釧路戦記 |
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第二十一章
午後十時、河村達が下りて来た。「先刻、小笠原が射たれた。大した傷じゃない。あと高村もだ」 兵員の損耗が少なくない。今現在、 ・死亡 石川 一人 ・重傷 橋本・矢部・趙・大島 四人 ・軽傷 谷口・君塚・中村・西川・小笠原・片山・高村・宮川・荒木・岸本・山口・及川 十二人 ・無傷 私・浅野・早川・山岡・山田・石田・鈴木・屋代・河村・酒井・桐野・古川・宇田川・細谷 十四人 河村班など、無傷なのは河村唯一人である。山岡が遠からず、医薬品不足を訴えてくるのが目に見えている。 私は今は病室となっている山岡の個室へ行った。 「医薬品の状況はどうだ?」 山岡は、高村の腕に繃帯を巻く手を休めずに答えた。 「今の所は充分ですが……このペースで負傷者が増えたら足りなくなります。繃帯を取り替える度に、汚れた繃帯は煮沸して使ってはいますが」 「繃帯は何とかなるだろう。薬はどうだ?」 「アルコールは充分です。ヨードチンキは昨日の砲撃で半分駄目にしました。瓶が壊れたんです」 アルコールは器具の消毒に使う物であろう。 「そのうちアルコールや塩を消毒に使う必要が出てくるな」 「アルコールで消毒すると物凄く痛みますよ」 「麻酔なしで弾丸を取り出すのに比べれば何でもない」 「……」 一晩中熾烈な銃撃戦が繰り広げられ、そしてそれは朝になっても間断なく続いた。これ以後は、昼も夜も攻撃は途絶える事が無かった。大勢力の敵は、部隊を二分して昼間攻撃と夜間攻撃を交互に行わせているのだろうか。明らかにこれは、間断ない攻撃によって私達を肉体的・精神的に疲弊させるための策である。 六日の深夜、酒井のハンディトーキーのバッテリーが上がってしまい、殆ど同時に古川のも故障してしまった。これは極めて重大な事である。私達はここに至って孤立したのだ。通信手段を失ってしまったのである。ハンディトーキーの全滅を知って私は、河村以外の班長三人を集めて相談した。 「これでもう、援軍を頼む事は出来なくなった。このままでは、いつか全滅する。どうしたら良いだろうか」 古川が言った。 「弾薬はどのくらい残ってるんですか」 「先刻調べてみたが随分少なくなった。この通りだ」 手帳を示した。 「まず加農の弾丸は二七六発あるからこの割でいくと五五日間保つ。迫撃砲の弾丸も四○六発。これは六一日保つ。バズーカは一発も使ってない。 ところがまず重機が問題だ。弾帯はもう三二三本しかない」 「それだけあれば充分でしょう」 古川が口を挟んだ。 「いや、そうじゃない。これではあと十日しか保たないのだ。 小銃も在庫分は、もう弾倉が八七三個だ。これは四四日で無くなる勘定になる。個人で持っている分が幾らかあろうが。 手榴弾も在庫分は六六二発だ。十七日分だ。つまり、食糧が底をつくより前に、弾薬が底をつくのだ。これを防ぐには極力使わないようにするしかない」 「……」 「仮にだ、何ヵ月分の弾薬があるとしても、我々は孤立無援なのだ。いつかは弾薬兵糧全て尽きて全滅してしまう」 酒井が言った。 「それじゃどうするんですか」 「それを聞きたいのだ」 「一発で大逆転できるような物……」 「この包囲陣を突破できる作戦……」 誰にも明快な答は出なかった。私達が今立たされている状況は、余りにも厳しいものであった。巻き返しに出られる可能性は低い。援軍は得られない。今はもう、降伏さえもできない……私の詭計によって敵は、降伏の意思表示すらも謀略であると思い込んでいるに違いないから。どうすれば良いのだ。座して死を待つべきでは無い。何か打開策を用いねばならないのだが、何を用いられようか。最も消極的な打開策たる降伏さえもできないのに。 