1999年1月9日(土)
2時間目の授業中、中庭とも呼ばれている校舎裏に、少女が立っていることに、最初に気づいたのは北川だった。
4時間目の授業が終わるまでずっと、同じ場所に立っていた少女が、昨日の夕方、商店街から遠く離れた並木道であゆと一緒に出会った少女だったことに気がついた俺は、4時間目が終わるが早いか、ホームルームを待たずに、校舎裏へ走った。
雪に覆われた中庭──と言うより校舎裏と言った方が、人けのなさにふさわしいだろう。
そこに、少女は一人、ぽつんと立っていた。
昨日会った少女、雪にも決して引けをとらないくらい白い肌の、小柄な少女が。
昨日とうって変わって、少女は笑顔を絶やさなかった。聞けば、朝からずっとここに立っていたというのに、だ。
少女とだいぶ話してから、俺は自己紹介がまだだったことに気がついた。
「俺は、相沢祐一。今週転校してきたばかりだが、ここの2年だ」
「私は、美坂栞です。休んでばかりですが、ここの1年生です」
と言って少女は、ぺこっとお辞儀した。
そう言えば昨日会った時も、栞はそう言っていたような気がする。
その小柄な体からは、高校1年生よりもっと下の年齢を想像したが。
──あゆが俺と同じ高校2年生だった、ということの方が、あの時の俺にはもっと意外だったけど。
「みさか、しおり…?」
その名前を繰り返し終わるまでもなく、俺は一つの名前を思い出した。
昨日の朝、名雪が最初に紹介してくれた同級生の名前…。
「…美坂香里(みさか かおり)」
「え?」
聞き返した栞の表情が、目に見えて変わった。
「香里と苗字が一緒だったんだ…」
鈴木とか佐藤とかならまだしも、美坂なんてそうそうある苗字ではないはずだ。
「もしかして、香里の妹か?」
俺が栞に訊ねると、
「…えっと」
なぜか栞は、妙に言い淀んだ。
「それか、弟」
「そんなこと言う人嫌いですっ」
今度は即答。今までにも何度か口にした、栞の口癖らしい。
「じょ、冗談だって」
栞は、まじまじと俺を見上げて言った。
「…お姉ちゃんを知っているんですか?」
ということは、本当に香里の妹に間違いないようだ。
「ああ。偶然だけど同じクラスだ」
「そうですか…」
栞は複雑な表情で言葉を濁しながら、ゆっくりと空を見上げた。
「もしかして、香里に用があって来たのか?」
「…いえ、そういうわけではないです」
視線を校舎に送ったままそう呟いた栞の表情は分からなかった。
「祐一さん」
視線を下ろして俺を見た栞が言う。
「私のことは、栞でいいですよ」
「分かった、俺のことも遠慮なくお兄ちゃんと呼んでいいぞ」
俺はごく軽い気持ちで言っただけなのに、栞はかなり露骨に顔を歪めて、
「…そういうこと言う人、嫌いです」
お決まりの文句を返してきた。
1月13日(水)
1時間目と2時間目の間の休み時間。俺は窓際に立って、窓の外を眺めた。
空は、今にも雪が降り始めそうな曇り空。視線を下げると、薄暗いせいでいつもよりもっと寒々しい、雪に覆われた中庭が見える。
…中庭には、人っ子一人いない。
(…さすがに今日はまだ来てないか)
「相沢君、また中庭を見てるわね」
香里が声をかけてきた。
「そういえば、授業中もよく窓の外見てるわね」
香里の席は俺の右斜め後ろだ。真ん前の名雪の様子よりも、俺の様子の方がよくわかるんだろう。
「それは…」
お前の妹のせいだ、と言おうとしてふと気づいたことがある。
香里は、知っているのだろうか?
栞が家を抜け出して、毎日のように学校に来ていることを…。
多少の躊躇はあったが、やはり香里に訊いてみようと思った。
「なぁ、香里…」
「なに?」
「栞が毎日学校に来てるって知ってたか?」
俺の問いかけに香里は、びくっとしたようだった。
「え? …知らなかったわ、そんなこと。いつから?」
香里が、栞の行動を知らなかったなんて。
意外…というより、俺は呆れた。
俺に聞こえなかったと思ったのか、香里は少し声を上げて聞き返してきた。
「ねえ、いつからよ、それ?」
「おいおい、自分の妹だろ? 本当に知らなかったのか?」
すると香里は、いつもの香里らしくない、どこか違和感を感じさせる様子で聞き返した。
「…妹?」
「だから栞は、香里の妹なんじゃ…」
香里は不可解な表情をした。そして、俺には到底信じられない言葉を発した。
「何言ってるの? あたしには妹なんていないわよ?」
俺の思考は凍りついた。
「…相沢君? どうしたの?」
香里の声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がした。
「いや、何でもない…」
俺はそう答えるのが精一杯だった。
栞は、確かに香里のことを自分の姉だと言った。
しかし、香里は自分に妹なんていないと答えた。
どっちかが嘘をついている?
