釧路戦記 |
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第九章
「円朱別会戦」以来、私達の任務は極めて散発的なものとなった。六月中に、私達の小隊が出動した任務を列挙する。・一九日 補充兵員送迎 動員数 三(私、太刀川小隊長、河村) ・二一日−二二日 十八番川流域の敵掃蕩 重傷 石川 軽傷五 ・二四日−二五日 十七番川流域の敵掃蕩 重傷 吉村・荒木 軽傷九 ・二六日 ヤウシュベツ川上流域の敵掃蕩 軽傷六 二日に一回は、周りに出没する敵を追って掃蕩に出ていたのだ。 ・二八日−二九日 南ヤウシュベツ川流域の敵掃蕩 動員数 三三(吉川小隊) 損害 死亡一(志村)後方送り二(貝塚、中島)軽傷八 これは比較的作戦らしいものであった。詳しくはまた記そう。 私の班の中村は、二七日に復帰した。 二八−二九日の任務のことを記そう。 ……二八日の午後四時頃、小隊長が来た。 「一七○○に出発する。各班の装備は重機一、迫撃砲一。支度を始めよ。 酒井班、携帯食糧を六六食分受け取って来い」 私達はすぐ支度にかかった。私は部下に指示を出した。 「谷口、重機と迫撃砲を組み立てろ。他の者は俺について来い。銃を忘れるな」 私達は、例え便所に行く時であっても丸腰での外出は禁じられている。そのため、銃は常に手元に置いている。当然、弾倉は常に弾丸を一杯に入れておく。幾人かは、寝ている時でも拳銃を腰につけている。 武器の支給は、重機の弾帯三十本、銃の弾倉四十二個、迫撃砲の弾丸五十発、手榴弾三十五個。しかしこれでも結構重い。弾帯は一本十キロもあるし弾倉、弾丸、手榴弾は皆一個一キロ以上ある。 「トロに積めるのは八百キロだから……。全部積めるな。物資をトロに積め。トロを漕ぐのは俺と、志村、屋代、中村」 すると志村が言った。 「疲れそうだな……」 「黙って漕げ!」 私はここ数日というもの、志村に手を焼いている。何か仕事を言いつけるとすぐ不平不満を言うし、言いつけなければ何もやらない。私が目を離すと手を抜くらしい。この次の任務で少々焼きを入れようかと思っていたところだ。 「重い重い重い重い」 「これくらいが何だ! 俺より二十も年下のくせに。近頃の若い者はこれだから困る!」 私は、志村に対して穏かに喋った覚えはない。何かと言うとすぐ、苛々して叱りつけるような口調になる。河村はいみじくも言った。 「志村は、すぐ怒る矢板よりも俺の部下になるべきだったな。上の方は補充兵の性格までは掌握できないものだな」 五時、私達は出発した。小銃一挺、弾倉十個、手榴弾五個、銃剣一本、食糧二食分と薬といった個人装備で大体十八キロ、これに更に重機、迫撃砲がある。トロッコは各班ごとに一台なので、トロッコに重機と迫撃砲、それに弾帯を積む。私が先頭に立ち、双眼鏡を持つ。トロッコを漕ぐのは西川、志村、谷口、屋代の四人、他はその周りを歩く。 「重い! 疲れるな」 またも志村だ。西川が言う。 「荷物持ちたくなかったら、敵の砲に足を吹っ飛ばして貰うこったな。そうすりゃ担架に載せて貰えるし、足がもげて後方へ送られりゃ、二度と前線に出ないで済むぜ」 「そんなのやだよ」 「だったら大人しく漕げよ」 風蓮川の谷は両側が高い崖になっている(一部は二十メートルを超える)ので、上へ登れる所はいくらもない。私達は、崖に沿って二キロ以上行ってから、ようやく上へ登った。 踏み跡程度の小径に着いたのは六時であった。日は西へ傾き、夕闇が近づいてきた。五日前が満月であったから、日没後四時間くらいは全くの闇だ。これを計算に入れて今夜と決めたのだろう。ここで、小隊行動になった。