釧路戦記 |
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第十四章
八月十五日。忘れえもせぬ二十二年前のこの日、日本は降伏したのだったが、今はその事は関係ない。もう私の体は殆ど治って、左手は完治、左足首がまだ少し捻ると痛むだけになった。この日の昼頃、看護婦が病室に来た。 「東京第一中隊の矢板さん」 いよいよ復帰だ。私は待ち兼ねていたように寝台から降りた。 「トラックが来てます」 私は鉄兜をかぶると、手に何も持たずに――ここへ来た時には何にも持っていなかったのだ――急ぎ足に病室を出た。この時私の心にあったのは、やっと復帰できるという嬉しさだけであった。 「一ヵ月寝ていた分、早く取り戻せよ。乗ってく車は、右端の四トン車だ」 年配の軍医はそう言って、私の手に新しい自動小銃を握らせた。私は敬礼して出口へ向かった。中型の幌付きトラックがそこにいた。私は車の後ろに回り、銃を背負って荷台に手をかけ、ひらりと荷台に飛び乗った、その直後、私は車から飛び降りそうになる自分を抑えるのに苦労していた。 肩に垂れた髪、膨らんだ胸、そこに坐っていた六人の兵士達は皆、紛れもなく婦人兵であった。まだ二十くらいの二、三人が体を固くするのが私の目にもわかった。 私は努めて平静を装いながら腰を下ろした。車が動き出した。私は紐を引っ張って幌の口を閉め、外から中が見えないようにした。そうしてから、わざと天井を見上げ、幌を繕った跡をじっと眺めた。 女達もどうやら落ち着いたか、また賑やかに雑談を始めた。それにしても、若い女性の喋るのはどうしてこうも騒々しいのだろう。声が高いだけに一層耳障りだ。 そのうち、一人の兵が私に声を掛けた。 「班長さん」 私がこの時ほどびくっとしたのはもう数ヵ月も前から無かったろう。私は天井から目を下ろし、動揺を抑えながら答えた。 「な、何だい」 女達が笑いを浮かべたのに私は気付いた。それはそうだ。髭面の四十男が、片思いの女性に声を掛けられた中学生か高校生みたいにびくついているのは、若い彼女達から見れば滑稽な見物に違いない。銀縁眼鏡の娘が言った。 「どこの部隊ですか?」 まあありきたりな問だ。私は平静をやや取り戻して答えた。 「ああ、東京第一中隊の吉川小隊だ。今は何小隊になってるか知らないがな」 髪の長い娘が、思い出したように言った。 「東京第一中隊なら知ってるわ。六月に円朱別で一緒に行動したもの」 これで私は平静を取り戻した。私はわが意を得たりとばかりに喋り始めた。 「円朱別か? あそこで一緒に行動したっていうと……左翼かい? 第一中隊の本隊が東京第二中隊と合一行動やってた筈だ。すると君は東京第二中隊か。 うちの小隊はあの時は遊撃隊だったな。その遊撃隊を、この俺が指揮してたんだ。うちの隊の河村って奴が一人で敵の戦車を分捕ったのはうちの中隊の語り草になってるぞ。今度うちの中隊の誰かに聞いてみな」 「へえ……」 「俺は吉川小隊第一班班長、元陸軍伍長矢板正則だ」 少々饒舌になり過ぎたようだ。しかしこれで、彼女達も気が楽になったようだ。前の方に坐っていた年嵩(と言っても三十になっていないが)のが言った。 「じゃまず私から。私は富田玲子。関東大隊本部の看護婦」 隣の痩せたのが言った。 「私は三田村直子。富田さんと同じ関東大隊第二中隊の看護婦」 銀縁眼鏡のが言った。 「私は石井文子。九州大隊本部の看護婦」 色の白いのが言った。 「私は松木広子。石井さんと同じ、九州大隊第一中隊の看護婦」 髪の長いのが言った。 「私は木村友子。あなたの言った通り東京第二中隊橋本小隊の看護婦」 最後に大柄なのが言った。 「私は高村清子。東京第二中隊本部の看護婦」 私は彼女達を一通り見回してから言った。 「結局皆従軍看護婦なんだな。俺はまた、いつ嬢子軍ができたかと思った」 彼女達はくすくすと笑い始めた。 と突然、鈍い破裂音と共に、トラックが右に傾いた。私ははじかれたように身構えた。 「タイヤをやられたな!」 車は数メートル滑走すると、急に大きく傾いた。看護婦達が、積まれている荷物を押えようとする。梱包が二つ三つ、荷台に落ちた。車は三十度くらいも傾いて止まった。銃声が立て続けに聞こえたと思うと、幌が何ヵ所も破れた。私は叫んだ。 「狙われてるぞ! 伏せろ!」 