目を覚ました。時計を見ると午前四時である。あと二十分で函館に入港だ。靴を履き、手提鞄を持って船室を出る。幾分寝不足で頭が重い。上の遊歩甲板へ行く。今は明け方で、右手の空はかなり明るくなっている。右手には函館山が、前方には函館市街が見える。
　いよいよ北海道に上陸だ。汽笛が長く響く。曳船が近づいてくる。私は下へ降りた。部下達が集まってくる。小隊長が私を見つけて言った。
「今度の列車は六時八分の旭川行だ。時間があるから降車口を出た所で待てと」
　接岸、タラップが降ろされた。私達は改札口を出た所に集まった。員数確認を済ますと、中隊長は言った。
「〇六〇八の列車に札幌まで乗る。〇五四〇に乗車口に集まれ。それ迄に朝飯を済ませてもいい。但し単独行動はいかん」
　私は立喰そばを食べると、待合室の椅子に坐って、しばしまどろんだ。程なく、小隊長が起こしに来た。私達は改札を入って、旭川行の札の差してある列車に乗り込んだ。 　選抜試験の次の週の日曜日のことだった。朝早く、
「両国工場長の矢板だね。重要な用件があるから、筆記具を持って、明朝九時に本部へ来るように」
と、耳慣れない声で電話があった。
　私は何だろうと思った。長谷川部長や川崎ではない。ともかく翌日、工場の方は任せて、トラックで本部へ向かった。
　本部に着くと、二階の「作戦部」という札のある部屋に通された。部屋にはいると、面識の無い年配の男が一人、他に数十人の男がいる。中に河村もいた。
「両国工場長の矢板だね。私は教導部の宮島だ。席に着いて」
　この部屋には窓がない。壁も防音だ。相当重要な指令があるのに違いない。黒板がある。宮島は、黒板の前に立って講義を始めた。
「君達四十八人には、各々が一般兵員七人を指揮する班長になって貰う。そこで今日から二週間、戦闘の基本を教える。
　まず戦闘の前に、偵察の基本。……」
　講義は休憩をはさんで昼過ぎまで続いた。金曜日まで毎日講義があり、講義内容は砲術から看護法まで多岐にわたった。陸軍時代には教わらなかった内容も少なくなかった。敵を識別するための、敵の階級や徽章の説明もあった。敵の階級は最上位の将軍から最下位の三等兵まで十七階級あり、階級章は赤地に銀で線と星を組み合わせてあって、全体として昔の陸軍を真似ている。将軍は赤字に金線と金星で別格、大佐・中佐・少佐・准佐は銀線三本に銀星が大佐は四個、順々に減って准佐は一個。大尉・中尉・少尉・准尉は銀線二本、上級曹長・曹長・軍曹・伍長は銀線一本、兵長・一等兵・二等兵・三等兵は星だけである。階級章は両袖と左襟に着き、両袖の階級章の上と右襟に、将軍・佐官・尉官・下士官・兵を区別し所属部隊を連隊単位で表す徽章を着ける。階級章と同数の金線または銀線が入り、地色は袖章が白、襟章が赤である。
「では、今日はこれまで。明日の土曜日は、今週の講義内容の実地演習だ。戦闘服も支給する。十時にここに集合。以上」
　土曜日の午前中に、班の割り当てがあった。私の部下は、石田、酒井、谷口、寺田、中村、西川、橋口の七人である。最年長の谷口が三十歳、最年少の石田は二十歳。私は四十二歳だから、他の班長や兵に比べてもロートルぶりが際立っているが、四年間陸軍にいた経験だけは、他の誰も持っていない。これだけは年の功だ。
　私の他、河村、石塚、三木の四人の班長は、吉川小隊長指揮の第一小隊に属することになった。四個班が一個小隊を編成し、小隊長と衛生兵二人、通信兵一人からなる小隊本部班とあわせて、一個小隊は三十六人からなる。第一小隊の他、太刀川、上村、大原の三小隊長の下に小隊があり、この四個小隊と、宮島中隊長、参謀二人、衛生兵二人、通信兵一人からなる中隊本部班が一個中隊を編成する。東京第一中隊というこの中隊には、総勢百五十人が所属している。
