釧路戦記

第二十章
 突然、鈍い爆発音がした。鈴木が飛び上った。私は呟いた。
「砲撃が始まったらしいな」
 実戦経験の全く無い鈴木は完全に怯えている。谷口が鈴木を叱咤する。
「落ち着け! 敵を恐れるな! 敵を恐れたら負けるぞ!」
 私は砲台へ通ずる梯子を登った。また至近距離で爆発が起こった。私は砲台にいた酒井に訊いた。
「どの辺から砲撃して来るんだ?」
「全くわかりません」
「そうか。よし、偵察を出そう」
「!?」
 私は、砲塔の換気窓から外を窺った。まだ敵兵はいない。砲撃によって充分に破壊してから歩兵部隊が攻撃をかけるというのは陸上作戦の常道である。私は兵員室へ降りると、部下達に言った。
「誰か脚に自信のある者はいるか。偵察を出す」
 河村が言った。
「俺が行こう。どこへ行くんだ?」
 私は地図を取り出し、要塞の東方にある六五メートルの丘を示しながら言った。
「ここの丘だ。今我々を砲撃している敵の陣地を探すのだ」
「わかった。地図と双眼鏡を持って行く」
「出来る限り急いで報告してくれ。早くしないと敵歩兵部隊が攻撃をかけて来る」
「わかった」
 河村は鉄兜を被り、ハンディトーキーと地図と双眼鏡と銃を持って駆け出して行った。
 三分ばかり経った。無線機が鳴った。
「こちらTYH。TYK、どうぞ」
〈TYKだ。敵の砲撃陣地を発見した。多分そこからでは砲撃できないから、無反動砲をよこしてくれ。どうぞ〉
「無反動砲は無いぞ。迫撃砲で届くか? どうぞ」
〈充分届く。迫撃砲でいい。以上〉
「了解。……おい、小笠原と高村、迫撃砲持ってけ。東の方の丘の上に河村がいる」
「わかりました」
 小笠原と高村は部屋を出て行った。
 五分ばかり経って、ふと私は砲撃が止んだのに気付いた。更に数分後、河村達が帰って来た。
「吹っ飛ばしたぞ。敵の砲は六八メートルの丘の上にあった。丁度ここの加農の死角から狙ってたんだな。榴弾砲は曲線弾道だから丘の陰にあたるこの砲台を撃てたんだな」
 その通りかも知れない。
 室内を見回してみると、皆随分暇そうである。そうだろう。二日間に二十四時間哨戒に出ていた今までの態勢では、今頃の時間には二個班の者が、夜間哨戒に備えて寝ているのが普通なのだが、今の態勢だと常に三個班いる。さらにもう一個班のうちでも二、三人は、倉庫要員なので暇をもて余しているし、非番の三個班のうち二個班は、今夜は哨戒はない。以前にもこの態勢を取ったことがあるが、あの時は皆働いていたのだ。という訳で、実に気だるい雰囲気が漂う。何人かは厚紙で作った牌で麻雀をやっているし、また何人かは花札をやったりしているが、金を賭ける訳でないから真剣味を欠く。昔の軍隊は、前線へ出れば当然今のような状態だが、内地にいる時分には(私は一六年四月に応召したが三ヵ月間は内地で訓練であった)週に一度は外出日があったものだ。だから週に一度給料が出る。今度は給料は、後方の工場勤務の時も含めて一銭も出ない。従って私達は今現在一銭も手にしていない訳で、これで賭が成立する訳がない。従って麻雀や花札も、始まってもすぐに何となく終わってしまう。中には文庫本を何冊も持って来ては、真っ黒になるまで読むのもいるが、そういうのは少ない。結局のところ、無聊をかこちながらうたた寝するくらいしかない。
 午後十時、古川班が酒井班と交代し、私達は眠りに就いた。眠りに落ちようとする頃、突然、凄まじい大爆音が轟いた。大地が揺れたのを感じた。山口が悲鳴を上げた。蝋燭が一つ、燭台から落ちて消えた。薄暗い室内に恐慌が走るのが感じられた。また一発、今度はやや弱い衝撃だ。さらに一発、もう一発、爆発は次々に起こる。