「一か八か、大攻勢をかけたらどうでしょう」 谷口が言った。 「それができるならそうしたいところだ」 「随分消極的ですね。やってみるしか無いじゃないですか」 「もしそれをやるとお前以外全員死ぬとわかっていても、それをやるか?」 「……」 私はやや捨て鉢な気分になっていた。心なしか疲れを感じた。 上から河村が、高村を背負って降りてきた。 「ひどい重傷だ」 誰に向かってか分らないが河村は言った。病室から出てきた河村は、私達が疲れた表情で集まっているのに割り込んできた。 「何の話だ?」 「今後どうするか、だよ」 「どうするか、って言うと?」 「このままじゃ全滅は免かれない。何とか打開策を考えなければならない」 「……どうしたものかな……」 河村も考え込んでしまった。 九月九日。籠城戦も六日になり、絶え間なく続く敵の砲撃に、私達はすっかり疲労困憊していた。私は四日の夜から毎晩、ほんの二時間ほどまどろむだけで、深い眠りは全然摂ってない。その為に極度に疲労してしまった。頭の中が四六時中どろどろと濁り淀んでいるようだ。果てしなく憂うつになっている。砲台に登ってない時は大体、床に寝転がっている。しかも、それで眠っているのではない。疲労し切っているにも拘わらず眠れないのである。そんな時はいつも溜息ばかりついている。銃を執っていても、溌溂となる事などなく、心はいつも気だるく、頭の中は淀んでいる。食事も、全然旨くない。食欲を感じず、食べている時も何か物体を口に運んでいるだけといった風で、満腹感も感じなくなってしまった。こんな風では、本当に精神を害してしまいそうだ。私の他の者も似たり寄ったりだ。次第に表情が失せていった。皆、無表情な顔でごろごろしている。私もそうなのだろう。細谷が七日、敵の手榴弾で重傷を負ったので重傷者は六人になったが、その六人を昼夜一人で看護する山岡の心労は並大抵ではなかろう。時々病室へ行くと、壁に凭れかかって殆ど放心しているような顔をしていたり、床に倒れ込んで眠っていたりする。 九月十一日の朝の時点で、食糧は一八二七食分、つまり二十九人で食べると二一日で底をつく分だけ残っていた。籠城戦がどれだけ続くか、こればかりは全く予想がつかない。となれば、今のうちから食い伸ばしをやっておく方がよいであろう。それに、本来この食糧は野外戦用なのだ。一日の大半を持て余す籠城戦なら、多少減らしても差支えあるまい。私は食糧の配分を八割に減らすことにした。これだと二六日持つ。僅か五日長持ちするだけだが、やらないよりはましである。 「今から玉砕の日取りを決めることもないだろうに」 こう言った屋代を、私は大喝した。 「縁起でもない事をぬかすな!!」 九月十六日。私は物資の在庫を調べさせた。 ・加農砲弾 二四九発 ・迫撃砲弾 三七二発 ・バズーカ弾 三○五発 ・重機弾 二八六本 ・小銃弾 六四七個 ・手榴弾 五四○発 ・食糧 一四六七食分 ・水 一六五○リットル 水についても、これは全員一律に二リットルに減らした。重傷者に、内臓の負傷者はいなかったので今のところ計算通りに行っている。これだと二十八日持つ計算になる。だがこれだと、炊事に使う水もかなり乏しくなり、洗面や髭剃り、洗濯などできる相談ではない。こんな事から士気が低下するのだけは避けたいところだが、如何ともし難い。 それにしても重機弾の消耗は多い。あと何日保つか知れたものではない。加農や迫撃砲の砲弾やバズーカ弾などは全然減らないのにである。このような籠城戦では重機弾は何万発あってもあり過ぎることは決してないということだ。 ・ ・ ・
