御方がいらっしゃいますので、内内にお仕えすることもできないのでございます」 姫は微笑んだ。 「そう言ってくれる人がいて、嬉しいわ」 「本当に、北の方様のお心はともかくとして、他の姫様までもが、姫様をないがしろになさるのは、居心地が悪いですわ」 「あら、紀子お姉様は、よくして下さるわよ」 「中の君様ですか。でも、大君様と三の君様は、変なところで北の方様の真似をなさっておいでですわ。四の君様も」 「珠子姫は、まだ小さいから、よくわかっていないのよ」 「そうですかね。もう十四ですよ。 でも解せませんわ。三の君様は去年御婿取りをなさって、四の君様の御婿取りにお殿様も、北の方様も大いに熱心になっていらっしゃるのに、もっと歳上の姫様を、お独りのままにしてお置きなさるのは」 少納言は、やっと本題に入ったという感じで、今までの半分お世辞めいた口調から、やや口調を変えた。 「御存知でしたか? 四の君様の御婿君に、左大将様の若君、左近少将様をお迎えなさろうと、躍起になっていらっしゃるのは。左近少将様は、四の君様よりは少しお年を召していらっしゃるけれど、人柄のとても立派な御方で、帝の御寵愛も深く、将来は大臣にもおなりになられるべき方と、世間で誉めています」 陰で聞いている道頼君は、くすぐったくて仕様がない。 「御婿君として、これほどすばらしい方は当代には他にいらっしゃいません。どうか四の君様の御婿にと、お殿様も、北の方様も、本当に躍起におなりになって、四の君様の御乳母が、大納言家の女房の姉ですので、そのつてで山のように手紙を贈らせなさったそうです」 「そうね。珠子姫の婿にはふさわしい方ね」 姫が微笑みながら相槌を打つのを、君は陰で、冗談じゃない、たとえ帝の御姫宮を賜ると言われても、私は貴方の婿以外の何者にもなりはしない、と叫びたい気がした。姫自身、事情は道頼君本人から聞いているから、内心可笑しくてつい微笑んだのだが、少納言はそうとはつゆ知らず、姫が素直にこの縁談を祝う気持があるものと思い込んでいる。 「でも残念ですわ。左近少将様は、この縁談にお気乗り薄でいらっしゃるそうですの。どういう御考えでいらっしゃるんでしょう。大分お歳が離れていらっしゃると仰言ったと、噂に聞いたことがありますけど、歳の差が何だというのですか。光源氏の君は、女三の宮より二十五も歳上だったそうじゃありませんか」 どうも若い女というものは、現実と絵空事を混同してしまいがちだ。 「私の思う人も、私より七つ歳上……あら! 今のことは、お聞きにならなかったことに」 姫は笑った。 「いいわよ。でも光源氏の君と女三の宮は、物語の中の話でしょう」 少納言は続ける。 「姫様、貴女様も、よい御縁談でもありましたら、早く御結婚なさいませ」 姫は、わざととぼけて、 「そうね、そんな話があったらね。でも、私みたいなのに、どうして縁談なんか」 道頼君は吹き出しそうだ。少納言は、 「まあ、何を仰言るんです。私の拝見しますところ、このお邸で立派にかしずかれていらっしゃる姫様方は、かえって……あら!」 どうもこの少納言、少々口が達者すぎるようだ。姫も君も、声をたてず苦笑する。 「え、その、私の従妹の少将と申しますのが、按察大納言様のお邸に仕えておりまして。按察大納言様の御子息の弁少将様と仰言る方は、世間では交野少将と申しているそうですが、とても美男だそうでございます。先日、少将の部屋へ行きました折、弁少将様がお見えになって、私にもお言葉を下さったのです。『中納言殿には、まだ婿取りされていない姫君がおられると聞くが、どうなのかね』と仰言ったので、四の君様と、貴女様のことを申し上げたのですが、貴女様の御身の上を申し上げますと、大層お気の毒がりなさって、『姫君こそ、私の理想とする御方のようだから、何とかして手紙を差し上げたい』と仰言ったので、私は、『あの姫君には御母君がいらっしゃらず、とても心細い御有様で、御結婚などという方面のことは思ってもいらっしゃりません』と申し上げますと、弁少将様は、『その御母君がいらっしゃらぬということが、一層愛しく思われるのだ。私の理想は、余り華やかでない境遇の姫君で、男女の情をよく解していて、何と云っても顔容の美しい人、そういう人を求めて、天竺までも行こうと思っているのだ。その姫こそ、理想にかないそうではないか、是非とも私の最愛の妻として、風流な場所にかしずき申そう』と仰言ったので、『そのうち良い折がありましたら、お取り持ち致しましょう』と申し上げました」 と得意然として少納言が話すうちに、姫は黙り込んでしまった。道頼君は、もしや姫が、弁少将に心を惹かれているのではあるまいかと思うと、苦々しい気分になった。 