「砲撃だな!」
 河村が立ち上がるのが見えた。私は訊いた。
「どこへ行くんだ?」
「弾薬がやられてるかもしれん。あれだけの爆発だと誘爆の可能性もある」
 二−三分の後、河村は戻ってきた。
「弾薬は今のところ大丈夫だ」
「あれをやられたら最後だからな」
 部屋の所々から声が上がる。
「俺達は何をすればいいんだ」
 そのうち砲撃が止んで、敵歩兵が攻めて来る筈だ。そうなったら応戦するのだ。
 十一時頃、砲撃は止んだ。私は命令した。
「谷口班、重機二挺を持って、丘の上へ行け! 河村班、酒井班は丘の上に展開しろ! 本部班、迫撃砲を用意して砲台へ行け! 急げ!」
 私は砲台に登った。浅野が続いてきた。私は砲塔の窓から外を見た。まだ敵の接近してくる気配はない。味方は充分に散開している。
 五分ばかり経ったろうか。左翼から激しい銃声が起こった。左翼から敵が現れた模様だ。と、六五メートル丘付近に自動車が現れた。その車から閃光が出て二秒と経たぬうちに砲塔の南十メートルくらいのところで爆発が起こった。
「簡易自走砲だな。榴弾で一発やってやれ」
 水平に近い角度で砲弾が発射されたかと思うと、車のあった場所に火柱が立った。車は消し飛んでしまった。
 遠くから敵兵の喚声が聞こえてきた。東南東だ。私は照明弾を発射させた。
 青白い光に、東南東の丘の上にいる敵部隊が浮かび上がった。重機が一斉に火を吹いた。矢継ぎ早に今度は敵部隊を狙って、霰弾を発射した。敵兵は四散していく。しかし尚も敵の後続は接近してくる。一点集中のようだ。
 要塞の近くには味方はあまりいない。私は河村班と酒井班を集めることを考え、無線機を取った。ところが河村と交信中、
「敵の主力は一点集中らしい。すぐに部下を集めろ」
〈了解。以、〉
「? どうした、おい! どうした!」
 突然河村からの交信が途絶えてしまった。
「おい、故障か?! わっ!!」
 バリッというような音がしたかと思うと、指の間を弾丸が抜けるのを感じた。無線機が射抜かれたのだ。砲塔の中に弾丸が飛び込んでくる。私は窓を閉めた。
 再び外を見ると、河村班と酒井班と谷口班で円陣を作るように砲塔を囲んで、二挺の重機と十七挺の小銃で敵と応戦している。本部班の三人も迫撃砲を捨て、古川班を除く二十二人が銃を取って応戦している。私も銃を取って応戦した。二挺の重機と二十三挺の銃の弾幕の前に、敵兵は次々に倒され、大地に屍を積んでいった。
 五十分にわたる戦闘の末、敵は、二百を越えると思われる戦死を残して撤退した。私達は兵員室に集まった。私は河村に言った。
「お前のハンディトーキーはどうなっちまったんだ? 故障したのか?」
 河村は壊れたハンディトーキーを私に見せながら答えた。
「射抜かれた。この通りだ」
「無線機もだ。つまり五台のうち二台やられた訳だな」
 私は入り口の錠を閉めに行った。扉に手を掛けた時、
 ドバァン! ゴ――ッ
 異様な音が外から聞こえた。私は扉を開けた。トラックが炎上している。放火されたのだ。私は逃げ去ってゆく一人の男の背に、銃を連射した。男は倒れた。
 物音を聞きつけて、河村が飛び出してきた。
「何だ?」
「車がやられた!」
 もはや手の下しようもなかった。ガソリンの火は水で消せないことは知っている。次々にガラスがはじけ飛び、炎は辺りを照らす。
「重機は何をしてたんだ! 重機は!」
 喚きながら私は扉の中へ引っ張り込まれていた。河村が私を制しようとする。
「今はとにかく中に籠っていよう」
 私は決然と言い放った。
「俺はあの火を消す。