続いて私達は倉庫へ行って、月曜日に寸法を申告した戦闘服を受け取った。戦闘服は上衣とズボンで、いずれも明るい緑、昔の陸軍のカーキ色とは感じが違う。各々に氏名が縫い込んであり、襟と袖に階級章、袖に徽章が縫いつけてある。階級章は黒地に黄線だけで、班長の私は二本、一般の兵は一本だ。階級そのものが、最上位の総長から最下位の兵まで六階級しかないのである。戦闘服の他には鉄兜、長靴、合羽、雑嚢などがある。
　午後から私たちはバスに分乗して、実地演習に行った。演習場は枯れた薮が広がっていて、所々に塹壕も掘ってある。各人にモデルガンと演習用の弾を配ってから、吉川小隊長は指示を与える。
「ここが我々の陣地だ。あの旗の立っているところが上村小隊の陣地。我々の任務は、あの陣地の占領だ。制限時間は三十分。
　一回戦は、石塚班、陣地の防衛だ。他は攻撃。矢板班は右翼、河村班は中央、三木班は左翼、後は各班長に任せる」
　私は部下を集めて言った。
「まずあの辺りまで、薮の中を前進する」
　演習が始まった。左翼から突撃を決行した三木班は、早々と相手の銃撃を浴びて退却する。私たちは薮の中を匍匐前進して目標に迫る。
　薮が切れた。ここからは、相手にもよく見える。私は言った。
「石田、酒井、谷口、俺についてこい。他は援護射撃だ。俺達が走る間、相手を撃つんだ」
　私達四人は薮を飛び出した。相手からの射撃と援護射撃が同時に起こる。前方の薮へ頭から突っ込む。三人が後に続く。
「今度は俺達の援護射撃だ」
　私は伏したまま銃を構えた。目標に向かって引き金を引く。石田は調子に乗って連射する。私は石田を制した。
「おい、弾を無駄使いするな！」
　谷口の背中に弾痕（演習弾が命中すると出るペンキ）がある。援護射撃が当たったのか。続いて走ってきた四人に私は言った。
「援護射撃で谷口を撃ったのは誰だ!?」
　誰も答えない。私はもう少し厳しい口調で、
「実戦じゃ無理かも知れんが、演習中は自分の撃った弾丸の行き先をよく見とけ」
　そのとき、不意に私の後頭部に弾丸が当たった。部下達が騒ぐ。
「相手が、すぐそこに！」
　私は怒鳴り返す。
「俺は戦死だ！　谷口、班長代理！」
　結局右翼からの攻撃は不成功に終わり、時間切れで一回戦は引分けとなった。双方とも、まだ攻撃が下手だと言われてしまった。
　このような実地演習は、講義が続いている間は毎週土曜と日曜に、それ以降は毎週月曜から金曜まで、様々な場所で行われた。基礎訓練に比べ、厳しさは更に増した。野山での実戦訓練になると、私たち班長には、ハンディトーキーという携帯無線機が与えられた。靴くらいの大きさで、革帯で肩から吊るすようになっている。ハンディトーキー同士での交信距離は二キロメートル。私には「ＴＹＹ」という略号が与えられ、これを使って交信する。それにしても自動小銃といい携帯無線機といい、昔の陸軍とは大した違いだ。 　四十一年二月のある日の朝、電話が鳴った。
「矢板です」
〈班長ですか？　谷口です。うちの班に入りたがってるのがいるんですが〉
「ああそうか。小隊長に報告しておこう」
〈その……それが、女の子なんです〉
「女の子、だって!?」
　私は絶句した。
〈そうです。どうしても革命軍に復讐したい、そのために私達の隊に加わりたいんだそうで〉
「うーん。ちょっと面倒だな。ともかく小隊長に相談して指示を仰ごう」
〈了解。そう言っときます〉
　私は小隊長の家へ電話した。
〈吉川です〉
「小隊の矢板です。私の班に入りたがってるのがいると谷口が言うんです。どうでしょうか」
〈いいだろう。人事部に届けよう〉
「いえ、それが谷口の言うところでは女の子なんです」
〈女の子、か？　……じゃ、我々の組織と目的を説明してやめさせた方がいいな。その子、何か勘違いしているのかも知れんから〉