そこへ戸を叩く音がして、耳慣れぬ男の声がする。 「少納言様は、こちらですか」 少納言は、はっと顔を赤くして、 「ええ、私はここよ」 と答える声の調子が、ちょっと先刻までと変わっている。 「貴女を訪ねて来たという者がおります」 男の声に、少納言はそそくさと衣を置き、 「ちょっと用事がありますので。北の方様には、私が部屋へ帰ったとは仰言らないで下さいまし、きっと私をお叱りなさるから」 と言い残して、あたふたと出ていく。少納言の思い人が来たようだな、道頼君は想像する。 君は几帳から出てくると、姫に寄り添い、小声で、低い声で言った。 「貴女に味方する女房もいるものだと思っていたのに、交野少将の話を得意がってするものだから、すっかり見るのも嫌になった。貴女はじっと黙って、とても真剣に聞いていらっしゃったがね。 実際あの男は、私の同僚として見ていても不思議な男で、手当り次第に恋文を贈って、それが本当に嫌になるほどうまくいくんで、他人の妻だろうが何だろうが、次から次へと女をモノにしていくんだ。それですっかり帝の御不興を買って、もう何年も少将のままなんだ。貴女に心を寄せたというのも、どれほど真剣なもんだか」 どうも少将様は、何か不快に思っていらっしゃるらしい、と姫は不審に思って黙っている。君は尚、 「どうして黙っているのです。貴女が興味を持っておられることに、私がこう不機嫌に申すので、答えにくいのですか。それにしても、都中の女という女が、交野少将を褒めてばかりいるのが、面白くないことだ」 姫は、きっと顔を上げて君を見つめ、 「少将様、嫉妬なさっているのですか。私は交野少将、いえ、弁少将様には、今の話を聞いても、全く何も心を寄せるようなことはありませんわ!『何と云っても顔容の美しい人』、ですって? つまらない事を!」 いつになく激しい口調で言った。君はこれを聞くと、表情を和らげ、 「いや惜しいことをした、もしかしたら貴女は、交野少将が口説き落とせなかった唯一人の女と、世に噂されたかもしれないのに!」 と言って笑う。姫も、少将様の思い違いを解けた、と思うと嬉しくて、つられて笑った。 君は悪戯っぽい口調で、 「でも先刻貴女が仰言ったような事は、貴女くらい美しい女が言うのでなかったら、只の負け惜しみですよ」 君に正面切って言われると、さすがに姫も恥ずかしいのか、俄に頬を赤らめて口籠った。 「え……私が……美しい人だなんて……」 君はそっと囁く。 「その奥床しさが、一番の美しさなんです、貴女の御心の」 真赤になって俯向いていた姫は、はっと我に返った。 「少納言たら、やりかけで行ってしまいましたわ。袍を一人で縫うのは難かしいのに。明子を起こして来ましょう」 姫が言うと、君は、 「いやそれには及ぶまい。私が手伝いましょう」 と驚くべき事を言う。姫は驚いて、 「少将様、そんな事をなさっては」 君は少しも慌てず、起き出してくると、 「いや、気になさるな。私は縫物はできるよ、何しろ独り暮らしが長かったんでね」 と言って笑いながら、袍の布地を広げる。二人は声をひそめて語らいながら、灯火の下で衣を縫い続ける。 ・ ・ ・
そうしているうちに北の方が、落窪は言いつけた通りに働いているだろうかと気になって、すっかり寝静まった夜更けに、そっと一人起き出してきて、いつも覗いている格子の小孔から覗き込んだ。次の瞬間北の方は、思わず目を見張り、開きかけた口を押えた。落窪が、男と一緒にいるではないか! 目をこすりながらよく見ると、この男、なかなか立派な直衣を着て、立烏帽子を被っている。帯刀とは比べ物にならぬほど風格のある立派な公達である。一体いつの間に、こんなに立派な公達を通わせたのだろう。落窪と差し向かいで、針仕事なんかしているところを見ると、並大抵の愛情ではなさそうだ。迂滑に手を出す訳にもいかない。どうしたものか。それにしても誰だろう? 北の方は驚きと困惑で頭が一杯になり、少納言が言いつけに背いてここにいない事などどこかへ行ってしまった。 「……少将様……」 姫の言葉の片端に、北の方は耳をそば立てた。少将様、だって!? 北の方は、足音も立てずに、しかし素早く歩き去ると、東の対へ向かった。 東の対では、綏子姫と頼実君が一緒に寝ている。北の方はその部屋の戸を叩いた。典侍の君が目を覚ました。 「どなた?」 北の方は急ぎ込んで囁く。 「あたしだよ。蔵人少将様を、お起こしして」 「少将様を? この夜中にですか?」 「いいから早く!」 やがて頼実君が、烏帽子を被りながら起きてきた。君は眠たげな声で、 「何なんです義母上? こんな夜中に」 「ちょっと来て下さい。こっちへ」 北の方は君の手を引いて、律子姫の部屋へやって来ると、そっと囁いた。 