 何のためにわざわざ火つけに来たのか考えてみろ。トラックの一台や二台燃やすためじゃない。そんな事のためにここまで来るか。でなけりゃ何のためだ。空爆の目標にするため以外に何があるんだ。夜だぞ。空爆以外に何もない」
 河村が言い返してきた。
「ならどうやって消すんだ? 消せる物があるとでも言うのか?」
 私には返す言葉が無かった。
 午前零時半、再び敵の砲撃が始まった。今度はやや疎らであったが。一時に砲撃が止み、すかさず丘の上に散開し敵を待つ。地面に地雷の爆発による穴が幾つもあるので、その中に隠れて敵を狙うのである。
 暫くして、また敵の歩兵部隊が攻めてきた。今度はやや少人数だ。私達は先刻と同じように、機関銃で応戦した。
 午前一時四十五分、敵は再び撤退して行った。我方の損害は
 ・重傷 矢部
 ・軽傷 谷口・中村・岸本
 重傷の四人は、山岡が常に看護していられるように、山岡の部屋へ移した。いまや私の小隊の、実働勢力は二十七人にまで減ってしまった。
 私はいつの間にか睡りに落ちていた。ふと目を覚まして時計を見ると、午前八時であった。どうやら午前二時頃より後は、夜襲は無かったらしい。砲台へ登ってみよう。梯子に取り付いた途端、いきなり何か硬い物が頭の上に落ちてきた。鉄兜を被っていたので、鈍い衝撃を感じただけで済んだが。上から谷口が見下ろした。
「こら何だ」
 下にいたのが私と気付いたか、谷口は平謝りだ。落ちた物を拾ってみるとハンディトーキーである。私は谷口を見上げた。
「俺の頭のことは心配しなくていい。ハンディトーキーが壊れたかも知れんぞ」
 私は室内を見渡した。丁度、酒井が起きていた。私は彼に言った。
「ちょっとハンディトーキー試してみてくれんか。谷口のが壊れたかも知れんから」
「わかりました」
 数メートル離れて、私はハンディトーキーのスイッチを入れた。
「酒井、聞こえるか?」
〈………〉
 私は顔を上げて酒井を見た。彼は首を振った。私は彼に言った。
「そっちから発信してくれ」
「はい」
 私はハンディトーキーに耳を当てた。何も聞こえてこない。
「駄目だ。発信も受信も完全に壊れてる」
 私は砲台へ登り、谷口にこのことを告げた。
「これで使えるのは二台だ」
「これはまだバッテリーはあがってないと思いますが……」
 私はふと、ハンディトーキーを持つ右手の皮膚が焼けるように感じた。硫酸が漏れているのに違いない。私は直感した。左手に持ち替えて振ってみると、明らかに隙間から液体が漏れてくる。
「バッテリーも駄目になったぞ。硫酸が漏れてきている」
 谷口の顔に失望が現れた。
 私は砲塔の窓から外を見た。敵兵の姿は無い。一発の銃声も聞こえない。
「やけに静かだな」
 谷口も不審に思っているらしい。
「余りにも静か過ぎます」
「そうだ。静か過ぎる。異様としか言えない。警戒を怠るな。敵は包囲網を狭めつつあるに違いない」
 私は砲塔から、まず左の銃座へ行った。そこには、屋代と鈴木がいた。
「敵の来る兆しは無いか」
「全くありません」
「そうか? 銃声がしなくても敵は接近して来るんだぞ。よく見張ってろ。
 ……夜になったらあれをやろう」
「は?」
「そのうちわかる」
 私は兵員室へ戻った。
 日が暮れた。午後六時、砲撃が始まった。そのうちに、南東方から敵兵が攻めて来た。この第一波は撃退したが、七時半頃、今度は北東方から第二波が攻めてきた。北は林なので重機も思うように射てない。砲台も射撃を止めている。一向に戦果を上げられないまま時間が過ぎた。幾人かの兵は、崖の上の草地から手榴弾を投げたり銃撃したりするが敵は減る様子がない。これは少々詭計を使わなければならない。私は、自分の手拭いの短い辺の一方から数センチほどを、かまどの石炭殻で黒くし、反対側を細い薪に結びつけて、幡のような物を作った。そして私は倉庫の上の銃座へ登り、そこにいた片山に言った。
