釧路戦記 |
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第三十二章
建物の脇の、一メートル程の路地に入ってゆくと、すぐ先に開いている窓があるのが見えた。私はそっと接近し、窓から中を覗き込んだ。そこは便所だ。誰もいない。私は窓を開け、便所に忍び込んだ。戸に閂を掛けた私は、背嚢に入れてある敵の戦闘服を取り出した。服の上から敵の戦闘服を着込み、背嚢に分解した小銃を隠し、敵の鉄兜を被り、自分の鉄兜と軍靴は背嚢に隠した。これで偽の革命軍一等兵が出来た。私は便所から出ると、一階を歩き回った。敵兵はいない。二階へ登ってみると、ここにも敵兵は無い。敵兵は三階以上にいるらしい。私は三階に登った。音を立てないよう細心の注意を払いながら、そっと廊下を歩いていると、突然目の前に兵が現れた。軍曹である。私は素早く敬礼した。軍曹は答礼すると言った。 「知らない顔だな。敵にでも追っかけられてここへ来たのか?」 「はい、そうです」 「そうか。ま、どうでもいい。四階の左端の部屋へ行け」 「はい」 私は敬礼すると、四階へ登り、左端の部屋へ行った。戸を内側へ開けて中へ入る。二段寝台が三つ、壁に接して置いてある。敵兵が数人寝ている。窓際には、軽機が二挺置いてある。ここを占拠すれば、極めて高い射点からの、橋に対する攻撃が可能になる。ここを占拠するためには、今ここに寝ている数人の兵を始末しなければならない。私は部屋を見回した。片隅に、小銃が五挺立てかけてある。これを全て使えなくすれば、敵兵の力は殆ど殺がれてしまう。私は一挺ずつ、音を立てぬように遊底を取り外していった。これで五挺の銃は使えない。私は更に、近くにある戸棚の戸を開けた。武器がある。軽機の弾倉二三十個、小銃の挿弾子三十個余り。手榴弾は無し。私は背嚢を下ろし、挿弾子を全部詰め込んだ。 それから私は、五人の敵兵の枕元を見た。三人の枕元には、拳銃があった。私はこれも一挺を腰に着け、二挺は壊した。また全員の枕元に銃剣があった。これも背嚢に入れる。 こうして私は、この部屋にあった、発見できた限りの銃弾を手中に収めた。もしも戦闘が長期化した場合に、敵の物にせよ弾薬を持っていれば、持っていないに比べて大いに有利となる。 とその時、人が目を覚ました気配がした。私は銃を構え、部屋中を見回した。西側の壁に接した寝台の上の段の兵が起き上がった。私を見るなりその兵は声を上げた。 「誰だ!?」 私は平然と言った。 「味方だよ。怪しい者じゃない」 他の四人も目を覚した。一人、疑り深そうな目付の兵が言った。 「どこの隊の者だ?」 私は淀みなく答えた。 「第七連隊、第二十一大隊、第二中隊」 するとその兵、伍長は鋭い声で言った。 「ちょっと待て! 第二十一大隊は川向こうの筈だろう。何でここにいるのだ?」 私は返答に窮した。伍長は畳みかける。 「説明してみろ」 その時、南側の窓寄りの寝台にいた兵が声を上げた。 「俺の拳銃が無いぞ。誰か知らんか?」 伍長は厳しい声で私に言った。 「お前、怪しいぞ。背嚢を調べる」 こうなったら暴れるだけだ。私は右手で、右肩の近くにあった伍長の頭を押え込みながら、伍長の鳩尾に痛烈な膝蹴りを喰わした。伍長は床に倒れた。 他の四人は、銃剣が無いのにまごついている。その間に私は銃剣を抜き、一人の兵の背中から胸へ刺し貫いた。その兵は寝台に倒れ伏して動かなくなった。 二人の兵が私に掴みかかってきた。私は二人の頭を両手で捕まえ、二人の額を互いに撃ち合わせた。二人がひるむ隙に一人の兵の頚を両手で搦め取った。とその時、上の寝台から一人の兵が飛び降りてきた。私は一人の兵の頚を搦め取ったまま身を翻した。その兵は寝台の脚に顔面を強打して崩れ落ちた。その間に私は力任せに、搦め取った男の頚をへし折った。その兵は動かなくなった。 もう一人の兵が飛びかかって来た。私はその兵の胸板に飛び蹴りを喰わした。その兵は吹き飛んだ。第二撃を与えようと歩み寄る私の足を伍長が捉えた。私は伍長の頚筋に銃剣を投げつけた。伍長はしぶとく起き上がってくる。私は伍長の頚から銃剣を抜くと、左胸を深々と抉った。今度こそ伍長は絶命した。 飛び蹴りを喰った兵は小銃を構えた。が、引鉄を引くだけ無駄である。一発の弾丸も出ない。私はその兵に飛びかかり、銃を奪い取って兵の喉に押し当て、兵を床に押し倒して銃身に全体重をかけた。兵は気絶した。私は銃剣を拾い上げ、無抵抗になった男の喉笛を薙ぎ払った。 