さて二十五日の夜八時頃であった。私は、鈴木と並んで砲塔の窓に陣取っていた。突然、鈴木が、持っていた銃を投げ捨てたかと思うと、奇声を発しながら窓から出て行こうとした。突然のことで私は何が何だか全く判らなかったが、夢中で鈴木の片足を捕まえ、隣にいた谷口と一緒に、砲塔の中へ引きずり込んだ。私は驚きを禁じ得ず、鈴木を詰問した。「どうしたんだ!?」 「放してくれ――! もう嫌だ! 死にたくない! 嫌だ――!」 鈴木は私の問に答えず、まるで子供のように喚き散らす。激しく震えている。 「落ち着け! 落ち着くんだ!」 谷口が叱咤した。しかし鈴木は喚き続ける。 「放してくれー! 助けてくれー! わ――っ! 死にたくないー! 助けてくれ――!」 私と谷口に押えつけられながら、まるで赤ん坊がむずかるように暴れる。 「うわ――っ! 殺せ! 殺せ! 嫌だ! 死にたくない! 殺せ!」 私は呆れた。谷口と顔を見合わせた。この新兵は、とうとう気が狂ってしまったらしい。鈴木はいきなり、私の顔を掻きむしった。 「お前は敵だ! 鬼だ! 悪魔だ! 殺してやるー! ヒッヒッヒッヒッヒッ」 しまいに顔を歪めて、気味悪い声で、狂ったように笑った。笑いながらも手を止めない。私は背筋が寒くなるのを感じた。鈴木の手を止める事さえ忘れていた。 ここ数日というもの、間断なく続く敵の攻撃に皆は疲れ、笑いが失せてしまっていた。その笑いが発せられたのではあるが、凱旋する者の喜びと誇りに満ちた笑いに比べ、狂った者の発する笑いの何とおぞましいことか。私は耐え切れず、殆ど無意識のうちに鈴木を殴りつけた。そうしたところで止められるとはもとより思っていなかったが。 案の定鈴木は、殴られた痛みもまるで感じていないようで、以前にも増して暴れる。目はあらぬ方角を見据えている。とても正視し得ないほどにおぞましく顔を歪め、涎を流しながら甲高い声で笑い、藻掻く。私は鈴木から離れようとしたが狭い砲塔ではそうもいかない。私は竪穴を覗き込んで怒鳴った。 「縄を持って来い! すぐにだ!」 酒井が縄を持って登ってきた。 「どうしたんです?」 私は鈴木を押えつけながら答えた。 「鈴木が発狂しちまった」 酒井は溜息をついた。私は言った。 「お前んとこの山口も気をつけた方がいいぞ」 私は谷口と酒井に手伝わせて、鈴木の手足を縛り上げようとした。その途端、鈴木は谷口の手を振りほどき、窓から飛び出そうとした。私はすかさず彼の膝を捕まえ、窓から引きずり降ろした。すると今度は、私の腕からすり抜けて、兵員室へ向かって竪穴を駆け降りていった。酒井がすかさず後を追った。私と谷口が続いた。私達が兵員室へ降りていくと、鈴木は戸口と反対側の壁を素手で掻きむしりながら、甲高い声で喚いていた。 「ここに出口が! 出口!」 これを聞いた途端、私は愕然とした。目から鱗が落ちるというのか、まさに何かが私に啓示を与えたのだ。 ここから、長いトンネルを掘れば、敵の囲みから脱出できるではないか!! 私の頭から、手足の先まで強い痺れが走った。私は呆然と立ちつくしていた。強い感動に、私の雑念はすっかり洗い流されてしまった。目の前が霞み、敵の砲撃の音も聞こえなくなった。私は、自分の体が空の高みに浮かび上がってゆくかのように感じた。 「小隊長! 小隊長!」 谷口の声で私は我に返った。 「あ、何だ」 「鈴木を縛りました。どうしますか」 「あ……小隊長室に閉じ込めておけ」 「はい、小隊長室に入れておきます」 現実に引き戻されてから冷静に考えれば、鈴木の言葉は狂人の譫言以上の物ではありえない。しかし私はそこに、素晴らしい突破口が開いたことを確信した。これで私達は助かったも同然である。 私は谷口を捕まえて言った。 「先刻の鈴木の譫言で、名案を思いついたぞ」 「そりゃ何です」 「ここの壁からトンネルを掘るのさ」 谷口は二−三秒黙っていたが、急に目を輝かせて言った。 「成程。そりゃ名案」 私は近くにいた酒井にも言った。 「そうだ。