「あっ!!」 松木が悲鳴を上げると、右の肩を押えてうずくまった。指の間から血が出ている。周囲の銃声は一層激しくなった。運転台の窓ガラスが割れる音が聞こえてきた。看護婦達は恐怖に体をすくめている。 「畜生! 何とかならんのか?」 私は舌打ちした。荷台を見回すと、石井の足の下に上げ蓋のような物が見える。 (こいつはやれるぞ!) 私は荷台を見回して言った。 「このままじゃ助からんぞ! 腕に自信のある者、ついて来い! 石井、ちょっとどけ」 私は石井をどかせると、床の上げ蓋を外した。予想通り、下へ降りる穴になっている。穴に頭を突っ込んで外の様子を窺ってみると、どうやら車は築堤の右側斜面に落ちたらしい。穴は車の左側についており、この方向からは銃弾は飛んでこない。私は足から穴に滑り込み、地面に降りた。素早く、タイヤの陰に身を隠す。右側前輪がパンクしている。木村が降りてきた。 私は銃を横構えにして地面に這いつくばった。敵兵が前方に数人、姿を現した。私は銃の引鉄を引いた。敵兵が三人、牧草地の中に倒れた。木村も拳銃を抜き、何発も発射した。次々にやってくる敵兵を、片端から倒して行った。敵兵はやみくもに突進して来るから、狙いさえ正確ならどんどん倒せる。 いつの間にか三田村も降りてきて、拳銃で応戦し始めた。数分にわたる銃火の応酬の末、敵の銃声は無くなった。私は二人に射撃を中止させて、例の穴から荷台へ登った。富田が松木の傷の手当をしている。私は運転台の後ろの窓から前へ呼びかけた。 「そっちは大丈夫か?」 「大丈夫です」 しっかりした返事が返ってきた。 「それじゃタイヤを替えるか。ここにスパナとジャッキはないか?」 荷台を見回して声を掛けると、 「ジャッキって何ですか?」 これでも陸軍に所属する者か? 私は一人で荷台を捜し、ジャッキとスパナを見つけた。 荷台から降りて、車の状況を見た。車は斜面の中腹で止まっている。右側にかなり傾いているから、右側をジャッキアップするのは少々難しい。大体地面が軟かいから、何か台がないとジャッキがめり込んでしまう。 「何か台になりそうな物はないかな」 私は周りを見回し、百メートルばかり離れた道端にある民家へ向かった。出てきた家人に、私は言った。 「丈夫な角材があったら、貸して下さい」 家人は私を、頭の先から爪先までじっと見ると、怪訝そうな声で言った。 「自衛隊の人ですか?」 「いや、討伐隊の……」 突然、私の鼻先で音をたてて扉が閉まった。扉の向こうから叫び声があった。 「出てって下さい! 今すぐ! あっちへ行って!」 何故いきなり、こんな返事が返ってくるのか。私は扉を叩いて言った。 「私はただ、角材を貸して下さいと言ってるんです。車がパンクして、角材が必要なんです!」 扉の向こうからの返事は、私を絶句させるには充分すぎた。 「人殺しの集団とは、係わりたくありません!」 私はその家を後にした。トラックに戻った私に、木村が訊いた。 「何を探しに行ってたんですか?」 私はパンクした前輪を指して答えた。 「タイヤを替えるには、車を持ち上げなきゃならん。そのためにジャッキがある。ジャッキは、下が軟らかいと使えんから、ジャッキの下に当てる硬い台を探してたのだ」 「だったら、この石でもいいでしょう?」 木村が指差す先には、平たい石が埋まっていた。私は喜んだ。 「いい物見つけたな。これを掘り出して、台にしよう」 私達は銃剣で、その平たい石を掘り出した。一抱えもある石だ。三人がかりで運転台の下まで転がし、ジャッキを当てた。私は皆を見回して言った。 「タイヤの替え方を知ってるのはいるか?」 運転していたのであろうか、名前を知らない兵が進み出た。 「私、知ってます」 「誰だったかな?」 「滝沢です」 「滝沢、やってくれ。スペアタイヤはどこだ?」 「荷台の下です」 私と木村とで、スペアタイヤを外し、運転台の横へ転がした。滝沢はジャッキを回しているが、一向に上がらない。 「手伝おう。ジャッキは俺が回す」 私は滝沢からジャッキ回しを受け取り、力を込めてジャッキを回した。この車は何トンあるのだ? こんな小さいジャッキで上げられるのか? 大体このジャッキ、乗用車用じゃないのか? 「もっと上げて下さい」 滝沢の声だ。しかし、これ以上上がるか。私はジャッキ回しを、一層の力を込めて回した。 