吉川小隊と太刀川小隊は南ヤウシュベツ川右岸、上村小隊と大原小隊それに本部班は左岸へ行く。 八四・九メートルの三角点のある丘の上に、トーチカの跡らしい廃墟がある。二三日の夜、第二中隊によって粉砕されたのだ。それを横目で見ながら緩やかな稜線上を進む。広葉樹林に入った。細い道を黙々と進む。 やがて林を抜け出した。ここで太刀川小隊と別れた。私達の小隊は林に沿って川の近くまで行く。 午後七時半、日はすっかり暮れた。牧草地が開けている。その先の方に農家があり、サイロが見える。ここで休み、食事を摂ってから小隊長は言った。 「あの農家を偵察に行く。声を出さずに、匍匐前進でついて来い」 「重機と迫撃砲は?」 「今は要らない。古川班、トロッコを見張れ。河村班、酒井班、サイロと厩舎を調べろ。矢板班と本部班は母屋だ」 家まで三十メートル。私は双眼鏡を出した。鉄兜をかぶり、自動小銃を持った番兵が一人、母屋の周りを歩いている。私は銃剣を抜いた。番兵が母屋の角を回って見えなくなった。私達は音もなく走り、母屋の勝手口に張り付いた。 番兵が回ってきた。小隊長は後ろから近づくと、番兵の口を手で押えながら銃剣で喉を掻き切った。番兵の体は動かなくなった。小隊長は建物の陰に番兵の死体を運ぶと、雨樋を伝って屋根に登った。私達は続いて登った。 すぐ近くの窓から中を見た。誰もいない。手をかけると窓は開いた。天佑! 私達十人は難なく中へ入った。 廊下へ出た。隣の部屋から光は漏れていない。小隊長が、私にその部屋を指した。私はドアの取っ手を回した。中へ入ると、ここは寝室だ。敵兵が四人ばかり寝ている。私達は、その四人を次々に刺殺した。 部屋を出て、そっと階段を下りる。下りた所が玄関で、隣に一つ、灯りの漏れている部屋がある。私は、その部屋のドアの取っ手を回した。わずかに音がした。 「誰だ?」 私は戸を大きく開け放ち、部屋の中へ向けて銃を乱射した。戸口に三人が並んで自動小銃を振り回すと、数秒で敵兵は死に絶えた。 敵兵は八人いた。録音装置をつけた電話、無線機がある。いずれも銃弾で壊されている。小隊長は無線機を取った。 「TMH、TMH、こちらTYH、応答願います」 〈………〉 「敵通信基地確保しました。場所は南ヤウシュベツ川南岸すぐの農家です。以上」 〈……〉 机の上に、一枚の地図があった。見ると、敵の小さな拠点が、幾つか書き込んである。これは重要だ。私は地図を小隊長に渡した。小隊長は畳んでポケットに入れた。 母屋を出ると、サイロを調べに行った仲間がいた。 「どうだった?」 「全く、誰もいませんでした」 「厩舎にもか?」 「はい」 「そうか。じゃ次の目標に向けて出発だ。……とその前に、偵察だ」 「私が行きます。双眼鏡を貸して下さい」 私はサイロの屋根に登り、双眼鏡であたりを見回した。 視野の中に、焚火が見えた。東南方の沢だ。 (敵か!?) 私はサイロの屋根から降りた。小隊長に双眼鏡を返し、 「東南方の沢に焚火があります。調べに行きましょう」 トロッコを引っ張って、そっと接近する。焚火まで百メートル。幾つもの天幕が見える。 「伏せろ」 小隊長は双眼鏡で天幕を観察した。私も目を凝らした。明らかに戦闘服を着ている。味方ではない。自衛隊でもない。……ということは敵だ。小隊長は全員に小声で言った。 「酒井班。そこに丸太があるな。その陰から重機で幕営地を射ちまくれ。 矢板班。右翼から攻撃しろ。這って行け。絶対立ち上がるな。 古川班。迫撃砲やれ。懐中電灯で合図したら発射しろ。距離は百メートルだ。 河村班と本部班。左翼だ。俺について来い」 私の班は右翼から回り込んだ。草の中を匍匐前進する。