トンネルだ」 酒井も目を輝かせた。 「やりましょう」 私は早速、河村を捕まえて言った。 「ここを脱出する名案を思いついたぞ」 「どんな案だ?」 「ここの壁から長いトンネルを掘るんだ。敵の包囲陣の外まで掘ればいい」 河村は日頃から興奮しない性なので静かに言った。明らかに興味を示してはいたが。 「一考に値するな」 「そうと決まったらすぐ作業だ」 「ちょっと待て。 一体何メートルのトンネルを掘るのか知らんが、土をどうする? 土を」 河村の言葉は、私の興奮に水を差した。 「そうだな……」 人が通るのには、例え這うとしても幅八○、高さ五○センチメートルは要る。断面積はすると○・四平方メートル。長さ百メートルのトンネルを掘るなら、四○立方メートルの土が出る。四○立方メートルというと、倉庫を全部埋めるくらいある。小隊長室が空いているから、これを埋めるとするとどうだろうか。だとすれば、鈴木を倉庫にでも移しておこう。 「小隊長室を全部埋めるくらいにはなる」 「何メートル掘るとしてだ?」 「百メートル」 「もしもっと長かったら?」 「……」 トンネルを掘った土は、敵の目に触れさせることはできない。そんな事をすれば敵はこちらの意図を知ってしまう。それは河村は知っている筈だ。 「とにかくやるだけやってみよう。例え千に一つでも、生存の方に賭けるしかない」 私は考えた。トンネル掘りは時間を要する。従って可及的速やかに掘らねばならぬ。となれば、無傷な者を充てることになる。それなら防禦はどうする。軽傷の者にさせるか。その必要もない。トンネル掘りと言っても、それには十人も二十人も充てる必要はない。狭いトンネルであるから、先端部には一人しか入れない。掘るに一人、支保工を入れるに一人か二人、運ぶに二人。四−五人で充分だ。ならば、無傷な者は今現在十二人――鈴木と山岡は除いてだ。防禦は七−八人で充分だ。――いや待て、掘るのは四人三交替でどうか。とにかく無傷な者を掘るのに充てるのだ。 私は十二人を三班に分けた。即ち、 ・私・浅野・早川・山田 ・河村・酒井・石田・屋代 ・古川・桐野・宇田川・細谷 私は砲台へ登って、敵陣までの距離の見当をつけた。六−七○メートルはある。すると陣地後方へ出るには百メートルも掘ればよい。百メートル、緩やかに上向きに掘ったらどうか。私は梯子段の途中の壁を調べた。掘れそうな柔かい、しかし落盤の心配の無い地層はどの辺にあるか。砲台から六メートル程下りた所の地層は砂質で柔かい。ここが良かろう。 私は下へ降りると、浅野と早川と山田を集めた。これからする事を説明してから、私は三人に指示を出した。 「浅野は鑿と金鎚と鏨を、早川は綱を、山田は大きい桶を持って来い」 私は綱の端をズボンのベルトに結び、梯子段に結びつけ、桶を梯子の下に置かせ、掘る方角を見極め、鑿と鏨を使って土を掘り始めた。このトンネルの掘る速度が、全員の生死を握ると言っても過言ではない。私は一心に穴を掘り続けた。一時間も全力を挙げて掘るうちには手が疲れてきた。そこで私は浅野と交代した。四人いるから一時間交代で掘るのが良かろう。私は幾らか仮眠した。 午前六時、四人が二時間ずつ掘ったので、私は古川、桐野、宇田川、細谷を呼んだ。 「竪穴の途中に新しい横穴が掘ってある。この横穴をどんどん真っすぐ掘り進めるんだ。不必要に広くしてはいかん。一時間交代ぐらいにしろ」 「私は?」 桐野が私に問うた。私は答えた。 「今日から戦闘は免除だ。穴を掘れ」 古川達が穴を掘る音を聞きながら、私は久し振りに熟睡した。はっきりとした目標を持った労働に従事した後の、充実した疲労が私を睡りに引き入れた。 (2001.2.6) |
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