普通に考えればそんな結論に達する。
でも、それならどっちが…?
大体、何のために…?
そんな考えを中断するように、休み時間の終了を告げるチャイムが鳴った。
・ ・ ・
昼休み。人けのない中庭で、俺と栞、二人きりの昼飯。
今日も栞は、バニラアイスクリームを、それも2つも食べた。
まったく、見ている方が腹が冷えてきそうだ。
「おいしかったです」
栞は屈託なく笑う。
でも俺は、その笑顔を見ながらも、どうしても頭から離れなかった。
香里の言葉が。
俺は、思い切って香里の話をしてみることにした。
「…栞」
「はい?」
「今日、香里に妹のことを訊ねたんだ」
「……」
「そうしたら、自分には妹なんていないって言ってた」
栞は不意に俯いて、そして何かをこらえているようにぎゅっと口を閉ざした。
「…そ、そう、ですか…」
やがて、重苦しい沈黙を破るように栞は言葉を紡いだ。
「それは…そうですね、……の、思い違いです」
栞の表情に、いつもの穏やかさと明らかに違う、何かがにじんでいるようだった。
「祐一さんのクラスに、私のお姉ちゃんと同姓同名の人がいたんですね」
「…別人なのか?」
「私のお姉ちゃんは、きっと他のクラスにいるんです」
「でも、香里って名前はともかく、美坂なんて名字…」
「その人が違うと言っているんですから、違うんですよ。…あ、予鈴が鳴ってますよ」
栞がさっさと会話を切り上げてしまったので、それ以上訊ねることもできなかった。
1月14日(木)
放課後。
今日は、名雪と一緒に帰る約束をしている。
この前いくら探しても見つけることができなかった、商店街のCD屋へ行くためだ。
掃除当番の名雪を、昇降口で待っていると。
「あーっ、祐一さんだーっ」
廊下の向こうから、佐祐理さんが小走りに駆け寄ってきた。もちろん舞も一緒だ。
「おう、祐一さんだぞ」
名雪が来るまで、ちょっとだけ立ち話しよう。
「佐祐理さんって人当たりがいいから、きっと友達とかって、いっぱいいるんだろうな」
俺が適当に話題を振ると、本当に嬉しそうに佐祐理さんは答える。
「はい、佐祐理には、お友達はいっぱいいますよ」
舞の顔に、かすかな険が走った。
舞は佐祐理さんにとって、いっぱいいる友達の一人にすぎないのか、とでも言いたそうな。
「もちろん、舞は特別ですよ。ねー、まぁい?」
「…そ、そうだよなあ」
佐祐理さんは、少しも動揺していない。むしろ俺の方が動揺してしまった。
佐祐理さんは目を輝かせて、ある一人の友達の話をする。
「…そのお友達は、佐祐理と誕生日が同じだけじゃなくて、生年月日も同じなんですよ。昭和55年5月5日生まれ、って」
「でもさあ、同じ学年だったら、誕生日が同じだったら生年月日も同じなんじゃない?」
「はぇ? …あははーっ、そうでしたねー」
佐祐理さんは一瞬不思議そうな顔をしたけれど、屈託なく笑った。俺は苦笑い。舞は全然、表情を変えない。
佐祐理さんは続けた。
「そのお友達の名前は、『みさかかおり』っていうんです」
俺の頭の中で、何かが弾けた。
それが再び形を取ろうとした時、
「祐一」
すぐ後ろから、名雪の声が聞こえた。
「あ、ああ、香里か」
次の瞬間、名雪の行動とは思えないほど乱暴に、腕を引っ張られた。
「わたしだよ、名雪だよっ」
…俺の混乱ぶりは、当分、水瀬家の語りぐさになるだろう。真琴に知られる前に、名雪にイチゴサンデーをおごる羽目になる予感がした。
(問題編 終わり)