敵の幕営まで五十メートル。 突然、志村が頓狂な声を上げた。 「わっ!」 敵の幕営に動揺が起こった。焚火のまわりにいた何人かが銃を執った。 「馬鹿野郎!」 私は志村を罵りながら、銃を連射した。 「迫撃砲! 射てっ!」 私は左側、古川班のいるあたりを向いて叫んだ。二秒後、天幕の一つが爆発した。敵兵が二人吹き飛ばされた。 銃弾が飛んでくる。鉄兜に当たって金属音を立てる。私も負けじと射ちまくる。重機が盛んに火を吹く。敵兵が倒れた。一人、また一人。 ふと横を見ると志村は放心している。 「志村!! 射て!!」 私は憤り怒鳴った。 「射つんだ――っ!!」 弾倉が空になった。急いで次のをつける。敵の銃弾が降り注ぐ。いくら半自動銃でも数が多いから弾数は多い。 私が夢中で射っているのに、志村は射とうとしない。私はさらに激昂した。 「射てと言うのが分からんか!!」 また弾倉が空になった。さらに新しい弾倉をつける。 突然、何を思ったか志村が立ち上がった。次の瞬間、彼の体は地面に仰向けに倒れていた。私は射撃を止め、彼の手首を握った。脈は無かった。私はそれを確認すると、また銃を執った。ふと気付くと、敵の銃火は止んでいる。小隊長の声が聞こえた。 「射ち方やめ――!」 私は立ち上がった。志村の持っていた弾倉を取ってから敵の幕営地に歩み寄った。一人二人、部下が集まってきた。 「天幕の中を全部調べろ。生き残りはいないか」 天幕の布を上げてみると、中には幾つも死体があった。生き残りはいない。 「敵はもういません」 「よし。ここも陥した」 「これで帰れますか」 「まだまだだ。作戦は始まったばかりだ。今の迫撃砲を聞きつけて、そこら中の敵が攻めて来るぞ」 「はあ……」 「急いで塹壕を掘れ」 私達は、シャベルを使って、大急ぎで塹壕を掘った。 「この地図によると拠点は東の方に集まっている。だから、東側に重機を据えろ。迫撃砲もだ。 ここの武器も使おう。……そうだ、ここら辺に、針金とかロープとかはないか?」 私は、敵の電話が有線だったことを思い出した。 「敵の電話線があった筈です」 「うむ。今すぐ、集めて来てくれ」 「了解、集めて来ます」 私達は敵の電話線や、天幕のロープなどを集めてきた。 「これを、膝くらいの高さに張りめぐらす。敵が一人くらい転ぶだろう。その音がしたら撃ちまくる」 幕営地の火を消し、そのまわり、半径十五メートルくらいの円形に針金をめぐらした。塹壕には、敵から押収した約二十挺の小銃も持ち込んだ。そうしてから、静かに待つ。 八時十分。 「わっ!」ドサッ 「来たな!」 谷口が重機の押鉄を押した。 ドドドドドドドッ 「うあっ!」 闇の中から、敵兵の呻き声が聞こえた。 「射て――っ」 四挺の重機が一斉に火を吹く。敵までわずか十メートル、超近接戦だ。何人もが、銃火の見えた方向へ、手榴弾を何発も投げた。次々に爆発が起こる。あまりの近接戦で迫撃砲が使えない。すると、誰かが迫撃砲の弾丸を手で投げ始めた。 一向に敵は減らない。古川の声だ。 「全然減りませんね」 「敵は大部隊だからな」 「加農砲頼んでみたら?」 「駄目だ。あれは数十メートルの誤差はある。こんな近接戦じゃ、こっちが危い」 小隊長は無線機を取った。 「TMH、TMH、こちらTYH、応答願います」 〈……〉 「TYHです。本隊に、援軍を頼んで下さい! どうぞ!」 〈……〉 「南ヤウシュベツ川南岸、五三メートル尾根の西北方です。どうぞ」 〈……〉 「了解。以上」 それからの時間が、何と長く感じられたことか。一分が一時間にも思われた。敵は多勢の勝ちを確信して、ハンドマイクで喚き始めた。 「お前達は包囲されている。