その時だ、ジャッキが壊れたのは。 「どけ!!」 私は電光石火の早技で身を翻した。と同時に、私の背後に、地響きと二つの悲鳴が起こった。私は振り返った。 見よ! トラックが横倒しになり、滝沢と、それに石井が運転台の下敷になっている。一斉に悲鳴が湧き起こった。私は無我夢中で運転台に飛びついた。 「持ち上げろ! 皆で、持ち上げるんだ!」 私は渾身の力を振り絞って、運転台を持ち上げようとした。高村と富田が加勢する。木村と三田村は、下敷になった二人を救い出そうとする。茫然と立っている松木に、私は怒鳴った。 「何をしてる! 道へ登って、助太刀を見つけて来い!」 ようやく、滝沢と石井を救出した。スペアタイヤが幸いしたのか、滝沢は擦り傷だ。が、石井は? 胸板を運転台の縁に直撃されている。顔は蒼白だ。 松木が石井に取り縋った。 「石井さん!! 死なないで!!」 この悲痛な叫びは私の胸に深く刺さった。 「息をしてるか!?」 私は恐慌して叫んだ。 私の声を聞いて、松木が石井の口許に手を当てた。二、三秒後、松木は突然、石井に覆い被さって慟哭し始めた。 「石井さんが……死んじゃった……」 とその時木村が、後ろから松木を抱え起こしながら叱りつけた。 「まだ助かる見込みはあるわ! さ、どいて!」 木村は松木を押しのけると、膝の上に石井の頭を載せ、石井の口を開けながら言った。 「心臓はどう? 脈取ってみて!」 三田村が石井の手首を握ってみて言った。 「全く正常! 大丈夫よ」 「それなら良かった。必ず助かるわ」 木村はそういうと、石井に口移しの人工呼吸を始めた。 私は立ち上がって、周りを見回した。トラックは横転している。荷台に積んだ梱包が幾つも、荷台から転げ落ちている。運転台を覗いてみたが、無線機はない。 「この車に無線はないのか。無線があれば、代りのトラックを呼べるんだが……」 私はすっかり落胆して呟いた。 「このままじゃどうしようもない。通りがかりの車にでも、応援を頼むしかない」 私は銃を持って、道路へ登った。敵がいるかも知れないが、この際少々の危険は已むを得ぬ。 丁度その時、一台のトラックが釧路方面から走って来た。敵か、味方か、それとも? 自衛隊だ。私は道の真中へ歩み出て、銃を振った。トラックは私の目の前で停まり、運転台から隊員が顔を出した。 「どうしたんです?」 私は銃を足元へ置き、運転台に歩み寄った。 「私達のトラックが、土手の下へ落ちて横倒しになってるんです。ぜひ力を貸して頂きたい」 隊員は運転台から降り、土手を見下ろした。一目見るなり、彼は振り返って言った。 「わかりました。やりましょう。 あなた方のトラックとこれを、ロープで繋いで、これで引っ張り上げましょう。ロープはこっちにあります」 「有難う」 私はトラックに戻ると、石井と木村以外の者に言った。 「応援が見つかった。すぐ、荷物を卸せ」 「はい」 私達が、横倒しになったトラックの荷台から、散乱した梱包を卸し始めるとすぐ、十数人の自衛隊員が土手を下りて来た。 「手伝いましょうか?」 若い隊員が尋ねる。 「有難うございます。薬品だから、そっと卸して下さい」 富田が答えた。数人の隊員が、次々に梱包を卸す。その間に別の数人の隊員は、運転台の窓枠と荷台の台枠に、太い綱を結びつける。 梱包は全部卸された。年嵩の隊員が、道路のトラックに向かって叫ぶ。 「班長、終わりました!」 十数人の隊員は、トラックのあちこちに取り付いた。私達もトラックに取り付く。 道路のトラックの、エンジン音が高まった。 「ワッショイ」「ワッショイ」 空荷と云えどもトラックは重い。それでも二十人がかりで、ようやく半ばまで起こした。すると突然、年嵩の隊員が号令した。 「ストーップ! 左側、離れろ!」 この声が終わるや否や、トラックは自身の重量で、左側へ起き上がった。大した手際の良さだ。私が見とれていると、別の隊員が私に声をかけた。 「右の前輪、どうしたんです?」 右の前輪は、つい先刻滝沢が外しかけたものだ。見ると、ホイールはすっかりひしゃげ、ホイールと車軸を止めるボルトも千切れている。他の隊員が覗き込んだ。 「こりゃひどいな。スペアタイヤは」 私は、傍らに転がっているスペアタイヤを指して言った。 「スペアタイヤはあるんですが、ジャッキが……」 私が拾い上げたそれは、最早ジャッキではなかった。