「いま九時五分前だ。九時になったら一旦射撃を止めろ。そして、敵が崖下に沢山出てきたら一気に射殺しろ」
「……?」
「とにかく言った通りにしろ」
 次に私は竪穴の途中の銃座にいた小笠原にも言いつけ、砲台へ登った。砲台の窓はいまや銃眼になっている。そこにいた河村と宮川にも言いつけ、さらに外で重機を使っている谷口と屋代、古川と荒木にも言いつけた。上には他にも何人かいたが、全員に言いつけた。
 さて九時になった。銃座の二挺、崖の上の二挺、四挺の重機は音を止めた。私は砲台から外へ出ると、河原へ向かって旗を振った。
「ええっ!? 降参!?」
 砲台と外にいる部下が異口同音に叫んだ。
「しっ! 作戦だ。言う通りにしろ」
 私は皆を黙らせた。
 敵の銃声は止んだ。そして、ぞろぞろと前の空地に出てきた。二百人近い数だ。私は身を翻し、号令一声、
「射て――っ!!」
 四挺の重機、私のも含めた約十挺の小銃が一斉に火を吹いた。次々に手榴弾が爆発した。突然の銃撃に、敵兵は完全に混乱した。空地を右往左往するうちに次々に銃火の餌食となり、鉄条網の外へ逃げ出す者は地雷の餌食となる。遂に、鉄条網の中には敵の生存兵は無くなった。詭計は図に当った。
 しかし、崖の上から降りてきた石川は私に食ってかかってきた。
「あんな無茶苦茶な作戦がありますか!? 白旗で敵を油断させるなんて、瞞し打ちそのものですよ」
 私は平然とせせら嗤いながら言った。
「戦争は瞞し合いさ」
「だからって白旗を使う……」
「あれは白旗じゃないぞ」
 私は切り返した。件の旗を取り出して、
「黒く塗ってないか? ほら?」
「……」
 石川は黙ってしまった。
「敵が勝手に白旗と見間違えて勝手に出てきて勝手に射殺されたんだ。そうじゃないか。こちらには何も非はない」
「詭弁だ!」
「いいや、俺は言い逃れをしてるんじゃない。敵が作戦に乗せられただけの事だ」
「そんな作戦が……」
「どんな作戦でも、勝つために有効な作戦でありさえすればいいのだ。勝つために有効でありさえすればそれが取るべき作戦だ」
「……」
「どんなに人道に悖る作戦であっても、勝つための作戦なら行うべきなのだ。いや、行わないことの方が悪なのだ」
「……」
「戦争を経験してきた者として言うがな、戦争は綺麗事では無いぞ。いや、お前より二十年長く生きてきた経験から言うと、生きることは綺麗事じゃない。現実に生きていく上では道徳なんか捨て去る必要だってある。その極端な例が戦争なのだ」
「……」
「簡単な事を言うがな、お前、ここへ来てから敵を殺したろう。何人でもいい。
 言うまでもないが日本の法律では殺人は犯罪だ。世間一般に言う『悪い事』だ。
 ところがお前は今現在それをやっている。つまり罪を犯している。今お前がすべき事は何か。敵を殺すことだ。お前がすべき事は、ある一つの罪を犯すことだ。
 いいか、石川、よく聞け。今お前はここにいる。戦闘要員としてだ。そうである以上、例えそれが罪であろうとも、敵を殺さなければならない。そうするのがお前の義務だからだし、それともう一つ、敵を殺さなければ、敵が自分を殺すからだ。お前だって殺されたくはなかろう? 敵を殺すことは今ここにあっては正しい事なのだ。先刻の俺の作戦を正しいと思うか?」
「思いません」
 石川は顔を上げて私を見据えた。
「よし、その一言で決まりだ。
 お前は兵隊失格者だ」
「そうですか。兵隊失格者ですか」