速やかに降服しろ。繰り返す。お前達は……」 私達はそれを、歯噛みしながら聞いた。 小隊長が交信してから十三分後、突然爆発が起こった。次々に爆発が起こる。 「自走砲が来たぞ!」 私は嬉びを隠し切れなかった。この援軍で、重機はまた景気良く鳴り始めた。 「やれー! 射ちまくれ!」 私は叫んだ。屋代が続いた。 「今度はお前等が降服する番だ!」 二輌の自走砲は、敵兵を蹴散らしながら走り回る。私達も壕から出て、敵を逐っていく。 ついに敵は退散した。数十の死体を残して。自走砲が戻ってきた。屋根の上から、男が顔を出した。 「吉川小隊だっけ? 俺は第二中隊の三島だ」 「助かったよ。本当に」 「いいって事よ」 その時、無線機が鳴った。 「こちらTYH」 〈……〉 「はい。通信本部を陥してから、東方の沢の幕営地を陥しました。東から来た敵は、TSHの自走砲と協力して撃退しました。どうぞ」 〈……〉 私は言った。 「志村が戦死しました」 「志村が戦死しました。重傷者はいません。以上です」 西川が叫んだ。 「そう言えば志村がいない!?」 私は少々呆れて答えた。 「今ごろ気が付いたのか!?」 「ええ、先刻まではもう夢中で」 私はわざと素気なく言った。 「志村は自殺したよ」 西川を初め、何人かは驚いた。 「そりゃどういう事です!?」 「敵が銃撃してくるのにいきなり立ち上がったんだ。自殺したようなもんだ」 私は少々腹立たし気に言った。 「その言い方は無いだろう」 小隊長が穏かに言った。 「は。理解しがたい行動てのは、新兵にはよくある事です」 「俺はすぐ西へ行かなきゃならん。出動要請が出ているんでな」 三島は言った。 「出発だ。東隣の沢に敵がいるかも知れん。気をつけろ」 私達は牧草地の中を、トロッコで進んで行った。丘を越えると、果たして焚火の光が幾つも見える。陣地がある筈だ。 「距離二百。迫撃砲と重機、準備しろ」 遠くから、迫撃砲の爆音が聞こえてきた。 「あれは太刀川だな。今頃どこにいるんだろう? この大きい沢あたりかな……。どうでもいい。古川班、迫撃砲だ。酒井班、重機。他は接近して小銃でやる。五分経ったら迫撃砲と重機は援護射撃を始めろ」 「はい」 私達は、丈の短い牧草地の中を匍匐前進で敵に接近していった。 あと五十メートル。突然、陣地の一角で爆発が起こった。続いて重機の乱射。私達も銃で、浮き足立つ敵兵を次々に射倒した。 三分後、そこには敵兵の姿は無かった。三十余りの敵兵は、皆屍となった。ところが、敵兵の屍を数えてみると二十六しかない。数人取り逃がした事になる。 「いつ敵が巻き返しに来るかわからんぞ。今現在我々の兵力は充分とは言えない。これで先制攻撃をかけよう。その前に連絡。 TTH、こちらTYH、応答願う。どうぞ」 小隊長は、もっと東の方にいる筈の太刀川小隊長を呼んだ。 〈……〉 「TYHだ。現在位置はどこだ? どうぞ」 〈……〉 「そうか。それより西では、どの地点の敵を陥した? どうぞ」 〈……〉 「了解。以上」 地図を見ると、ここの陣地――道路から西へ五本目の沢の陣地――の他、四本目の沢の二股になった両方、三本目の沢の上流、二本目の沢の三ヵ所、合せて七ヵ所の陣地がある。 四番目の沢は林に覆われていて、陣地を探すのは容易ではない。私達は浅野と山田にトロッコを見張らせて、沢を歩き回り陣地を探した。しかしそれらしい塹壕は無い。部下達がトロッコの周りに戻ってきた時、小隊長は言った。 「どこかに陣地がある筈なんだが……。地図で場所の見当をつけてもう一度探そう」 地図に、陣地がある旨記入してある付近を探し回ってみると、やがて朽ちた木の株を見つけた。年輪のある面に穴が開いている。