まだ一人残っている兵が、鼻血を流しながら私に襲いかかってきた。私はその兵を横抱きにすると、窓ガラスに向かって投げつけた。兵の体は、窓を突き破って落ちて行った。 私は戸口へ走り、戸に錠を下ろしたうえ、西側の壁に接していた寝台を戸に押しつけて開かなくした。 私は、窓から少し離れた所へ戸棚を動かし、これを楯の代りとした。窓際に陣取った私は、窓を開け放ち、軽機を橋上の敵に向けて連射した。射点の高さはやはり奏功し、地上からでは射ることのできない物陰にいる兵を、次々に射倒した。 二十人ばかりも射倒した頃だろうか、戸口の方が騒がしいのに気付いた。敵が気付いたのに違いない。私は逃げる方策を考えた。窓から降りるしか無いだろうが、地上四階である、不用意に飛び降りて打ち所が悪いと命に関わる。敷布を使って、徐々に降りるのがいいだろう。私は寝台から敷布をかき集め、まず一枚を窓の手摺に結びつけ、他の敷布を次々に結び合わせ、端に背嚢を結びつけた。敷布を窓から投げ降ろし、上衣を脱いで口に銜え、一番上の敷布にしがみ付き、手榴弾を置土産に素早く敷布を伝って降りた。途方もない脱出の姿に敵も味方も呆気に取られたか、一発の銃火も起こらない。 地面近くまで降りてきた時、味方の兵が銃を向けた。敵だと思っているのか。私は大声で言った。 「俺は討伐隊だ! 東京第一中隊第一小隊長、矢板正則、一二三一五番!」 私は地面へ飛び降りた。味方の兵はまだ銃を向けている。 「中国第三中隊の、大久保中隊長のところへ連れてってくれ。そうすりゃわかる」 私は背嚢を敷布から外し、背負い直して立ち上がった。重い! 部屋にあった武器を手当り次第に詰め込んだ背嚢の重さは、六−七十キロはある。私は腰が砕けそうになりながら歩いた。 私は大久保中隊長の前に立った。私を連れてきた兵が言った。 「橋の西の建物の四階の窓から降りてきた者です。味方の者だと言ってますが」 中隊長は笑った。 「何だお前か。姿が見えないと思ってたらあの建物に潜り込んでたんだな。分った。行ってよろしい」 私が一礼して、向きを変えた途端に、異様な音と共に背嚢が軽くなった。慌てて振り返ってみると、弾倉やら挿弾子やらが散乱している。弾薬の重さに耐え切れず、背嚢の底が抜けてしまったのだ。中隊長が笑いながら言った。 「背嚢の底が抜けるほど盗むもんじゃない」 私は散乱した弾薬を拾い集めると、敵の軍服と敷布で二重に包み、その辺に散らばっている荒縄で縛った。 今先刻気付いたのだが、橋に展開している我軍の数が、北陸第二中隊が来た時よりも更に増えている。私は中隊長に尋ねた。 「先刻よりかなり増えてますね」 「敵がか?」 「味方がですよ」 「あ、その事か。数分前に、矢臼別から九州第二中隊が来た。今のところ増援部隊は阿歴内からうちの中隊、茶内から北陸第二と中京、矢臼別から九州第二、四個中隊だ。そう、それに、阿歴内から四国中隊の一個小隊が来てる。 背面攻撃をかける標茶の近畿第一中隊と第二中隊は、三十分以上前に雪裡橋に到達している筈だ。もうすぐ来る筈だ」 私は前線へ向かって出発した。四個中隊四五百人が展開している橋の南側は、友軍の兵士でごった返していると言ってよい。私はその中を匍匐前進で進んだ。 最前線に来た。私は友軍の兵士の間に割り込み、遮蔽物の陰で小銃を組み立てると、敵陣に向けて構えた。 敵は土嚢かコンクリートブロックの陰に隠れている。双方がこうなっているので、共に銃声が殆ど聞こえない。現状を打開するには……? バズーカがあった! 私は無線機を取った。 「CK、こちらTYH、応答願います」 〈こちらCK。TYH、どうぞ〉 「幣舞橋は膠着状態に陥る危険があります。バズーカをよこして下さい。先月の敵本部攻撃に使った物があるはずです。どうぞ」 〈わかった。十人ばかり集めて連れて来い。以上〉 「了解」 〈言い忘れるところだった。兵を集める時は中隊長の許可を得よ。以上〉 「了解」 私は背中に扼りつけた弾薬を下ろし、小銃だけ持って後退した。 前線に展開しているのは中国第三中隊の筈である。私は大久保中隊長を捜した。 大久保中隊長はいた。私は彼を捕まえて申し出た。 「前線にバズーカを送り込むので、そのための兵士を十人ばかり貸して下さい」 中隊長は迷惑そうに言った。 「またか。バズーカ使うなんて、本部長の許可を得たのか?」 「得ました。本部長に聞いてみて下さい」 「……駄目だな」 「何故ですか?」 