 この口調。何か切り返しを狙っているのに違いない。私は答えた。
「そうとも。その考えを捨てないうちはな」
「それなら小隊長。一つだけお願いがあります。言っていいですか」
 そら来た。大体見当がついた。
「何なりと言ってみろ。必ず叶えてやるとは言い切れないがな」
「私を前線部隊から外して貰うよう本部に頼んで下さい。戦闘は嫌です」
 辺りにいた部下達は、一斉に石川を睨み据えた。中村が叫んだ。
「何を虫のいい事を言ってるんだ!? 自分勝手が過ぎるぞ!」
「そうだ! ここまで来て何を言ってるんだ! 自分だけ生き延びようと思って……」
「ここまで来て『死にたくない』か!?」
「体のいい理由を作りやがって」
「病院送りになって、臆病風に吹かれたか!?」
 皆、口々に石川を詰り始めた。
「静かにしろ! 俺が裁決を下す」
 辺りは静かになった。
「俺達がここで戦っているのは、あくまで各々の自由意志によってだ。そうだろう? 俺には、石川をここで、強制的に戦わせる権限はない。皆はあると思ってるだろうが、それはあくまで全員の合意の上でだ。俺の命令に従いたくない者は従わなくてもよいのだ。石川は、ここで戦いたければ戦えばいいのだし、そうでなければ戦わなくてよい。これをまずはっきりさせておく。
 皆に告げる。ここに残って戦うことを好まない者は石川の他にいるか」
 私は部下達を見回した。
「怖れる事はない。俺は別に、そういう者を罰する積りは無い。戦いたくない者はいるか。素直に答えろ」
 誰も答えない。
「石川だけだな」
「今のところはそうらしい」
 河村が呟いた。
「それでは石川、本当に戦いたくないのか?」
「戦いは嫌です」
「本当にそうなんだな?」
「そうです!」
「よし決まった。戦いたくないんだな。戦闘要員から外されたいんだな。
 戦闘要員から外れる方法は三つある。一つ、重傷を負うこと。二つ、降伏すること。そして三つ、戦死することだ。
 石川、どれかを選べ」
 私は言った。
 石川は黙り込んだ。私は言った。
「死んじまったら何にもならんな。重傷あたりが無難だろうな」
 石川は言った。
「重傷を負うのを選んだら生きられますか?」
「お前の生命力次第だがな。
 そうそう、お前は戦闘要員を外れたんだから、もし負傷しても手当はしてやれんぞ。ここの薬は戦闘要員のための薬だからな」
「ええっ!!」
「治るまでの間もだ、飯はやれんな。戦わざる者食うべからず」
 石川は恐怖に化石したようになってしまった。周りの者は、冷笑的に見ているだけだ。
「……それじゃ、まるっきり死ねと言うのと同じ……」
「どうもそうらしいな。もう一度考え直したらどうだ」
 石川は、絞り出すような声で言った。
「降伏します」
 私は言った。
「それを選ぶか。そうだな、それが一番死なずに済む可能性が大きいと思うぞ。では決まりだ。ここへ武器を置いていけ」
「武器を?」
「馬鹿かお前は? 降伏することは、戦う意志がないということを表明するのだぞ。武器を持っててどうする?」
「わかりました」
 立ち上がった石川に私は言った。
「忠告しとくが今降伏しようっても難しいぞ。少なくとも白旗は使えないからな」
「どうしてですか?」
「お前はよくよく頭の悪い奴だな。先刻の作戦に引っかかったばかりなんだぞ、敵は。今お前が白旗上げて出て行ったら、そいつもこちらの罠だと思わない敵がいると思うか?」
「……。じゃ、何日くらい経ったら?」
「かなりの日数は要るな。そう、その間お前に喰わす飯はないぞ」
 石川は沈黙してしまった。私はからかった。
「そら、どうした? 先刻まで出て行きたがったのに? そら? 心変わりしたか?」