それを見て、若い隊員が言った。 「トラックのジャッキを持って来ます」 彼は足早に斜面を登って行った。私は、右の前輪の破損状況を調べた。ホイールと車軸を止めるボルトは、八本中五本くらいが折れ、または千切れている。予備のボルトはあるだろうか。無ければ、他の車輪から一本ずつ外して来なければならない。兵站基地まで数十キロの走行に耐え切れるか。悪路もある。それにもっと重大な事は、前輪ブレーキが壊れているかどうかである。最悪の場合は、車軸が曲がったり折れたりして、ハンドルが効かなくなる恐れもある。 ジャッキが届けられた。私は再び、石を台にしてジャッキを当て、ジャッキのハンドルを回した。今度は、車は易々と持ち上がった。私は、ホイールレンチを使って、八本のボルトを外しにかかった。ところが、完全に千切れてしまったボルトは、レンチでは回せない。ヤットコが要る。 「滝沢、ヤットコかペンチは無いか?」 私の声に応えて、滝沢はペンチを持って来た。私はペンチを使って、千切れたボルトを外そうと試みた。 しかし、試みは無駄であった。掌から血が出るほど力を込めても、ボルトは緩む気配すら見せなかった。苦闘一時間、私はついに諦めた。ペンチを投げ出して私は言った。 「駄目だ! この道具じゃ、出来ない」 年配の自衛隊員が言った。 「差し当たって今は、このトラックを道路まで引き上げるのが先決です。タイヤが一つ無くても、道路へなら登れるでしょう」 私は頷いた。 「わかりました。やれるだけやってみます」 私はジャッキを外し、スペアタイヤと工具を片付けた。輪止めを外させて、運転台に乗り込み、エンジンをかけた。 「エンジン用ー意! ゴー!」 年配の隊員の掛け声と共に、道路のトラックとの間に渡された綱が、ぴんと張った。そっとクラッチをつなぎながら、アクセルを踏む足に力を込めた。 「ワッショイ」「ワッショイ」 トラックは右へ傾いだまま、斜面を登り始めた。片方の前輪がない車で、斜面をよじ登るなど、無理もいいところだ。それでも車は、徐々に斜面を登っていく。 ようやく車は道路まで登った。ところが、車を停めようと踏んだブレーキが……まるで効かない! 素早くサイドブレーキを引いて停めはしたものの、これではタイヤを替えても走れない。これ以上は、いかに自衛隊のトラックでも如何ともし難い。 私はトラックを降り、自衛隊員達に礼を言った。トラックを運転していた隊員の言葉は胸に沁みるものだった。 「事故車を助けるのは、車を走らす者の仁義ですよ」 仁義。殺伐とした日々の中で、私が忘れかけていた言葉だった。私は陶然と、去ってゆくトラックを見送った。 突然私は我に返った。この窮地から脱する方策を講じなければならぬ。車はブレーキが全く効かず、前輪の一方が修理不能だ。助けを求めようにも、通信機がない。近くの民家は甚だ非協力的だ。 すると、矢臼別の方から走ってくる一台のマイクロバスが見えた。味方のだ。負傷者の後送に使っている車だ。私は手を振った。マイクロバスは、私の目の前で止まった。運転台から顔を出した二線の男は、私が何も言わぬうちに言った。 「重傷を負ってる看護婦はどこにいる?」 何故石井の事を知ってるのだ? 「あ、あそこだ」 私はどぎまぎしながらも、斜面の下を指した。先程は半ば忘れかけていたが、木村は依然懸命に、石井に人工呼吸を施している。 「わかった。担架だ」 マイクロバスの後部から、担架を持った二人の兵が飛び降り、斜面を降りていく。私は二線の男に訊いた。 「我々には無線がないのに、誰が我々の事を知らせたんだ?」 二線の男は平然と答えた。 「先刻な、釧路の方から来た自衛隊のトラックが、この車を停めて知らせてくれたんだ」 「自衛隊の!?」 二の句が継げなかった。 「我が隊の看護婦が一人、かなりの重傷だから、釧路へ行くついでに乗せて行ってやれと言ってきたんだ」 何ということだ。 「それから、我が隊のトラックが走行不能になってるから、代車を差し向けてやれとも言ってきた。このトラックの事か?」 「そ、そうだ。ブレーキが全然効かない」 私はやっとの思いで答えた。 「タイヤがどうとかと言ってたがな。それで、もうじき阿歴内から代りのトラックが来る。釧路からレッカー車も来る筈だ」 やがて、石井が担架に載せられて、斜面を登ってきた。