「大体お前は僭越過ぎる。うちの中隊の兵士は誰一人としてお前の部下では無い。もしバズーカを使うというのが有効な作戦なら、私が部下に命ずる」 結局軍人というのはこれだ。手柄を一人占めしたがるのである。昔の軍隊でも、中隊長や大隊長の中にはこういうのがかなりいた。 「わかりました。今後中国第三中隊には一切の協力を要請しません」 私は回れ右してそこを立ち去った。 さてそれではどうする。そうだ、四国中隊が、一個小隊しか来ていないのだ。あれなら、小隊長は私と同格であるから、中隊長と折衝する煩しさは無い。 やや後ろの方に展開している部隊が四国中隊である筈だ。私は一人の兵に訊いた。 「ちょっと訊くが、ここに展開しているのは四国中隊か?」 「そうです」 「そうか。小隊長はどこにいる?」 「向こうの方にいました」 彼は前線の方を指した。 「わかった。有難う」 私は前線の方へ歩いて行った。幾らも歩かないうちに、襟章三線の兵が見えた。私は彼に尋ねた。 「あんたが四国中隊の小隊長か?」 「そうだ。俺は四国中隊の佐々木だ」 「俺は東京第一中隊の矢板だ。 ところで、頼みがあるんだが」 「何だ?」 「あんたの部下を十人ばかり貸してくれんかな。前線の方では、敵の遮蔽物が頑丈過ぎて膠着状態になってる。で、その遮蔽物をバズーカで吹っ飛ばそうと思ったんだが」 彼は迷惑そうに言った。 「あんたの部下はいないのか?」 「橋の向こうにいる」 「……」 少時黙り込んだ後に彼は言った。 「部下は貸せないな。俺にしかなつかないから……あんたの命令に従うかどうか」 自分より上の階級の者であれば誰の命令にでも従うようにするのが部下の教育というものだろうが。私は喉元まで出かかった言葉を飲み込むと言った。 「他所を当たってみるよ」 大久保中隊長は明らかにそうだが、佐々木もやはり、功利心がある。このような非常時下にあって功利功名に汲々としているとは何たる事か。 久寿里橋の近くの本部へ行った私は、本部長に言った。 「兵員を調達できませんでした。バズーカは一挺だけ貸して下さい」 「わかった。しかし、何故調達できなかったんだ?」 私は声を顰めた。 「中隊長達が手柄を一人占めしたがるんですよ」 本部長は私をたしなめるように言った。 「お前だってそうだろうが。他人の事が言えるか」 私には言うべき言葉が無かった。本部長は言った。 「まあその事はいい。バズーカはそこにある」 私はバズーカ一挺を背負って本部を出た。 前線へ戻ってみると、相変わらずの膠着状態である。十一時二十分。橋の争奪戦が始まってから六時間以上経っていると思われる。私が橋を渡って来てから五時間二十分が経ったが、その間に前線は全くと言っていい程動いていない。先刻私が図った後方撹乱もどれ程役に立ったのか。 ふと思い出した。標茶からの二個中隊が、背面攻撃に向かっていると聞いた事を。私は無線機を取った。 「WWH、WWH、こちらTYH、応答願います」 中隊本部を呼び出した。 〈こちらWWH。TYH、どうぞ〉 「TYHです。そちらの隊は、何時頃幣舞橋に到着しますか? 南岸から総攻撃に出る積りですが。どうぞ」 〈幣舞橋?……何時になるかわからん。現在雪裡橋だ。どうぞ〉 私は訝った。 「雪裡橋? かなり前に雪裡橋には……」 〈雪裡橋と、その東南の十字路を敵が固めているのだ。それも、我が方の倍の敵がな。何時頃になるか見通しも立たん。以上〉 「了解。以上」 ある程度は予想されたとは云え、ゆゆしき事態である。背面攻撃部隊が来ないとなると、どうなる事か。 私はスイッチを切り、周りを見回した。周りの兵士が先刻より増している。私の他にもバズーカを持った兵がいる。佐々木もいた。私は敵に気をつけながら、わざと言った。 「何だ佐々木、これは部下には使わせないと言ってなかったか?」 佐々木は言い返す。 「誰が使わせないと言った?」 「俺が頼んだ時に部下を貸さなかったろう」 「それは俺の部下は人見知りするから……」 「本当はどっちでも無いんだろう」 「…………」 「どうでもいい。俺が一発発射したら続け」 佐々木は黙ってバズーカを構えた。バズーカは通常二人一組で、一人が構え、一人が装填して発射装置の電極を繋ぐのだが、私は一人であるから、弾丸を填めて電極を繋いでから肩に載せて構える。 (2001.2.10) |
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