「少将様、この中にいる男に、見覚えはございませんか」 義母上も、下衆な趣味をお持ちだ、と内心あきれ返りながら、君は孔から中を覗いた。たちまち君の目は、驚きに輝いた。君は思わず、 「あれは左近少将じゃないか! 独身だと思ってたのに、意外だなあ!」 と呟きを漏らす。北の方は、頼実君の袖を引っ張って少し離れた廊下へ行き、問い質した。 「本当に左近少将様でしょうね!?」 「見間違えるもんですか。いつも一緒にいる同僚を」 「大納言兼左大将様の御子息の、ですね!?」 「ええ、そうですとも」 頼実君を帰した後、北の方は、全身の血が逆流するほどの憤怒に燃え上がった。珠子の御婿君として、あれほど丁寧に申し上げ続けてきた君が、よりによって落窪に通っていたとは! しかも、あたし等からの縁談を、わざとらしく御返事を延び延びになさってからに! いやもしかすると、落窪の方があたし等の思惑を嗅ぎつけて、珠子のような子供より私を、とか言って左近少将様を誘惑したのかも、いやきっとそうだ、そうに違いない! あの小娘め、どこまであたしを馬鹿にすれば気が済むんだ! いや待てよ、あれはいつも、落窪に閉じ込められてるんだから、あれが独りで左近少将様を誘惑できる訳はない、とすれば、誰かが手引したに違いない、誰だ、阿漕、そうだ、あいつの他に、落窪に男を手引するような奴はいない、何て奴だろう! 北の方は怒りに震えながら、それでももう少し覗いていたい気がして、取って返して律子姫の部屋を覗くと、 「ああやっと終わった。慣れない事をしたら、すっかり疲れてしまった。私はもう寝たいよ。貴女もそうでしょう」 と道頼君は言って、表袴を几帳に投げかけて横になるところだ。姫は、 「まだ少し、残っていますわ」 と言って、忙しそうに縫っている。 「もういいでしょう、縫い物なんか。北の方には、いつものように怒らせてお置きなさい。怒りの余り『出て行け!』とでも言わせればこっちのもの」 いつものように怒らせて、だって!? 北の方は息も止まりそうなほど憤激した。君は、灯火を吹き消してしまう。 「まあ、何をなさるの。まだ片付けてもいないのに」 「そんなの放っときなさい」 暗闇の中で、君が姫を抱き上げる気配がする。北の方は今しも戸を蹴破りたい衝動にかられたが、左近少将様をお殿様の前へ突き出したところで、お殿様のことだ、喜んで落窪の婿にお許しなさるに違いない、それじゃ何にもならない、と考えて辛うじて自制した。 ようし、こうなったら、今朝の手紙だ。あれを材料に、落窪が帯刀を誘惑したとでっち上げて、帯刀も阿漕も、ついでに追い出してしまおう! 帯刀にはちょっと気の毒だが。……それに、落窪が帯刀を誘惑したことにしたら、阿漕はむしろ被害者だ、そいつを追い出すのはちょっと具合が悪いが、まあいい、何とかごまかすさ。落窪は、追い出してしまうと大切な縫子がいなくなるから、あの辺にでも閉じ込めて、そうだ、あたしの叔父の、典薬助にくれてしまおう! あのヒヒ爺なら、喜んで落窪にくっつくだろう。そうすれば、男も寄りつかなくなるに違いない! ……北の方は、唾棄すべき考えをめぐらしながら、朝を待った。 ・ ・ ・
明け方、姫はいつもより早く目覚めた。昨日言いつけられた縫物は、表袴だけは仕上がったが、他の衣はまだだ。姫は道頼君を起こさないように、静かに衾から滑り出ると、大急ぎで縫物の続きを始めた。そのうちに朝になって、戸を叩く音がする。典侍の君の声で、「昨日北の方様がお頼みなさった縫物は、もう出来ましたか」 縫い終わったのは表袴と半臂だけだ。こうなったら仕方がない。 「他の衣は、縫い終わりましたら阿漕に届けさせますから」 と言って姫は、内心はびくびくしながら典侍の君に、畳んだ衣を渡す。典侍の君は、姫が叱られるのを内心期待していたので、期待に胸を弾ませながら、衣を持って北の方の許へ行った。 「……まあいい。もうじき……」 北の方がいつものように怒鳴り散らさず、低い声で呟いたのに、典侍の君は合点がゆかない。 その頃、道頼君は目を覚ました。几帳の中に姫の姿がないのに気付いて、のんびりと几帳から這い出てくる。姫が、寝不足の赤い目をこすりながら一心不乱に縫物をしているのを見ると、 「そんなに根を詰めると体に悪いですよ。程々にね」 二言三言言葉を交わし、君はそっと出ていく。 「近いうちに必ず、私の許へ貴女をお迎えしますよ」 君が言い残していった時、何故姫は、私達の仲が他人に知られるのは時間の問題、今すぐ私を連れて行って、と言うのを躊躇したのだろうか。 (2000.7.12) |
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