私は穴を覗き込んだ。 何とこれは地下壕である。兵士が中にいる。私は穴をもう一度見た。大きさは、手榴弾が楽に落下できる大きさだ。私は手榴弾を取り出した。この導火線は四秒燃焼である。ピンを抜いて、手榴弾を穴の上で持ち、レバーを外す。一秒。二秒。三秒。私は手を離した。手榴弾は穴の中へ真っすぐに落下して行き、僅かの後に、轟音と共に穴から爆風が吹き上がった。 この地下壕、どこかに入り口がある筈だ。近くの地面を良く見ると、板が一枚置いてある。それが上げ蓋なのだろう。持ち上げてみると、硝煙の臭が立ち昇ってきた。懐中電灯を点けて中を覗いていると、次第に煙が薄れ、敵兵が四人ほど死んでいるのが見えた。中へ入って肉体を一つずつひっくり返してみても、生きている肉体は一つも無かった。 地下壕から這い出してみると、株の周りに仲間達が集まっていた。小隊長は言った。 「こんな所にあったとは気付かなかったな」 と突然、東の方から銃火が起こった。敵が手榴弾の音を聞きつけたのに違いない。 「伏せろ!」 私は地下壕に飛び込んだ。敵の銃火が木々の間に見える。それを狙って引鉄を引く。一人、また一人倒れた。誰かが手榴弾を投げた。爆発が起こり敵兵が数人消し飛んだ。 銃火が止んだ。敵は退散したらしい。時刻は午後九時。私は地下壕から這い出し、トロッコのもとへ戻った。浅野が銃を持って歩き回り、山田がトロッコに腰かけている。浅野は言った。 「今の敵はこのトロッコには気付かなかったみたいです」 「それならいい。東の方の陣地を陥しに行くぞ」 部下達が、次々にやってきた。私達は、東へ延びる細い道を、トロッコで進んだ。三本目の沢の、東側の支沢にも敵陣がある筈だ。これを陥すべく私達は沢沿いにトロッコで下って行った。 やがて近くに塹壕が現れた。敵兵がいる。私達に気付いた様子は無い。私は、匍匐前進で接近すると、手榴弾を投げた。成功。二、三人死んだようだ。まだ生きている兵を、銃で射る。 ・ ・ ・
詳しく記しているときりが無いので簡単に記す。九時二十五分頃、三本目の沢の塹壕に着くと、ここは陥されていた。三つに分れた二本目の沢の、三つある塹壕も、全て陥されていたが、このために、先行していた太刀川小隊は少しずつ遅れてきて、私達の小隊は太刀川小隊に、矢臼別演習場廠舎を通る道で追いついた。時刻は九時四十五分。ここからは二小隊合同で進撃し、丘の北側斜面の沢で塹壕二ヵ所を陥した。現在地は風蓮川の北の支流の沢の上部、牧草地と荒地の境界付近である。真東に、七○・九メートルの丘がある。 「あの丘の上に、恐らく砲台がある。破壊するのみだ」 小隊長は言った。しかし私は言った。 「鉄筋コンクリートの普通の砲台は、六○ミリ迫撃砲では無理ですよ、この前の経験からすると」 「ならどうする。……とにかく偵察を出して、有るか無いかから確認せねばならん」 「私が行きます」 私は牧草地を避けて、草の丈の高い荒れ地の中を砲台に接近した。月は無く、曇った空は真暗闇である。夜陰に乗じての接近だ。 丘の上には、予想通り砲台があった。四方が壁、一ヵ所に砲身の出る穴がある。上はどうか。昇ってみると上はコンクリートの天井だ。すると砲身の出る穴だけが攻撃可能な場所だ。私は部下の所へ戻り、小隊長に砲台の状況を報告した。小隊長は言った。 「攻撃の目途が着いた。砲は使わない。 手榴弾を集める。五発くらいでいい」 手榴弾が六発集まった。私は、六発の手榴弾を縄で一塊りに縛り、一つ一つのピンに紐をつけた。私はこれを抱えて再び砲台に接近した。砲身の出る穴の端に手榴弾の塊を置き、六本の紐をまとめて口にくわえ、手榴弾の塊を両手で砲台の中へ落し込んだ。