「どうしても革命軍に復讐したい、そのために我々の隊に加わりたいと言ってるそうですが。一度会ってみて下さいませんか」
〈そうしよう。それじゃ、矢板の工場で会ってみよう。谷口にそう伝えてくれ〉
「了解」
　私は谷口に電話した。
〈谷口です〉
「矢板だ。小隊長に相談してみた。会ってみようということになった。俺の工場へ、その子を連れてきてくれ」
〈了解〉
　程なく、谷口がその子を連れてやってきた。年の頃は二十一、二か。私がちょっと面喰らったほど険しい顔だ。討伐隊を私設軍隊と承知の上で、女だてらに加わりたいと言い出すほどの気丈さが、顔に表れたのだろうか。
「この方が私の班の、矢板班長だ」
「山岡京子です」
　山岡は頭を下げた。
「私が矢板だ。我々の隊の事は誰から聞いたのかね」
「真一郎さん（谷口の名前）からです」
　谷口が、ちょっと照れて言う。
「京子さんは私の従妹なんです」
　そこへ、小隊長が自転車でやって来た。工場の横に自転車を駐めると、私達に近づいてきた。
「この娘さんが、隊に入りたがっているのかね」
「そうです。 ……この方が吉川小隊長だ」
「山岡京子です」
　私達は階上の、私の部屋へ行った。討伐隊の何たるかを、通行人に聞かれてはならない。私は山岡に言った。
「山岡、我々の目的はわかっているな？」
「わかってます」
　山岡は相変わらず冷淡に答える。
「その目的のための手段は、そして我々の組織は。それを承知で、我々の隊に加わりたいと言うんだな」
「ええ。討伐隊が、軍隊だということは知ってます。真一郎さんが、毎日毎日訓練でくたくたになってるのを見てますから」
「そうか。だがな、我々の隊は自衛隊とは、根本的に違うぞ。それはわかるか？」
「わかってます」
「……そうか。要は、非合法な戦闘集団に属することに、体と心が耐えられるか、それが問題なのだ。体はともかく、心の方が」
　山岡はじれったそうに、声を上げた。
「私、耐えられます！　あの革命軍に、復讐するためなら、何にだって！」
　こんな興奮は、えてして永続きしないものだ。私は言った。
「戦闘員になる以上、命の保証は出来ないぞ」
　山岡は臆する風もなく、
「復讐しなくたって、いつかは死ぬんですもの。彼のために……」
　後で谷口が話してくれた事だが、山岡は婚約者を四人組の革命軍の男に殺され、自身も強姦されたのだという。丁度私がそうであるように、深い悲しみと激しい怒りに衝き動かされ、それを支えに山岡も生きているのだろう。
　山岡は看護婦の資格を持っているというので、東京第一中隊本部班に、従軍看護婦として編入された。従軍看護婦とは言っても、一般兵員と同等の戦闘訓練を受けているが。ともあれ、中隊の紅一点とあって、訓練中は皆の注目を集めている。 　我に返った。日はもう西に傾いている。時計を見ると三時十分。列車は寂しい海辺を走る。空腹を感じた。
「この分だと今日中には釧路に着けないな。明日か」
　札幌に近づいた。私は先頭車から最後尾車まで歩き回って、部下を確認して回った。全員いる。中隊長に報告する。
　三時四十八分、札幌に着いた。ここで降りる。ホームの隅の方に集まった私達を前に、中隊長は言った。
「今夜二二一五に出る釧路行きに乗る。それまで自由時間だ。但し、何遍も言うが単独行動は厳禁だ。余り遠くへ行ってはいかん」
　宮本参謀が皮肉な声で言った。
「釧路は地獄の一丁目だ。今のうちにせいぜい楽しんでおくんだな」
　嫌な事を言う。
　さて半日の自由時間と言ったところで、何をすると言うのか。昔ならさしずめ公娼へ繰り出すところだが、今ではそうも行かない。
「一体何をしろって言うんだ？　酒飲むにも女抱くにも、まず金がないってのに」
「金はあっても赤線はもうないよ」
「市内見物でもやるか？」
「修学旅行じゃあるまいし」
　あちこちで声がする。一際高く、