 石川は精一杯の意地を張って言い返した。
「出て行きますよ! 今すぐ! 私は小隊長と違って誠意がありますからね。よくよく言って、罠でないと納得させてみせます」
 彼は立ち上がると、銃と弾倉と、手榴弾を私の前に放り出した。そして、部屋の隅に積んであった荷物の中から自分のを取り出した。そして、やにわに服の襟と肩から階級章をむしり取り、袖の徽章もむしり取ると、それを床に投げつけ、鉄兜を私に投げてよこすと、皆が見守る中を戸口に向かって行った。何人もが言った。
「誠意だってよ。あいつ脳みそが錆びついてるらしい」
「どこの世界に、誠意を持って人殺しをやる奴がいるんだい」
 扉が音をたてて閉じられると、やがて外へ通ずる二重扉が開く音がした。とたんに銃声が立て続けに起こった。私は思わず立ち上がった。戸口から外を見ると、外へ出たばかりの所に石川が倒れていた。その右の手には、白いハンカチが握られていた。私は二重扉を閉ざし、部屋に戻った。
「どうでした?」
 誰かがせき込んで訊いた。私はぽつんと答えた。
「殺された」
 私はもう何ヵ月振りかに、自責の念に虜われた。私が詭計を用いたことが石川を激昂させると共に、敵を不信に陥いれ、結果として石川を殺すことになったのではないだろうか。私は瞑目した。
 いや、石川が興奮した余りに、身の危険を顧みずに出て行ったのが原因なのだ。私には落度はないのだ。私は石川を放逐したのではない。出ていく行かないは、石川に選ばせたのだから。
「あいつ、もうちょっと、ちょっとだけ冷静だったら死なずに済んだろうにな」
 君塚が言った。西川が頷く。
「そうだな。何も敵の真っ直中へ、白旗持って出てくなんて考えが足りないな。敵はほんの十分前にあれで欺されて大損害喰らったんだぜ、白旗なんか持って出たら、返り討ちを狙ってる敵に殺される事ぐらい分らなかったのかな」
 谷口が思い出すように言った。
「あいつは確か……あの時、小隊長が防空壕を焼き払った時も、何か変な事してて小隊長の逆鱗に触れましたね」
 あの時の事だ。忘れえもせぬ七月十八日である。ガソリンに火をつけて防空壕の換気孔から注ぎ込んで焼き払った時だ。
「そうだな。俺はあの時えらく頭に来て奴をどやしつけたな。そもそも戦場にあんな下らん情を持ち込むからいかんのだ。
 谷口、お前、あの時の俺のした事をどう思う?」
「あれは名案でしたね。弾薬を使わずに敵を殺す、上手い戦い方の見本ですよ。しかも、石川は、小隊長が一人ずつ止めを刺した事を抗議したんですよね。ありゃどうかしてますよ。生き残ってないことを確認するのがどれほど大切か、教わらなかったんですかね」
「そうだ。その通りだ。だから銃剣は必ず持って行けと言うんだ」
「結局……私が思うに、石川はこの軍に入ったのが間違いだったんですね」
「その通りだ。奴は最後まで人間だった。いざ戦場で敵と対峙したら、それこそ人間であってはならないんだ。殺人機械になり切らなければならないんだ。奴は殺人機械になれなかったのが死因さ」
「へえ……」
「俺はとっくの昔に人間でなくなってるさ」
 西川が言った。
「いや、あいつは、元はやる気のある奴だったのに、後方送りになってから変わったんですよ。何しろこの隊に配属されて最初の出撃で重傷を負って後方送り。戻ってきたと思ったら、小隊長が後方送りになった直後にまた後方。病院暮らしが長かったから……」
 それは一理ある。前線と病院では、周りの雰囲気がまるで違う。私も、病院暮らしがもっと長かったら、すっかり毒気を抜かれていたろう。
(2001.2.6)

←第十九章へ ↑目次へ戻る 第二十一章へ→