手榴弾が手から離れるが早いか私はそこから走り去った。 やがて私の背後から、激しい爆発音と爆風が押し寄せてきた。私は地に伏した。後方を見た時、再び大爆発が起こり、火の玉が噴き上がった。砲弾に誘爆したのに違いない。手榴弾はそれ単独では破壊力は取るに足りない、砲台など破壊できる代物ではないが、他の砲弾などの誘爆を起こさせる時、手榴弾は絶大な破壊力を発揮する。堅固なる砲台も、今や内からの破壊によって崩壊した。 私は立ち上がった。砲台は、瓦礫の山と化していた。敵兵は恐らく一兵たりとも生きてはいまい。私は仲間の所へ戻った。 小隊長は、太刀川小隊長に地図を示した。 「ここからは二手に分かれよう。太刀川はこの川(と、この丘付近から東流して十五号道路付近でヤウシュベツ川に合流する川を指して)の北岸を調べろ。俺は南岸を調べる。ここの丘に……今は十時半か。十五号まで四キロ。そうだな、二時に集まろう」 「了解」 私達は二手に分かれた。私達の小隊は、この丘付近から東流する川と二線道路に挟まれた地域を掃敵する。 敵の陣地は、その痕さえも無かった。不思議なくらいだ。敵がいないのは善しとすべきなのだろうが。一発の銃弾も発射せず、一発の手榴弾も投ずる事なく私達は午前一時五十分、砲台の廃墟に戻った。太刀川小隊は既に来ている。小隊長は中隊長に報告した。 「TMH、こちらTYH。応答願います」 〈……〉 「TYHです。現在七○・九メートルの丘の上にいます。十五号道路以西の掃敵を終了しました」 十五号道路までが、私達の中隊の掃敵範囲なのである。 〈……〉 「以上」 私達は兵舎へ向けて出発した。五七メートル丘の近くの切取りで北から来た本隊と落ち合った。最初に交戦した幕営地跡では志村を葬ってやり、来た時とほぼ道を通って帰った。 ところが、この日の任務はこれだけでは終わらなかった。 私は列の先頭に立ち、双眼鏡で辺りを見回しながら歩いていた。ふと、私の目は右手の林の一点に止まった。 林の中を、敵兵が一人歩いている。私は銃を構えたが、普通なら即発砲するのに、何か心にひっかかりを感じた。 その兵の様子が変なのだ。その兵からは、この隊列が見える筈なのだ。そして、私が銃を構えたくらいだから、その兵の持っていた小銃なら、充分射程に入っている。それなのに、構えるそぶりもない。私は立ち止まった。敵兵は数メートルの所にいる。 「何だ?」 小隊長が訊いた。 「武器を捨てろ!」 この一喝で、後続の兵達が一斉に銃を構えた。小隊長が彼等を制した。 「射つな。捕虜にしよう」 敵兵は銃を捨てた。振り向いたその顔を見て、私は激しい衝撃を感じた。息が止まるのを感じた。体が震えるのを感じた。 紛れもなく石塚だったのだ、その兵は。 私は動揺を押し隠しながら、石塚を武装解除した。わずかの後、私の心に猛烈な憤怒が起こった。私は石塚の顔を渾身の力を込めて殴った。石塚は吹っ飛んだ。私は憤怒に狂いながら、石塚を殴り続けた。 「どういうつもりだ!! 敵に寝返るとは!! それで、お前が、死なせた部下に、申し訳がたつか!?! この野郎!! 殺してやる!!」 私は銃を握った。石塚は、口から血を流しながら起き上がった。 「違う、寝返ったんじゃない!」 「黙れ!!」 私は銃の台座で、石塚を力任せに殴り倒した。台座が割れて、木片が散った。石塚は頭を押えてうずくまった。 私は銃剣を抜いた。その研ぎすまされた刃を見つめた。何故か、恐怖にも似た感情が起こってきた。 私は小隊長に、両手を押えられた。 「矢板、止めろ! 止めるんだ!!」 私は喚いた。 「こいつが石塚です! 十六日の午後、敵前逃亡した石塚です!」 