「北海道まできたからにゃ、北海道でなきゃ食えない物を喰わなきゃ」
　石田の声だ。西川の声がする。
「石田、お前本当、違う意味で口から生まれてきたような奴だな」
　私は中隊長に呼ばれた。
「矢板の腕の傷、縫わなきゃならんという事だったな」
　そう言えばそうだった。縫うほどの傷を二日も放っておいて、よく傷口が開かなかったものだ。
「今のうちに縫って貰え」
　いきなり何を言い出すのか。
「中隊長、腕の傷を服の綻びと一緒にしないで下さい！」
　中隊長は苦笑する。
「だから、外科へ行って、だ。いいか、駅前から市電に乗って、山鼻二十条という停留所で降りると、すぐ近くに近藤医院という外科がある。ここの院長は、釧路の衛戍病院の副院長だ。隊の者だと言えば、すぐやってくれる筈だ。
　お前の他に、酒井も負傷しているな。二人で行け」
「山鼻二十条の、近藤医院ですね。了解」
　私は酒井と一緒に市電に乗った。車中、私は酒井に話しかけた。
「酒井は、北海道は初めてか？」
「いいえ、自衛隊の演習で来たのが三回、その前に一回、就職のために札幌へ来たことがあります」
「札幌か……」
「その時の帰りに、函館で盲腸になって、二晩泊って行ったんです。盲腸でなかったら、乗っていた筈の船が、洞爺丸」
「洞爺丸!?　あの、台風で？」
「朝になったら大騒ぎでしたよ。人間、何が幸いするかわかりませんね」
　中隊長に言われた停留所で降りると、近藤医院はすぐ近くにあった。だが貼り紙あり、
「都合により当分の間休診いたします」
　どうなっているのだ。玄関へ回って、呼び鈴を押すと、白髪の老医師が現れた。
「今日は休診ですよ」
　私は声をひそめて言った。
「討伐隊の者です」
　この一言で、老医師の態度が変わった。
「あ、隊の。こっちへ」
　私達は診察室へ通された。診察室には、薬品やら手術道具やらの梱包が所狭しと積まれている。
「今夜送ることになってるんで、取り込み中だが。どれ、見せて」
　と言いながら、私が袖をまくった左腕の包帯を外すと、一目見て、
「あ、こりゃ、縫わなきゃならんな」
　それは私にもわかっている。私は言った。
「わかりました。今すぐ頼みます」
　老医師は立ち上がって、床に積まれた梱包を探していたが、やがて私を振り返って言った。
「どうやら麻酔薬を送っちまったらしい」
　麻酔薬を!?　だが私は即座に答えた。
「構いません。麻酔なしでやって下さい」
　老医師の方が心細げだ。
「やるのかね？」
　私は椅子に坐り直し、決然と言い放った。
「やって下さい。縫うのが痛くて、戦闘員は務まりません」
　手術は約一時間かかった。私は一言も発しなかった。脂汗が膝を濡らした。
「次は酒井の番だ。どこを負傷しているんだ？」
　私は今にも逃げ出しそうな酒井を振り返って言った。
「右の肘じゃなかったか？　弾丸が入ってるんだったら、すぐ抜かなきゃならんな」
　酒井は怯えている。
「麻酔なしで、ですか？」
　老医師は取りなすように言った。
「診るだけ診てみよう。弾丸が入ってなかったら、慌てて手術しなくてもいいから」
　渋々椅子に坐った酒井を診察して、老医師は言った。
「弾丸は入っていないな。包帯だけ替えよう」
　酒井は安堵の溜息をついた。
　夜までは差し当たってする事もないので、私達は荷造りを手伝うことにした。この荷物が、いつか友軍兵士の命を救うことを信じながら。
　夕刻、私達は駅へ戻った。私達の報告を受けた中隊長は苦笑して言った。
「戦時中ならともかく、今時麻酔なしなんて信じられんな」
　私はわざと、全く痛くないそぶりをして言った。
「酒井はもう少し、性根の坐った奴だと思ってたんですがね」
　酒井はむきになる。
「班長が普通じゃないんですよ！」
　やがて夜は更け、私達は釧路行きの鈍行列車の客となった。これで道中三泊目である。