木村が付き添っているが、その顔は明るい。 「呼吸は正常に戻りました。ショックがありますが命に別条はありません」 木村はしっかりした口調で報告した。 「これで一安心だ。もうすぐ阿歴内から、代りのトラックが来る。今のうちに、物資を道へ運び上げよう」 私は看護婦達に、物資を道路へ運び上げさせた。そうしているうちに、釧路方面から、一台のトラックが走ってきた。 「おう、来た来た」 トラックの運転台から、二人の男が降りてきた。二線の男が言った。 「代車をよこしてくれと言うのは、この車か?」 私は答えた。 「そうだ」 二線の男は、極めて事務的な口調で私に質問してきた。 「このトラックの出発地と目的地、運転者、乗員、積荷の数量は?」 そう言われても私は便乗してきただけだから、何も知らない。困惑していると、マイクロバスの二線が言った。 「運行票は? 持ってないのか?」 何の事か皆目わからぬ。 丁度そこへ、滝沢が登ってきた。私は滝沢に助け舟を求めた。 「滝沢、運行票とかいう物、知らないか?」 滝沢は胸ポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。滝沢が紙を広げるのを見て、トラックの二線は、軽蔑したようなまなざしを私に投げつけた。 トラックの二線は、滝沢に運行票を返した。これで、あとは物資を積めば出発できるか。ところが、滝沢が運転台に登ろうとした時、トラックの二線は彼女を押し止めて言った。 「ちょっと待て。お前達がこれに乗って矢臼別へ行ったら、俺達はどうなる? 俺達は」 一見尤もな言い分だが、今の私達の立場からすれば、無理難題でしかない。滝沢の困惑を見て取って、マイクロバスの二線が言った。 「阿歴内へ戻るんだろ? これに乗せてってやろう」 すると尚もトラックの二線は、意地悪そうな口調で言った。 「それじゃこの車はどうなる。走れんという事だが、だからって捨てて行くのか?」 私は堪りかねて喚いた。 「この車がそんなに気になるんなら、二人で阿歴内まで押して行けばいいだろう!」 マイクロバスの二線が、運転台から降りてきて、私達の間に割って入った。 「お前も輸送隊なら、釧路からレッカーが来る事を知らない訳じゃないだろ。レッカーが来るまで待てばいいじゃないか」 「そうするか」 私達は代車の荷台に物資を積み込んだ。その間に、石井を載せたマイクロバスは、釧路へ向かって走り去った。滝沢が運転台に登り、私達は荷台に乗り込んだ。 中チャンベツの集落を過ぎていくらか走った頃、鋭い金属音が響いた。私達は反射的に床に伏した。私は幌をわずかに開けて、後ろを窺った。敵のジープが尾けてくる。 「また来たぞ!」 間隔が次第に詰まってきた。百メートルもない。私はポケットを探った。手榴弾があった。 私は幌の間から銃を出し、単発で射ち始めた。敵は発砲してこない。間隔は十メートルになった。私は言った。 「爆発音がしたら全速力を出せ」 距離は五メートル。この距離なら百発百中だ。私は幌を上げ、手榴弾のピンを抜き、ジープ目がけて投げた。手榴弾が手を離れた瞬間、私は身を伏せた。 ドカ――ン!! 私は顔を上げた。ジープは大破している。車は急に加速した。見る見るうちにジープは遠くなる。皆が起き上がり、事の次第を知ると歓声を上げた。 「やったあ!」 「万歳!」 木村は興奮の余り、髪を振り乱して私に抱きついてきた。正直言って私は度肝を抜かれた。私はすっかり慌てて叫んだ。 「お、おい、こら、抱きつくなって!」 全く戦後の若い者はアメリカに感化されてしまっていて、私のような「男女七歳にして席を同じうせず」教育を受けた人間はついていけない。この時の私が実は冷汗をかいていたことなど彼女達は想像しえなかったろう。 やがて車は本来の道から外れ、車輪の跡を辿り始めた。いつ通ってもこの道の震動はひどい。梱包が荷台に転がり落ちる。 風蓮川の谷底の野戦病院で荷を卸してから、看護婦達に別れを告げて兵舎へ行った。入り口から入ってすぐの所にある中隊長室へ行くと中隊長と秋山参謀がいた。 「矢板班長、只今復帰しました」 中隊長は珍しく笑いながら言った。 「遅かったな。今日からは矢板副小隊長だよ」 (2001.2.2) |
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