石塚は顔を上げると、また叫び始めた。 「信じてくれ! 俺は寝返ったんじゃない! 信じてくれ――!!」 私は前よりいくらか落ち着きを取り戻した。 「それじゃその服は何だ!?」 「殺した敵から奪ったんだ! 十六日の夜、一人ぼっちの敵兵に、わざと降伏して捕虜になり、そいつの隙を見てそいつを殴り殺して服と銃を奪ったんだ。そうして、どこかへ逃げようとしたんだ。そうしたら敵に会って、そのまま隊に入れられたんだ。今朝、ジープから飛び降りて、何とか逃げてきたんだ。誓って寝返ったんじゃない!」 y 屋代が言った。 「僕は、石塚って人は戦死したって聞いてたんですけど、その人とこの人は別人なんですか?」 私は言葉に窮した。屋代を顧みて言った。 「う……兵舎へ帰ったら話そう。…うっ!」 突然、後ろから銃声がしたと思うと、私の左腋に激痛が走った。屋代が私を支えた。 「班長!」 私はよろめきながら振り返った。石塚が走り去っていく。私は銃を取り、その背中に向かって連射した。石塚は、一瞬のけぞると前のめりに倒れた。私は左腋を押えながら走り寄った。石塚は息絶えていた。 小隊長は、厳粛な口調で言った。 「矢板、お前は、俺の部下だった男を、お前の同僚だった男を殺した」 この小隊長の言葉は、鉄槌のように私を打ちのめした。私には顔を上げて小隊長を見ることはできなかった。 「過ぎたことは仕方ない。今度こそ本当に、石塚は戦死したのだ」 岸本と目が合った。岸本の目には、微かな諦めにも似た、不思議な感情が浮かんでいた。 西川に手当てされながら、私は石塚の亡骸を前に複雑な心境であった。 (俺は正しかったのだろうか? 石塚こそ、死ななくていいのに死んでしまったのではないだろうか? 俺は命令に従って戦闘を続け、石塚は自分の意志で逃げた。どっちが正しかったのか? 石塚がもし本当に敵に寝返ったのなら、敵なのだから、殺すべきだった。しかし、奴は本当に寝返ったのか? もし寝返ったのでなかったら、本当に殺さなくていい奴を――いや、殺してはならない奴を殺したことにならないか? それは……奴が死んでしまった以上、もう誰にもわからない。…… ただ、奴が、俺を殺そうとしたことは恐らく確かだ。もし俺が奴を連れ戻せば、奴は処罰される筈だ――もし銃殺でないとしても。だから奴は逃げ延びようとしたんだ。そして、そのために俺を殺そうとしたんだ。そうだ。俺を殺そうとした以上、奴は俺にとっては敵なんだ。だから、俺のした事は正しかったんだ。……本当にそうだろうか? 本当に俺のした事は正しかったのだろうか? それとも誤っていたのだろうか?………) 私達は石塚の亡骸を林の中に埋め、その場を去った。この出来事は、いつまでも私の脳裡に残った。 河村も、私に問われた時、明快な答は出せなかった。 「石塚が矢板を殺そうとしたのは事実だろうな。連れ戻されれば処罰が待ってるもの。しかし、だから、矢板が石塚を殺したことが正当かどうかは、俺にはわからないな」 百万言を並べ立ててみても、石塚はもう死んでしまったこと、しかも私に殺されたことは、疑いえない事実である。石塚の死によって、全ては永久の謎となってしまったのであった。 中隊長に報告したとき、中隊長は言った。 「石塚、あいつは命令に背いたのだから、矢板に殺されても仕方が無かったんだ」 しかし、その時私が抱いた疑問は、 (命令というのは一体何なのだろうか) という、軍隊というものの根本にまで遡る疑問であった。私は夜毎々々に、このことを考えては一人思い悩んだのだった。 (2001.2.2) |
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